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毒味の下女は、素顔を隠して毒を喰らう  作者: 夜空
凍れる花と籠抜けの小鳥

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31/35

星降る夜の回想、泥の中に咲いた花

後宮の夜は、昼間の喧騒が嘘のように深い静寂に包まれる。

私は叡明エイメイ様の部屋をこっそりと抜け出し、中庭の隅にある、背の高い草むらの中に腰を下ろしていた。


見上げれば、吸い込まれそうなほどに澄んだ星空が広がっている。

王都の夜空とは違う、宝石をぶちまけたような輝き。

……あの日、一族の屋敷から逃げ出し、泥だらけで荒野を彷徨っていた時に見た空と同じ色だ。


手首には、私が結び直した細い絹の糸の感触が、まだ微かに残っている。

冷たい夜風が草を揺らす音を聞きながら、私は膝を抱え、夜露に濡れた土の匂いを深く吸い込んだ。


ジャガイモを剥く小刀も、毒を調合する薬研やげんもない、ただの「凛花」として在れる時間。

静寂の中で、私の意識はゆっくりと、時間ときの彼方へと沈んでいく。


あの日、里を滅ぼしたあの『甘い匂い』と、桂花が纏う『甘い匂い』が、恐ろしいほど似ていることに、私は心のどこかで気づき始めていた。


それは、私がまだ暗殺一族の『黒蓮こくれん』に囚われる前――ただ「お母様の宝物」として愛されていた、幼い頃の記憶。







……甘い、匂いだった。


それは、私の故郷である、山奥の小さな里に漂った、とびきり甘くて、どこか懐かしい、

桃のような蜂蜜のような香り。


夕暮れ時。里の人々が今日の収穫を喜び、夕餉ゆうげの支度をしていた、

その平穏な時間を、その香りは一瞬にして地獄へと変えた。


「……う、あぁ……っ!」


隣の家のおじさんが、突然喉をかきむしり、真っ赤な血を吐いて倒れた。

広場でおままごとをしていた子供たちが、人形を抱えたまま、眠るように崩れ落ちた。


「毒だ! 毒の霧だ!」

「息をするな! 家に入るんだ!」

「……黒蓮だ! 黒蓮の手先が、里を囲んでいるぞ!」


悲鳴と怒号が、夕闇を引き裂く。


私は、家の前の畑で毒草の成分をスケッチしていた。

突然の異変に、手に持っていた筆をポロリと落とす。


「凛花!!」


家の奥から、お母様――明霞メイカが飛び出してきた。

普段はどんな陰謀の中でも決して取り乱さず、優雅に紅茶を飲んでいるようなお母様が、

その時は髪を振り乱し、顔を真っ白にして私のもとへ駆け寄ってきた。


「お、お母様……みんな、どうして……」


「息をしてはダメ! この匂いを吸い込んではダメよ!」


お母様は私の口を自分の手で強く塞ぐと、懐から一つの小さな瓶を取り出した。

中には、黒くてドロドロとした、ひどく苦い匂いのする液体が入っている。


「凛花、これを飲みなさい。……全部、一滴も残さずに!」


私は、お母様の必死の形相に押され、その不味い液体を無理やり喉の奥へと流し込んだ。

焼け付くような苦味。だが、その直後、私の体の中で、何か熱いものが弾けた気がした。


「……ここにはもう長居できない! 奴らの手が回るぞ!」


そこへ、息を切らしたお父様――梟仙キョウセンが駆け込んできた。

ただの、他人に興味ゼロで家族だけをこよなく愛する、少し風変わりで不器用な男だった。


明霞メイカ、凛花を連れて、裏の森へ逃げろ!」


「あなたはどうするの!?」


「俺が囮になる! 奴らの目はごまかせるさ」


その手には、どこで拾ったのか、使い古された農具が握られていた。

戦うためではない。


ただ、愛する妻と娘が逃げるための『数秒』を稼ぐためだけに、彼は死地に飛び込もうとしていた。


お父様は、お母様の額に一度だけ唇を寄せると、振り返って私に、

いつも通りの、少しバカっぽい、でも世界で一番温かい笑顔を見せた。


「凛花、パパはあいつらと鬼ごっこしてくるからね。……すぐに追いつくから、お母様と、ジャガイモでも剥いてるんだよ」


「お、お父様……!」


それが、お父様の最後の言葉だった。


お父様は農具を振り上げ、わざと大声を上げながら、迫りくる黒蓮の刺客――甘い毒の霧を纏った、顔のない黒い集団――の視線を己に釘付けにし、私たちとは逆の方向へと駆け出していった。


「……行くわよ、凛花」


お母様は涙を一滴も流さず、私の手を強く掴み、裏の森へと走り出した。

背後で、里が燃え上がる音が聞こえる。


お父様が走り去った方向から、微かな怒号が響き、やがて……恐ろしいほどの静寂が訪れるのを、

私は泣きながら感じていた。


……それから、どれくらい歩いただろう。


お父様は、追いついてこなかった。

お母様と私は、追手を逃れ、泥にまみれ、草を食み、荒野を彷徨い続けた。


その間、私は何度も、あの里を襲った甘い毒の霧の残滓に触れた。

だが、私の体は、微かな痺れすら感じなかった。


お母様が最後に飲ませてくれた、あの『奇跡の薬』が、私の血管の中で、

致死の毒をすべて慈しむように無効化していたのだろう。


(……まだ確証はないけれど。これが、私の『完全耐性』の基になっているはず……。お母様の知性と、お父様の命がけの囮によって手に入れた、呪いのような、祝福のような力)


私は草むらの中で、泥のついた自分の指先を見つめた。

あの時、お父様が言った「ジャガイモでも剥いてるんだよ」という言葉。


やがてお母様と一緒に黒蓮に捕まり、毎日死と隣り合わせの地獄の日々が始まった。

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