第三話「私だけの物語」
江ノ電が稲村ヶ崎駅を越える頃、車窓から江ノ島が大きく見えてくる。
席に座って揺られる私は、春の斜光に照らされて眩しいくらいに輝く海面を見ながら、今朝のことを思い出していた。
『だから真名さんも、自分のためだけに物語を描いてみたらいいわ』
自分のためだけに、か。
子供の頃はそれが出来ていた気がする。ただ思いついたことを紙に書いて、上手いとか下手とか何も思わず、続きを思いついたらまた書いて、それを繰り返す。そうしていくと自然に上手くなってくるから、だんだん誰かに見せたくなって……。
車内にて、向いに座る泥だらけの幼いサッカー少年は、母に向かって試合での自分の活躍を興奮して伝えている。そうだ、誰にでも承認欲求はある。私の作品を褒めてもらうことは、次も頑張る活力になる。
でももし、その逆だったら……。
我が家には、家族が物置部屋と呼ぶ四畳ほどの部屋がある。窓から夕暮れが差し込み、埃がきらきらと舞い上がる。昭和を感じるプラスチックダンスの引き出しを開けると、中には小学生の頃に使っていた古い文房具などと一緒に、古ぼけたB5ノートが数冊仕舞われていた。表紙には『物語ノート①』などと書かれている。一冊手に取り、ぱらぱらとめくってみる。そこには小学生の私が夢中で書いたであろう、たくさんの物語が紡がれていた。
不思議なお菓子屋さんのお話や、魔法を使えるライオンのお話、子猫がヨットで海を冒険するお話。少しファンタジックな物語がたくさん書いてあった。
結構、面白いじゃん。
昔の私が、夢中で書いたお話を、今の自分も夢中になって読む。あの頃から、好きなものはあまり変わってないのかもしれない。
『物語ノート⑤』と書かれたノートに手を伸ばし、ページを開く。
胸がズクンと痛む。心の奥底にあった古い傷が思い出したように疼き始める。
そうだ。このお話だ。
このお話を書いた後に、私は書くことを辞めたんだ。
冷たい汗が私の額から頬へ伝い、ノートの上へ落ちる。
『ねぇ、このあとどうなるの?』
ゆみちゃんが私の物語ノートから顔を上げて、わくわくした顔で問いかけた。
小学校の6年生に上がる頃、幼馴染のゆみちゃんは小学校から帰るとよく私の家に遊びにきていた。目的は二つ、うちの母の作る甘いおやつと、私が創作した物語を読むこと。ゆみちゃんは笑い転げたり、怒ったり、時には涙ぐんだり、感情豊かに私の物語を読んでくれる。そんなゆみちゃんを見ているのが私は好きだった。
「え? 最後言っちゃっていいの?」
「うん! 気になる」
「しょうがないなぁ。えっとね、魔法使いは最後に必殺技を使って魔王を倒すの。それで捕まっていたお姫様と一緒に国に戻るのね。パーティーの最後、魔法使いはずっと隠していたお姫様への想いを告げて、お姫様はそれを受け入れるの。で、ふたりは結婚式を上げてお城で幸せに……」
「えっ! なんで?」
ゆみちゃんは心底驚いた顔で私を見た。私はきょとんとして見返した。
「なんでって?」
「魔法使いって女の子でしょ」
「うん」
「なんでお姫様と結婚するの?」
「だって、ふたりは好き同士だから……」
「じゃあ友達でいいじゃん」
「でも命懸けで助けるんだから、魔法使いはお姫様のこと愛してるんだよ。だから最後はハッピーエンドがいいでしょ……」
「でも変じゃん! 女同士で結婚なんてできないんだから!」
「え! できないの?」
私は心底驚いた顔で、ゆみちゃんを見返した。
「そうだよ!」
「そんな、嘘だよ……、じゃあ……」
私、ゆみちゃんと結婚できないの……?
