何でもするとは言いましたが。
***
ランバート伯の下の娘は、大層乗馬が好きらしい。とは、領地の民が広く知るところである。子供の頃にドレスでも乗れるという馬の鞍を父に貰ってから、シェリル・ランバートは13歳の今までずっと、大好きな馬と共に日々を過ごしてきた。
しかしその日彼女は、珍しく馬車で移動していた。森の中にある祖父の屋敷へお使いに行った帰り道でのことだ。
「ちょっと遅くなってしまったわね」
「だから早くお暇しましょうって、言ったじゃないですか」
「そんな事言っても、お爺さまに会うのは久しぶりだったのだもの!たくさん話したかったのよ」
彼女専属の執事であるノアは彼女より4つ歳上の17歳。いつもこういう外出には付き合わされているので慣れっこだったが、今日は予定時間を過ぎてしまった。物騒な輩が出る前に森を抜けたい、そう思っていたその時。ふいに馬車が止まった。
「どうかしましたか?」
御者席に繋がる窓をノアが開ける。
「すみません、道端に誰か……倒れているようで」
「え?」
窓から見てみると、確かに前方の木の根に誰かが寄りかかっているのが見えた。木の影で少し薄暗くてよく見えないが、背格好からしてまだ子供なことは確かだった。
「大変!助けなきゃ」
「あっ、お嬢様?!」
止める間もなく、ドアを開けて駆けだしたシェリルの後を追う。木にもたれるように倒れていたのは、シェリルと同じくらいの年齢の男の子のようだった。近づいてみると、驚くほど身なりがいい。上質な乗馬服を身につけている。
「ねぇ、あなた、大丈夫?」
シェリルが声をかけて肩を叩くと、ビクッと驚いたように目を開けた。翠の瞳がキラキラと輝き、動くたびに銀髪が光に透ける。
「あ、ここは……?」
「うちの領地の森の中よ。こんなところにいたら危ないわ。怪我でもしたの?」
「あの、馬が……」
「馬?」
「遠乗りしてて、途中で水を飲ませようとしたら、馬が逃げてしまったんだ。それで、共に来た者を使いに出したはいいけれど、待ち疲れてしまって……。休んでいたら、眠ってしまったようだ」
「まぁ!それは大変だったわね。でも、こんなとこにいたら危ないわ。うちの馬車に乗って?」
「ありがとう、助かるよ。」
経緯はわかったが、素性もまだ確認していないのにと、ノアが呆れる。
「その前に、お名前を伺ってもよろしいですか?お送りするにもどこまでかわからないと……」
「そうだ、自己紹介がまだだったね。僕はランドルフ。この先の街、クレフにある親戚のゴードン家に遊びに来ていたんだ。」
「私はシェリル・ランバート。クレフなら、ウチの父が治める街よ。馬車で送れるわ。」
「ランバート伯のお嬢様でしたか。いいんですか?助かります。でも、逃げた馬が心配だな……」
ノアが手を伸ばし彼を助け起こしたその時、すぐ後ろの森の中で、馬が足を踏み鳴らす音が聞こえた。
「あっ!逃げた馬って、あれじゃない?」
「そうだ、栗毛の……!戻ってきてくれたのか」
その馬を見て、シェリルはあれ?と思う。
「ふうん……私、ちょっと捕まえてくるわね」
「えっ?君が?」
「うちのお嬢様は馬の扱いに慣れているので、大丈夫ですよ」
驚いたランドルフを置いて、シェリルが馬にそっと近寄った。
「やっぱり、あなたカリーナね?よしよし。おいで」
カリーナと呼ばれた馬は、静かにシェリルに従う。手綱を引いて馬車のところまで戻ると、ノアがランドルフを馬車の中に案内したところだった。
「あの牧場の馬でしたか」
「そうみたいね。鞍が外れてなくてよかったわ。」
鞍を軽く点検すると、問題はなさそうだ。
「でも、どうしますか?もうランドルフ様は疲れてそうだし、俺は……馬は乗れないです」
「知ってるわ。私が乗っていく。ノア、その子を送ったら後で牧場へ迎えにきてちょうだい?ランドルフの事も、私が言っておくから」
「わかりました」
「え、あの……あなたはそのドレスで、馬に乗れるの?」
