芙蓉妃の憂鬱と、密室の鳥籠
東の宮の主である王太后が「原因不明の奇病(という名の自らの疑心暗鬼)」で倒れ、静養という名目で実質的な軟禁状態に置かれてから数日。
後宮の空気は、分厚い雨雲が去ったかのように、ほんの少しだけ風通しが良くなっていた。
叡明様は王太后派の残党の処理や、毒殺未遂の事後処理で連日連夜の激務に追われている。そのため、私は久しぶりに下女としての「平和な日常」を謳歌し、意気揚々とジャガイモの皮剥きに精を出していた。
「……凛花さん。ジャガイモの皮剥き中に申し訳ないんですが、至急、同行をお願いできますか?」
背後から声をかけてきたのは、目の下にうっすらとクマを作った高星様だった。
「同行? 叡明様の昼食なら、あと半刻ほどで……」
「いえ、執政官殿ではなく……上級妃であられる『芙蓉妃』様からのご指名です。毒味ではなく、あなたの『知恵』を借りたいと」
私は首を傾げた。上級妃が、ただの下女の知恵を借りたいとは、よほどの事態だ。
案内された芙蓉妃の宮は、その名の通り美しい花々が咲き乱れる優雅な庭園に囲まれていた。
だが、その中心にある豪奢な建物の空気は、ひどく重く沈み込んでいる。
「こちらでお待ちを。……あなたですね、噂の毒味役というのは」
通された客間で私を品定めするように見下ろしたのは、一人の女官だった。
隙一つなく結い上げられた髪に、折り目正しい衣服。
生真面目で堅物そうな空気を全身から漂わせる彼女は、芙蓉妃の筆頭お世話係である**静**と名乗った。
「ただの下女に過ぎません。芙蓉妃様は、どのような御用件で?」
「……お話ししますぅ! もう、本当に気味が悪くて!」
静の背後から、ひょっこりと顔を出したのは、
まだあどけなさの残る若手女官の**小蘭**だった。
彼女は怯えたように目を潤ませながら、早口でまくしたてる。
「芙蓉妃様が大切にされていた『歌い鳥』がいなくなってしまったんです! 昨日の夜までは、確かに鳥籠の中にいたのに!」
「小蘭。妃様の御前で騒々しいですよ」
静がピシャリと叱りつけると、御簾の奥から、沈んだ声が響いた。
「よいのです、静。……凛花とやら。噂は聞いています。王太后様の見えざる毒をも退けたという、あなたのその目を頼りたいのです」
芙蓉妃の許しを得て、私は部屋の隅に置かれた大きな鳥籠へと近づいた。
純金で縁取られた立派な鳥籠。鍵は外側からしっかりと掛けられており、壊された形跡はない。
小鳥が自力で開けるのはもちろん、外部から何者かが手を入れることも不可能な『密室』だ。
だが、中にいるはずの美しい歌い鳥の姿はどこにもない。
代わりに、鳥籠の床には、奇妙なものが一つだけ転がっていた。
「……花?」
それは、一輪の白い花だった。
ただの花ではない。
今はうだるような暑さの夏の入り口だというのに、その花は表面に真っ白な霜を張り巡らせ、
カチカチに『凍りついて』いたのだ。
「ひぃっ……! やっぱり、東の宮の呪いです! 妃様の寵愛を妬んだ怨霊が、鳥を喰って、氷の呪いを残していったんだわ!」
小蘭が悲鳴を上げて静の背中に隠れる。
静も「怨霊など……」と口では否定しつつも、その顔色は青白く、かすかに震えていた。
私は無言で鳥籠の鍵を開け、中に手を入れて、その『凍った花』をつまみ上げた。
指先に、刺すような冷たさが伝わってくる。
「凛花さん! 素手で触っては危険です!」
高星様が慌てて止めるが、私は構わずその花の匂いを嗅ぎ、そして、凍った花びらの端をほんの少しだけかじってみた。
「……あむ」
「「ええっ!?」」
静と小蘭が、幽霊を見たかのような顔で硬直する。
私は舌の上で溶けた微かな味と、鼻に抜けた匂いを分析し、小さくため息をついた。
「……呪いでも怨霊でもありませんよ。ただの『巧妙な絡繰』と、ちょっとした悪意です」
私は振り返り、怯える女官たちににっこりと微笑みかけた。
「犯人は人間です。それも、この宮の内部の構造と、気象条件をよく知っている人間の仕業ですね。……高星様、申し訳ありませんが、厨房から『お酢』と『大量の塩』、それから『金槌』を借りてきてもらえませんか?」




