罪と罰10
「――ッ!」
カズサは悲鳴を上げる間もなく、背中から床に落ちてしまう。床に背中を打つ瞬間、互いを抱きしめ強ばっているマヒルとミユリの姿が見えた。
「この!」
詰まる息にも構わず、カズサは直ぐさま身を起こそうとする。
だがその身に四本の闇の靄が覆いかぶさってきた。カズサの目の前が一瞬で真っ暗になる。
「――ッ!」
「何が、『この』だって? ブシドーさんよ!」
「く……」
カズサは起き上がれなかった。四本の闇の靄が、己の手足を押さえつけていた。
「動けないっしょ? ついでに黙ったら! その偉そうな口をさ!」
「この……」
「まだ言うの? な・ま・い・き! 腹立つんだよ!」
拓也がそう叫ぶと、一本の闇の靄が唸りを上げてカズサに叩きつけられる。もちろん手足の自由を奪われたカズサは、避けることも防ぐこともできない。
「ガ……」
悲鳴とも、肺から空気が漏れただけともとれる呻き声を発して、カズサが身をのけぞらせた。
「カズサ!」
「……」
マヒルが悲痛な顔でその名を呼ぶ。ミユリはまともに見ることもできない。
「ぬ……」
ガーゴは必死で立ち上がろうとして、それでもまだ上半身すら上げられないでいた。
「ああん! 兵隊さんだろ? 鍛えてんだろ? 物理攻撃なんて、たいしたことないだろ?」
「何を……」
カズサは身動きが取れないままに喘ぐ。口の端から血を垂らしながら、それでもアゴを引いて拓也を睨みつける。
「では、ブシドーさん! 次はお待ちかねの、精神攻撃です!」
闇の靄がもう一度、カズサの体を叩きつけんと振り上げられた。
「――ッ!」
逃げられない――
四肢を押さえられたままのカズサは、そうとっさに悟る。そしてグルゲの身を襲った現象を思い出す。この精神を直接狙うであろう一撃に、歯を食いしばって耐えようとする。
闇のムチがしなった。目の奥で火花が散り、カズサの体は物理的な衝撃に曝される。カズサの体の中心をムチで打たれたような鈍痛が走った。
「ガッ!」
しかしそれは予想に反して、肉体的なダメージしかなかった。
「何てな! びっくりしたか? 精神攻撃かと思っちゃったか? チビッちゃったか? おっ! 怒ってるね! 生意気な目してるね! でも、睨んでどうにかなんの? あぁん? ははっ!」
「……」
実際カズサは己をいたぶる相手に、声を上げることすらできない。それでも奥歯を噛み締め、自分の手足を押さえる闇の靄を押し退けようと力を込める。だがまるで動かない。
「刑法第二百四条――傷害……」
マヒルがそのカズサの様子に、悔しげにほぞを噛む。そしてそれでも信じる条文を読み上げようとする。
「何、マヒルちゃん? 頑張んの?」
「『人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する』……」
だが――
「やっぱ無理だね」
返ってきたのは、拓也の嘲笑だけだった。
「さて…… 精神攻撃しちゃおっかな!」
拓也は勝利を確信したかのように、カズサから目を外して高らかに笑う。
「く……」
やはりカズサは唸ることしかできない。
「コイツもそれなりに人殺してんだろ? 見た感じ兵隊っぽいしさ。いい悲鳴あげんじゃね? さっきのおっさんみたいにさ!」
拓也があらためてカズサを見下ろす。アゴを上げ、殊更視線を下に向けている。如何に相手を下に見ているかを、分からせようとしているかのようだ。
「そうだ! 俺はこの国の兵士だ! 戦士なんだ!」
「あん! 何をいきなり、いきり立ってんだよ…… 誰に断って目立ってやがんだ!」
拓也は苛立たしげに黒水晶を握りしめる。黒水晶から漏れ出る黒い闇が、その瞬間に大きく広がった。
「生意気――」
「だから貴様に屈服する気はない!」
カズサは四肢を絡めとる闇の靄を、臆せず力で押し戻そうとする。
「だ・か・ら! 何でてめぇが、ヒーローみたいな台詞吐いてんだよ! お前が正義の味方だって、誰が決めたよ! これじゃ俺が悪役みたいだろ!」
「カズサ…… 無茶しないで……」
「ここでこいつを止めなきゃ! 普通の人が死ぬんだよ!」
