夢ものがたり
第四章 暗転の予兆
そんなある日、会社から帰ってみると思いも寄らず夢銀行から書類が送られてきていた。夢銀行に今住んでいるところなど、連絡もしていないし融資を開始するサインをして以来ザイハードにも会っていない。住所も宛名もあっている。やはりザイハードが言っていたように、どこにいても書類は届くようになっている。ますます夢銀行の実態と言うか、すごさを実感せずにはいられなかった。幸いと言うか、間が悪いと言うか、和子は夜勤で今日は帰ってこない日だった。さっそく封を切って開けてみると、
――幸せな生活を送っておられるのに、まことに申し上げにくいことですが、夢をご融資いたしました手数料といたしまして、三十パーセントいただくことになっております。よって、六万五千ドルを銀行から引き落とさせていただきたく、ご連絡申し上げるしだいです。住友鉛筆に入社した件と、彼女と同居した件、大きな取り引きに成功した件、それに競馬で大儲けした件と、宝くじに当たった件、それにもうひとつありました、子供が車に轢かれそうになって助けた件です。これも私共が関与していました。六万五千ドルというのはいささか無謀な金額とおっしゃるかも知れませんが、宝くじと競馬以外お金が絡んでいませんが、しかしこれら全部をお金に換算させていただきますと、六万五千ドルという数字になりました。とりあえず早急に書類にサインしていただきまして、近くのポストに投函していただきますと、これからも貴殿と夢銀行との間で、引き続き良好な関係が築けること間違いございません。もし、期日までに書類を投函していただけない場合、契約違反として夢の融資はストップされ、具体的には今申し上げられませんが多分あなたは植物人間のようになり、ベッドの上で一生暮らすことになります。なお書類が当方に届くまで、ご不便ではございますが夢銀行からの夢の融資はストップさせていただきますので、ご了承ください――
と手数料支払いの通知メッセージが入っていて契約を続行するか、しないかというところにチェックを入れサインするようになっている簡単な書類と夢銀行の住所と宛名を書いた返信用の封筒が同封されていた。それにしても、六万五千ドルはないだろう。べらぼうに高い。日本円にして約七百八十万円。この六万五千ドルを払うと、手元に残るのは三千ドル、つまり日本円にして三十余万円程度。こんなに取られてしまって、なんと和子に言えばいいのか思案をめぐらしていた。いくら考えてもばからしい気がしてならない。その三十余万円も和子にネックレスや指輪を買ってやったし、天沢もパソコンや携帯電話を買っていたので金はこの金額を支払うと足が出るくらいだ。
どう考えても腹立たしい気が先に立って「なんでやねん」と呟いてしまう。考えれば考えるほど、ばからしくなってきてとりあえず書類にはサインせず、期日ぎりぎりまで持っていて期日前にサインして書類をポストに投函しないでおこうと決めた。今日は九月五日で期限は九月二十日となっている。期限まで後十五日はある。その間損得を計算して態度を決めるつもりでいた。たとえその間夢が実現しなくても、さし当たって夢を融資してもらう必要がないほど幸せだ。
困りはしないが今の幸せな生活が壊れることがなければ良しとしなければならない。とりあえず、おとなしくしていて善後策を考え、決心がついたら和子に事情を話して、六万五千ドルを夢銀行に支払うことになったと、正直に言えば納得してくれるはずだ。
だか、それをいつ言うかが問題だった。和子の機嫌のいい日を見計らって言うしかない。それに手数料を払えば、また次の夢を融資してもらえると、自分に言い聞かせるがやっぱり六万五千ドルも払うのはもったいない気がする。まさかこんなに早く夢銀行から手数料を支払えって言ってくるとは思いもしなかったので、よけい気が動転して気分が悪くなってくる。それにしても心の準備をしていなかったのはうかつだった。それならそれで、もっと夢を連発して金を儲けておけばよかったと悔やまれる。まるで騙し討ちにあったような気分だった。でももう後の祭りだ。情けないやら悔しいやらで泣くに泣けない。その後、試しにロトシックスを和子に内緒で買ってみたが、一向に当たる気配がない。会社では携帯電話会社からデモ用販促物としてボールペン十万本の物件の見積もり依頼が来るが、二、三日後キャンセルが入ってがっかりさせられるし、財布を拾って警察に届けると、落とし主が現れ入っていたドルが半分なくなっているとケチをつけられる始末だ。ラッキーな兆候はあるが結果に結びつかない。
