氷の女王は冷徹宰相に頭を撫でられたい
名前に既視感があったとしても、気のせいです。気のせいなんですってば。
モンスーノ王国は、南には青く輝く大海が広がり、北には高い山々のそびえ立つ広大な領地を持っている。
かの国は、一人の女王が治めていた。
オリヴィア・モンスーノ。
鋭い剣のような美貌を持った女王は、数か月前に成人と同時に即位したばかりだった。
18という若い年ながらも、その実力は本物で、すでに父である前国王よりも上手く臣下をまとめ、その忠誠を一身に受けて国を発展させている。
また彼女は、身分が高くとも無能なものは切り捨て、逆に低い身分があろうと、実力さえあれば相応の立場に引き上げる、実力を重視する政治を行うことでも有名であった。
しかし、表情に少しの温度ものせず、躊躇なく臣下を切り捨てるオリヴィアの姿に畏怖を感じた人々は、彼女のことをこう呼ぶようになった。
――氷の女王陛下と。
可愛らしい女性が魅力的とされるこの国において、その呼び名は不敬以外の何物でもない。
しかしオリヴィアは、その呼び名を聞いてもなお、涼やかな表情をピクリとも動かさなかったという――
女王の朝は早い。
朝日が顔を出したばかりの時刻にオリヴィアは目覚め、身支度をしながら簡単な朝食をとる。
そして二人の補佐官を連れて、自身の執務室へと向かった。
執務室に到着し、椅子に腰かけたとき、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
「入りなさい」
簡潔に入室許可を出せば、失礼しますという言葉とともにドアが開く。
光を反射し、キラキラと輝く金髪を靡かせて、一人の男が入室した。
紫水晶のような瞳に、健康的な色の肌。すらりと伸びた長い手足。
それに加えて、美の女神の寵を一身に受けたかのような、精悍ながらもどこか女性的なたおやかさを併せ持った顔かたちをしたこの男は、王国が宰相、フェリックス・マサフォードという。
25になる彼は、オリヴィアの即位と同時に、彼女によって直々にその地位を賜ったのだ。
彼女同様、高い実力と才能を保持しており、その上独身であるため、未婚の貴族令嬢たちからよく声をかけられているが、その態度はそれこそ、オリヴィアよりも冷たいのではないかというほどつれないと聞く。
主君たるオリヴィアに対して忠誠心を持っていることはわかるのだが、彼の無表情が動いたところを彼女は見たことがない。
オリヴィアの表情筋だって、もう少し仕事をしているはずだ。
そんなフェリックスに一瞬、オリヴィアは見惚れるような素振りを見せたが、それを瞬時に取り繕って言葉を発した。
「おはよう、マサフォード宰相。今日の予定の確認をお願い」
女王の問いかけに、フェリックスはにこりともせず、淡々と予定を読み上げてゆく。
「午前中いっぱいは、私とともに書類の整理。昼食をはさんだ後、午後は三時まで隣国の大使たちとの会談。それ以降は夜会です。大使の歓迎会も兼ねておりますので、いつもよりも挨拶の時間が長くなるかと」
「ありがとう。では、重要な順番に書類を渡して頂戴」
「はい、では最初に――」
必要最低限の言葉のみを交えてから、女王と宰相は仕事に取り掛かった。
時折言葉を発しながらも、彼らは黙々と仕事を進めてゆく。
しかし、よくよく見ると、オリヴィアは時折、ちらりちらりと、フェリックスの方向に視線を向けていた。
目線の先にあるものは、彼の大きな手。
文官でありながら剣だこがあり、ごつごつとして節くれだったその手は、彼が日頃から武芸の稽古を欠かさないでいることを示している。
無骨ながらもどこか温かみのあるその手を見つめながら、オリヴィアは思った。
(ああ、あの手でわたくしの頭を撫でてほしい……!)
