遠い場所の硬いダイヤモンド、そして僕の靴の中の砂
やれやれ、世界というのは時として、残酷なほど公平ではない。
人気球団に所属するある投手の話が、風に乗って僕の耳に届いた。
彼は一億円を超える年収を稼ぎ出し、六百万円もするロレックスを
まるで自動販売機で缶コーヒーでも買うような手つきで手に入れたという。
おまけに、妻の友人の子供と結婚したという。
まるで出来の良すぎる神話の一節か、あるいは都会のどこかにある
僕らには一生入れない会員制クラブの噂話のようだ。
それを聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに
しかし確実に音を立てて沈んでいくのを感じた。
もちろん、僕は子供ではない。プロのアスリートが血の滲むような努力をし
肩を壊すリスクを背負いながら、その対価として眩いばかりの
報酬を得ていることは、理屈では理解している。
彼が手にしたのは、彼自身が掘り当てた硬いダイヤモンドだ。
しかし、その「眩しさ」に照らされたとき、ふと足元を見ると
そこには僕自身の影が、驚くほど色濃く、そして長く伸びていた。
僕は六十を過ぎても、最低賃金で働き続けている。
朝、アラームが鳴るたびに、体の一部がどこか別の生き物のように重い。
仕事が終わる頃には、疲れは筋肉を通り越し、骨の芯にまでじわじわと
染み込んでいる。若い頃、僕らは「なんとかなるさ」という魔法のフレーズを
ポケットに入れて歩いていた。
でも、いつの間にかそのポケットには穴が開き
魔法はすべてこぼれ落ちてしまったようだ。
将来という名の坂道は、なだらかになるどころか
年々その傾斜を増しているように見える。
他人の成功という名の強い照明を浴びせられると
自分が立っている場所の心もとなさが、嫌なほど鮮明に浮かび上がる。
それは、クローゼットの奥に押し込んでいた古い鏡を
無理やり顔の前に突きつけられるような体験だ。
そこに映っているのは、華やかな世界とは何の関係もない
ただただ磨り減った日常を生きる一人の人間の姿である。
「人は人、自分は自分」 僕らはその言葉を
まるで使い古されたお守りのように心の中で唱える。
でも、お守りがいつも奇跡を起こすわけじゃない。
言葉にすればするほど、自分の中の小さな痛みが
より具体的な形を持って疼き出す。
正直に言えば、僕はへこんでいる。そして、そんなことで
へこんでしまう自分自身に、さらにがっかりしている。
情けないといえば情けない。でも、それが人間というものなのだ。
誰かの眩しさに照らされて、自分の影の濃さに怯える。
それは、生理現象のようなもので、恥じることではないのかもしれない。
それでも、僕は今日もまた、その重たい影を引きずりながら仕事に出かける。
胸のざわつきは完全には消えないし、ロレックスの秒針が刻む時間と
僕の安物の時計が刻む時間は、どうやら同じ速さでは流れていないようだ。
けれど、人生は誰かの光と自分の影を比較するためにあるわけじゃない。
僕には僕の、砂を噛むような、しかし確かな手触りのある現実がある。
いつか、この影を「これも自分の一部だ」と静かに受け入れられる日が
来ることを、僕はどこかで願っている。
やれやれ、とにかく今は、熱いコーヒーでも飲んで
次のシフトに向かうとしよう。