言い淀んでいると、ゆみちゃんは怪訝な顔をして私を見た。
「もしかして……、真名ちゃんって女の子が好きなの?」
「え……」
私は冷や水を浴びせられたかのように、心がひゅっと縮こまるのを感じた。無意識に目が泳いでいたように思う。
「そうなんだ…、真名ちゃんって女の子が好きなんだ」
「ちが……」
「……真名ちゃん変だよ。変!」
「ちがうよ、変じゃない!」
「変だよ!」
「ちがう! 女の子なんて……、女の子なんて好きじゃないから……!」
その日以降、ゆみちゃんがうちに来ることはなくなった。
喧嘩して気まずく思っただけなのか、それとも私が変だから近寄りたくないのか、彼女の本心はわからなかった。学校で顔を合わせても、私は自分から顔を背けて、近寄らないようにした。これ以上あの子に嫌われたくなかった。幸い中学校は離れたおかげで、もう会うことはなくなった。
彼女が変だと言った魔法使いのお話はラストが書けないまま引き出しに仕舞い込んだ。
それからだ、物語を書こうとするとペンが進まなくなったのは。なにか思いついて書こうとすると、少し書いては「変じゃないかな」と思ってペンが止まる。そして、あの子の顔が浮かぶ。あの子の引き攣った表情。書くことが辛くなって、私は書くことを辞めた。
妹も家族も寝静まったその夜、私はベッドから起き上がって自分の机へ向かった。
デスクライトを付け、引き出しからぐしゃぐしゃに丸まった原稿用紙を取り出し、皺を伸ばして机に広げる。月代さんと出会った翌朝に夢中になって書いた、月代さんと私に似た女の子ふたりの物語。捨てようと思ったけど、捨てられなかったのだ。あの時以来、久しぶりにすらすら書けたお話だったから。すらすら書けたのは、なんでだろう。あの子の引き攣った顔がもう思い出せないくらい時が経ったからだろうか。それとも、思わず物語にしてしまうくらい月代さんが魅力的だったから?
やっぱり、私は女性が好きなんだろうか……。
月代さんのことが好きなんだろうか……。
『……真名ちゃん変だよ。変!』
今までなんで思い出せなかったんだろう。
いや、思い出したくなかったんだ。無意識に蓋をして考えないようにしてたんだ。
考えるたびに、心が引き裂かれるようだった。思い出すたびに、自分のことが嫌いになりそうだった。
私はゆみちゃんが好きだった。その恋心ごと、全部忘れたかった。
そうしなければ、あの頃の私は、私の心を守れなかったんだと思う。
私は『物語ノート⑤』の書きかけになったページを開いて机の上に広げた。ボールペンを取り、まだ終わっていない魔法使いとお姫様の物語の続きを書き進めた。
この物語を終わらせないと、私はこのあともずっと書けないままでいる気がした。
ゆみちゃんがこの物語を嫌いでも、きっと関係ない。
私は私のためだけに、好きな物語を書いてみたい。
そう、月代さんが教えてくれたから。
窓のカーテンの隙間から朝日が差し込んでくる。
「眩し……」
光を浴びて、夜通し書き続けていたことに気づいた。
そしてちょうど今、最後の一文字を書き終えたところだった。私はノートを両手で持ち、自分の書いた大量の文字たちを達成感を持って眺めた。
すっきりした。
今まで心にひっかかっていたものがさっぱりなくなったように感じた。
これできっと、次の物語が書ける。
「いってきます!」
結局一睡もしないまま制服に袖を通し、朝ぼらけの鎌倉へ向かう。
腰越駅からまだ人気の少ない江ノ電へ乗りこむ。車窓から朝日できらめく海とサーファーたちが通り過ぎていく。
鎌倉駅前の繁華街を抜け、古民家の残る静かな住宅地へと入っていく。
ショートカットをしようと、本覚寺というお寺さんを通り抜けようとした時。
ぽんぽんとまあるい花をつけた八重桜が咲いていて、その木陰で寝転ぶ猫を優しく撫でている女生徒の姿を見つけた。こちらに気づいて振り向くと、少し照れたような顔をした後、月代さんは優しく笑いかけてくれた。
「真名さん、ちょっと眠たそうね」
大欠伸をする私を見て、月代さんは少し心配したようだ。
「ちょっと徹夜しちゃって……、でもだいじょぶ、だいじょぶ」
月代さんのご厚意で、今日も音楽準備室にお邪魔することにした。春の日差しは暖かくて眠くなってしまう。
「それで聞きたいことってなあに?」
