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第七話「悪魔の正体」

「これ、頬に当てて」

 私は水で冷やしてきたハンカチを有希子に手渡した。

「ありがとう……」

 お礼を言う有希子の声は微かに震えていた。


 夕暮れ時の本覚寺の境内はとても静かで、ここに住み着く野良猫が一匹、近くで寝転んでいるだけだ。私たちは本殿の前の石段に座って、有希子が落ち着くまで私は隣で背中をさすっていた。

 俯いていた有希子はしばらくして、顔を上げてこちらを見た。

「ありがとう、真名。もう大丈夫」

 無理して微笑む顔が痛々しかった。

「あの……、なにがあったか聞いていい? その頬、どうしたの?」

「……これは、うちの母に……」

「お母さん……?」

 その時、先日テレビで観た世界的ピアニストの顔が浮かんだ。

 冷たいあの横顔の女性。

「あっ、でも母は悪くないの。私が約束を破ったから……!」

「約束……?」

 約束でもなんでも、子供に本気で手をあげる親がどこにいるのか。

 こんなに頬が腫れるまで叩くなんて。私は胸の奥から熱いマグマのような熱が吹き出しそうになるのを押さえていた。

「……昨日、本当は夕方前には帰る約束をしていたの。週末は母の雇ったピアノ教師から一日中レッスンが入っているのだけど、大事な用があるからって母を説得して、それで少しだけならって許しを得て……」

「……そう、だったんだ」

 私はその事実になんて返事をしたらいいかわからなかった。

「ごめんなさい、こんなこと真名に言っても気を遣わせちゃうわね……」

「ううん……! そもそも私が映画に無理に誘ったから……。それに有希子が忙しいのは気付いてたし、早く返してあげられてたらよかった……」

「違うの……! 私が帰りたくなかったの……」

 有希子が切羽詰まったような顔でこちらを見た。

「あの日すごく楽しくて……、真名と一緒にずっと話していたいなって。そう思ったら、なんだか帰りたくなくなってしまって……」

「……」

 有希子の気持ちが静かに私の胸に響いていく。私も有希子と一緒にいたかった、少しでも長く。後のことを考えず、私の中の欲を通してしまった。でもそれは有希子も一緒だったんだ。

「それで、意識が低すぎるって叱られてしまって。今すぐ母のいるウィーンに来て、もっと経験を積みなさいって……」

「そんな……」

 それで、転校……。他人の家の事情に何も言えないけれど、でも急に転校なんて、厳しすぎない?

「有希子は……? それでいいの?」

「私は……」

 有希子は俯いたまま、深く自問自答しているようだった。

 しばらくして、小さく震える声を発した。


「私は……、母にこれ以上嫌われたくない……」


「……有希子は、お母さんに嫌われているの?」

「……嫌われてるというより、興味を持たれていないわ」

「そんな……、そんなことないでしょ。有希子の為にレッスンを付けているのだって、有希子へ愛情があるからじゃないの?」

「違うわ……」

「なんで……?」

 違うなんてことない、はず。うちの母だって、普段無関心だし、放任主義だけど、ちゃんと私のこと見ててくれている。はっきりは言わないけど、愛情はきっとあるって普段のやり取りの中で感じることができる。だから、有希子のお母さんだって、きっと……。


「私だって、昔は母のこと信じてたわ。家で一人でいることが多くても、仕事が忙しいのだから仕方がない事。愛情表現が乏しくても、それは母が不器用な性格だから仕方がない事。私はちゃんと愛されてるんだって。……でも、中学の頃、母のインタビューが載った雑誌を読んだの。そこには、『家族よりもなによりピアノが好き。私はピアノにしか興味が持てない』って書かれていたわ。私はそれを読んで、今まで自分が気付かない様にしていただけだったことに気付いたの。母は不器用なんじゃなく、最初から私たちに関心がなかっただけなんだ、って」


