龍の目覚め、真夜中の養生膳
深い夜。皇帝の寝所である龍天宮の裏手には、不自然なほど静かに動く二つの影があった。
一つは、漆黒の官服を夜闇に溶け込ませた叡明様。
そしてもう一つは、ずっしりと重い漆塗りの重箱を抱えた私だ。
「……いいか、凛花。侍医長が戻るまで、刻限は半刻もない。高星が今、薬草蔵にボヤ騒ぎを起こして奴を惹きつけている」
「了解です、叡明様。……それにしても、一国の執政官が夜這い同然に陛下へ飯を運ぶなんて、世も末ですね。明苺が見たら腰を抜かしますよ」
「黙れ。……行くぞ」
私たちが寝所に踏み込むと、そこには力なく横たわり、浅い呼吸を繰り返す皇帝の姿があった。
枕元には、あの赤黒い霊芝の茶が置かれ、不気味な獣の匂いを放っている。
「……叡明か。こんな夜更けに何用だ。余は、少し疲れ……」
「陛下、失礼を承知で申し上げます。その茶をお下げください。今夜は、私が連れてきたこの娘の料理を、一口でも召し上がっていただきたい」
叡明様が深々と頭を下げる。皇帝は虚ろな目で私を見、それから重箱に目を向けた。
「……下女の料理か。侍医長以外のものは口にするなと言われているが……」
「陛下。今の陛下は、火がつきすぎた炭火のようなものです」
私は一歩前に出て、重箱の蓋を開けた。
そこから立ち上ったのは、これまで陛下が嗅いできた刺すような獣の匂いとは真逆の、雨上がりの森を思わせる清涼な香りだった。
「これは『翡翠の冬瓜スープ』です。中には熱を冷ます緑豆と、虎狼根の毒気を中和する『百合根』を練り込んであります。……陛下、今のあなたに必要なのは、無理矢理燃やすための活力ではなく、芯から鎮めるための休息です」
私は匙ですくい、陛下の唇に寄せた。
皇帝は疑いの目を向けながらも、叡明様の必死な形相に押されるように、その白いスープを口に含んだ。
「…………っ、これは」
一口食べた瞬間、陛下の瞳に劇的な変化が起きた。
無理やり昂ぶらされていた神経が、冷たい水で洗われたように鎮まっていく。
「……熱い。いや、体が涼しくなるようだ。あんなに重かった頭が、霧が晴れたように……」
「それが、本来の陛下の感覚です。侍医長の茶は、陛下に『偽りの元気』を見せさせ、その裏で五臓を焼き殺す毒でした」
私が淡々と告げると、陛下は震える手で重箱を抱え、貪るようにスープを飲み干した。
半分ほど空にしたところで、陛下の頬に、土色ではない健康な赤みが差してくる。
「……叡明。余は、何という過ちを……」
その時。寝所の扉が、乱暴に開かれた。
「――陛下! 何をされておいでですか! 正体不明の料理など口にしては――!」
現れたのは、顔を真っ赤にした侍医長だった。
彼は私たちがいるのを見るなり、目を見開いて私を指差した。
「その下女を捕らえよ! 陛下に毒を盛った大逆人だ!」
近衛兵たちがなだれ込んでくる。
だが、それよりも早く、叡明様が私の前に立ち、腰の剣をわずかに抜いて鋭い金属音を響かせた。
「動くな。……陛下、ご判断を」
寝台から立ち上がった皇帝は、今までとは別人のような、鋭く力強い眼光で侍医長を射抜いた。
「……侍医長よ。其方は余に『霊芝』を煎じていると言ったな。だが、今この娘が持ってきたスープの方が、余の体を遥かに深く癒やしている。……これを、どう説明する?」
侍医長の顔から、一気に血の気が引いた。