会話を聞いていたランドルフが、馬車の窓から声をかけた。
「普通の鞍だとちょっと乗りにくいけど、大丈夫よ。このドレス、乗馬用だしね」
そう言うと、スカートの形を少し変え、鎧に足をかけてひらりと横乗りしてみせた。
「わっ?すごいね!」
「まぁね。じゃあ、私は先に行くわ。気をつけて来てね!」
そう言うと、シェリルはドレスの裾を風に靡かせ、颯爽と馬を走らせて先行してしまった。日が山へと傾きかける時間だ、急いだ方が確かにいい。
「お転婆なお嬢様が大変申し訳ありません、王子殿下。」
「……君、気づいていたの?」
「ええ、もちろん。気づかないのはウチのお転婆お嬢様くらいです」
御者も頷いてみせた。
「クレフは今、王妃陛下と王子様のお越しで賑わってますから。お怪我がなく、本当に何よりでした。」
「ありがとう。しかし彼女はすごいね。あんなに馬を乗りこなす女の子、初めて見たよ……」
ランドルフは、遠ざかっていく彼女に視線を送る。栗毛の馬に、赤いドレスが揺れているのがやけに印象的だ。
「競技も出るくらい、馬の扱いには慣れていますから」
「そうなんだ。今度改めて、紹介してもらいたいな」
おや、とノアはその表情に目を止める。
「……我々も出発しましょう。じきに日が暮れ始めます」
「わかった。よろしく頼むよ」
そして馬車はまた動き始めた。むさ苦しくも、男性3名だけを載せて。
***
シェリルは無事に牧場へと着いた。やはり馬車より断然速くていい。久しぶりに早駆けをできたのも、気持ちがよかった。
「ただいまー」
「あれっ?!カリーナを、なぜお嬢様が?!」
「森で迷子になってたのよ。乗ってた男の子はノアがウチの馬車で送っているわ。えーと、ランドルフって言ったかしら?」
「殿下のお付きの方が先ほど来られて、事情は聞いてます。馬は明日探しに行こうとしていたんですが!助かりました!」
「……殿下、って?」
シェリルはキョトンとして聞き返した。
「……お嬢様、気づいてなかったんですか?」
「なにを」
「ランドルフ様です。ランドルフ・アルドス王子殿下、ですよ」
「……ぁっ」
小さな悲鳴が漏れた。
「なんてこと……私、王子様を子供扱いして、その馬に乗って来てしまったわ……!」
「お嬢様……」
「やだ、どうしよう……」
「明日には王都に戻られるようですし……姉上のデビュタントの夜会で謝られてはいかがです?」
「夜会!そんなものがあったわね!!次はすっぽかさず、出なくてはダメね……」
「頑張ってください」
いつの間にか、シェリルは慰められていた。気乗りのしない夜会だったけど、頑張って謝りに行かねばならないだろう。
「お嬢様、迎えにきましたよ」
「ノア!……ランドルフ殿下は?」
「ああ、こちらで聞きましたか。大丈夫、途中で使いの者とも会えたので、きちんと滞在先の邸に送り届けてきましたよ。」
「そう!良かったわ、ありがとう。……私はちょっとした不敬罪かもしれないけど……」
「ええ、まぁ……それはまた、改めて。さ、今日はもう遅いので、こちらも帰りましょう」
「はぁい」
すっかり日も暮れたクレフの街を領主の邸に向かう馬車は、心なしかトボトボと寂しそうな風情だった。
***
シェリルが王子様にちょっとした不敬を働いてから2ヶ月後。
姉のデビュタントのために、王都にある伯爵家のタウンハウスで夜会の準備が始まっていた。朝から邸は上を下への大騒ぎ。シェリルは将来のための見学だが、令嬢らしいしっかりしたドレスに着替えるため大童だ。
ちなみにノアは領地で家令と留守番をしている。
「お、お姉さま……苦しくないの?」
コルセットをぎゅうぎゅうと締め付けられながら、隣で同じように母にドレスを着付けられている姉に話しかけた。
「苦しいわよ〜。でも、何度も着てるうちにずいぶん慣れたわ。」
「すごいのね……私は、たまにしか着ないからなぁ……」
「確かに、あなたはいつも乗馬用のあれですものね」
と、母も笑う。
「はあ、馬に乗る方が夜会なんかよりよっぽど楽しいのに……」
