生きる意味
01
僕は、記憶がある限りで一度も生きていたと思ったことはない。
甲高い音だけを部屋に残し飛び散る食器片。
地響きに似た底冷えする暗い怒声が飛び交う室内の中で僕の居場所は洗面所に置かれている洗濯機の隣だけだった。
ちょうどよく物陰に隠れられるからそこが一番に居心地がよかった。
けれど、結局は引きずり出されてしまうのだけど。
それでも、ほんのひと時でも誰の顔も見なくて済んだのだ。
そんな生活はどれくらい続いただろうか。
終わりは唐突だったと思う。
小学校に通うようになったある日。
何気なく着替えたその時に先生に聞かれたのだ。
質問の意味がよくわからず首を傾げた。
首にある指の形がはっきりと見て取れる手の跡。
体に浮かび上がる赤とも黒とも見分けのつかない紋様。
皆もあるんじゃないの?
皆のことをよく見たことはないけど。
確かそんなことを言った覚えがある。
その日に僕は、僕の知らないとろこで僕が家に帰らないことになったということだけが決まったのを知らされた。
行先は、年は疎らのけれど括れば子供と呼ばれる人達の中に放り込まれた。
耳障りな高い声音が日がな一日通るものだから、僕は結局洗面所の脇にあった人があまり寄り付かない洗濯機横で過ごすようになった。
そこで、僕は彼女と出会ったのだ。
「面白いのそれ?」
顔を上げると同年代の少女が僕では無く、僕の手元にある本に目を落としていた。
「文字が一杯ね。読めるんだ」
知らない言葉は山ほどあった。
内容を理解しないままにページを捲るだけだった本の一文を彼女は読み上げた。
「ここだけは読めるわ。どうか笑って生きていて」
どう?とでもいいたげに僕を見る彼女の瞳は薄い茶色をしていた。
「いつもここにいるの?」
いつだったか誰かの声が聞こえない方へ方へと足を進めていたら見覚えのある場所に行きついたものだから、いつだったかなんて覚えてすらいない。
「わたしね、ここが嫌いなのよ。年上の子は偉そうだし、下の子は煩いんだもの。年が近いあなたが来たときは少し嬉しかったんだけど、気が付いたらいつもどこかにいっちゃうものだから」
探してくれたらしい。
「静かね」
居住まいを正して壁に寄りかかった彼女を横目に僕は、彼女が読み上げた一文に目を落とす。
どうか笑って生きていて。
いったいどういうつもりでこの言葉を最後に伝えたのだろうか。
わからない。
生きてと願われることの意味が。
笑っては分かる気がする。
怒るのも。哀しむのも。
酷く疲れるらしいから、笑っていた方がいい気がする。
「わたしと話すのは嫌なの?」
相槌は適度についていたつもりだ。
笑みだって浮かべていた。
何を不快に思わせてしまったのだろうか。
「その笑い方よ。貼り付けたみたいにいつも同じ」
彼女の両手が僕の頬に触れる。
親指が僕の口の恥を押上た。
「うん。こっちの方がいいわよ。少しぶさいくだけど、人らしいわ」
不細工は余計ではないだろうか。
「そうそう。探してたのはね、下の子の面倒を一緒に見てほしかったのよ。いつも大変なの。あれやこれやとおもちゃを持ってきて遊ぼうって。わたしは一人しかいないじゃない?だから皆の相手をしていると疲れちゃうのよ」
手を取られ引かれる。
僕の体は反射的に硬直してしまった。
そのこと自体は彼女は気が付かなかったらしい。
手を引かれて僕は洗面所を後にする。
02
「頑張ったね」
僕は三つ年下の子にそういう。
どうやら学力テストがあったらしく、満点花丸が描かれた答案用紙を僕に見せにきたらしい。
彼と同じ学校に通っている子達も彼と同様にテストがあったらしい。
皆、手には答案用紙が握られていた。
点数に差こそあれど誰もが自分なりに勉強を頑張っていた。
分からないことは良く聞いてくるし、誰かが勉強をしていると自分もと筆記用具と教科書を持って集まってきていた。
昔はその手にはおもちゃばかりだったのに。
誰かが間違えたところを教えてほしいと言ってきた。
僕は頷こうとしたのだけれど、少し頭の上から年上の子供がじゃぁ教えてやるかと名乗りを上げた。
それに不満気な声を返した年下の子は年上の子に追いかけられた。
笑っている様子から問題ないだろうと視線を外し時計を見る。
時刻は十六時より少し前。
「ありがとう」
僕は年上の子にそう言うと足元の荷物を背負う。
数冊の本だけが入ったリュックサック。
大した重さも感じなくなったのは僕の体が少しずつ大きくなっているからだ。
今日は彼女に会いにいける日だ。
いつも面会時間が過ぎているのにも関わらず見逃してくれている看護師さんの為にも少しでも早く行かないと行けなかったから、もう一度僕は感謝の言葉を口にして出掛ける。
そこまで遠くない。
徒歩でも二十分くらいの距離だ。
自転車を使えば直ぐに着く。
さすがに冷たくなってきた秋の風を肺一杯に吸い込み出掛ける。
並木通りを抜ければ見えてくる病院。
もう流れとなっている駐輪からの面会。
僕は真っ白な扉を引く。
この時だけは慣れない。
なんて声を掛けようか。
頭が凍る。
だから、いつも挨拶は彼女からだ。
「あんなに急いで入って来たら誰かにぶつかるでしょ。危ないよ」
「そうだね。気を付けるよ」
彼女の病室からは僕がいつも使っている入り口から駐輪場までがよく見える。
「今日は?」
「うーん、なんにも。退屈よ。持ってきてもらった本は読み終えていたし、同じ病室だった子は一昨日に退院してしまったから話し相手もいないしね。そっちは?」