夢銀行から書類が届いてからというもの、いい方向に向かっていた運も停滞してしまった。まぁ逆回りしないだけでも、めっけものかと思うのだが、やはり書類にサインして送らない限り夢は融資してもらえないようだ。それでも、何とかしなくてはと思うが、踏ん切りがつかない。やるせない気持ちが吹き出てくる。一旦自分のものになった金をほぼ全額手数料に取られてしまうなんて、いくら考えても納得がいかない。あまりにも無謀だ。これなら少々つらいことがあっても我慢して書類にサインせずに放っておき、金を全額自分のものにすればいいのじゃないかと欲が出てくる。
幸いこれ以上今の生活から悪くはならない気がするし、たとえサインして書類を送ったとしても今後これだけ稼げるかどうかわからない。大金を持ったことのないあさはかな欲と自分でもわかっている。あれこれ思い悩む日が続きすっかり元気をなくしてしまった。気になることと言えば、手数料を払わなければザイハードは確か植物人間のようになり、ベッドの上で暮らすことになると言っていたことだ。だが、どう思いをめぐらしても植物人間になる要素はない。思うに、これはザイハードの脅しかまやかしのように思えて仕方がない。脅しておかないと手数料を払わない奴がたくさんいるからだと思う。こんなに元気に暮らしている者が突然植物人間になるなんてどう考えてもあり得ないことだ。それでも気になって骨が喉に引っかかったようにすっきりしない。
イライラ感もつのるし、ここしばらく飲んでいなかった薬を飲む回数が多くなり日本から持ってきた薬も底を尽きそうだ。幸いなことにアパートの東側に心療クリニックがあるので和子に内緒で訪れてみると、待合室には老若男女の患者が詰めかけていて座る席もないくらい流行っていた。
小一時間ほど待たされたが順番が来て先生に日本から持ってきたのと同じ薬をくださいと腹巻きからいつも飲んでいる薬を出して見せた。だが最近の精神状況を尋ねられて不安感といらいら感と眠れない症状を話すと、同じ薬じゃないがそれと似たような精神安定剤と睡眠薬一ヶ月分出してくれた。それを腹巻きの中に入れた。
そんなある日の朝、和子が朝食の用意をしながら、いつになく落ち込んでいる天沢を見て、
「あなたどうしたの、この頃元気あらへんわね」
キッチンでトーストを焼きながら背中越しに話し掛けてくるが、とにかく精神状態が不安定になっている天沢だ。ふとそのときひとつの疑問が何の前触れもなく天沢を襲ったのだ。今まで気付かなかったが和子はフリーのイラストレーターと言っておきながら、それらしきものを描いているところも道具すら見たことがない。いくらサイドビジネスといえども道具ぐらいはこの部屋のどこに置いていても不思議じゃない。それとも開店休業の状態で今は看護師に精を出しているというのか。
「和子こそイラストレーターと言うときながら、ちっともイラストを描いているところを見たことがあらへん。おかしいよ」
和子がヨーグルトと牛乳、それに蜂蜜をたっぷりぬったトーストを持ってテーブルに着くと、
「今のところ描いていへん。病院は不規則な勤務態勢だから、あなたと少しでも一緒にいたいのよ」
トーストをかじりながら和子は弁解がましく言う。
「それに、画材はこの部屋に置いていへんけれど、ブルックリン地区にあるウイリアムズバーグの四LDKのアパートにあるの。そこも私の家なの。今は通勤にもええここに住んでいるけれど、ゆくゆくはブルックリンにあるアパートでイラストを描いて暮らすのが夢だわ。今まで黙っていてごめん。もうあなたも信用できるし、隠している必要あらへん。お金なら心配しないで。ただ、あなたがまじめに働いてくれれば言うことないから。そのうちアパートにも連れて行くから」
どうやら金はしこたま持っているようだし、申し分のない女のように思われる。
それでも和子がいくら金を持っているか聞く気にはなれない。金目当てと思われたらしゃくだからだ。
天沢は和子に惚れたのであって、和子の金に惚れたのではない。
金が目当てでないということを見せ付けておくためにも、自分が稼いだ金や競馬や宝くじで当たった金を和子名義の通帳に入れておいた。だからよけい和子は天沢を信用したのかも知れない。給与だって振り込みだし通帳は和子が持っている。その中から月四〇〇ドルの小遣いをもらっていた。もらい過ぎだが。
「おれは試されていたんか」
むくれてトーストをかじりながら、恨めしげに和子を見ると、和子は何を思ったのか天沢をベッドに連れて行き着ていたスーツを剥いでいった。
和子も裸になるとベッドになだれ込むように倒れて、体にキスの雨を降らし、
「あなたはもうあたしのものよ。誰にも渡したくない」
