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毒味の下女は、素顔を隠して毒を喰らう  作者: 夜空
泥を纏いし毒味の下女

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月明かりの毒酒と、紅い蜘蛛の糸

 月光宮を覆っていた死の気配が霧散し、後宮に束の間の静寂が戻った夜。

 

 私は、執政官である叡明エイメイ様の私室へと呼び出されていた。


「遅かったじゃないか、凛花。待ちくたびれたよ」


 部屋に入ると、叡明様はいつもの執務机ではなく、月明かりが青白く差し込む窓辺の長椅子に身を預けていた。

 机の上には、瑠璃色の小瓶と、透き通るような白磁の杯が二つ。

 そして、香ばしい匂いを放つ炙り肉が並んでいる。


「……夜分遅くに失礼します、叡明様。一介の下女を呼び出して、祝杯ですか?」

「おや。君はもう『一介の下女』ではないと言ったはずだが?」


 叡明様は、夜に咲く毒花のように美しく、そしてどこか危険な香りのする完璧な微笑みを浮かべた。


「ほら、座りなさい。これは西域から届いた『銀氷果ぎんぴょうか』の酒だ。君好みの、喉を激しく焼くような毒気があるぞ」


 促されるまま、私は彼の向かい側に腰を下ろした。

 

 注がれた酒は、月光を浴びて氷のように冷たく発光している。

 

 一口含めば、凍てつくような清涼感の直後に、カッと熱い刺激が喉を焼き、胃の底へと落ちていった。

 

 ――当然、お母様から受け継いだ『完全耐性』を持つ私にとっては、心地よいスパイス程度の刺激でしかない。


「……ふむ。これはいい。心臓の鼓動がわずかに早くなる、絶妙な調合です。……ですが、叡明様。こんな贅沢な毒酒をわざわざ用意したのは、単なる事件解決の労いではないのでしょう?」


 私の問いに、叡明様は杯をゆっくりと回しながら、ふっと目を細めた。

 

 その瞳から、先ほどまでの甘やかな微笑みがスッと消え失せ、冷徹な執政官としての知性の光が宿る。


「……気づいたか。芙蓉フヨウ妃を狙ったあの女官、獄中で『自害』したそうだ」


 背筋に、冷たい氷の針を突き立てられたような錯覚が走った。


「自害……。昨日まで、幻の蝶を見てあんなに泣き叫び怯えていた人間に、自ら命を絶つ勇気なんてあるはずありません」

「その通りだ。高星コウセイに調べさせたが、外傷はなく、毒を飲んだ形跡もない。だが、彼女の首筋に、一箇所だけ小さな『紅い点』があった。……まるで見えない針で、魂を抜き取られたようにな」


 叡明様は机の上に一枚の書状を広げた。

 そこには、今回の事件で使われた薬物の流通経路と、亡くなった女官の接点が記されている。


「後宮の闇は、思っていたよりずっと深い。一介の下女に、あのような特級品の薬物を用意できるはずがないのだ。……凛花、君のその目から見て、この『首筋の紅い点』に心当たりはあるかな?」


 私は酒を煽り、脳内の記憶をフル回転させた。

 

 首筋の一点。外傷はなく、しかし即死、あるいは自害に見せかける手法。

 

 ――それは、黒蓮こくれんの教官たちがかつて教えていた『他国の暗殺術』の知識と完全に一致していた。


「……一つ、古い禁書の記録に覚えがあります。『紅蜘蛛べにぐもの糸』。極細の針に、経絡を一瞬で麻痺させる猛毒を塗り、頸椎の隙間に打ち込む暗殺術です。……これを使うのは、この国の人間ではありません」


 私は、己の過去(暗殺組織にいたこと)を悟られないよう、あくまで薬師としての知識を装って淡々と告げた。


「……隣国の『暗部』か。あるいは……」


 叡明様は立ち上がり、窓の外、高くそびえ立つ皇帝の居城を鋭い目で見つめた。


「凛花。君を私の傍に置くのは、もはや私の食欲を満たすためだけではない。……この宮廷に巣食う、正体不明の『毒虫』たちを、君のその鼻で根こそぎ引きずり出してほしい」


 彼は私の元へ歩み寄ると、空になった私の杯を取り上げ、そのまま私の手を両手で強く、逃げ場を塞ぐように握りしめた。

 その掌は、月光のように冷たい彼の美貌からは想像もつかないほど、驚くほど熱い。


「断る権利はないよ。……でも、安心するといい。君のその稀代の才能も、命も、誰にも……死神にさえも渡すつもりはない。君は、私が――この叡明が必ず守り抜くからね」


 美貌の執政官の、あまりに真剣で、そしてほんの少し狂気すら孕んだ、重すぎるほどの執着の眼差し。

 

 私は、その瞳の奥に潜む感情の『本当の理由』に気づくこともなく、握られた手の熱から逃げるように、また一つ大きなため息を吐き出した。


「……はぁ。やっぱり、給金、五倍にしてください。……私が平和なジャガイモ剥きに戻れる日は、当分来そうにありませんから」


 私がわざと呆れたように言うと、叡明様は堪えきれないように喉の奥でくぐもった笑い声を漏らした。

 

 夜風が、極上の毒酒の香りと共に、新しい事件の――もっと重たく、どろりとした国家間の闇の匂いを運んできた。

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