花の雫と、太陽の隣の特等席
「凛花ぁぁっ! 見て、見てよこれ! 触ってみて!」
数日後。厨房の入り口で、明苺が自分の頬を両手で包み込みながら、弾んだ声で叫んだ。
つい先日まで、鉛の含まれた粗悪な白粉のせいで赤く腫れ上がり、
カサカサに粉を吹いていた彼女の肌は、今やゆで卵のようにつるんと滑らかになり、
内側から発光するような血色を取り戻していた。
「うん、綺麗に治ったわね。甘草の炎症を抑える成分が、ちゃんと効いたみたいで良かった」
「治ったどころじゃないわよ! 前よりずっともっちりしてるの! 妃様のお付きの女官たちにも『一体どんな高級な薬を使っているの!?』って質問攻めにされちゃったわ!」
明苺が興奮冷めやらぬ様子で語る通り、私が気まぐれに調合した『花の雫』と名付けたその特製軟膏と化粧水は、瞬く間に後宮中の噂の的となっていた。
無理もない。美しさを競い合う後宮の女たちにとって、肌の不調は死活問題だ。
それが、ただの下女の作った薬で劇的に改善したとなれば、こぞって欲しがるのは火を見るより明らかだった。
「凛花ちゃん、こっちの蜜蝋も溶けたよー! 次は桃仁油だよね!」
厨房の奥の竈から、明るい声が響く。
振り返ると、腕まくりをした桂花が、小鍋を木杓子で器用にかき混ぜながら、ひまわりのような満面の笑みを向けていた。
後宮中から殺到する『花の雫』の注文に応えるため、私は厨房の隅を借りて臨時の化粧水工房を開いていた。そして、その作業を誰よりも手際よく、かつ楽しそうに手伝ってくれているのが、最近厨房に配属されたばかりの桂花だった。
「ありがとう、桂花。火から下ろして、少し冷ましてから紅花の汁を混ぜてね。熱すぎると香りが飛んじゃうから」
「りょーかいっ! あ、そうだ凛花ちゃん。この桃の油にね、少しだけ『白檀』の葉っぱをすり潰して入れてみない? 香りが引き立つし、お肌の熱を取る効果もあるはずだよ」
桂花の提案に、私は目を丸くした。
「……すごいわね、桂花。白檀の葉の効能なんて、熟練の薬師でもないとすぐには出てこないわよ」
「えへへ、そうかな? 私の田舎、ちょっと一風変わった土地でさ。珍しい草花や香辛料がいっぱい生えてるの。小さい頃からそういうのを摘んで遊んでたから、なんとなく『これが合うんじゃないかな』って分かるんだよね」
桂花は照れくさそうに鼻の頭を掻きながら、私の隣に並んで小鍋を覗き込んだ。
その横顔は、陰謀や毒殺の影が渦巻くこの後宮にはおよそ似つかわしくないほど、純粋で真っ直ぐだった。
彼女から漂う、お日様に干した布団のような温かい匂いと、微かな甘いスパイスの香り。
(……不思議な子。この子の隣にいると、重い鎧を脱いだみたいに息がしやすいわ)
暗殺一族の『黒蓮』で、ただ殺すためだけの毒を学んできた私。
生き残るために感情を殺し、ただひたすらに刃物とジャガイモに向き合ってきた私にとって、
桂花のように「誰かを喜ばせるため」に植物の知識を語り、心から笑い合える同世代の存在は、
まるで冷たい暗闇に差し込んだ一筋の陽光のようだった。
「ねえ凛花ちゃん。このお化粧がひと段落したらさ、今度こそ私の故郷の『特別な香辛料』を使ったお肉料理、一緒に作ろうね! すっごくお腹が空く、とびきりいい匂いがするんだから!」
「ええ、約束するわ。……その代わり、私が作った毒見用の怪しいお菓子も、ちゃんと味見してちょうだいね?」
「もっちろん! 凛花ちゃんのご飯なら、毒が入ってても喜んで食べちゃう!」
私たちは顔を見合わせ、声を立てて笑い合った。
窓から差し込む初夏の光の中、甘い桃と蜂蜜の香りに包まれた厨房での時間は、私にとって後宮で初めて手に入れた『普通の女の子』としての愛おしい日常だった。
――だが、そんな穏やかな空気を、冷たい風がふわりと撫でた。
「……ずいぶんと、楽しそうだな」
厨房の入り口に、長身の影が落ちる。
そこに立っていたのは、眉間に深いシワを寄せ、明らかに不機嫌そうな気配を纏った執政官・叡明様だった。
「え、叡明様!? どうしてこのような油臭い厨房に……」
「お前が昼食の時間になっても、私の部屋に戻ってこないからだ。……高星に探させたら、下女と化粧作りにうつつを抜かしていると聞いてな」
叡明様はツカツカと私の前に歩み寄ると、私の手首を乱暴ではないが、逃げられない強さで掴んだ。
そして、私の指先に鼻を近づけ、くん、と匂いを嗅ぐ。
「……私のための出汁の匂いではなく、他の女たちのための桃と蜜の匂いがする。……気に入らんな」
「叡明様、ちょっと、みんな見てますから……っ!」
「見させておけばいい。お前は私の専属だ。化粧屋になるつもりがないなら、今すぐ私の部屋でジャガイモの皮を剥け」
その言葉の裏にある、まるで飼い主に放っておかれた大型犬のような『拗ねた響き』に気づき、私は思わず苦笑してしまった。
周囲の下女たちが顔を真っ赤にしてヒソヒソと逃げていく中、桂花だけが「執政官様って、凛花ちゃんのこと本当に大好きなんだね!」と、空気を読まずに無邪気な笑顔で手を振っている。
(……本当に、騒がしくて温かい日々。ずっと、このままでいられたらいいのに)
私は叡明様に手を引かれながら、振り返って桂花に小さく手を振り返した。




