黒蓮の牢獄、母が綴った味覚の手紙
泥にまみれ、草を食み、幾日も荒野を逃げ続けた私たちの逃避行は、あっけなく終わりを告げた。
どんなにお母様――明霞が知恵を絞ろうと、
幼い私を連れた女手一つの逃亡には限界があった。
お父様が命懸けで稼いでくれた時間は尽き、
私たちはついに、顔のない黒い装束の集団――暗殺一族『黒蓮』の追手に囲まれ、
捕縛された。
「……お母様! お母様っ!」
一族の拠点である巨大な屋敷の地下。
太陽の光が一切届かない、カビと鉄錆の匂いが充満する冷たい石造りの地下牢に引きずり込まれた時、
私は泣き叫びながら鉄格子越しに手を伸ばした。
「凛花! 凛花……っ!」
引き離され、暗闇の奥へと連れ去られていくお母様の姿。
それが、私が最後に見た、自由なお母様の姿だった。
冷たい石の床に放り出され、重い鉄の扉が閉まる音が響く。
闇と静寂。お父様を失い、お母様とも引き離された私は、膝を抱えてただ震えることしかできなかった。
殺されるのだろうか。
あの里の人たちのように、喉をかきむしって血を吐きながら。
だが、私に死が与えられることはなかった。
数日後。重い鉄の扉が軋みを上げて開き、松明の明かりと共に、一人の男が牢の中に姿を現した。
蛇のように冷酷な目をした、黒蓮の幹部らしき男だった。
男の後ろには、質素な食事の乗った木盆を持った下働きが控えている。
「……運のいい小娘だ。お前の母親は、ただの逃亡者ではなかったらしいな」
男は、床にうずくまる私を見下ろして、ひどく歪んだ笑みを浮かべた。
「あの女の薬学と植物の知識は、我が一族の歴史においてすら類を見ない代物だ。当主様もたいそうお気に召してな。『特別待遇』で迎えることになった」
私は顔を上げた。
お母様は生きている。私を生かすために、自らのその類まれなる才能を、
憎き一族に売り渡すという悪魔の契約を交わしたのだ。
「母親は、お前に指一本触れないことを条件に出した。そして、お前の毎日の食事だけは、毒が盛られないよう女自身が用意すると言って聞かなくてな。……だが、ただで飯を食わせておくほど我が一族は甘くない。その代償として、女には『仕事』を与えた」
男が顎でしゃくると、下働きが木盆を私の前に置いた。
そこに乗っていたのは、わずかな塩で味付けされただけの、茹でたジャガイモと薄い粥だった。
「お前の母親は今、一族の調合室で新しい毒を作らされている。……そして、その効果を確かめるための『毒味』も、すべてあの女の体でやらせている。……今日飲ませたのは、内臓をゆっくりと溶かす劇薬だ。今頃、血を吐いてのたうち回っているだろうよ」
「……っ!」
「母親が毒に耐えられず死ねば、お前もすぐに生贄として殺す。……せいぜい、母親が長く苦しみ続けられるように祈りながら、その飯を食うんだな」
男は忌々しそうに吐き捨てると、下働きを連れて牢を出て行った。
再び、重い鉄の扉が閉ざされる。
完全な暗闇の中。私は木盆の前にへたり込み、ボロボロと涙をこぼした。
私のために。私に指一本触れさせないためだけに、
あの誇り高く美しいお母様が、毎日、黒蓮の恐ろしい毒を自分の体で受けている。
私が安全な牢屋で生きているこの瞬間も、お母様は血を吐き、苦しんでいるのだ。
「……お母様、ごめんなさい。ごめんなさい……っ」
しゃくり上げながら、私は震える手で、お母様が作ってくれたという茹でたジャガイモを手に取った。
涙で塩っぱくなったそれを、ゆっくりと口に運ぶ。
だが、一口噛み締めた瞬間。私の体の奥の震えが、ふっと止まった。
(……え?)
私の舌は、幼い頃からお母様によって、
あらゆる植物の微かな成分の違いを感じ取るように鍛え上げられていた。
塩茹でされただけの、ただのジャガイモ。
しかし、そのジャガイモを茹でた「お湯」に、ほんのわずかな、
数滴の薬草の成分が溶け込んでいるのを、私の舌は確かに感じ取っていた。
(この微かな苦味は……『竜胆』の根。それに、この舌の裏に残る土の匂いは『黄土』……)
竜胆と黄土。
それは、強い酸や毒から胃の粘膜を分厚く保護し、毒素を吸着して体外へ排出させるための、
強烈な「解毒剤」の組み合わせだった。
男は言っていた。「今日飲ませたのは、内臓を溶かす劇薬だ」と。
ならば、このジャガイモの味の意味は一つしかない。
(……お母様は、毒を飲まされる前に、すでに完璧な『解毒剤』を調合して飲んでいる……!)
黒蓮の連中は気づいていないのだ。
お母様が、彼らの用意した毒など足元にも及ばないほどの天才であり、
毒を飲んで苦しむふりをしながら、その実、全ての毒を無効化して彼らを出し抜いているということに。
『私は生きているわ。こんな一族の毒なんて、私には効かない。だから凛花、あなたも必ず生き延びなさい』
ジャガイモに染み込んだ微かな解毒剤の味が、誇り高きお母様の声となって、
私の心に直接語りかけてくるようだった。
「……美味しい」
私は、涙を拭い、暗闇の中でにっこりと笑った。
言葉を交わすことも、顔を見ることも許されない暗い牢獄。
だが、一日に一度運ばれてくるこの「食事」こそが、私とお母様だけが共有できる、絶対に誰にも気づかれない秘密の『手紙』だったのだ。
この地獄のような黒蓮の檻の中で、私は、愛する母がその圧倒的な知性で紡ぐ「味覚の手紙」を、
毎日、ただひたすらに待ち焦がれるようになっていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
明日で本作は連載開始から無事に1ヶ月を迎えます。
いつも応援してくださる皆様へ感謝として、3/23は3話分の更新を予定しています。
明日の更新をお楽しみにお待ちください。