ちょっと芝居がかった調子で絡んでくる。天沢は悪い気がするはずがない。何をそんなに興奮しているのかと思えるほど、髪の毛を振り乱し整った顔をゆがめ、
「捨てんといてね」と呟く。
天沢もそんな和子をいとおしく思い、激しく理性を忘れ愛の行為に漕ぎ出していった。和子が積極的なのには驚いた。あらためて心身共に二人はきつく結ばれていることを確認し合った。ブルックリンのアパートには後日つれて行ってくれると約束してくれた。これでこの件は水に流すつもりだ。お陰で出勤時間が遅れた。壁にかかっている時計を見ると十時を回っていた。今から出勤しても会社は九時始まりだから、どうせ遅刻だ。ワイシャツをきて、ズボンをはきネクタイを締めると、まだベッドで毛布にくるまっている和子に、
「遅くなったけれど、行ってくるわ」
とカバンを手に玄関に向かった。
「今日は休んだら」
物憂気な声で和子が言ってからテレビのリモコンを取り、スイッチを入れると画面にワールドトレードセンタービルが真中より上の方で燃えているのが映っていた。出かけようとした天沢に和子は、
「ちょっと、ちょっとこのテレビ観て、ワールドトレードセンタービルが大変なことになっているわ」
天沢は引き返してきてテレビに釘付けになった。和子がベッドから裸で飛び起きて、食い入るように画面を見て驚いていた。天沢もびっくり仰天してしまい声も出ない。しばらくしてペンタゴンの国防省にも旅客機が衝突し炎上しているという。テレビからはアナウンサーの悲鳴とも絶叫ともつかない叫びがただならない状況をより一層深刻な事件として伝えていた。
天沢と和子は声もなく画面を見詰める。テレビにはワールドトレードセンタービルの上部が黒い煙を吐き出して火さえ映っているのが見える。一体何があったのかさっぱりわからない。とにもかくにもアメリカのシンボルのようなビルがやられたのだ、事態は深刻だ。それも戦闘機やミサイルではない。一般乗客が乗っている旅客機が衝突したのだ。それも二度も衝突している。合点がいかない。でもテレビを見ているうちに徐々に、これはテロだということがわかってきた。わかってくるとアメリカ! 敗れたりといささか気分がよくなってきた。アメリカの不敗神話が轟音とともに崩れたからだ。
アメリカをかねがねからよく思っていなかった天沢にしてみれば、してやったりと言う気持ちである。でも、そんなこと表情に出して言えない。だからいかにも悔しそうに残念無念の思いを滲ませてみせた。
「あなた何かしらうれしそうね」
めざとく和子がそんな天沢の態度を見て感じ取ったようだ。でもそれっきりだった。というのもその直後にベッドの横に置いてある電話が鳴り、和子が受話器を取るとただならぬ様子で、
「すぐ行きます」
と言ってあわてて下着をつけ服を着ると化粧もせずに出て行こうとした。どうやら勤めている病院から緊急電話が入り、すぐ来るようにと言うことらしい。
「行ってくるわね」
天沢の口に軽くキスをすると飛んで出て行った。負傷者がたくさん出て和子の勤めている病院にも怪我人が担ぎ込まれているに違いない。天沢はテロも気になるが和子が出て行くとあわててテレビを切り、こっそり和子の跡をつけて行った。
彼女がイースト総合病院に勤めているのはわかっていたが、どの辺りにあるのか、どんな病院に勤めているか気になっただけで、他意はないが一度くらい和子が勤めている病院を見ておくのも何かのときに役立つかも知れないと思ったからだ。
それにブルックリンにもうひとつアパートを持っていたように、和子はほかにも何か隠しているような気がしてならなかった。そう思うと頭の中で疑惑が湧き出てきて、ぐるぐると疑念が回り始める。そして自制が効かなくなるのが天沢の悪い性格だ。悪い癖と自分ではわかっているが、一向に治る気配がない。年を取るに従いひどくなってきている。
和子は病院に行くときは車じゃなくいつも歩きで行くので、ここからそう遠くはない場所にある、ということくらいはわかっていた。和子と朝からセックスに没頭していたにもかかわらず、テロのお陰で今日は会社に少々遅れて行っても叱られないような気がした。レキシントン・アベニューにそって、和子が歩いていく。住宅街を通り、七十七ストリートに出ると、高層ビルに囲まれた一角に大きな病院が見えた。ここに入るのかな、と思っていると意に反して素通りして行った。病院名を見るとレックス・ヒル病院と門の前に大きな看板がかかっていた。イースト総合病院ではない。道理でと、一人納得しながら、なおも跡をつけて行くとやがて廃墟と化したビルや、雑居ビルのある通りに出て来た。ハーレムの入り口だ。ハーレムと言っても今は昔ほど物騒な町ではない。再開発が進み、住みよく環境も十年前よりは格段によくなっている。夢銀行のドーム型をした三十階建ての建物が見えてきた。一階の夢銀行の前には多くの人が集まっているのが見える。何だろうと思うが和子の跡をつけているので夢銀行には寄れない。