 有希子は今まで溜まっていた全てを吐き出す様に語っているようだった。

 私は、その言葉を聞いて有希子のことを少し理解できたように感じた。

 有希子はずっと深い寂しさを抱えていたんだ。


 少しして、有希子の話に引っかかる言葉があったことに気付く。

「私たちって……?」

「……私と、父のこと。父は母から愛を感じられなくて、離婚することに決めたの。私も父の気持ちがわかるから、止めなかったけれど……」

「そう、だったんだ……」

 中学生の有希子を思うと、やり切れない気持ちになった。母には愛されず、父も離れていってしまったなんて。まだ幼い彼女の心には負担が大きすぎる。

「今、私と母を繋げるのはピアノだけだわ。今回帰国したのも、私の面倒を見る為だって言っていて、そんなこと初めて言われたから私も応えたいと思って……。でも……」

 有希子の手が微かに震えている。

「母の目が怖いの。私の手元を見る母の目が怖くて、私、ピアノ弾いていても、母の目ばかり感じてしまって、ミスするのが怖くて、でも、気を抜くと手が震えてしまって……」

「有希子……」

 私は有希子の震える手を優しく握った。でも、有希子の顔からは恐怖の色は消えなかった。

 ふと、有希子が前に私に言ってくれた言葉を思い出した。


『それでね、私ここで音楽を作るのがとっても楽しくて。それって、自分のためだけに作ってるからなのかなって思うの』


『コンクールを意識するとどうしても誰かの目線を気にしてしまうけれど、でも自分のためだけにって意識してみたら、失敗してもいいんだって思うし、だったら好きにやっちゃっていいんだって。そう思ったら、わくわくしない?』


 この言葉って、有希子が自分自身に言い聞かせてる言葉だったんだ。

 昔から有希子は、お母さんの目が怖くて、そのプレッシャーと戦うための方法だったんじゃないかな。

 私は有希子が音楽第二準備室でピアノを弾いている時のことを思い出した。

 すごく自由で楽しげで美しかった。

 有希子はきっと、あそこで母のプレッシャーから逃れて、自分のためだけにピアノを弾くことが唯一の救いだったんだ。


「私……帰らなきゃ」

 有希子がふらふらと立ち上がる。私は慌てて有希子の体を支えた。

「私、心配だよ……」

「ありがとう、真名……。迷惑かけてごめんね……」

「ううん……、あのさ……」

「なに?」


 転校なんてしないで。


 そう言いたかった。

 でも、私の言葉は有希子には届かない気がした。

「送るよ、心配だから」

「え、大丈夫よ」

「大丈夫じゃないでしょ、いいからいいから」

 半ば強引に、私は有希子を送って行くことにした。

 有希子は申し訳なさそうにしていたが、少し嬉しそうだった。


 有希子の家は、想像以上の豪邸だった。鎌倉駅から北西の方角、扇ガ谷の緑に囲まれた大きな洋館。私は思わず、目が点になる。

「……す、すごいね。有希子の家……」

「……そう、よね…。なんだか恥ずかしいわ……」

 すっかり暗くなってしまったので見えにくいが、街灯に照らされた大きな門の奥には、木のアーチと広い庭が続き、そのずっと奥には西洋のお城のような立派なお屋敷が見えた。知っていたけど、有希子は本物のお嬢様なんだ……。

「ごめんね、こんな遠くまで送ってもらって……」

 有希子は申し訳なさそうに私を見つめる。

「ううん、私がしたくてしたことだから気にしないで……!」

 その時、門が音を立てて開き、暗闇から誰かが出てくるのに気付いた。

 有希子の背後にすっと立つ人影は、有希子に取り憑いた悪魔のように見えた。

 有希子の母、月代光子、その人だった。

 有希子が慌てて、母に向き直す。

「お母様……、あの……」

 その言葉を遮る様に、月代光子は私を見て問いかける。

「その子はだあれ」

 冷たい声、冷たい目、テレビでみる印象よりもずっと。孤高のアーティスト特有の、とでも言うのか、静かな威圧感を感じた。

 私が勝手に恐れ、そう見えているだけなのだろうか。

「あ、あの、有希子さんの学校の友人の星川真名です」

「友人? あなた友人がいたの?」

「え?」

 有希子は母の言葉を制す様に、母の体を家の中へ誘う。

「お母様、もう遅いから中で話しましょう……」

 そんな言葉は届いてないように、月代光子は真名を見続ける。

「あなた、音楽は好き?」

「え?」

「好きな音楽家は?」

「え、えっと……」

 おそらくクラシック音楽のことを言っているのだと思うけれど、私にはそんな知識はほぼゼロだった。

「すみません、あまり詳しくなくて……」

「真名……、大丈夫だから、気にしないで」

 月代光子は私を突き刺すような眼で逃さなかった。

「それでよく友人を名乗れるわね」

「え……」

「あなたと有希子は見ているものも、目指す世界も違うわ。あなたのようなレベルの人といると有希子に悪影響なの。友人というのなら、有希子の邪魔をしないであげてちょうだい」

