罪と罰11
「刑法第二百四条――傷害!」
マヒルは何度読み上げても無駄だったはずの、刑法の条文を読み上げる。
「『人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する』!」
だがやはり何も起こらない。
「はぁ! 何いきなり、リトライしてくれちゃってんの!」
「……」
マヒルは真っ直ぐ拓也を見る。そして拓也の様子に変化がないと見るや、
「ガーゴさん! カズサを!」
マヒルはカズサを指差した。
「おう!」
カズサがマヒルの声を合図に壁から身を剥がし、よろめきながらも駆け出す。
「はっ! 何度やっても無駄だって! 俺は犯罪なんか――」
「ええ。してないですね」
マヒルは拓也の言わんとする先を読み、押さえた口調でそう言う。そして大きく息を吸った。マヒルがその内なる信念とともに、拓也を睨みつける。
「何?」
「サワラギ先輩! ええ、あなたは犯罪を犯してはいない! あなたの言う通り、ここで犯罪は起きていない! あなたは思っていただけで、犯罪は起こしていない! だけど! いえ、だからこそ――」
「な…… 何を言って……」
拓也はマヒルの突然の豹変にその真意を読み解けない。
マヒルは屈服するかのようなその言葉とは裏腹に、傷だらけの仲間を動かしてまで助けに走らせている。
拓也は戸惑う思考のままにぼそりと呟くのが精一杯だった。
ガーゴがカズサの四肢を絡める闇の靄に、渾身の力で剣を打ちつけようと振りかぶった。
「ち、させる――」
「させないわ!」
拓也を圧倒する声量でマヒルが声の限りを張り上げる。己の声の大きさに勇気づけられたかのように、マヒルは勢いよく法律書のページをめくった。
「軽犯罪法第一条『左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する』! その十六!」
マヒルは拓也を睨みつけその条文を読み上げる。
「『虚構の犯罪又は災害の事実を公務員に申し出た者』!」
「何!」
拓也の体はその場で雷に打たれたように強ばってしまう。
「公務員に! 国の兵隊さんに! 虚偽の申請はいけませんよ! サワラギ先輩!」
「だっ!」
そしてガーゴの一撃が闇の靄を打ち払う。
「――ッ!」
カズサは自由になるや否や跳ね起きて、
「もらった!」
身動きの取れない拓也に斬りかかった。
「くそ!」
一瞬で自由を取り戻した拓也は、とっさに体をそらした。だがカズサの刀が僅かにその手をかすめる。
「いてぇ!」
「ち、外したか!」
「しっかりせい……」
その後ろではガーゴがそれだけ言うと、精根尽きたのか床に倒れ込んだ。それでも気を失わずに、二人の戦いに目をやる。
カズサは突き出した刀を、次の一撃の為に引っ込めたところだった。
「血、出てんじゃねえか!」
かすめた刃が拓也の右手の甲に、浅い切り傷を入れていた。
「ばい菌入ったら! どうすんだよ!」
拓也は黒水晶に念を送り、その痛む右手を突き出した。
「ぬおおぉぉぉぉおおおぉぉぉっ!」
「食らいな!」
裂帛の気合いを上げるカズサに迫りくる闇の靄。カズサは下から切り上げるや、そのまま刀の重さを利用して更に二の太刀を入れる。闇の靄が霧散した。
それとは別に真っ直ぐ突くかのように迫る靄を、渾身の力で突き返して更にカズサは拡散させる。そして懐に入った新たな靄を、刀の柄を叩きつけることで消滅すらさせた。
カズサの気迫が――意思が、全てにおいてこの黒い水晶の闇の靄を上回っているかのようだ。
「なっ! ちょ…… 何? マジかよ……」
「軽犯罪法第一条『左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する』! その十六!」
そしてカズサの後ろからは、その背中を押すような気迫でマヒルが声の限り叫び上げている。
「ひぃ……」
拓也は小さく悲鳴を上げる。またもや体が動かない。カズサは鬼気迫る形相で、刀をふるって闇を払い近づいてくる。
「『虚構の犯罪又は災害の事実を公務員に申し出た者』!」
マヒルのその声に、カズサは更に前に出る。
「――ッ!」
全く体が動かなくなった拓也は、なす術もなくその目をカズサに睨みつけられる。
しかし黒い水晶は拓也の心にまだ反応するようだ。拓也自身は動けなくとも、黒い靄がカズサを間断なく襲い続ける。
だがカズサは怯むことなく、前に出る。その迫力に負けたのか、靄は瞬く間に打ち払われて霧散した。
「ヒッ……」
そして拓也は小さく悲鳴を上げて、カズサの刃に捉えられた。
とっさに刀を逆さに持ち替えたカズサが、その刃を拓也の首筋に突きつけていた。
突きつけられた刀に拓也の思考が停止してしまったのか、黒い靄はその勢いをなくした。
そこはちょうど小屋の入り口の壁だった。
動きを取り戻した拓也は少しでも刃から逃れようとしてか、壁を背につま先立ちで寄りかかる。
「……」
だが壁にへばりつこうとも、刃からは逃れられない。拓也は声も出せない。震えることしか、拓也にはできない。
「殺――」
カズサが沈黙を破る。
「ひぃ……」
「殺されないのは、マヒルのお陰だぞ……」
カズサが拓也の右手の黒水晶を奪おうと、体を左に寄せた。カズサの体に隠れていたマヒルが、拓也の目に飛び込んでくる。
マヒルはミユリと二人で、倒れ込んでいたガーゴに肩を貸していたところだった。
「こここ、殺すなよ……」
拓也はカズサの言うことが、聞こえていなかったようだ。怯えたように、そう哀願する。
「黒水晶を寄越せ……」
カズサが右手に刀を構えたまま、慎重に左手を伸ばす。拓也の持った黒い水晶は、開け放たれたドアの前で不気味な輝きと冷気を放っていた。
その黒水晶を――
「……」
無言の剣の一撃とともに、突如入り口から現れた新たな人物が握った。