東の宮からの招待状と、毒蛇の晩餐
皇帝陛下との空中庭園での茶会という名の「強引な求婚の嵐」を、可愛げの欠片もない毒の知識であっさりと切り抜けた私。
その直後に私を待っていたのは、安らかな平穏などではなく、執政官・叡明様の執拗なまでの『無言の拘束』だった。
「……叡明様。もう私室の前ですよ。いい加減、その私の腕をきつく掴んでいる手を離していただけませんか? これでは、せっかくの美味しいお茶菓子が入った重箱が持てません」
私は、前を歩く広い背中に向かって呆れたようにため息を吐いた。
だが、目の前の美貌の執政官は、歩みを止めることなく、私の細い腕を壊れ物――あるいは絶対に逃がさない獲物――のように強く握りしめたまま、振り返ろうともしない。
「……離さん。陛下が先ほど、どれほど未練がましく、あの空中庭園からお前の後ろ姿をねっとりと見つめていたか知っているか? 一瞬でも目を離せば、お前は龍の爪に攫われる。……お前はもう、私室の奥深くに鍵をかけて隠しておくべきだ」
彼は私の腕を引いたまま、まるで宝物を奪われまいと威嚇する獣のような鋭い眼光で、人気のない回廊の先を睨みつけている。
普段の優雅な天女の微笑みは完全に消え失せ、むき出しの独占欲だけがそこにあった。
その時だ。
「――お見事な手際でございましたね。皇帝陛下も、すっかりその美しい毒気に当てられたご様子で」
チリン、と。
氷のように冷たい鈴を鳴らすような声が、張り詰めた回廊の静寂を唐突に突いた。
回廊の暗い角から音もなく現れたのは、金糸の刺繍をふんだんに施した豪奢な官服に身を包んだ、見知らぬ壮年の女官だった。
丁寧に結い上げられた髪と、完璧な作法。
私を見据えるその細い瞳には人間らしい感情が一切なく、まるで地を這いずる蛇のような、ねっとりとした冷たさがあった。
「……王太后様付の筆頭女官か。私の専属官女に、一体何の用だ」
叡明様が、咄嗟に私を自身の背後に完全に隠すように、庇うように一歩前へ出た。
空気が、一瞬で絶対零度に凍りつく。
「おや、叡明様。ご機嫌麗しゅう。……本日は、東の宮におわす王太后様が、昨夜の皇帝陛下の見事なご回復を大変お喜びでして。ついては、その偉大なる功労者であるそちらの下女を……いえ、『特別階級官女』様を、今宵、東の宮での個人的な晩餐に招きたいと仰せなのです」
女官は、深々と、しかし一切の敬意を感じさせない動作で頭を下げる。
その手には「招待状」という名の、禍々しい龍と牡丹が彫り込まれた金縁の巻物が握りしめられていた。
それは、この後宮において拒否を許さぬ絶対的な命令であり――同時に、死刑宣告にも等しい悪意の招待だった。
「……王太后様が自ら? 馬鹿な。凛花は今日、官女になったばかりのただの下働きだ。そのような大任、務まるはずがないだろう。……私が代わりに向かおう」
「いいえ、それは叶いません。王太后様はこう仰せでした。『恐れを知らず毒を愛する小娘の顔を、この目で直に拝みたい』と。……凛花様」
女官は、叡明様の肩越しに、蛇の目で私を真っ直ぐに射抜いた。
「もしこの名誉あるお誘いをお断りになれば……あの洗い場にいる、明苺様という可愛らしいお友達の身の安全も、明日以降、決して保証いたしかねますわよ?」
どくり、と。
私の心臓が、ひどく嫌な音を立てた。
平穏な馬鈴薯剥きの時間。唯一の気兼ねない友人。
彼女は、私のこの後宮における『唯一の弱点』を、冷酷なまでに的確に突いてきたのだ。
「――っ、貴様ら……!」
叡明様が激怒し、腰の剣に手を掛けようとした瞬間。
私は彼よりも早く、その広い背中を押し退けて前に出た。
「……承知いたしました。謹んで、お受けします」
私が叡明様の背中を押し退けて前に出ると、彼は驚愕に目を見開いて私を振り返った。
「凛花! お前、正気か!? 東の宮は、今の陛下を毒牙にかけたあの侍医長を飼っていた巣窟だぞ! 晩餐という名の処刑場だ、生きて戻れる保証はどこにもない!」
「叡明様。……私、さっき空中庭園で言いましたよね。花として愛でられるより、土の中で毒草を育てている方が性に合っているって。……向こうが毒蛇の蠢く穴だと言うのなら、こっちはその蛇ごとぐつぐつに煮込んで、最高の薬膳スープの出汁にしてやるまでです」
私は、女官の手からその金縁の招待状を、ひったくるように乱暴に受け取った。
巻物を手にした瞬間、私の鼻腔を微かな、しかし確実な異臭がくすぐる。
……間違いない。あの獄中で女官を消した暗殺用の毒、『紅蜘蛛』の匂いだ。
巻物の軸に、微量だけ塗ってある。
私を試しているのか、あるいはただの牽制か。
明苺を人質に取られた静かな怒りと、かつて黒蓮で生きていた暗殺者としての冷たい血。
そして、強大な未知の毒に対する薬師としての異常な好奇心が、私の胸の中でどろどろと混ざり合う。
「……叡明様。今夜の晩餐、もし万が一、私が朝までに戻らなかったら。明苺に『私の部屋に隠してあるお菓子は、全部食べていい』と伝えておいてください」
「ふざけるな! 行かせるわけがないだろう……と、そう言いたいところだが。お前のその『毒を前にした目』は、私が何を言ってももう止まらないな」
叡明様は、苦々しげに、そしてひどく痛ましげに美しい顔を歪めると、私の両肩を、骨が砕けんばかりの強い力でガッチリと掴んだ。
「……いいか。高星と私で、東の宮の外側から、何が何でもお前の命を守る。だからお前は、お前の最大の武器であるその『舌と毒の知識』で、あの薄汚い老婆を完全に黙らせてこい」
黄金の檻の真の主、王太后。
私は、久しぶりに疼く闘争心で微かに震える指先を瑠璃色の長い袖に隠し、不敵な笑みを浮かべて、後宮の最奥――東の宮を見据えた。