夢銀行を通り過ぎると、そこにイースト総合病院があり和子が職員通用門から中に入って行った。初めて夢銀行に来たとき気付かなかったが、かなり大きな病院が夢銀行の隣にある。しかし余り環境のいい病院ではなさそうだ。でもごく普通の病院なので安心した。疑っていたわけじゃないがやっぱり彼女は病院に勤めていた。心が晴れる気がした。夢銀行の隣の病院とはいささか因縁めいている気がした。さっきから気になっていた夢銀行の前に行ってみると、集まっている人ごみの中から、人のよさそうな黒人のマダムをつかまえて、
「夢銀行がどうかしたのですか」
丁寧に尋ねてみた。するとマダムが分厚い唇を尖らせ白い歯をむき出しにして、赤みがかった目を剥き、
「テロが起きて、やがて戦争が始まるから、夢銀行に預けている夢をおろしに来ているのよ。アメリカはやられてしまうかも知れない」
「この人たちはみんなそうかい」
「そうと思うわ。夢をおろすと、どのような不幸や絶望にも耐えていけるわ。貯めていた夢が不幸や絶望を相殺して普通の生活に戻れるのよ。近い将来戦争が起こってもへっちゃらよ。主人だけは戦場へ行かない保証がついているのよ。それに利子としてお金も返ってくる。ここはお金を持っていない人が来る銀行よ。お金がなくても絶望や挫折で夢やお金がもらえる、ほんいい銀行よ」
以前に夢銀行でパンフレットを見せられて知っていたが、いざ現実に直面してみると、またもやわからなくなってくる。そんなことが現実にあっていいのか、これは幻聴や幻覚でないのか、と思えてくる。いやいや現に天沢は夢を融資してもらったお陰でひと儲けできた。幸せも掴んだ。まんざら噓とは言えない。アメリカは底の知れない奥の深さと、何でもありの国かよと、あらためて思ったものだ。よく考えてみると一般大衆が預金した多くの夢を、コンピューターで洗浄し純粋な夢のエキスにして、絶望や挫折を担保に夢を天沢達に融資しているように思える。マダムと別れ、再び隣のイースト総合病院に来ると門の外から病院を見上げた。五階と六階の部分の窓に格子が入っていて、それがいささか気になった。とりあえず待合室に入ると黒人の外来患者が多数来ていた。
どの患者も街で見た黒人と違い、真っ黒だが顔に張りがない。さすがに白人はほとんどいない。救急車がひっきりなしに患者を運び込んでくる。テロで怪我した人たちが運び込まれているのに違いなかった。五階、六階の様子から精神病院が併設されていると思うが、それらしき患者は見当たらない。
ハーレムにある病院にしては清潔で掃除もいきとどいていた。近くにいた男か女かわからない縮れ毛の憔悴しきった人のよさそうな黒人をつかまえると、
「この病院の五、六階部分にはどのような症状の患者が入院しているのですか」
と聞いてみると黒人はきょろきょろして、当たりを見渡して、ある人のところで目が留まると、
「あの男がよく知っている。もう三十年も前からこの病院に通っているから……」
野太い声で言うと三つ向こうの椅子に座っている表情のさえない男を指した。
「ありがとう」
握手をして肩を叩くと黒人は弱々しく笑った。
言われた黒人の前に来て顔を見ると類人猿のような原始的な顔をした男だ。まるでゴリラが服を着ているようだ。ちょっとびびったが勇気を出して聞いてみることにした。
「すみません。ちょっと教えてください」
「なんでぇ」
思ったより人懐っこい表情になったので天沢はひと安心した。それでも恐る恐る、
「この病院の五、六階部分は頭がおかしくなった人が入る精神科ですか」
と尋ねてみると彼が頭のてっぺんから足下にかけて、天沢をなめまわすように見てから、
「あそこは寝たきりの人が入っていると聞いているぜ」
「老人ホームのようなところですか」
「いや」
「じゃどんな人が入院しているのですか」
「植物人間になった人だ」
「じゃ、鉄格子はいらないんじゃないですか」
「実を言うとな、夢を見ている人が入っているんだよ。一生その人たちは夢を見続けて死んでいく」
「そんな人なら尚のこと窓に格子はいらないんじゃないですか」
「ところが患者で夢遊病者のように起きて窓から飛び出す奴が出てきて、格子をつけてんだ」
痴呆症や植物人間がベッドの上で死んでいくのはわかるが、夢を見続けながら死んでいくなんてとうてい合点がいかない。
「どんな夢です」
非常に気になるので聞いてみると、黒人は思案していたが、あそこに行こうと言って、喫煙室を指差した。