――そう、オリヴィアは常日頃から、彼に頭を撫でて欲しいと考えていた。
女王らしくないと分かっていても、気がつけばその大きな手に瞳が吸い寄せられてしまう。
所謂、手フェチというものなのだろう。
(でも、ダメに決まっているわ。フェリックスはわたくしのことなど何とも思っていないのだし、それに)
そのことを思い出すと、オリヴィアの胸がツキンと痛んだ。
……なんでも、彼は昨日、見合いをしたらしいのだ。
彼女の権力を以てその縁談を壊すことはひどく簡単だ。
しかしオリヴィアは、女王である。
女王たるもの、全ての臣民は平等に扱わなければならない。
その立場を個人的な――しかも嫉妬などという馬鹿らしい理由で乱用することなど、許されることではない。
だから彼女は、痛みを訴える胸を無視して、仕事をした。
モヤモヤとした想いを振り払うため、仕事に没頭した結果、いつのまにか書類捌きも会談も終えて、オリヴィアはマーガレットが満開に咲く庭園で紅茶のカップを傾けていた。
愛らしいピンクの花を見ても、薫り高い紅茶を啜っても、沈んだ気分は一向に晴れそうになかった。
それでも、暗い表情なんて、“わたくし”らしくない。
そのため彼女は、いつもと一切変わらぬ無表情を貼り付け、お茶菓子に手を伸ばした。
そんなオリヴィアの心情も知らず、女王の付き添いとしてやってきた新米侍女の一部が、ひそひそと小声で会話を始める。
「……休憩時間になっても表情一つ変えやしない。さすがは氷の女王陛下ね」
「あんなに無表情で、結婚なんてできるのかしら」
「美しい方だし、大国の統治者だもの求婚する人は沢山いるそうよ。でも、相手に愛されるかどうかは……」
「えーっ、伴侶に愛されないなんて、最悪じゃない。もしかしたら、愛人を囲われるかもしれないじゃないの」
「王はオリヴィア様なんだから、それは認められないんじゃないの?まあ、非公式では……ってことはあるかもだけど」
オリヴィアから大分離れた場所での会話ではあるが、耳の良い彼女には筒抜けである。
ずきん、ずきん。
すべて本当のことであるだけに、胸の痛みがいや増す。
オリヴィアは、自身の顔も、性格も嫌いだった。
父親譲りの目つきの悪さ。血のように真っ赤な瞳。
母親と同じ白銀の髪は、相手に冷たい印象を与えてしまう。
さらに、両親は不仲であり、それぞれ気に入りの愛人を抱えていて、最高級の生活と教育を与えられはしたが、愛情を向けられることはついぞなかった。
そして、愛情の受け方も、与え方も知らぬまま育ってしまった彼女は、いつの間にか「氷の女王」などという呼び名で呼ばれるようになってしまった。
だから、「氷の女王」なんて呼ばれるたびに、彼女は人知れず悲しみを抱いた。
(――それでも、皆が離れてゆくことが怖くて、“愛”を学ぼうとしなかったのはわたくし)
そう自分に言い聞かせて、オリヴィアはいつも、心の柔らかい部分に蓋をしていた。
自分がそう言われるような態度をしているのなら、甘んじて受け入れるべきだ。
そのため、新米彼女たちの雰囲気から、それらしいものを感じ取ったらしい侍女頭が眉をひそめたことに対し、オリヴィアは無言で緩く首を振った。
そんな彼女に、侍女頭は一つ溜息を吐いて、新米侍女たちを軽く睨む。
慌てた様子で会話を止める彼女たちを横目で見つつ、オリヴィアはほんの少し、唇を嚙んだ。
そして、あっという間に夜が来る。
オリヴィアはこっそり、胸元に紫水晶をあしらったドレスを纏い、夜会に参加していた。
具体的に言えば、城の大広間で隣国の大使と再び言葉を交わしていた。
一見他愛もない会話だが、その実、お互いに裏を探りあっている。
幸いにも、向こう側がこちらとの関係を大きく変えるような様子もなく、オリヴィアはスンとした表情の裏で安堵していた。
大使たちや貴族たちへの挨拶周りが一通り終わった後、オリヴィアは会場の隅に移動し、葡萄酒の入ったグラスを手に中央で踊る人々をぼんやりと眺めていた。
飲み過ぎないように注意はしているが、少し気が緩んでいたからか、いつもよりも強い度数のものを飲んでいる。
ダンスを申し込んでくる者はいたが、義理でそんなものを受ける必要はない。
それに、オリヴィアへ手を差し出しながらも、ちらちらと可憐なご令嬢方が談笑していた方向に視線を向けていたのを、彼女はしっかりと見ていた。