乗馬用のドレスは、ドレスとは名ばかりの実用服だ。スカートが特殊な造りになっていて、風に翻っても中が見えることはない。生地が工夫されているためコルセットの必要もなく、シェリルのお気に入りの普段着でもあった。
「でも流石に今日は、着られないわよね」
「あら、そのくらいは判るようになったのね」
「ええ。……今日はできれば、謝らなくてはいけないし。」
「ああ……本当に、頑張ってね。」
くすくすと笑う姉は、見るからに貴族のお嬢様だ。美しい金の髪に青い瞳が印象的な美人。もうじき、正式な婚約も控えている。
「私もいつか、お姉さまのように婚約できるのかしら」
「できるわよ。……というか、思ってるより速く、現実がやってくるわ。きっとね。」
母は姉よりさらに先を見ていそうに、笑う。
「そうかなあ。ああ、でもやっぱり馬に乗る方が気楽だわ」
「まぁそう言わずに、どっしり構えてなさい」
うん、と頷いて支度を続けた。夜会の準備は、まるっと午後が潰れる。2人がすっかり支度を終えて玄関ホールに着くと、既に父が待機していた。
「2人とも、支度はできたか。そろそろ出かけるぞ」
「お父様、私、王子様にお声がけできるかしら……」
「うーん。とりあえず、挨拶などが一通り終わってから、様子を見たらいいんじゃないか?」
「わかったわ。」
夜会の始まりの挨拶も済み、デビュタントの令嬢たちがパートナーと踊るのを、壁際で両親と一緒に眺めていた。姉も勿論、婚約者(予定)の方と踊っている。
その時、周りのざわめきに気づく。なんと……王子様が、こちらに歩いて来たのである。
「シェリル嬢、一曲お願いできますか」
「……えっ?」
キョロキョロと周りを見回すと、お父様が『早く手を取りなさい!』と言いながら手をぱたぱたさせている。
「あっ、はい!よろしく、お願いします」
慌ててその手に自分の手を重ねると、導かれるままダンスが始まってしまった。周りより体格の小さな2人は、微笑ましく周りから場所を開けられる。
「あの、私まだデビュタントではないのに……いいんでしょうか?」
「私もですよ。でも、見てるだけではつまらないでしょう?そう思っていたら、貴方を見つけたから。一曲だけ、お願いします」
ランドルフの年齢に見合わない巧みなリードで、2人はホールを滑るように踊る。
「ランドルフ様、お上手なんですね……いつもより上手く踊れます」
「それは良かった。ダンスの教師を褒めておきますよ」
「……あの、ランドルフ様。先日は大変、申し訳ありませんでした。」
「なぜ謝るの?私は貴方に助けてもらったのに」
「でも私、色々とその……ご不敬を」
ふふ、と笑うとくるりとシェリルをターンさせる。わっ、と会場が盛り上がっているのが見えた。
「不敬どころか!馬に乗る貴方は、とても素敵でしたよ」
「ありがとう、ございます……。でも父は、そろそろやめて欲しいようです」
「どうして?もったいないな」
「姉のように、婚約者を決めるつもりなのでしょう」
「……婚約?貴方は今、どなたかと約束をしているの?」
急に笑顔から眉を顰める。美人はどんな表情をしても美しいな、と的外れにも思ってしまう。
「いいえ、まだ誰とも。でも私も、あと2年もすればデビュタントですから……。その時にまた、お会いできるのを楽しみにしていますね」
「……うん……そうか……」
「ランドルフ様?……あの、それで不敬のお詫びと言っては恐縮ですが、私にできることがあれば、何でもお申し付けくださいね。」
「何でも?」
「えと、私に出来ることなら?」
「……うん。わかった。ちょっと一緒に来てくれる?」
音楽が終わると、ランドルフ様に手を取られたまま、王族のスペースへと連れていかれてしまう。
「母上」
「ランドルフ、そちらは?」
「シェリル嬢です。先日、クレフの森で私を助けてくれました。」
「シェリル・ランバートと申します。本日は姉のデビュタントの付き添いで参りました。」
