招かれざる毒客と、黒蓮(こくれん)の影
後宮の日常に、再びきな臭い風が吹き込み始めたのは、見習い料理人のスープ騒動から数日後のことだった。
「隣国の使節団、ですか?」
叡明様の私室で、私は大量の書類仕事に追われる彼に、特製の『陳皮と生姜の血行促進茶』を差し出しながら首を傾げた。
「ああ。表向きは皇帝陛下の回復を祝う親善大使だ。だが、その使節団を強引に招き入れたのは王太后だ。……連中の中に、得体の知れない『手練れ』が混ざっているという報告がある」
叡明様は茶を一口飲み、その鋭い香りに微かに眉をひそめながらも、深く息を吐いて疲労を散らした。
「手練れ、とは? 剣の達人ですか?」
「いや。……暗殺の専門家だ。それも、王太后が自らの手を汚さず、かつ確実に『邪魔者』を消すために外から呼び寄せた毒使いだ。……狙いは、間違いなくお前だ、凛花」
私の背筋に、冷たいものが走った。
王太后は、先日の私の「無毒の脅迫」によって、正面から私や明苺に手を出すことはできなくなった。だからこそ、後宮の外、それも外交特権を持つ使節団の中に刺客を紛れ込ませたのだ。
「明夜の歓迎の宴、お前も私の毒味役として同席しろ。一瞬でも私の側を離れるなよ」
叡明様の声には、かつてないほどの強い警戒心が滲んでいた。
――そして翌夜。
華やかに飾り付けられた迎賓殿には、豪奢な衣装に身を包んだ隣国の使節団と、彼らを仰ぎ見る皇帝陛下、そして薄く笑う王太后の姿があった。
私は、目立たぬよう灰色の官女服を纏い、叡明様の斜め後ろに控えていた。
宴が最高潮に達した頃、使節団の代表が恭しく立ち上がり、一つの美しい瑠璃色の瓶を掲げた。
「皇帝陛下。我が国より、幻の銘酒『千日紅』をお持ちいたしました。どうか、陛下のさらなるご健康を祝し、杯を交わさせていただきたく」
その瓶の蓋が開けられた瞬間。
私の鼻腔を、甘く、そして極めて特殊な芳香が微かにくすぐった。
(……えっ?)
私は思わず、叡明様の袖を強く引いた。
叡明様が振り返るより早く、使節団の侍従の一人が、流れるような動作で皇帝陛下と叡明様の杯に酒を注いでいく。
(間違いない。あの甘い香りの奥に隠された、微かな鉄の匂い。……『血滴草』と『白蛇の抜け殻』を三カ月間冷暗所で発酵させた、遅効性の麻痺毒だわ。でも、ただの麻痺毒じゃない。あの調合の比率は……!)
「お待ちください!!」
私は、自分が下女であることを忘れ、声を張り上げて前に飛び出していた。
迎賓殿の空気が一瞬で凍りつき、全視線が私に突き刺さる。
「無礼者! 皇帝陛下の御前にて何事か!」
王太后が、待ってましたとばかりに声を荒らげた。
「その酒には、極めて高度な毒が仕込まれています! 陛下、叡明様、決してお飲みにならないでください!」
私が叫ぶと、酒を注いでいた使節団の侍従――目深に帽子を被った細身の男が、ピタリと動きを止めた。
「……ほう? 我が国の国宝たる銘酒を、毒呼ばわりとは。一介の官女が、ずいぶんと大それたことを申す」
男の声は、ひどく冷たく、そしてどこか懐かしい響きを持っていた。
男がゆっくりと顔を上げる。その左目には、真っ黒な『蓮』の刺青が刻まれていた。
私の心臓が、早鐘のように鳴り始めた。呼吸が浅くなる。
(嘘でしょ……。どうして、彼がここに)
「この酒に毒などない。もし毒だと言うのなら、貴様がこの場で飲み干してみせよ。できぬのであれば、我が国への重大な侮辱として、その首を刎ねてもらう」
男の言葉に、叡明様が立ち上がり、私の前に出ようとした。
だが、私は震える足を踏みしめ、叡明様を制止して前に進み出た。
そして、注がれた杯を手に取り、一気に呷った。
「……凛花!!」
叡明様の悲痛な叫びが響く。
喉から胃にかけて、強烈な冷たさが広がり、直後に全身の神経を焼き切るような痛みが爆発した。
普通の人間なら、一口で全身が麻痺し、数分で呼吸が止まる猛毒。
だが、私は倒れない。
痛みを強引にねじ伏せ、杯を卓に叩きつけるように置いた。
一瞬だけ膝が折れそうになるが、卓を掴んで強引に身を支える。
私の頬は異常な高熱で赤く染まり、息は荒いが、その瞳は男を真っ直ぐに射抜いていた。
「……甘いわね。発酵が三日足りない。それに、白蛇の抜け殻の炙り方が甘いから、特有の臭みが消し切れていないわ。調合した人間の焦りが透けて見えるわね」
私は、にっこりと、最高に不敵な笑みを浮かべた。
「『黒蓮』の名折れじゃないかしら? ――兄様」
迎賓殿が、死に絶えたような静寂に包まれた。
男――私の実の兄であり、暗殺一族『黒蓮』の現当主は、驚愕に見開いた目で私を凝視し、やがて歓喜に顔を歪めた。
「……まさか。こんな泥臭い後宮の最下層に潜んでいたとはな。……見つけたぞ、我が一族の最高傑作。逃亡した姫君、凛花よ」
叡明様が、私と男の顔を交互に見比べ、言葉を失っていた。
平穏なジャガイモ剥き生活は、ついに完全に崩れ去った。
私が最も恐れ、最も逃げたかった「過去」が、今、王太后の陰謀に乗って私の目の前に立ちはだかったのだ。




