結び直された糸と、見えない毒に怯える蛇
翌朝。
私がいつものように早起きして厨房から戻ると、寝台の上で叡明様が、
自分の指先に結ばれた細い絹糸をじっと見つめていた。
「……おはようございます、叡明様。朝食をお持ちしましたよ」
私が努めて平坦な声で呼びかけると、彼は鋭い視線を私に向け、そしてゆっくりと絹糸の結び目を指で弾いた。
「……凛花。昨日、私が結んだのは『双淡結び』だ。だが今、ここにあるのは『固め結び』になっている。……お前、夜中にどこへ行った?」
(暗闇では絶対に完全再現できない、特殊な結び方……!)
心臓が跳ねた。
暗闇の中で手探りで結び直したせいで、結び方の違いに気づかれてしまったのだ。
一国の執政官の観察眼を甘く見ていた。
「え、ええと……お手洗い、です。どうしても我慢できなくて、叡明様を起こすのも忍びなかったので、糸を切って……」
「……嘘だな」
叡明様は寝台から降りると、無言で私に歩み寄り、私の手首をふわりと掴んだ。
その鼻先が、私の首筋に近づく。
「……微かに、月見草の匂いがする。それに……この奥にある焦げたような匂い。お前、また何か『毒』に触れたな?」
(……っ、凄まじい嗅覚。執政官じゃなくて猟犬になればいいのに)
言い逃れはできないと悟り、私は観念して目を伏せた。
「……少しだけ、昔の知り合いと。でも、何も起きていません。私は無事です」
叡明様は深く、ひどく重い溜息を吐いた。
怒られる、と身構えたが、彼の手は私の手首から離れ、ぽん、と私の頭に乗せられた。
「……お前を鎖で繋ぐような真似はしたくない。だが、私がお前を失う恐怖も理解してくれ。……次に行く時は、私を起こせ。お前の『知り合い』だろうが何だろうが、私が斬り伏せてやるから」
「……はい」
彼の不器用すぎる優しさに、私の胸の奥がチクリと痛んだ。
兄の毒よりも、この人の甘さの方が、よほど私の理性を狂わせる。
気まずい空気を誤魔化すように、私はお盆の上の蓋を開けた。
「さ、冷めないうちにどうぞ。今日は『緑豆と生姜の薬膳粥』です。体の内側に溜まった熱や、不要な毒素を洗い流す効果があります。……私にも、今の叡明様にも必要なものですから」
叡明様が匙を手に取り、一口食べる。
生姜の爽やかな香りと、緑豆の優しい甘さが、夜の張り詰めた空気をゆっくりと溶かしていった。
そこへ、高星様が慌ただしく部屋に駆け込んできた。
「叡明様! お食事中に失礼します。……東の宮から、密偵の報告が上がりました」
「どうした。あの古狸が動いたか」
「いえ、逆です。……王太后様が、ここ数日まともに食事をとられていないそうです。出された料理をすべて銀の針で調べ、犬に食わせ、それでも『見えない毒が入っている』と錯乱し、厨房の者たちを次々と牢に入れていると……」
叡明様が、匙を止めて私を見た。
「凛花。お前があの老婆に盛ったという毒。発症は一ヶ月後と言っていたな?」
「ええ。『月長花の蜜』は、特定のお茶と混ざって一ヶ月後に確実に命を奪います。……でも、人間にとって一番恐ろしいのは『いつ死ぬか分からない恐怖』です」
私は、自分のお粥をゆっくりとすくいながら、冷たく微笑んだ。
「疑心暗鬼。それこそが、解毒剤のない最強の毒です。彼女は今、自分の影に怯えながら、自らの心をゆっくりと殺している最中なんですよ」
恐怖に蝕まれる王太后。
だが、窮鼠は猫を噛むという。
追い詰められた絶対権力者が、次にどんな狂行に走るか。
平穏な朝食の裏で、宮廷の空気は確実に張り詰めていた。




