木星の陰で誰かが僕に手を振っている
妻から山本さんの話を聞かされたとき
僕はキッチンでパスタを茹でていた。
タイマーの電子音が鳴り、僕はざるにあけたスパゲッティーから
立ち上る湯気を眺めながら、その老婦人のことを思い浮かべてみた。
山本さん。 彼女は妻が通う陶芸教室の仲間で、いつも静かな
耳を澄ませなければ、聞き逃してしまいそうな声を出す。
まるで、遠くの街で降っている雨の音のような声だ。
彼女が部屋に入ってくると、そこには微かな
しかし否定しがたい空気の流れが生まれる。
それは古い図書館の奥の方で感じるような、清潔で
どこかひんやりとした風通しの良さだった。
彼女には、夕暮れになると決まって空を見上げる癖がある。
それは習慣というよりは、もっと儀式に近いものに見える。
たとえば、決まった時間にしか届かない大切な手紙を待つ
ポストのような静謐な期待がそこにはあった。
ある日の帰り道、オレンジ色の光が街の輪郭を
あいまいに溶かし始めた頃
山本さんはふいに言った。
「私、UFOが見えるの」
その言い方は、あまりに自然だった。
「今日は少しコーヒーが薄いわね」とか
「明日はたぶん雨が降るわ」という、ごく当たり前の
日常の断片を口にするのと全く同じトーン。
そこには誇張も、誰かを驚かせようという意図も
狂気の色さえも混じっていなかった。
妻は驚いて、彼女の視線を追うように空を見上げた。
街灯が灯り始める前の薄暗い紺色の空に
ひとつ、ひときわ強い光を放つ星があった。
「……山本さん、あれ、たぶん木星じゃないですか?」
妻はなるべく慎重に、壊れやすいガラス細工に触れるような
手つきでそう言った。
事実、それは天文学的な見地からすれば
間違いなく太陽系最大の惑星
ガスに覆われた巨大な天体であるはずだった。
すると山本さんは、小さく笑った。 それは深い森の奥で
誰にも気づかれずに咲いている小さな花のような
ひっそりとした微笑みだった。
「本当の姿を見せたら、世の中、大事になるやん」
彼女はそう言い、それから自分の言葉をゆっくりと
咀嚼するように沈黙した。
その言葉は、冗談のようにも聞こえたし
あるいは世界の根源的な真実を
突いているようにも聞こえた。
彼女の中には、彼女だけにしかアクセスできない特別な
宇宙があるのだろう。
その宇宙では、重力や公転周期といった退屈な数字は
意味をなさない。
木星は単なる冷たいガスの塊ではなく
彼女に向けてそっと合図を送る
意志を持った何者かの船なのだ。あるいは
遠い記憶の断片を、運んでくる銀色の乗り物なのかもしれない。
僕はソースを絡めたパスタを皿に盛りながら、ふと
自分の中にあったはずの古い記憶の引き出しを弄ってみた。
二十代の初め頃、僕は世界の裏側に、誰も知らない秘密の通路が
隠されていると本気で信じていた。
深夜の電話ボックスや、日曜日の午後の誰もいない公園のベンチに
異界へと続くスイッチがあるはずだと。 いつしか、僕はそういったものを
信じることをやめてしまった。世界はあまりに合理的で
あまりに説明がつきすぎる。僕らはいつの間にか
木星をただの木星としてしか見ることができなくなってしまう。
でも、今夜は少しだけ違うことをしてみようと思う。
僕はベランダに出て、冷たくなり始めた夜気を吸い込んだ。
空には、山本さんが見つめていたであろう、あの明るい光が浮かんでいる。
僕は目を細め、その光の奥にあるかもしれない
あり得たはずの別の可能性に思いを馳せてみる。
もしかしたら。 本当に、もしかしたら。
巨大なガスの層の陰で、誰かが僕を見つけ
密かに手を振っているかもしれない。
そして僕もまた、ポケットの中で小さく手を振り返す。
「やれやれ」と僕は独り言を言った。 世界はまだ
僕らが思っているよりは
もう少しだけ風通しがいいのかもしれない。




