白粉(おしろい)の毒と、太陽のような下女
芙蓉妃様の宮で起きた「消えた歌い鳥と凍った花」の事件を、塩と氷とお酢という台所用品だけで解決してから数日。
私のささやかな活躍は、幸いなことに芙蓉妃様の口添えによって「腕の良い宮廷の者が解決した」とだけぼかされ、ただの下女である私の名前が表沙汰になることはなかった。
王太后の影が薄れ、東の宮の権力が失墜したことで、後宮全体の空気は目に見えて穏やかになっていた。
激務に追われる叡明様は、相変わらず夜になると私の手首に糸を巻き付けてくる重たい過保護っぷりを発揮しているが、昼間は比較的自由に厨房へ出入りする許可をもらえている。
「……あぁ、やっぱりこの厨房の、少し焦げたような香辛料と土の匂いが一番落ち着くわね」
私は山のように積まれた泥付きのジャガイモを前に、至福の吐息を漏らした。
どんな陰謀も、どんな猛毒も、この無心になれる単純作業の前では些末なことだ。
小刀を滑らせ、するすると皮を剥いていく。
この丸みを帯びた黄金色の実こそが、私の心を最も安らげてくれる。
「ちょっと、凛花ぁ……っ! ジャガイモに頬ずりしてる場合じゃないわよぉ……!」
平穏な厨房の空気を切り裂くように、泣きべそをかいた明苺が駆け込んできた。
手には洗いかけの布を持ったまま、その目は真っ赤に充血している。
王太后の地下牢から生還して以来、少し図太くなった彼女がここまで取り乱すのは珍しい。
「どうしたの、明苺。また高星様に怒られたの?」
「違うわよ! 見てよこれ、私の顔!」
明苺はバンッと両手で自分の頬を指差した。
よく見ると、普段は血色の良い彼女の肌が、ところどころ赤く腫れ上がり、カサカサと粉を吹いたように荒れてしまっている。
「最近、妃様たちのお下がりで少しだけ上等な『白粉』をもらったから、嬉しくて毎日たっぷり塗ってたの。そしたら急にこんなに荒れちゃって……痛いし痒いし、これじゃお嫁に行けないわ……っ!」
私は小刀を置き、手回しの手拭いで手を拭ってから、明苺の顔にすっと近づいた。
至近距離で彼女の肌を観察し、くんくんと匂いを嗅ぐ。かすかに鼻を突く、金属特有の冷たい匂い。
「……明苺、そのもらった白粉っていうのは、真っ白で、肌にぴったり張り付くようによく伸びるものじゃない?」
「え、ええ。そうよ。すごく綺麗に仕上がるって、女官たちの間でも大流行してるの。……もしかして、変な呪いでもかかってるの!?」
「呪いじゃなくて、純粋な『毒』よ」
私が淡々と告げると、明苺は「ヒッ」と短い悲鳴を上げて後ずさった。
「その白粉には、『鉛』がたっぷり含まれているのよ。鉛は肌を白く見せる効果が抜群だけど、毎日塗り続ければ皮膚から毒が染み込んで、肌をボロボロに破壊するわ。ひどくなれば、内臓までやられて命に関わるの」
「い、命に……っ!? な、なんでそんな恐ろしいものを妃様たちは顔に塗ってるのよ!」
「美しさへの執着は、時に命よりも重いからよ。……でも、あなたは妃様じゃないんだから、そんな劇薬を顔に塗る必要はないわ。すぐに井戸水で洗い落としてきなさい。……荒れた肌には、私が特製の『お薬』を作ってあげるから」
明苺が半泣きで井戸へ駆けていくのを見送りながら、私は厨房の棚を物色し始めた。
(……毒と薬は表裏一体。肌を壊す毒があるなら、肌を治して美しくする薬もあるわ)
私が取り出したのは、食用として保存されていた『蜜蝋』と、香りの良い『桃仁油(とうにんゆ/桃の種の油)』、そして、色付けのための『紅花』の絞り汁だ。
小鍋に蜜蝋と油を入れ、弱火でゆっくりと溶かしていく。
厨房に、ほんのりと甘い桃と蜂蜜の香りが漂い始めた。
「これに、炎症を抑える甘草のエキスをほんの少し混ぜて……よし、あとは冷やし固めるだけね」
鍋の中身を小さな陶器の器に移し替えていると、背後から不意に、鈴を転がすような明るい声が響いた。
「わぁ! なになに、すっごくいい匂い! 甘くて、桃の飴玉みたい! それ、もしかして新しいお菓子!?」
振り返ると、そこには見慣れない下女が立っていた。
日に焼けた健康的な肌に、動きやすいように短くまとめられた栗色の髪。
大きな瞳は好奇心でキラキラと輝いており、まるでひまわりのような、あるいは太陽そのもののような溌溂とした空気を纏った少女だった。
「お菓子じゃないわ。これは、肌荒れを治すための『化粧水』と『軟膏』よ。……あなたは?」
「あ、ごめんごめん! 私、最近こっちの厨房に配属された『桂花』って言うの! 田舎の没落貴族の出なんだけど、食べるのが大好きでさ! さっきからずっと、あなたの剥くジャガイモの皮の薄さに見惚れてたの!」
桂花と名乗った少女は、人懐っこい笑顔で私の手元を覗き込んだ。
後宮という陰謀渦巻く場所にはおよそ似つかわしくない、裏表のない純粋な笑顔。
「でも、お化粧の薬なのに、そんなに美味しそうな匂いがするの?」
「ええ。顔に塗るものは、口に入っても安全なものじゃないと意味がないわ。……これには毒になるものは一切入っていない。極端な話、舐めても平気よ」
「へええ! すっごい! じゃあちょっと味見させて!」
桂花は言うが早いか、私が器に移したばかりの紅色の軟膏を指先でちょいっとすくい、本当にそのまま自分の舌に乗せてしまったのだ。
「えっ、ちょっと……!」
「んんっ! ほんのり甘くて、桃の香りがふんわり抜ける! 美味しい! これ、お饅頭の餡に混ぜても絶対いけるよ!」
毒味役である私ですら、化粧を直接舐めるのには少し躊躇するというのに。
この桂花という少女は、私とはまた違った毛色で「食」に対する執着がバグっているらしい。
「……ふふっ。あなた、面白いわね。私は凛花。一応、特別官女という名目で毒味役をやっているわ」
「知ってる! 執政官様に胃袋を掴まれてるって噂の凛花ちゃんでしょ! 私、美味しいものを作れる人は無条件で尊敬するの。ねえ、今度私の田舎の『特別な香辛料』を使った料理、一緒に作ってみない!?」
屈託のない桂花の笑顔に、私は思わず毒気を抜かれたように笑い返していた。
その直後、顔を真っ赤に洗い上げた明苺が戻ってきて、私が作った特製の『花の雫』を塗ったところ、その劇的な保湿効果と安全性に大感動することになるのだが――。
この時の私は、ただ純粋に、美味しいものを「美味しいね」と笑い合える新しい友人ができたことを喜んでいた。