だから彼女は、自ら望んで壁の花になっているのである。
こくこくと赤紫色の液体を喉に流し込んでいると、ふと自身の方に向かってくる人間が目に留まった。
ほかでもない、フェリックスだ。
見る限り、ひとりで参加しているようだ。
見合いの相手はどうしたのだろうかと、頭の片隅で考えていれば、目の前にやたらと美しいご尊顔があった。
思っていたよりも近い距離に、トクンと心臓が跳ねた。
動揺を隠すように、コホン、と軽く咳払いをしてから、オリヴィアは口を開く。
「マサフォード宰相、何の用?わたくしのところへ油を売りに来ずとも、あなたと踊りたいお嬢さんたちは沢山いるじゃない」
(また、こんな突き放すみたいな言い方……)
自分で発した言葉に自分で落ち込みながら、オリヴィアはちらりとフェリックスの顔を覗き込んだ。
そして、目を見開いた。
いつも表情筋が死んだような顔しかないような彼の口角が、一ミリほど上がっていたのである。
――つまり、フェリックスがオリヴィアに笑いかけている。
驚きのあまりぽかんとした間抜け面をしてしまった彼女に、フェリックスは流れるような動作で傅いた。
そしてオリヴィアの真っ白な手を取って、ちゅっと口づける。
単なる忠誠と親愛の証であるにもかかわらず、オリヴィアはひどく動揺し、頬を赤く染めた。
「陛下。私と、踊ってくださいませんか?」
耳に心地よい声で、そう囁かれる。
何を言われたか理解しきれぬまま、オリヴィアはこくりと頷いていた。
そしてあり得ないことに、フェリックスは嬉しそうに笑みを浮かべた。
先ほどの口角がほんの少し上がった状態とは比べ物にならないくらい、“笑顔”である。
混乱と驚愕。そして、計り知れないほどの嬉しさを抱えたまま、気がつけば二人は、広間の中央で踊っていた。
彼はダンスも上手く、緊張で少し動きが硬いオリヴィアを難なくリードした。
彼女の腰を抱くフェリックスの腕は見た目よりも逞しく、着やせするのだなとどうでもいいことを考えさせられる。
オリヴィアの胸元で、彼の瞳にそっくりな紫水晶が、天井に取り付けられた照明の光を反射して煌めいた。
それを見て、フェリックスは嬉しそうに笑む。
最初の曲が終わってもなお、二人は熱に浮かされたように踊り続けた。
夜も更け、夜会は幕を下ろした。
貴族たちはそれぞれの屋敷へ引き上げ、大使も隣国へと帰っていった。
彼らを見送ったオリヴィアは、自身の私室へ戻ろうとしたところで、くいくいと袖を引かれた。
振り向けば、そこにはフェリックスがいた。
先ほどのダンスを思い出してほんの少し頬を色づかせた彼女に、フェリックスはこう囁いた。
「お疲れ様です、陛下。――よろしければ、晩酌に付き合っては下さいませんか?良いワインがあるのです」
……断る選択肢など、ない。
オリヴィアは彼の言葉に、こくこくと頷いた。
一度私室へ戻ったオリヴィアは、侍女頭のみを呼び、簡単な化粧をさせた。
そして、髪を軽く結い上げ、勝負下着を選び、化粧と同じく比較的簡単な紫色のドレスを選んで着た。
勝負下着を強く進めたのは、元はオリヴィアの乳母であり、彼女の恋心を最初から知っていた侍女頭だ。
オリヴィアはただ酒に付き合うだけだと言い張ったが、彼女は譲らなかった。
千載一遇のチャンスを無駄にするほど、陛下は腑抜けだったのかと強く詰め寄られたオリヴィアは、断ることができなかった。
そして、城の中にある、フェリックスの仮眠室へと向かった。
扉を軽くノックすれば、どうぞ、というフェリックスの声が聞こえた。
部屋に入れば、オリヴィア同様簡素な出で立ちをしたフェリックスが長椅子へ優雅に足を組んで座っていた。
思っていたよりも、筋肉がついていて逞しい体をしている。
先ほどのダンスを思い出し、きゅん、と思わずときめいてしまう。
そんなオリヴィアの様子を知らず、
「来て下さってありがとうございます。よければこちらへ」
そう言って、彼はぽんぽんと自身の隣を叩いた。
(……隣に座れと、いうことなのかしら)
胸を高鳴らせながら、オリヴィアはおずおずと彼の隣に腰掛ける。
フェリックスはとくとくとグラスにワインを注ぎ、彼女へ手渡した。
自身のグラスにも同じだけ注いで、軽く持ち上げる。