「あ、そうそう! あのね、月代さんはどうやって曲を思いつくのかなって。こないだ音が降ってくるって言ってたでしょ、詳しく知りたいなと思って」
徹夜明けだからか、なんだか熱が籠ってしまう。それを察してか、月代さんはふふっと微笑んだ。
「真名さん、なんだか少し吹っ切れたみたい。前よりも目がきらきらしてる」
「えっと、そう? 充血してるんじゃなくて?」
「ちがうってば。きっと、いい感じなのね」
「うん、そうみたい」
それは、月代さんのおかげだったりするのだけど。
「思いつく方法ね……。そうね、たとえばあの時は、入学式のわくわくする気持ちを音にしたいって思ったかな」
そう言って、月代さんはピアノを弾いて見せてくれた。
柔らかな和音を軽く飛び跳ねるように奏でる。
新入生たちのこれから始まる学園生活への期待と喜びが、音で表現されているようだ。
「新入生の皆に看過されたのもあるけれど、あの日は私も凄くわくわくしていたの。ずっと憧れていた高校に入れたんだもの」
月代さんは目を輝かせて話しを続けた。
「コマ女は私の母の母校でね。良い学校だったと聞かされていたわ。美しい桜の並木や大きな校舎、古きを大事にする文化があって、授業も先生も面白かったって」
「へぇ、お母さんと一緒の高校なんて素敵だね」
月代さんがコマ女に憧れるのもわかる。私も江ノ電で通学する品のあるセーラー服の女生徒たちを見て、きらきらしてかっこいいなぁと思っていたから。
「ふふ、だから入学式の日に桜を見て、あ、母の言っていた桜だって思って眺めていたの。同じように若い頃の母もこの桜を見ていたんだなって思ったら不思議な気持ちになったわ」
月代さんの表情から、お母さんを大事に思ってることが伝わってくる。
「この桜はずっと昔から生徒たちを見守ってくれているんだなぁと思って、それを物語にできないかなって考えていたのよ。そうしたら音が降ってきて……」
「物語……、私、月代さんの演奏を聞いていると、物語が浮かんでくるの」
月代さんは少し驚いたように、こちらを見る。
「それってやっぱり、月代さんがそう思って作曲したり、演奏したりしているからなのかな」
「すごい……。真名さん、やっぱり感受性が豊かなのね」
「そ、そうかな……」
「あのね……」
急に、月代さんの表情が曇った。
「……私、映画音楽が好きなの」
月代さんが少し躊躇いながらもぽつりと話した。
「映画音楽?」
「そう。私ね……、本当は、映画音楽の作曲がしたいって思ってるの」
顔を上げた月代さんは不安げな瞳でそう言った。
「え……! すごい! 映画音楽の作曲! かっこいい……!」
つい大声を出してしまったが、それを見て月代さんは少し笑った。
「だからね、物語が浮かんでくるって真名さんに言われて、すごく嬉しかった……。そんな曲が作れたら良いなって思っていたから」
「月代さんなら素敵な作曲家になれそう」
「……作曲家……、私になれるかしら?」
月代さんは少し伏し目がちに話す。
あ、不安なんだ。
あんなに上手くピアノを弾ける月代さんでも、不安なことがあるんだ。
私は月代さんの手を両手で包むように握った。
「なれるよ。私、月代さんの作る曲が好きだもん」
今度は私が勇気をあげたい、そんな風に思った。
月代さんは驚いたように目を見張ったけど、すぐに安心したように微笑んだ。
「ありがとう。……真名さんってなんでそんなに優しいの?」
「それは……」
言いかけて口をつぐんだ。透明な大きいビー玉の様な月代さんの瞳が、私の心の中を見透かすように覗き込んでくる。先に月代さんが口を開いた。
「なんだか……、好きになってしまいそう」
「……えっ!?」
ガタガタッと大きな音を立て、私はパイプ椅子からひっくり返った。
予想外の言葉に、私の心臓はジェットコースターに乗せられどこかへ飛んでいってしまったようだ。
「大丈夫!?」
「だ、大丈夫! だいじょうぶ!」
月代さんはしゃがみ込み、私の様子を心配してくれた。
「ごめんね……、冗談のつもりだったの。びっくりさせちゃったね」
『冗談』という言葉がチクンと刺さる。
「あ、はは……、冗談か。そうだよね……」
「昔から家族には冗談が下手って言われてて……」
そう言って手を引いてくれ、起き上がると一緒にスカートの埃を叩いてくれた。
月代さんは、掴めるようでなんだか掴めない。
私にとってはやっぱり、遠い月のような人だ、と思った。
《続く》