白い階段
空は晴れているのに、影だけが湿っていた。
山肌に貼りつくように建つ古いホテルは、午後の光を受けても、窓はひとつも光を跳ね返さなかった。
わたしは、震える指先でドアノブに触れた。
最近、わたしの世界からは「色」が剥がれ落ちつつあった。
朝起きて鏡を覗き込めば、頬の輪郭がわずかに透けている。お気に入りのカップの青は、日に日に白磁の肌に吸い込まれて消えた。このままでは、わたしは世界から完全に「消去」されてしまう。何かが決定的に欠落しているという事実が、物理的な現象としてわたしを蝕んでいた。
あの日、逃げるようにこの場所を訪れたときのことを、身体が微かに覚えていた。
「ご宿泊でよろしいでしょうか」
ロビーの静寂を割って、男が立っていた。
白手袋をはめたその手は、まるでこの建物の影の一部を切り取ったかのようだ。
「……預けていたものを、返してもらいに来ました。でないと、私は、」
「左様でございますか。お待ちしておりました」
男はそれ以上何も問わず、ただ歩き出した。
案内された階段は、光の反射を拒むような、純粋な白で構成されていた。
一段、踏み出す。
足裏が、泥濘に沈むように吸い込まれた。柔らかいわけではない。ただ、わたしの質量がその白さに負けているのだ。
二段、三段。
かつて、わたしはこの白さに救われた。あの日、あの場所で起きた出来事を塗りつぶすことで、わたしは「今日」を生きる平穏を手に入れたのだ。自分を切り売りして、呼吸するための場所を確保した。それなのに、その白さが今、わたしを飲み込もうとしている。
男は「312」のドアの前で、音もなく鍵を回した。
真鍮の鍵が鍵穴で擦れる、ひやりとした振動。
三月十二日。
深夜、いつまでも鳴り止まなかった電話の震えが、指先に蘇る。
部屋の中は、驚くほど普通だった。
だが、机の上に置かれた一枚の白い紙が、部屋の空気を鋭利に支配していた。
椅子に座ると、指先からじわりと「白さ」が伝ってきた。
——あなたは、何を失いましたか。
紙の問いに、わたしは引き出しを引いた。
中には、びっしりと文字の書かれた紙の束。すべて、わたしが宛名を書くことを拒み、封じたままにしていた言葉たちだ。
一番下から、色褪せた写真を引き抜く。
隣に立つ誰かの顔が、乱暴に白く塗りつぶされていた。
その白い面をなぞった瞬間、堰き止めていたダムが決壊した。
あの夜、雨の中で何度も震えていたスマートフォンの液晶。
「助けて」という短いメッセージの、通知の光。
わたしは、それを見なかったことにした。毛布を被り、耳を塞ぎ、自分の穏やかな朝を守るために、震える光を裏返したのだ。
翌朝、わたしは冷えた指先で彼の連絡先を消し、メッセージのスレッドを削除した。その瞬間に、彼という存在を自分の中から抹消したのだ。
万年筆を握る。指の感覚が、折れそうなほどに鋭くなっていた。
彼の名前を、一文字ずつ、存在を刻みつけるように書こうとしたとき、紙の上に文字が浮かんだ。
——違います。今、残っているものから選びなさい。
——過去は返却できません。代価は、いまのあなたから支払われます。
契約は冷酷だった。
差し出した過去を、幸福な思い出として買い戻すことはできない。わたしが得られるのは、彼を見捨てたという「取り返しのつかない罪」と、一生消えない「喪失の痛み」だけだ。
「……わたしは、あなたを、捨てた」
その告白を、自分の罪として引き受ける決意で紙に叩きつけた。
その瞬間、指先に生暖かい血の感覚が戻ってきた。
かつての私は、彼を捨てた。そして今、私は「忘却」という名の逃げ道を捨てたのだ。
紙の上に「返却済」という文字が浮かぶ。
視界の端で、机に置かれたマグカップに、あの鮮やかな青が一点の染みのように戻ってきた。
それだけで、世界が重力を取り戻したように感じた。
男が入ってくる。
彼は、さっきとは違う鍵を差し出した。「309」。
「312は、終わりを留めるための部屋。これからは、309でお休みください」
三月九日。
あの夜の三日前。まだ彼からの着信に、なんの迷いもなく「どうしたの?」と返せていた、最後の時間。
「戻したものは、もう捨てられません。よろしいですね」
「……ええ。これが、わたしだから」
わたしは鍵を受け取った。
三〇九号室の鏡の前で、わたしは「わたし」と目が合った。
視線はもう、逸らさない。鏡の中のわたしの手首には、傷跡のように少しだけ「白さ」が残っている。
隣には、まだ輪郭のぼやけた影が寄り添っている。
ひどく重く、痛む。
けれど、この痛みこそが、わたしが今、ここに生きているという確かな証明だった。
ランプを消す。
暗闇の中に、消せない痛みが、消えない光のようにそこにあった。




