星降る夜の回想、泥の中に咲いた花
後宮の夜は、昼間の喧騒が嘘のように深い静寂に包まれる。
私は叡明様の部屋をこっそりと抜け出し、中庭の隅にある、背の高い草むらの中に腰を下ろしていた。
見上げれば、吸い込まれそうなほどに澄んだ星空が広がっている。
王都の夜空とは違う、宝石をぶちまけたような輝き。
……あの日、一族の屋敷から逃げ出し、泥だらけで荒野を彷徨っていた時に見た空と同じ色だ。
手首には、私が結び直した細い絹の糸の感触が、まだ微かに残っている。
冷たい夜風が草を揺らす音を聞きながら、私は膝を抱え、夜露に濡れた土の匂いを深く吸い込んだ。
ジャガイモを剥く小刀も、毒を調合する薬研もない、ただの「凛花」として在れる時間。
静寂の中で、私の意識はゆっくりと、時間の彼方へと沈んでいく。
あの日、里を滅ぼしたあの『甘い匂い』と、桂花が纏う『甘い匂い』が、恐ろしいほど似ていることに、私は心のどこかで気づき始めていた。
それは、私がまだ暗殺一族の『黒蓮』に囚われる前――ただ「お母様の宝物」として愛されていた、幼い頃の記憶。
……甘い、匂いだった。
それは、私の故郷である、山奥の小さな里に漂った、とびきり甘くて、どこか懐かしい、
桃のような蜂蜜のような香り。
夕暮れ時。里の人々が今日の収穫を喜び、夕餉の支度をしていた、
その平穏な時間を、その香りは一瞬にして地獄へと変えた。
「……う、あぁ……っ!」
隣の家のおじさんが、突然喉をかきむしり、真っ赤な血を吐いて倒れた。
広場でおままごとをしていた子供たちが、人形を抱えたまま、眠るように崩れ落ちた。
「毒だ! 毒の霧だ!」
「息をするな! 家に入るんだ!」
「……黒蓮だ! 黒蓮の手先が、里を囲んでいるぞ!」
悲鳴と怒号が、夕闇を引き裂く。
私は、家の前の畑で毒草の成分をスケッチしていた。
突然の異変に、手に持っていた筆をポロリと落とす。
「凛花!!」
家の奥から、お母様――明霞が飛び出してきた。
普段はどんな陰謀の中でも決して取り乱さず、優雅に紅茶を飲んでいるようなお母様が、
その時は髪を振り乱し、顔を真っ白にして私のもとへ駆け寄ってきた。
「お、お母様……みんな、どうして……」
「息をしてはダメ! この匂いを吸い込んではダメよ!」
お母様は私の口を自分の手で強く塞ぐと、懐から一つの小さな瓶を取り出した。
中には、黒くてドロドロとした、ひどく苦い匂いのする液体が入っている。
「凛花、これを飲みなさい。……全部、一滴も残さずに!」
私は、お母様の必死の形相に押され、その不味い液体を無理やり喉の奥へと流し込んだ。
焼け付くような苦味。だが、その直後、私の体の中で、何か熱いものが弾けた気がした。
「……ここにはもう長居できない! 奴らの手が回るぞ!」
そこへ、息を切らしたお父様――梟仙が駆け込んできた。
ただの、他人に興味ゼロで家族だけをこよなく愛する、少し風変わりで不器用な男だった。
「明霞、凛花を連れて、裏の森へ逃げろ!」
「あなたはどうするの!?」
「俺が囮になる! 奴らの目はごまかせるさ」
その手には、どこで拾ったのか、使い古された農具が握られていた。
戦うためではない。
ただ、愛する妻と娘が逃げるための『数秒』を稼ぐためだけに、彼は死地に飛び込もうとしていた。
お父様は、お母様の額に一度だけ唇を寄せると、振り返って私に、
いつも通りの、少しバカっぽい、でも世界で一番温かい笑顔を見せた。
「凛花、パパはあいつらと鬼ごっこしてくるからね。……すぐに追いつくから、お母様と、ジャガイモでも剥いてるんだよ」
「お、お父様……!」
それが、お父様の最後の言葉だった。
お父様は農具を振り上げ、わざと大声を上げながら、迫りくる黒蓮の刺客――甘い毒の霧を纏った、顔のない黒い集団――の視線を己に釘付けにし、私たちとは逆の方向へと駆け出していった。
「……行くわよ、凛花」
お母様は涙を一滴も流さず、私の手を強く掴み、裏の森へと走り出した。
背後で、里が燃え上がる音が聞こえる。
お父様が走り去った方向から、微かな怒号が響き、やがて……恐ろしいほどの静寂が訪れるのを、
私は泣きながら感じていた。
……それから、どれくらい歩いただろう。
お父様は、追いついてこなかった。
お母様と私は、追手を逃れ、泥にまみれ、草を食み、荒野を彷徨い続けた。
その間、私は何度も、あの里を襲った甘い毒の霧の残滓に触れた。
だが、私の体は、微かな痺れすら感じなかった。
お母様が最後に飲ませてくれた、あの『奇跡の薬』が、私の血管の中で、
致死の毒をすべて慈しむように無効化していたのだろう。
(……まだ確証はないけれど。これが、私の『完全耐性』の基になっているはず……。お母様の知性と、お父様の命がけの囮によって手に入れた、呪いのような、祝福のような力)
私は草むらの中で、泥のついた自分の指先を見つめた。
あの時、お父様が言った「ジャガイモでも剥いてるんだよ」という言葉。
やがてお母様と一緒に黒蓮に捕まり、毎日死と隣り合わせの地獄の日々が始まった。