「ははっ! そうだよ! もう、ためらう必要なんか感じないね! やっちゃうか、いわゆる一つの、ひ・と・ご・ろ・し――ってやつをよ! 普通にさらりと殺しちゃおうか! この世界はそういう時代なんだろ? 人殺してのし上がって、自分で歴史書いちゃえば、生き残った奴がヒーローなんだろ!」
「カズサ…… サワラギ先輩……」
「お兄ちゃん……」
ミユリが一際強く、マヒルの制服にしがみついた。
――死にますよ……
マヒルの脳裏にそのミユリの声が甦る。
――お兄ちゃんだけが死なないなんて、ないです……
「イヤッ!」
「何、マヒルちゃん? コイツのこと好きなの? だったら、なぶっちゃおうかな?」
「何を……」
カズサが呻いた。だが四肢を押さえる闇の靄は、びくともしない。
「そうだ、マヒルちゃん! こんな甲斐性なし放っといてさ、俺とくっつきなよ! 俺、これからちょちょいと、この国とるし。第百夫人ぐらいになら、してあげるよ! マヒルちゃん、ちっちゃくて、貧相だけど、まぁいいや! いろんなタイプの女の子がいないと、飽きちゃうだろうしね。世界征服もやっちゃおうか! 今の俺なら、世界征服ぐらい普通だしね!」
「……」
「あれ? 無言なの? てか、俺睨まれてない? それって、拒否ってこと? せっかくの俺のプロポーズ! ええっ、何だ、こんなのが好みなんだ。ちょっとショック」
「サワラギ先輩……」
「何、マヒルちゃん? 唇噛んじゃって? 悔しいの? やっぱコイツ邪魔か? マヒルちゃんの態度次第では、生かしておいてやってもいいかと思ってたけど、残念だね。どうする? もう、やっちゃおうか?」
「あなたは……」
マヒルはギリリと奥歯を噛んだ。
「精神攻撃でどうにかなっても、コイツのせいだしね。俺のせいじゃないし。それとも、マヒルちゃん? 何? 俺を罪に問うの?」
「く……」
マヒルがどうすることもできずに、奥歯をギリリと噛む。
「マヒル殿…… カズサは……」
ガーゴが残った力を振り絞るかのように、やっと立ち上がった。身を起こす為に杖として利用した剣を、そのまま床に突きながら前に出てくる。
「ガーゴさん……」
「カズサは…… オレが助けます…… だから……」
ガーゴはよろめく足取りで、マヒル達の横に立つ。
「カズサと、ミユリ様を頼みます……」
「何を言っているの、ガーゴさん…… そんな体で……」
「ガーゴ! マヒルとミユリを連れて逃げろ!」
「ああん! 何、かばい合ってんの? 何で、お涙頂戴みたいになってんのよ! これじゃやっぱり俺が悪者みたいじゃん! 俺が悪役なんて、誰が決めたよ? あっ!」
拓也は更なる念を黒い水晶に送る。
「――ッ!」
立っているのがやっとのガーゴが、剣で身をかばいながらも、やはり黒い靄に弾き飛ばされた。
「ガーゴさん!」
「ぐ……」
またもやガーゴは壁に背中から激突し、息を詰まらせて一瞬気を失う。それでも壁に手を着きながら、最後の力を振り絞って立ち上がろうとする。
「おほっ! 派手に飛ぶね! ほんでもって、頑張るね。マヒルちゃん、ところで俺、裁かないの?」
「サワラギ先輩…… もう…… 罪を重ねるのは…… 止めて下さい……」
マヒルは絞り出すように、何とかそれだけ口にする。
「はぁ? 一言多くね。『沢良宜先輩。もう、止めて下さい』だろ? 誰が罪を犯してるってのよ! あ、そうそう! どうせ言うなら、色っぽく言ってね!」
「く……」
「マヒルお姉ちゃん……」
苦悩の表情を浮かべて思わず下を向くマヒルと、その顔を不安げに見上げるミユリ。
「ぐ……」
そして身動きが取れずに苦悶するカズサ。
「が……」
血だらけで立ち上がろうと、苦痛に顔を歪めながら壁に身を滑らせているガーゴ――
皆が打つ手を失っていた。
「ほら。言ってみろよ。誰が犯罪者だって? ああ、俺か? 犯罪者、俺か! 俺、罪を犯しました。犯罪しました。お巡りさん! いや、兵士さん! 犯罪しましたよ! 捕まえて下さい! ここに犯罪者がいますよ! 逮捕して下さい! なんちゃってな!」
四人四様の悲痛な表情を堪能し、拓也は嗜虐の限りに笑い出す。
その瞬間――
「――ッ!」
その笑い声に弾かれるように、マヒルが顔を上げた。
「刑法第二百四条――傷害!」
そして自分の信じる法律を読み上げる。それは何度読み上げても、無駄だったはずの条文だった。