オリヴィアは彼のグラスに自身のものを軽くぶつけた。
カランと音を立てて、二つのグラスが交差する。
それを口元へ運んで、口に含む。
(なにこれ、美味しい……)
フェリックスがわざわざ自分のために、良いワインを開けてくれたのだということが、オリヴィアの鼓動を早める。
「どうですか?」
笑みを浮かべて尋ねる彼に、オリヴィアも笑顔で返した。
「とっても美味しいわ。わざわざありがとうね」
――フェリックス。
つい、心の中でしか呼ばないようにしている、彼の名を口に出してしまった。
オリヴィアの顔に、かっと朱が走る。
幸いにも、フェリックスはさほど気に留めてはいないようで、表情を変えぬままつまみに手を伸ばしている。
つられるようにして、オリヴィアもつまみを口に放り込む。
そして、少し沈黙が流れたところで、フェリックスが口を開いた。
「陛下、最近お忙しかったというのに……本日は、よく頑張られましたね」
ぽろりと、零れ落ちた言葉に、オリヴィアは固まってしまう。
(う、噓。頑張りましたね、なんて……)
「氷の女王」たるオリヴィアならば、ここで「貴方に言われる筋合いはないわ」とでも言っていた。
しかし、甘やかな言葉によって上がり続ける心拍数と、ほどほどに酔いの回った身体の所為か、彼女はとんでもない奇行に走ってしまった。
「ねえ、フェリックス」
甘ったるい媚びるような声を発して、オリヴィアは彼にしなだれかかる。
「わたくし、頑張ったのだから、御褒美が欲しいわ」
戸惑ったように固まってしまうフェリックスに、オリヴィアは告げる。
「フェリックス――わたくしの頭を、撫でて?」
「っっ!?」
フェリックスは目を見張るが、恐る恐るといった風に彼女の頭を撫でてくれた。
もう片方の腕が腰に回ったかと思えば、オリヴィアは彼に抱き寄せられる。
それがとても温かくて、心地よくて、彼女は目をとろんとさせて彼の胸に顔を押し付けた。
「――好き」
口から転げ出た言葉は、間違いなく本音で。
「俺も好きですよ」
いつのまにか、一人称が「俺」になったフェリックスも、オリヴィアと同じことを言って、さっと彼女を抱き上げた。
オリヴィアを抱えたまま、彼はいつもよりも幾分か速足で歩いてから、寝台へそっと彼女を下ろす。
そして彼女に覆いかぶさり、口づけようとしたところで――
「まっ、待って!」
正気を取り戻したオリヴィアに止められた。が、
「待たない」
主君の命をばっさりと切り捨て、フェリックスはあっさりとオリヴィアに口づけた。
(な、なんで!?)
オリヴィアは戸惑いと焦りを感じたが、それは直ぐに深く淫らなキスにかき消された。
長い接吻が終わった後、オリヴィアはぜいぜいと荒く息をしながら、叫ぶ。
「貴方、自分の婚約者を、裏切るつもり!?」
「婚約者など、おりませんが」
フェリックスは平然と答えて、そんなことどうでもいいという風に、彼女のドレスに手をかけた。
その手を振り払い、オリヴィアはもう一度、言葉を発する。
「だって、だって……昨日、お見合いをしたっ、て……」
ぽろぽろと、意図せず涙が零れた。
ここで彼に抱かれるのは本望だ。
しかし、フェリックスの婚約者を泣かせるようなことはしたくないし、何より彼を裏切り者にしたくはなかった。
そんな彼女の目じりにフェリックスはちゅっちゅと唇を寄せ、耳元で囁く。
「そんなもの、断ったに決まっているではありませんか」
「えっ?」
ハッとして、オリヴィアは彼を見上げた。
クスクスと笑う彼は、こう続ける。
「それに、私が見合いをしたために、今日貴女が落ち込んでいたことも知っています」
――嫉妬して、くれたのですよね?
心底嬉しそうに言葉を紡ぐ彼が、とっても憎らしくて、それ以上に愛しくてたまらない。
「……この、性悪」
オリヴィアは、それを言うだけで精いっぱいだった。
フェリックスの手が、オリヴィアの顎にかかる。
そしてそれがくいっと持ち上げられて、再度唇が重なった。
――オリヴィアはもう、拒まなかった。
モンスーノ王国は、ひとりの女王とその王配が治めている。
お互いに絶世の美貌を持ちながら、公の場では頑なに表情を動かさなかったその夫婦は、二人きりになったときにだけ、ひどく美しい笑みを浮かべていた――と、女王の産んだ王子は語る。