たむろしている患者達の間を通って指定された喫煙室に来た。強力なファンが鳴り響いている部屋に入ると黒人がきつい臭いのするタバコをくわえて、思いっきりニコチンを肺に流し込んでうまそうに吸っていた。そして情報料としていくらかくれと手を出した。仕方なしに財布から十ドル出し、黒人に渡した。申し訳ないなと言う仕草をして金をズボンのポケットにねじ込んだ。
「噂によると、アメリカンドリームの夢らしいんだ。それ以上のことは知らねぇ。何分、そこに入っていた人が退院したことがねぇから、誰も真相はわからねぇんだ」
天沢はひょっとすれば隣の夢銀行と関係があるのかと思い尋ねてみると、
「よく知っているじゃねぇか。あそこで夢を融資してもらった人が、眠っていると言われているぜ。ついこの前も一人運ばれてきた、と言ってもそいつはおそらく今は地下四階の部屋に眠っているはずさ。でもソロソロって言うところだな」
「そう」
と天沢はひとごとのような振りをしていたが、聞き捨てにするわけにはいかない。
「噓か本当か知らねぇが、この病院は夢銀行とは地下道でつながっていると言うぜ」
つい最近この病院に運ばれてきた人間が気になって、
「どんな人間だった」
「知らねえ。地下室の部屋で三ヶ月おとなしく眠っていれば、五階か六階の部屋に移動するらしいぜ」
「なんでだ」
「そこまで知らねぇな」
「もっと、くわしく教えてくれないか」
さらに財布から五ドルを出して渡そうとすると、
「これ以上知らねぇ。知りたければ隣の夢銀行に行けばわかるかもしれねぇが、おそらく企業秘密だから教えてくれねぇはずだぜ」
結局五ドルは取らずじまいだった。彼にも良心的なところはあった。
「ありがとう」
と言って握手をして黒人と別れたが憂鬱な気分がガーゼに液体を滲ませたようにじわりじわりと濡れてきて、足ががくがくしてくる。天沢は手数料を払っていないために夢銀行から誰かやってきてこの病院に入れられ、一生アメリカンドリームの夢を見ながら植物人間になって死んでいく気がしてきた。でもまだ書類を送る期日は先だし、さし当たってどうこうされることはない気がするがいい気はしない。イースト総合病院を出ると、救急車がひっきりなしに往来していて、ワールドトレードセンタービルからけが人が多数運び込まれている模様だ。そのために、非番の看護師もかり出され、応急処置に大わらわに違いない。ところが天沢は大変な事件が起きているのに、自分のことで頭がいっぱいだった。
夢銀行の前に来ると先ほどより人数が多くなっているように思えるのは気のせいか。夢銀行に入ってザイハードに黒人から聞いたことが本当かどうか確かめたいと思ったが、足は自然と夢銀行の前を通り過ぎ会社に向かっていた。引き返して夢銀行に行こうと思うが決心がつかなかった。もし悪いことを聞かされたら、また以前のように挫折と絶望の世界が待ち受けていると想像するだけで足がすくむ。もうあんな陰湿でいつも土砂降りの雨のような生活なんてごめんだ。ザイハードにあって真相を聞き、それじゃ夢の融資を解約して、以前のような生活に戻るよう言われるのが怖かった。手数料を払いさえすればちょっと前までのリッチな生活に、いつでも戻れるのだから出来ることならこのまま何も聞かない方が、自分の将来のためにいいように思えてくる。
ここで夢銀行に乗り込んでザイハードに会い、先ほど黒人に聞いたことを問い質せばと思うが決断出来ず、遅ればせながら会社に向かった。ワールドトレードセンタービルとはかなり離れているが、通行人はそれでも何か知らないが、やられた、というような雰囲気があり、悲壮感が漂っているように思われるのは気のせいか? 予想していた通り会社は営業していたが仕事にならなかった。支店長や先輩、同僚達と応接間で刻々と変わる情勢をテレビで見て、ため息をついたり気勢を上げたりしながら一喜一憂していた。お陰で夢銀行のことはしばらく忘れていた。会社も開店休業のような状態で今日は早く帰ろうということになり、通常より早めに会社を閉め、帰宅することになった。
街に出ると会社に来たときと違い、いくら貿易センタービルから離れているとはいえ、救急車がひっきりなしに走り混乱と緊迫感と危機感に包まれ、行きかう人々はみな尖った表情をしているのが目に焼き付いて離れなかった。
白人も黒人も怒りに満ちた表情で歩いているのがありありとわかる。アパートに帰る途中コンビニの前に人が群がっているのが見えたので、何だろうと覗いてみると新聞が飛ぶように売れていた。気になって群れの一角に加わり、タブロイド版の『ビルタイム』を買い、歩きながら読んでみると予想通りテロの件で紙面は埋め尽くされていた。