「皆元気だよ。相変わらず苦手な食べ物が出てくると大騒ぎになるし、上の子たちは受験勉強で忙しそうだけど、なんだかんだ下の子の面倒を見てくれてるし、今日は」
「うん?どうしたの」
彼女の手が僕の頬に触れる。
確かに温かさがあった。
肉の落ちた腕。日の光を浴びていない肌はこの病室の壁よりも白く見える。
入院してしまった彼女の代わりを僕は演じている。
僕以外には文句の一つも吐かない彼女は、人をよく見ている。
誰かの体調の異変に気が付くのも彼女だ。
気落ちしているのも、嬉しいことも、誰かの感情の機微を彼女は直ぐに掴む。
彼女の瞳の中にはいつも誰かが写っている。
そんな彼女を僕は見ていた。
見ていて気が付かなった。
唐突に彼女は僕の目の前で倒れた。
何もないそんな日にそれは起きたのだ。
僕があそこに連れられてきた時よりも急速に事態は変化した。
喉に何かを詰まらせたかのように嗚咽を何度も繰り返しながら、全身が痙攣している彼女に僕は何も出来なかった。
呆然と見ていることしか出来なかった。
彼女が救急車に運ばれ二晩後。
僕は彼女が病だということだけを聞かされた。
詳しいことは知らなかった。
知らされなかった。
あの時と同じだ。
僕だけが知らない。
だから彼女のことを真似た。
人と話すときは相手の顔だけじゃなくて全身を見る。
返す言葉は相手の気持ちを考えて不快にしないように。
声音や語尾は柔らかくなるように。
言葉は優しく簡単に。
身振り手振りも織り交ぜて伝わりやすいように。
全員を視界に納めて行動する。
全部彼女がしていたことだ。
未だに不慣れだけれど、それでも少しでも彼女の穴を埋めるようにしてきた。
あの場所に彼女の居場所が残るようにしておきたくて。
けれど、人を見るようになった僕の目に写るのは、どう見たって健康とは遠い彼女の姿だ。
こんなんなら人を見なければよかった。
今まで通り、人の見分け何て出来なくてよかった。
「ねぇ、少し聞いてほしいんだけど」
僕の頬に添えてあった手はいつの間にか僕の手を掴んでいた。
彼女は窓の外を見ていて、聞いてほしいといいながらも誰にでもなくつぶやくように話し始める。
「聞いたかはわからないんだけどね。どうやらわたしの心臓はよくないらしいの。そうね。そうね、頑張っても高校生にはなれないかしら。むしろよく頑張ったほうなのかしらね。本当ならわたしが倒れた時にでも死んでいてもおかしくはなかったそうよ」
どう返せばいいのだろうか。
彼女の脈拍を知らせる心電図の機械的な音だけが響く。
「心臓。取り替えれられればいいらしいの。でも、ドナーが見つからないらしくて。それにお金もないし」
等間隔に鳴っていた音が遠くなる。
「それなりに頑張ったつもりよ。お母さんにいらないって言われてから色々と考えて好かれるように努力したのよ。でも、お母さんは一度も会いに来てはくれなかったけれど。それでも、いいかなって思えたのは、毎週会いに来てくれてるからよ。ありがとう」
それは僕がしたくてしれるだけで。
感謝されるようなことじゃなくて。
「良かった。悲しそうな顔をするようになってくれて。そうね。そうだわ。」
一人頷いた彼女の顔は僕を見ていた。
真っ白な顔に色のない唇だけが動いた。
「どうか笑って生きて」
僕の首にもたれかかる様にして僕の首に彼女の両手が触れた。
温かさはなかった。
彼女の心音が無くなった。
代わりに騒々しい機械音だけが響く。
03
彼女の名前すらない墓石の前で手を合わせる。
真新しい制服に着心地の悪さを感じながら僕は彼女の前で話し始めた。
やっぱり生きていたいとは思えなんだ。
未だに残る首輪のような痣は見ると気持ち悪くはなるけど、それでも、いいやとは思えるようになったんだ。
人と関わることは苦しいけれど、楽しいとも思えるから、これからも真似ていこうと思うよ。
忙しくて会いに来ることは減ったんだろうけど、皆は元気に過ごしているよ。
「どうして僕じゃないんだろう」
生きようとしていた彼女ではなくて、どうして僕が生きているのだろうか。
「どうして笑って生きていかなきゃダメなの」
真似なきゃ人らしくはいられない僕。
人を見続けるのは疲れてしまう。
気を揉み続けるのは辛い。
あぁ、いっそ死んでしまえたなら。
そう思ってしまう。
でも、彼女の言葉がどうしても浮かぶのだ。
嘘でも笑ってしまう。
苦しいのに生きていてしまう。
だって。
「だって、僕が死んじゃったら君がいたことが何も残らないんだから」
結局。
僕が彼女と始めて会話した時に読んでいた本の内容にあった彼女が最後に残した言葉の意味は僕には分からなかった。
でも、あの本の中で残された人の気持ちは痛いほどに理解出来た。
理解なんかしたくなかった。
こんな気持ちを抱えて生きていかなくてはならないなんて、どれだけ重いのだろうか。
彼女が最後に触れた首に僕の手が重なる。
首輪だ。
痣の意味合いが変わった。
死を望まれて出来た痕が死へ向かわないための鎖になってしまった。
「僕は死なないよ。この不細工な笑い方でいいなら沢山笑うから」
笑って亡くなった彼女の最後の言葉を胸に僕は立ち上がった。
君が生きていた証を首に携えながら僕は今日も笑う。
僕の骨は君の頭上に咲く桜を長生きさせるために使うとしよう。
そう決めて僕は今日も学校へ通う。