平穏なジャガイモと、色変わりの魔法スープ
東の宮での死闘から数日後。
体内の毒が完全に抜け切った私は、久々に後宮の下働き専用の厨房で、愛しのジャガイモたちと向き合っていた。
「……あぁ、この土の匂い。この無心になれる単純作業。最高だわ」
「あんた、執政官様の特別官女になっても、結局ここに戻ってくるのね……」
隣で玉ねぎを剥きながら、明苺が呆れたようにため息をつく。
王太后の地下牢から生還した彼女は、すっかり「叡明様と凛花は、身分差を乗り越えた熱烈な恋仲」という勘違いをこじらせていたが、私がこうして泥臭い作業に戻ってきたことで、少しだけ以前の調子を取り戻してくれていた。
その時。厨房の奥から、料理長の怒声と若い見習いの悲鳴が響き渡った。
「馬鹿者! 貴様、梅妃様にお出しする特製の『紫芋と蓮根のすり流し』に、呪いでもかけたのか!」
「ち、違います! 私はただ、レシピ通りに火にかけただけで……っ!」
見れば、若い見習い料理人が床に土下座をして震えている。
彼らが囲んでいる大鍋を覗き込むと、本来なら美しい薄紫色になるはずのスープが、まるで魔女の劇薬のような「不気味な青緑色」に変色していた。
「ひぃっ、毒だ! 誰かが毒を盛ったに違いない!」
「近衛兵を呼べ! この見習いを牢に入れろ!」
厨房がパニックに陥る中、私は手回しの手拭いで手を拭きながら、ゆっくりと鍋に近づいた。
「騒がしいですね。……ちょっと見せてください」
「おい凛花、お前は下女だろ! 余計な口を……」
料理長が怒鳴りかけたまさにその瞬間、私は鍋のスープを指ですくい、ためらいなく舌に乗せた。
「っ!? 凛花、お前またそんな危ないことを!」
明苺が悲鳴を上げるが、私は舌の上で転がる味を冷静に分析し、深くため息をついた。
「……チッ。なんだ、ただの鉄の味じゃないですか。期待して損しました」
「……毒でも呪いでもありませんよ。ただの『化学反応』です。……見習いさん、この鍋、新調したばかりの『鉄鍋』ですね?」
「え? あ、はい。古い銅鍋が焦げ付いたので、良かれと思って……」
私は厨房の隅にあった籠から、鮮やかな黄色の『香柚(こうゆ/柑橘系の果実)』を一つ手に取った。
包丁で真っ二つに割り、その果汁を、不気味な青緑色になった鍋の中にたっぷりと絞り入れる。
「紫芋の色素は、鉄分やアルカリ性のものに触れると青く変色するんです。暗殺の毒なんかじゃなく、ただの自然の理。……でも、酸性のものを加えれば」
私が木杓子で鍋をかき混ぜた瞬間――。
青緑色だったスープが、みるみるうちに鮮やかな、宝石のような『赤紫色』へと変化していった。
「「「おおおっ……!?」」」
料理人たちが、魔法でも見たかのように目を丸くしてどよめいた。
「色も戻ったし、柑橘の酸味が加わって、蓮根の泥臭さも消えました。梅妃様は最近食欲が落ちていると聞きましたから、これくらいさっぱりしている方が喜ばれますよ。……さ、冷めないうちに運んでください」
私が包丁を置き、何事もなかったかのようにジャガイモの前に戻ろうとすると、見習い料理人が涙目で私に縋り付いてきた。
「あ、ありがとうございます……! 凛花さん、あなた一体何者なんですか!?」
「ただの、ジャガイモ剥きが得意な下女です」
私が前髪を直して石ころの顔に戻った時、厨房の入り口の扉が、バンッ!と大きな音を立てて開かれた。
「――ただの下女が、こんな油臭い場所で油を売っているとはな」
そこに立っていたのは、眉間に深い皺を刻んだ叡明様だった。
厨房の料理人たちが一斉に平伏する中、彼は真っ直ぐに私の元へ歩み寄り、私の手からジャガイモを取り上げた。
「……私の昼膳の時間が、半刻も過ぎているのだが? お前が戻らないせいで、私は水しか飲んでいない」
「……叡明様。自分で厨房に様子を見に来る執政官なんて、歴史上あなたくらいですよ」
「うるさい。来い、凛花。お前のその無駄に広い知識は、私の胃袋のためにだけ使え」
彼は半ば強引に私の腕を引き、厨房から連れ出していく。
背後では、明苺が「ほらね、やっぱりお熱い関係じゃないの……!」と興奮気味に囁く声が聞こえ、私は今日一番の深い、深い溜息を落とした。




