偽りの霊薬と、遅れてきた執政官
東の宮の最奥、王太后が引きこもっている離れには、むせ返るような甘い香りが充満していた。
私は高星様の制止を振り切り、半ば強引にその部屋の扉を開け放った。
「……何者だ。ここは霊薬師たる我らの祈祷の間であるぞ」
薄暗い部屋の中央。
香炉を囲むようにして座っていた数人の『薬売り』たちが、胡散臭い頭巾の奥から鋭い視線を向けてきた。
部屋の奥の御簾の向こうからは、王太后の荒い呼吸音が聞こえる。
どうやら彼女は恐怖で衰弱しきっており、今は眠らされているらしい。
「祈祷? 笑わせないでください」
私は香炉に歩み寄り、立ち上る煙を手のひらで軽く仰いで嗅いだ。
「ただの『白睡蓮』の麻薬成分と、『蓮』の香りを混ぜただけの粗悪な鎮静剤じゃないですか。……王太后様の恐怖心を麻痺させて、解毒できたと錯覚させているだけ。一週間も吸い続ければ、胃に穴が開いて死にますよ」
私の言葉に、薬売りたちの空気が一変した。
宗教的な静けさが消え去り、むき出しの『殺気』が部屋を支配する。
「……ほう。ただの下女にしては、ずいぶんと鼻が利く。さては貴様が、例の『毒味役』か」
薬売りの一人が立ち上がり、懐からギラリと光る歪な刃を取り出した。
その刃の表面には、ねっとりとした緑色の液体――ツンと鼻を突く青臭い匂い。
間違いない、『青崩草』を煮詰めた即効性の痺れ毒だ。
(……少し舐めて味を確かめてみたい気もするけれど、今はそれどころじゃないわね)
「解毒薬の調合は後回しだ。蓮夜様より、貴様の身柄を最優先で確保するよう命じられている。……大人しくついて来い、黒蓮の姫君」
男たちがじりじりと距離を詰めてくる。
毒の知識なら負けないが、私は腕っぷしに関してはただのジャガイモ剥き係だ。
囲まれれば抵抗する術はない。
だが、私の心に不思議と恐怖はなかった。
なぜなら、私がここに乗り込んだ時点で、あの『過保護な男』が黙っているはずがないと知っていたからだ。
「……誰に断って、私の毒味役に刃を向けている」
ドォン!! と、部屋の重い扉が蹴り破られた。
逆光を背負って立っていたのは、抜き身の長剣を下げた叡明様だった。
その整った顔は夜叉のように冷たく、圧倒的な怒りに支配されている。
「え、叡明様……! どうしてここに」
「お前が部屋から消えた痕跡を見つけて、私が大人しく待っていると思ったか、この馬鹿者が」
叡明様は私の前に颯爽と立ち塞がると、剣の切っ先を薬売りたちに突きつけた。
「相手は暗殺一族の末端です! 刃に毒が……!」
「案ずるな。触れさせもしない」
叡明様が地を蹴った。
次の瞬間、瞬きする間もなく銀閃が走り、男たちの手から毒刃が次々と弾き飛ばされた。
圧倒的な剣技。ただの文官である執政官が見せていい動きではない。
暗殺者たちすら反応しきれず、あっという間に全員が床に組み伏せられてしまった。
「……高星! こいつらを地下牢へ放り込め。一人残らず吐かせる」
遅れて駆けつけた近衛兵たちが男たちを引き立てていく中、叡明様は剣を鞘に納め、私を振り返った。
そして、私の腕を強く掴み、そのまま自らの胸の中にきつく抱き込んだ。
「……っ、叡明様、苦しっ……」
「これ以上、私の寿命を縮めさせるな。……お前が一人で毒の罠を見抜けることは分かっている。だが、物理的な暴力の前ではお前はただの小娘だろうが」
怒っているはずなのに、私を抱きしめるその腕はかすかに震えていた。
甘い蓮の香りが充満する不気味な部屋の中で、彼の体温と、微かに香る沈香の匂いだけが、
私を現実の光の中に繋ぎ止めてくれている気がした。
「……ごめんなさい。でも、これで王太后様の『偽の希望』は完全に断ち切れましたよ」
私は叡明様の腕の中で、奥の御簾を見つめた。
黒蓮の刺客は排除した。
残るは、自らの恐怖に食い破られようとしている王太后への『最後の仕上げ』だけだ。




