戦争と平和5
「いい加減あきらめなさいよ、マヒル」
放課後。マヒルは学校の食堂脇のベンチでうなだれるように座り、同じく隣りに座る友人から呆れて声をかけられていた。二人の目の前を、帰宅する生徒が笑いながら走っていく。
「だって…… あんなのどう考えても法律違反じゃない……」
マヒルの抗議も空しく、拓也達は明俊を暴力的に引き連れて去っていった。残されたのは、法の無力を噛み締めるマヒル一人だ。
「法律違反って…… 校則よりも先に、法律って言葉が出てくるのはマヒルらしいわ」
「だって聞いてよ美代ちゃん。強盗の被害者は――」
「ご、強盗?」
美代と呼ばれた女子生徒は、その不穏な言葉に眉を寄せる。
「強盗よ。『暴行又は脅迫を用いて他人の財物を強取した者は、強盗の罪とし、五年以上の有期懲役に処する』って法律があるの。刑法のね――」
「いや、いいから。法律は言いから。リクホウ――」
美代はそこで一度言葉を区切って、チラリとマヒルを見る。
「ゼンショちゃんの法律話は、いつもついてけないから」
「誰が『ゼンショ』よ。私はマヒル。六法全晝。最後の一字が違うって、いつも言ってるでしょ?」
「一字ってか、一画しか違わないじゃない?」
「そうよ。でもその字じゃないの。晝なの。昼の異体字ってやつだから、下に一本入るの。ちなみに正午ちょうどの生まれだから、完全なお昼で全晝でマヒルね。真っ昼間の真とも違うわ。分かった? ああそれと、誕生日は何と五月三日のけ――」
「分かった。分かったから。あんたも法律振りかざしたって、どうにもならないことを分かりなさいよ。いくら法律家家族の娘だからって」
「だって…… 目の前で法律違反が行われているのに……」
マヒルはやはりしおれて言い淀む。少しぬるくなってしまった紙カップの紅茶に目を落とした。
うすぼんやりとマヒルの顔が、紅茶に映っている。ぼんやりと見えるのは、自分が頼りないからかと、マヒルは思ってしまう。
「この娘ってばもう、相手は三年生なんでしょ?」
「うん」
「しかも男子四人もいたんでしょ?」
「一人はトランスジェンダーっぽかったわ。戸籍の変更とかは、私が法律的に力になって――」
「それはどうでもいいの」
美代は叱りつけるように、横目でマヒルを睨みつける。
「ふにゅう……」
叱られたマヒルは、やはり紙カップに目を落とす。
「で、その被害者ってのは、ウチのクラスの川辺なの?」
美代は飲み干して、一滴だけになった紙カップを舌の上に傾ける。味も炭酸も何もない。ただ甘いというだけの、色のついた液体が落ちてきた。
「うん。川辺明俊くん」
「はっ! あんなのの、どこがいいんだか」
「ちょ…… そんなんじゃないって!」
マヒルは慌てて顔を起こし、美代の声を遮るかのように軽く手を挙げた。
「あんたがストーカー法とやらに、捕まらないといいけどね」
「ち、違うって!」
「知ってるわよ。マヒルは単に正義感が強いだけよ」
「そうだけど……」
「いや、違うかもね――」
美代は飲み終わった紙カップをくしゃりと潰す。その手の感覚に、少々嗜虐的な気持ちを自ら高めようとしたかのようだ。
「えっ?」
「お爺さんが判事。お婆さんが法学者。お父さんが検事で、お母さんが弁護士さんだっけ?」
「う、うん。だから私は――」
「だからマヒルは、単に法の下に平等とか、法が正義を守るとか、そういうのをやりたいだけなんじゃないの? 自分が好きだからって、法律の力を信じたいだけなのかもね?」
美代は潰した紙カップを放り投げなげら言った。きついことを言う自分を、少しでも紛らわせるつもりだったのか、必要以上に力が入っていた。
そして投げることに集中していなかったせいか、紙カップは狙ったはずのゴミ箱の縁に当たって脇にこぼれてしまう。
「美代ちゃん……」
「ほら。不法投棄よ。法の力で私を罰したら? マヒル」
「意地悪だ……」
やはりマヒルはしおれてしまい、冷たくなり始めた紅茶に目落とした。