最高級の報酬と、親友の勘
後宮の朝は早い。
まだ空が白み始めたばかりの薄暗いうちから、下女たちのせわしない足音と、井戸から冷たい水を汲み上げる鈍い音が、石畳の回廊に響き渡る。
昨夜、国の頂点である皇帝の寝所で起きた、命を前借りさせる毒茶の暗殺未遂。
そして、その背後に浮かび上がった宮廷の最高権力者たる『王太后』のどす黒い影。
そんな国家の根幹を揺るがすような大騒動の真っただ中にいたというのに、私の日常たる共同洗い場は、いつものように気怠い熱気と石鹸の匂い、そして下世話な噂話に満ちていた。
「……ねえ、凛花」
山積みにされたシーツを無心で洗っていると、隣で作業をしていた明苺が、私の顔を穴が開くほどの至近距離で覗き込んできた。
「何よ、明苺。朝から顔が近すぎるわ。それに、手元がお留守になっているわよ」
「あんた……。昨日、執政官の叡明様と一体何があったの? さっき回廊ですれ違った高星様ったら、胃のあたりを両手できつく押さえて、今にも血を吐きそうなくらい憔悴しきってたわよ。まるで、この世の終わりみたいな顔して」
(……そりゃあ、そうでしょうね)
私は内心で深く頷いた。
有能な側近である高星様は、昨夜、皇帝の寝所に忍び込むための囮として、薬草蔵でボヤ騒ぎを起こすという命懸けの放火の真似事をさせられたのだ。
その上、主である叡明様は皇帝の前で剣を抜き、正体を暴かれかけた私を強引に抱き抱えて逃走したのである。
常識人である彼の胃に、どれほどの穴が開いたか想像もつかない。
「それに……あんたの肌、なんか昨日より白くない? いつもの泥、塗り忘れてるわよ。それに、あんたからかすかに香るこの匂い……最高級の沈香じゃない?」
「――っ!」
明苺の鋭い指摘に、私の心臓が大きく跳ねた。
しまった、完全に油断していた。
昨夜、月明かりの庭園で、叡明様に顔の泥を指先で拭い取られたまんまだったのだ。
あの時、私の素顔に触れた彼の指先は異常なほど熱く、その感触と、彼から漂っていた高価な香の匂いが、私自身に微かに移ってしまっていたらしい。
私は慌てて、手元の木桶の底に溜まった泥水を両手で掬い上げ、ベチャッと容赦なく両頬に塗りつけた。
「……気のせいよ。昨夜は、特別任務で少しばかり『大掃除』を手伝わされただけ。ひどく埃っぽかったから、井戸で顔を念入りに洗ったのよ。香りのことは……きっと掃除した部屋の匂いが染み付いただけだわ」
「掃除!? あんた、本当に下女の域を超えて酷使されてるわね……」
明苺は呆れたように息を吐きながらも、周囲の監視の目を盗んで、こっそりと懐から小さな油紙の包みを取り出した。
「ほら、これ。昨日の美味しい干し肉のお礼。厨房のオジさんから掠めてきた、出来立てのふかふかの蒸しパンよ。あんた、今日も朝ごはん抜きで叡明様にこき使われるんでしょ?」
黒蓮という暗殺組織にいた頃からのストイックな習慣で、私は基本的に一日の食事を夜の一回しか摂らない。
だが、過酷な後宮で生きる彼女のこういう無骨な優しさは、私の冷え切った心に真っ直ぐに沁みた。
「……恩に着るわ。あ、そうだ。これ、昨日の約束」
私は濡れた手を拭い、昨夜のうちに叡明様から(半ば強引に、命懸けの深夜労働のお給金アップの確約と共に)分捕っておいた、小さな絹の袋を明苺の手に握らせた。
金糸で美しい刺繍が施された、いかにも高価な小袋だ。
「えっ、何これ。……ええっ!? 嘘でしょ、これ、東の国から届いた最高級の『蜜の実』じゃない! 一粒で私たちの月給が吹き飛ぶ代物よ!? 凛花、あんた……もしかして本当に叡明様を毒殺して、宝物庫の鍵でも奪い取ったの!?」
「失礼ね。深夜まで働かされた、正当な『報酬』よ。……まあ、半分は口止め料みたいなものだけど」
明苺と笑い合いながら、甘い匂いのするパンを少しだけ齧る。
この何気ない平民の時間が、今の私には何よりも大切だった。
王太后だの、国家規模の暗殺劇だの、そんな物騒な言葉を完全に忘れていられる、たった一つの温かい避難所。
一生、ここでこうして平和にジャガイモの皮を剥いていたい。
だが、その後宮の片隅のささやかな安らぎは、洗い場の入り口の回廊に響き渡る、高らかで威圧的な宣言によって、文字通り粉々に打ち砕かれた。
「――おるか! 執政官・叡明が専属、下女の凛花はどこだ!」
現れたのは、豪奢な絹の衣を纏った、皇帝直属の伝令官だった。
その後ろには、武装した近衛兵が数名控えている。
そして伝令官の手には、絶対的な権力の象徴である、龍の紋章が刻まれた重々しい巻物が握られていた。
ピシリ、と。
洗い場の空気が完全に凍りつき、おしゃべりを楽しんでいた数十人の下女たちが、一斉に青ざめて床に平伏した。
「皇帝陛下よりの勅命である! 昨夜の『大掃除』の絶大なる功を認め、下女・凛花を本日より『特別階級官女』に任じ……さらには、ただちに陛下との『朝の茶会』へ召し出す!」
特別階級官女。
それは、下働きから一気に五つも六つも階級を飛び越え、後宮を自由に歩き回る権限を与えられる、異常とも言える大出世だった。
平伏していた明苺が、手に持っていた蜜の実をポロリと落とし、震える声で私に囁いた。
「……凛花。あんた、大掃除じゃなくて、陛下を掃除かしたの?」
「……違う。絶対に、違うわよ……っ!」
私は、泥だらけの顔を両手で覆って、深く深く天を仰いだ。
目立たず平穏なジャガイモ剥きへの道は、ついに音を立てて完全瓦解した。
今頃、この強引な勅命を知った叡明様は、私を皇帝に横取りされたと勘違いして、怒りと焦燥で執務室の机を叩き割っているかもしれない。
これから始まるのは、叡明様の重すぎる独占欲と、皇帝陛下の危険な好奇心。
そして、最大の黒幕である王太后の猛毒の牙が複雑に交差する、逃げ場のない本当の「毒の宴」だった。