テレビで見た様子と余り変わりないが、センセーショナルにいかにもアメリカが敗れ、滅亡するように大袈裟に載っていた。天沢はタブロイド版の新聞ってこんなもんだよと、さして本気にしなかった。こんな異常事態の記事が載っているのにもかかわらず、ポルノ系の記事はさすがにはずせないと見て大胆な男女の絡み合っている写真やセックス記事がどぎつい表現で書かれていた。次のページをめくってみて驚いた。というのは紙面の下段に夢銀行のことが載っていたからだ。こういう新聞に載るということは、アメリカではすでに夢銀行が認知されているように思える。天沢はてっきりアングラ銀行と思っていたが、そうでもないらしい。
その記事によると、
――夢銀行はテロが発生し、不安と混乱、戦争への前兆で、預けていた夢をおろす人でパニック状態になって、新たに不安や絶望を担保に、夢を融資してもらう人で、ごった返している模様だ。夢銀行は警備員を増やし、対応に大わらわだが対応しきれない状態が続いている。このままこの状態が続くと、臨時休業に追い込まれることは必至だ――
この記事を読むとやはり気になって、夢銀行に行ってみようと、今来た道を引き返そうとしたが、やっぱり行く気になれずアパートに向かった。天沢はなるようになるわいと大きな気持ちになってきたためだ。
第五章 自殺
結局、ワールドトレードセンタービルやペンタゴンに旅客機が衝突した事件は同時多発テロと名付けられた。そんなことがあってから和子は何日も帰ってこない日が続いた。同時多発テロで負傷者が多数出ているため、忙しくて帰ってこられないのはわかるが、それにしても一言電話なり、メールなりくれてもいいようなものだと愚痴もこぼれる。和子のことを考えていると、気が滅入ってきて精神病がまた発病するような予感がして憂鬱な気分になってくる。イライラ感がつのる一方だ。会社に行っていても和子のことが気になって気合いを入れて仕事に打ち込めない。和子の携帯電話に電話を入れるが出ない。一体どうなっているのか? 和子からの連絡もなく家にも帰ってこないので、傷心と疑心暗鬼の日々が続く中コンビニで買ってきたハンバーガーとヨーグルト、それにパンで一人さびしく貧しい夕飯を摂っていた。
夢銀行に手数料を支払う期限の九月二十日はもうとっくに過ぎている。和子が帰ってくれば相談しようと待ち構えているが一向に帰ってこない。それにしてもおかしい。手数料を払っていないのに植物人間にならない。イースト総合記念病人で黒人も言っていたし、ザイハードも植物人間になると言っていた。
そのとき、ハンガーに吊していたスーツのポケットの中で携帯電話が鳴った。誰からだろうと思いながら、あわてて立ち上がると、もどかしげに取り出して、耳に当てた。
「あなた。和子よ。ごめんなさいね。放ったらかしにして連絡もせいへんかったから、怒っているんちゃう。仕事が忙しいの。くたくたよ。同時多発テロで大変なのよ。負傷者が次々に運ばれてきて病院内は戦場みたいだわ。私は外科病棟勤務じゃないけれど、応援にかり出され、てんてこ舞いよ。猫の手も借りたいくらい。家に帰ったらおいしい手料理を作って、たっぷりサービスするから、もう少し我慢しといてね。病院内は携帯電話が使えないのはあなたも知っているわよね。これも待合室の公衆電話からかけているの」
和子の元気のいい声に落ち込んでいた気持ちが自然に消えていき、癒やされる思いがしてくる。
「それより、あなたとそっくりな人がつい先日地下四階の病室から五階の病室に移ってきて眠り続けているわ」
「おれとそっくりな人が?」
異な事を言い出す。
「あなたって一体誰なん。私の勤めている病院の五階にあなたが眠っているのよ。その方が問題だわ。それとも双子の兄弟とでも言うのかしら」
「ばかなこと言うなよ。おれに双子の兄弟なんておらへん。他人の空似や」
「だとしたら、あなたは私の予想通りある事件に巻き込まれているみたいだわ。だから私がきっと助けてあげるからね」
「何を言っているんだ。何も事件に巻き込まれとうへん。予想通り事件に巻き込まれてるって、どう言うこっちゃ。この通りぴんぴんしているよ」
「うぅうん。何でもない。気にしないで」
何か奥歯に物が挟まったような言い方をする。心配になってきた。イースト総合病院の待合室で黒人から聞いた話が蘇ってきた。あの黒人は確か夢銀行から夢を融資してもらった者が五階、六階の病室に眠っていると言っていた。しかし天沢はこの通り眠ってもいないし、このニューヨークで何不自由なく暮らしている。和子が事件と言っているのは一体何を指して言っているのかわからない。久しぶりに電話がかかってきたというのにこれじゃ気が休まらない。
