不可視の猛毒、冷徹なる料理人の取引
私が向かったのは、自室の寝台ではなく、後宮の奥底にある叡明様直轄の特別厨房だった。
体内に残る鴆の毒が、まるで内側から炎で炙られているような熱と痛みを放っている。
だが、その痛みが逆に私の頭を恐ろしいほどに冴え渡らせていた。
「凛花、本当にやる気か。……相手は王太后だぞ。一歩間違えれば、明苺だけでなくお前も、そして私も反逆罪で首が飛ぶ」
厨房の入り口で腕を組む叡明様が、低い声で警告する。
だが、その瞳には私を止める気など毛頭なく、むしろ共犯者としての凄絶な覚悟が宿っていた。
「首が飛ぶ前に、あの老婆の胃袋を人質に取ります。……叡明様、私の後ろ盾になってください。それだけでいい」
私は、最高級の白木耳と蓮の実、そしていくつかの「無害な」薬草を鍋に放り込み、静かに煮立てた。
出来上がったのは、透き通るような甘い香りを放つ、王太后の好物『白木耳の氷砂糖煮』だ。
それをお盆に乗せ、私は再び、先ほど死にかけたばかりの「東の宮」へと歩を進めた。
背後には、抜き身の剣のような殺気を纏った叡明様がピタリと付き従っている。
「――何奴! ここを東の宮と……えっ、貴様、先ほどの毒味役……!?」
門を警備していた宦官たちが、幽霊でも見たかのように悲鳴を上げた。
私は彼らを完全に無視して広間へと踏み込んだ。
「王太后様。先ほどは素晴らしいご馳走をありがとうございました。……お返しに、私の『特製スイーツ』をお持ちしましたよ」
上座で寛いでいた王太后が、私を見るなり目を見開いた。
鴆の毒を食らってまだ数刻。歩くことすら不可能なはずの娘が、盆を掲げて微笑んでいるのだから無理もない。
「貴様……なぜ生きている。いや、叡明、これは何の真似だ! 余の宮に無断で踏み入るとは!」
「私が連れてきたのではありません、王太后様。私はただ、この恐ろしい料理人の『護衛』をしているだけです」
叡明様が冷ややかに言い放つと、私は王太后の目の前の卓に、ことりと器を置いた。
「さあ、召し上がれ。王太后様の好物でしょう?」
「……ふざけるな。下女の作った気味が悪い料理など、誰が口にするものか。それに、貴様の友人がどうなってもいいのか!」
王太后が声を荒らげ、周囲の兵たちが一斉に武器を構える。
だが、私は全く動じず、器の縁を指でそっとなぞった。
「……ふふっ」
「気味が悪い? いいえ、これは全くの無毒です。銀の針を入れようが、犬に食わせようが、何も起きません。……ですが、この料理には『月長花の蜜』が使われています。王太后様が毎朝欠かさず飲まれている『長寿の茶』と、胃の中で混ざり合った時だけ、遅効性の猛毒に変わるよう調合しました」
王太后の顔から、さっと血の気が引いた。
「発症は一ヶ月後。内臓がガラスの破片を飲み込んだように痛み始め、血を吐いて死にます。……どの御典医が調べても、原因は絶対に分かりません」
「き、貴様……余を脅迫するか! 今すぐこの場で斬り捨ててくれるわ!」
「ええ、どうぞ。私を殺せば、その毒の『中和剤』を作れる人間はこの世から永遠に消え去ります」
私は、前髪の奥から、王太后の目を真っ向から射抜いた。
「明苺を返しなさい。さもなければ、あなたは一生、毎朝のお茶を飲むたびに死の恐怖に怯え、水一滴飲むことすらできなくなる。……私が、あなたの食卓を永遠に『呪い』に変えてあげます」
沈黙が、東の宮を支配した。
命を握られた恐怖と、目の前の下女が放つ常軌を逸した執念。
絶対的な権力者であったはずの王太后の額から、冷たい汗がひと筋、流れ落ちた。
「……牢の鍵を開けよ」
王太后が、絞り出すような声で兵に命じた。
私の、料理人としての「狂気」が、宮廷の最大権力者をねじ伏せた瞬間だった。