恭しく淑女の礼を取ると、王妃陛下がひらりと手を振る。
「どうか顔をあげて?貴方にはランドルフがお世話になりましたね。あの時は本当に、ありがとう」
「いえ!そんな……お手伝いできて、良かったです」
微笑む王妃陛下の美しさにうっとりする。と、そのやりとりを見ていたランドルフ様が、声をあげた。
「母上、お願いがあります」
「ここで?……なんですか?」
「シェリルを、私の婚約者候補に推薦してもらえませんか」
その瞬間、周りのざわめきがしん、と静まっていく。
「ランドルフ、さま?」
「何でもしてくれるって言ったよね、シェリル。君には私の妃候補になってもらうよ。」
「え」
呆然として立ち尽くしていると、王妃陛下がランドルフ様に声をかけた。
「それは……貴方の希望、なのかしら?」
「はい。候補は私自身からも選んでいいと、父上から聞いています。」
「そう。……わかったわ」
会場が一際ざわめき、父伯爵が駆け寄ってきた。
「あ、あの、ランドルフ様……?!」
「ああ、ランバート伯爵。突然すみませんが、貴方のお嬢様を、私に預けていただけますか?」
「あ……ええと、シェリルを、ですか?本当に?」
「ええ、彼女を。」
「……この子は、あまり貴族の娘らしいことをさせておりませんで……その、」
「そうですか?先日は見事な乗馬を見せていただきましたが」
乗馬という単語に、周りがさざめく。父も私も『あちゃー……』という顔になる。
「他の貴族的なことは、これからの教育でも十分間に合うでしょう。私は、彼女が楽しそうに乗馬する姿に惹かれたのです」
「え……っ、そうなんですか?」
「ええ。あの日から、また会える日を心待ちにしていました。だからどうか、お願いします。私の婚約者候補の勉強は、少し大変かもしれませんが……貴方なら、やり遂げてくれると思います」
最早、一介の伯爵が断れないところまで、公衆の面前で王子様ににっこり笑顔で追い詰められていた。姉からは楽しそうな視線が飛んでくる。
「お父様、私……お話をお受けしますわ」
「シェリル……」
呆然とする父にも、頷いてみせた。この場はとにかく『是』とするしかないだろうし。
「シェリル、ありがとう。私の婚約者候補は、すでに数名いる。貴方もあまり気負わずに、頑張ってほしい。」
この国の王太子妃教育は少し独特だ。数名の候補者が同時に同じ教育を受け、年頃になる頃に改めて素質や成果を見て相手を決める。シェリルはその入り口に立ったということになる。
「わかりました。お世話になります。」
わっ、と会場から拍手が巻き起こった。こうしてデビュタントの会場で、ついでに王太子妃候補がひとり、決まってしまった。
***
翌朝、我が家は全員呆然としながらも準備にとりかかっていた。
「シェリル……本当に大丈夫か?」
父に心配されるけれど『何でもします』と言ったのは私だから、頑張れるとこまでやってみよう、と思う。
「ええ。うまくいけば私、魔道士になれるかもしれないし!」
「ああ……そうだな……」
「王太子妃になりなさいよ……」
父も母も『またか』という表情だ。
「え、でも魔法教育も本格的らしいのよ!」
そんな話をしながら、両親は難しそうな書類を書いたり、準備リストを作ったりしてくれる。姉と父は一度領地へ戻るのだけど、私と母はこのままタウンハウスに住んで、毎日王城へ教育を受けに行く事になった。準備が出来次第、改めて父達もこちらへ越してくる予定だ。
「他の候補の方々とも、仲良くなれたらいいなぁ」
「確か侯爵令嬢とか、立派な方もおられるのよね?大丈夫かしら……」
「よく知らないけど、きっと立派な方々だし、大丈夫よ。私はオマケみたいな物だと思うし。」
「楽観的ねぇ。でも、そうだといいわね」
「ええ。楽しみにすることにするわ!」
こうして、本人の呑気さで気楽に始まった、シェリルの王太子妃教育。しかし数年後に何が起きるかは、……また、別のお話。
***
【前日譚】END.