「心配しないで。あなたの身辺に起こっていることはすべて私が解決してあげるから、しっかりするのよ」
和子はまるで天沢を病気にかかっている人間のように言ってのける。
「おれはどこもおかしくないし悪くない。君こそおれを何かに取り付かれている者のような言い方をするじゃないか。おかしいよ。おれはこの通りぴんぴんしている」
「心配しないで」
まったく和子はどうかしている。天沢をおかしいというより和子の方がどうかしてしまったと心配になってきた。
「人をからかうのはいい加減にしてくれ。君こそ頭がおかしんちゃうか。おかしいよ、和子がそんなこと言うなんて」
「そう思うことがあかんのよ。素直じゃあらへん」
「もう電話を切るよ」
「ちょっと待って、あなたほっぺをつねってみなさい」
変なことを言い出すと思ったが試しに頬をつねってみると、
「痛い」
と和子が聞く。
「いや、痛うない。どうしたんやろ」
「やっぱり」
何だか変だぞ。でもさして気にするようなことじゃない。ちょっと神経が麻痺しているだけだ。何分精神安定剤と睡眠薬をこのところ、よく飲んでいるからだ。そのせいだ。心配することじゃない。和子はまだ何かいいたそうたが、天沢は無理やり携帯電話のスイッチを切ってしまった。まさか和子が夢銀行のことを感づいたのではないかと心配したが、たとえバレていたとしてもお互いに利益になることなので、彼女も喜んでくれるに違いないと気を取り直した。
その二日後、和子は信頼できる精神科の医師であるジョンと住友鉛筆ニューヨーク支店の田村支店長とイースト総合病院の近くにある珈琲ショップでテーブルを囲んで密談を交わしていた。
「ねぇ、そういうことだから天沢を助けてやって欲しいの。筋書きは私が書いた通りに実行してくだされば必ず成功すると思いますのでよろしくお願いします」
立って和子は深々と頭を下げた。二人から「そういう事情があるなら協力するから任せておきなさい」と心強い返事を貰った。ジョンは「念のために友人の黒人四、五人ほど連れて行くよ。もしもの時に役に立つかも知れないから」と言ってにこりと笑い立ち上がった
「お願いだわ」
和子が笑顔でジョンの手を握った。
「じゃ、出ましょうか」
会計は和子が持ち三人は店を出た。二人は「必ず天沢を救出するよ」と誓ってくれた。
その足で和子は隣の夢銀行に乗り込んでいった。ザイハードを尋ねたがあいにく彼は外出中だった。だがその様子をザイハードはコンピューター室で「やっぱり来たか」と眺めていた。和子はもう夢銀行のからくりを感づいているに違いない。高みの見物だと決め込むことにした。和子がどのような手を使ってくるか楽しみにしていた。変な妨害をしないつもりだった。ザイハードには和子への敬愛の念があるからだ。うまくもつれた糸がほどけるかお手並み拝見と決め込むことにした。
和子と携帯電話で話し合ってから数日経っても彼女はこのアパートには帰って来なかった。さびしくてむなしい。和子との平凡で平和な暮らしがどれほど精神を安定させ、幸せだったか思い知らされる日々が続く。それにしても、和子との安定した暮らしを、めちゃめちゃにした同時多発テロが憎らしい。同時多発テロさえ起きていなければ和子との電話のやり取りのように行き違いもなかった。
世界はもっと大きな問題で同時多発テロを捉えているのに、天沢はちっぽけな自分の幸せを打ち破いた同時多発テロが恨めしくて仕方なかった。和子に小さな人間と思われるかも知れないがそれが偽らざる心境だった。
天沢は和子が同時多発テロで負傷者の看護のために忙しくて家に帰って来られないのはわかっていたが、それでもイライラがつのる日を送っていた。住友鉛筆姫路販売を辞めた当時不眠症に悩まされ、精神的にも不安定な状況が続いていたが、また精神病がぶり返すのじゃないかと思われるほど、不安で懐疑的になりテレビを観ていても自分の悪口を言われているようで精神病の兆候が出てき始めてきた。このところ毎夜精神安定剤と睡眠薬を飲んで寝ていた。なかでも睡眠薬はあくる日、体にこたえるのでなるべく飲みたくないのだが、ついつい、もし眠れなかったらと思い、飲んでしまう。悪循環の続く日々だ。今日も頭の芯がすっきりせず生あくびをかみ殺しながら会社に着くと同僚達は元気に、「おはよう」と挨拶してくれるが、霞がかかったように頭の中がどんよりしていて以前のように覇気がないのが自分でもわかる。もうアカン! また精神病がぶり返すと思いながら自分の席につき、必死に平静を保とうと腹巻きから精神安定剤を出し錠剤を歯で嚙み砕いて水なしで飲んだ。そうするとえらいものでしばらくしていると気持ちが落ち着いてきた。
