猛毒は甘い誘惑
叡明様の私室――後宮の喧騒から切り離されたその部屋は、知性と死の香りが同居する場所だった。
私は、部屋の隅に置かれた豪奢な長椅子を「実験台」代わりに、持ち込まれた『嫌がらせ』の品々を並べていた。
「……ふふ、ふふふっ」
私が怪しく笑いながら白粉の瓶を振っていると、背後で派手な音を立てて扉が開いた。
「凛花さん! 無事ですか!? 今、下女たちの間で不穏な……って、何をしているんですか、あなたは!」
飛び込んできたのは、眼鏡を直しながら眉間に深い皺を刻んだ青年――側近の高星様だった。彼は私が、肌を焼く毒が含まれているはずの白粉を、楽しげに弄んでいるのを見て絶句した。
「高星様、そんなに大声を出さないでください。驚いて『火蠍の鱗粉』が舞ったら、それこそ一大事ですよ」
「火蠍!? ……やはり、それを送りつけられたのですか。すぐに捨てなさい! 一生消えない火傷を負うことになりますよ!」
「捨てられませんよ、こんな貴重なもの」
私は、瓶の中の赤い粉末を、窓から差し込む陽光に透かして見せた。
「確かに、そのまま塗れば激痛でしょうね。でも、これに特定の花の蜜と、ほんの少しの蒸留酒を加えて寝かせれば……最高級の血行促進剤、つまり『美肌の薬』になるんです。下女さんたち、わざわざ私の肌を綺麗にするために、手間暇かけて毒を精製してくれたみたい」
「……あなたは、正気ですか?」
高星様の引き攣った表情を無視して、私は話を続ける。
「それより、贈り主を特定しました。この瓶の底、微かに『夜狂草』のエキスが塗ってあります。触れた者の指先を三日間黒く染める、悪戯用の毒です。今朝、厨房で手を隠していた三人の下女……彼女たちが、私の美肌に貢献してくれた『恩人』ですよ」
高星様は言葉を失い、眼鏡を押し上げながら深いため息を吐いた。
「……あなたのその毒に対する執着。……叡明様が目をつけられるわけだ」
その時、部屋の奥から低い、だがどこか楽しげな声が響いた。
「高星、そのあたりにしておけ。……凛花、お前のその『能書き』はいい。……それよりも、約束のものを出せ」
いつの間にか、執務机に叡明様が座っていた。その顔は、睡眠不足と食欲不振のせいで、月光のように青白い。
「分かってますよ、叡明様。……どうぞ、本日の夜食です」
私は重箱の蓋を開けた。
そこには、暴力的なまでに食欲をそそる香りを放つ、真っ赤な煮込み料理が収められていた。
「……なんだ、この色は。殺す気か?」
「ええ、半分は。中には、さっきの火蠍の鱗粉を煮詰めた出汁と、刺激の強い香辛料をたっぷりと。……毒は、適量なら『劇薬』ですが、微量なら五臓六腑を叩き起こす『活力』になります」
叡明様は疑わしげに匙を手に取り、その一口を運んだ。
瞬間、彼の美しい喉が大きく動き、瞳に劇的な光が宿る。
「…………っ!!」
彼は無言のまま、二口、三口と、まるで飢えた獣のように粥をかき込み始めた。
真っ白だった彼の頬が、じわじわと朱色に染まり、額には薄っすらと汗が浮かぶ。
「……喉が、焼ける。なのに、腹の底から何かがせり上がってくるようだ。……凛花、貴様……」
「それが『生きている感覚』ですよ、叡明様。毒を恐れて何も食べないから、体も心も死にかけていたんです」
最後の一粒まで平らげた叡明様は、そのまま椅子に深く沈み込み、満足げに目を閉じた。
数分もしないうちに、規則正しい寝息が聞こえ始める。
高星様が、それを見て目を丸くした。
「……信じられん。叡明様が、こんなにすぐに眠りにつくなんて。……半年以上、不眠に悩まされていたあの方が……」
「毒は、最高のスパイスであり、最高の睡眠薬でもありますから。……さて、高星様。私の給金、今のうちに三倍に書き換えておいていただけますか?」
私は、眠る主人の寝顔を横目に、ちゃっかりと指を三本立てた。
「……凛花さん、犯人の特定については感謝します」
高星様は、手帳に犯人の名を記しながら、その表情をこれまでにないほど険しくさせた。
「ですが……あなたに叡明様の専属を任せたのは、単に食事の管理だけが目的ではないのです。実は、後宮内で口にするのも憚られるような事態が起きています」
「……事態?」
私が首を傾げると、高星様は声を潜め、部屋の隅々まで警戒しながら話し始めた。
「ここ数ヶ月で、二人の妃が亡くなりました。表向きは『急性の衰弱死』とされていますが……亡くなる直前、彼女たちは共通して『夜ごと、美しい蝶が舞う幻覚を見た』と口走っていたのです。そして今、叡明様が最も案じられている寵妃、芙蓉妃にも同じ兆候が現れ始めました」
「蝶の幻覚……。衰弱死なのに、ですか?」
「はい。御典医たちは『原因不明の風土病』だと匙を投げました。ですが、叡明様はこれを、誰かによる巧妙な『毒殺』だと睨んでいます」
私は、手元にあった火蠍の白粉の瓶を見つめた。
急性の衰弱死と、蝶の幻覚。
……そんな症状を引き起こす植物や薬物は、私の知識の中にいくつか心当たりがある。
「凛花さん。叡明様は、あなたのその『毒を愛でる異常な嗅覚』を頼りにされています。……芙蓉妃の身に何が起きているのか、探っていただけませんか?」
私は深いため息をついた。
「……はぁ。やっぱり、三倍の給金は安すぎましたね。命がいくつあっても足りない予感がします」
「……ふふ。おねだりは、事件を解決してから叡明様に直接どうぞ。彼は、役に立つ人間には驚くほど寛大ですよ」
高星様はそう言って、芙蓉妃が住む「月光宮」への通行証を机に置いた。
私は通行証を指先で弄びながら、夜の闇が深まっていく後宮の空を見上げた。
「蝶の幻覚、ねぇ……。もし私の予想通りなら、それは病気でも呪いでもなくて、ただの『趣味の悪い悪戯』ですよ」
私は地味な下女の服を整え、重い腰を上げた。
平穏なジャガイモ剥き生活は遠のくばかりだが、謎の香りに誘われるように、
私の足は自然と月光宮へと向かっていた。