「……」

 淡々と冷たく、確かに突き刺さる言葉を選んで私に言い放つ。

 私に釘を刺して、満足したのか、答えを聞く前に家の中へ戻って行く。

「ごめんなさい、真名……」

「あ、うん……」

 有希子の顔を見てハッとする。怯えたような情けないような申し訳ないような、今にも泣き出しそうな顔をしている。そんな顔を、私は見たことがない。

「あの!」

 私がそう叫ぶと月代光子は足を止めた。

「私は……、有希子さんが好きな映画を知っています」

「……そんなもの知ってどうするの?」

 冷たい目でそう言い捨てる。

「あと……、有希子さんが作る曲も大好きです」

「……」

 月代光子は一瞬、何のことかわからない顔をしたが、すぐに門の奥へと消えていった。

 緊張から解放され、私は「ふうっ」と深く息を吐き出した。

 私は有希子の両手を優しく包むように握った。

「有希子、また学校で会おう」

「うん……」

 有希子のまだ腫れている赤い頬に、一筋の涙が溢れた。



 廊下の自販機で紙パックのオレンジジュースのボタンを押す。ガコンと音を立ててジュースが落ちる。

 昼休みの賑わう教室に戻る気になれず、廊下の窓から校庭の葉桜を眺めていた。

 ざわざわと、木々が風に揺れる。

 あれから数日、有希子と会っていない。

 早朝の教室から、ピアノの音は聞こえてこないし、携帯に連絡もない。

『転校することになった……』

 先日の有希子の震えた声を思い出す。

 あまりに急すぎて、まだ感情が追いついていない。

 親の決めたこと、それに、有希子もそれを拒否してない。

 だから、仕方がないこと。


「真名」

 後ろから名前を呼ぶ声がした。

 振り向くと千景ちかげが立っていた。

「なにしてんの?」

「別に……」

「……ああ、桜の木が見えるんだ。新緑もきれいだね」

 千景が私の隣に来て、窓の外を見る。

「……私は桜が咲いてる方が好き」

 私は少し拗ねたようにぽつりと話す。

「……真名、最近どうした? 元気ないでしょ」

「別に……」

「真名が教室にいないってやまちゃんが嘆いてるよ。月代さんのとこ行ってるのかなって思ってたけど、違った?」

「……有希子はいなくなっちゃうから」

「え? ……有希子って月代さん?」

 こくり、と私は頷く。

「どうゆうこと?」

「有希子が……、転校しちゃう……」

 大粒の涙が溢れた。言葉にすると急に現実になってしまったようで、悲しさやら寂しさやらが一気に押し寄せてきた。

 有希子が転校しちゃう。もう会えなくなっちゃう。

 これからもっといろんな場所に行って、いろんな事を一緒にするんだと思ってた。

 ウィーンってどこ? そんな遠いところ、簡単に会いに行けないよ。

 私の取り乱しぶりに千景まであわあわし始めたが、ポケットからハンカチを見つけて差し出してくれた。

 私は先日の有希子との、月代光子との出来事を打ち明けた。

「……そっか、それで転校か……。それはきついね……」

「……うん」

「……真名って、うちらよりも月代さんと仲良いよね」

 ぎくっとした。

「え……、そんなこと」

「いいよ、みんな気づいてるから」

「え? ……なんのこと」

 冷や汗が、背筋に流れる。

「私らといる時、真名にはちょっと距離置かれてる気がしてた」

「……」

「けど、月代さんといる時の真名は、なんていうか、すごく笑ってて幸せそうだなって」

「……そう、なの?」

 千景は私のこと。よく見ていてくれてたんだな。

 私、全然気づかなかった……。

 千景は私の方を見て微笑んだ。

「そうだよ。だから、真名にとって月代さんは特別なんだなって思った」

「特別……?」

 確かにそうだ。他の人とは、明らかに違う感情が有希子にはある。

「そう、だと思う。私、有希子のことすごく大事で……。離れたくなくて。でも、そんな感情ぶつけても迷惑なだけだから……」

「そんなの、ぶつけてみなくちゃわからないじゃない」

 千景は、赤いメガネをくいっとあげる。

「え?」

「だめかどうかなんて、伝える前に考えてちゃ何も始まらないわよ。前に進むには、自分が覚悟決めなきゃ」

「覚悟……」

「そう、私はそれで今の彼氏をゲットしたわ」

 千景はドヤ顔で私を見る。

 私はおかしくなって吹き出してしまう。

「ふふ、そうだったんだ」

「そうよ。だから、ちゃんと後悔しないようにね」

 千景は包みこむような目で私を見た。

 この子はこんなに優しい目をしていたんだ。

「……うん。ありがとね、千景」

 今、初めてちゃんと千景のことを見た気がする。

 これからもっと見ていこう、千景のことも、姫子も、やまちゃんのことも。


 有希子が来週転校することは先生からクラスメイトに伝えられ、それは校内中にも瞬く間に広がった。さすがコマ女の女神なだけあり、有希子の転校にショックを受け泣き出すファンたちも多い。


 あと一週間。

 私は誰もいない静かな早朝の教室で一人、小説を書き続けた。


《続く》


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