やっとパソコンを開く気になり、本社からの通達や支店間の連絡事項を確認すると昨日電話で受けた一ドル五十セントの水性ボールペン二十万本の見積書を作り、メールでディーラーに送ると喫煙所に行ってタバコを吹かしていた。そこに、支店長がいつになく難しい顔をして近づいてくると、
「天沢君、ちょっときてくれないか」
ミーティング室に連れて行かれた。壁には営業成績表のグラフ、新製品のポスターが貼られ、社長の写真も飾ってあった。椅子に座るよう促されると、あらためて一体何の用事があるのか不安な気持ちがして、支店長の顔を見ることさえ出来なかった。
何だろう。
ただでさえ落ち込んでいるのに、よけい気が滅入ってくる。水中で息苦しくなって息を吸いに浮かび上がってきたところを、また頭を押さえつけられたような気がする支店長の態度だ。
「実は姫路販売の社長が本社の社長に天沢君をニューヨーク支店で雇っているらしいが、それは道義に反するのではないかとクレームをつけてきたよ」
不安が当たった。顔は引きつり頭の中が真っ白になった。顔から血の気がすーっと引いていくのもわかる。無言でうなずいているだけ。返す言葉があろうはずがない。
「申し訳ないが君をこれ以上ここで雇うわけにはいかなくなったんだよ。まぁ次の職が見つかるまでアルバイトにしておくから了承して欲しい。私の希望としては日本に帰るのが一番と思うのだがな」
沈痛な表情をして支店長が言うと、ほっとしたのか大きなため息を吐いていた。以前にも住友鉛筆湘南販売の課長が退職し本社の業務課に入社しようとしたところ、湘南販売の社長が激怒し彼は結局本社に入れなかったいきさつを天沢は覚えていた。そんな事情を知っていたので姫路販売の社長もメンツにかけて天沢の幸せを阻止し、破壊しかかったに違いない。販売会社の社長なんてわがままで、人の幸せなんてちっとも考えていない。名誉やプライドそれにメンツの塊でワンマン社長が大半だ。いや、いやワンマンならまだ許せるがほとんどが横暴社長だ。姫路販売の社長だって例外ではない。
「くじけちゃ駄目だぞ。君は優秀なセールスマンだ。もったいない気もするがいたしかたない。これから姫路販売の社長と交渉してみるが一旦退社ということで了承して欲しい」
そんなこと慰めにすぎない。解雇同然だ。支店長は沈痛な思いで重い足取りで会議室から出て行った。本社の人間はたとえ部長、常務といえども販売会社の社長のごり押しには勝てた試しがない。そんなことぐらい姫路販売にいたときから知っていた。会社を首になったことといい、和子と電話でいざこざがあったことといい、すべて夢銀行に手数料の六万五千ドルを支払っていないからと思えて仕方ない。書類にサインしてポストに投函すれば無事解決すると思うのだが、さりとてせっかく手に入れた大金を「はいそうですか」と簡単に払えない。もし、六万五千ドルを支払ったとしても、次またそれに相当する金額を手に出来るかどうか確約がない。そう思うと簡単にサインしてポストに投函できない。それに支払期日もとっくに過ぎている。これから無職になる身だ。なおさら金がいる。絶対手数料を払うわけにはいかない。それに貯金している金は和子名義の通帳に入れてある。天沢が勝手にどうこう出来ない。
そう思うと、少々の不幸が起きても我慢していれば、いずれその不幸も通り過ぎていくことぐらい今までの経験からわかっていた。すべては時間が解決してくれる。今はジーッと我慢のときだ。幸せはこないかも知れないがいつまでも続く不幸というものも人間の世界にはない。ちょっとの辛抱。長いあいだ不幸には慣れている身だ。いまさら少々のつらいことでへこたれる天沢ではない。それより六万五千ドルを失う方が惜しい気がする。ええい! どうにでもなれ! どうせ死ぬために来たニューヨークだ。和子を抱いてから死ぬという所期の目的は十分達せられている。くよくよせずになるようになるわい、という気で行こうと開き直ると何か知らないが未来が拓けてくるような気がしてきた。ザイハードは一度使った絶望や挫折は二度と使えないと言っていた。絶望や挫折なんてくさるほどあると思っていたが、よくよく考えてみると、もう大半使ってしまいほとんど残っていない。意外と少ないものだ。何分惨めで情けない出来事なので、いつまでも体にこびりついていてたくさんあるような錯覚におちいっていただけの話だ。実際はそんなに多くない。挫折や絶望がなくなってしまえば、どうやって夢の融資を受けられるのかザイハードに聞いていなかったのが悔やまれる。まさかこんなに簡単に使い果たしてしまうなんて夢にも思わなかった。こんなことなら競馬やロトシックスに大金をつぎ込んで大儲けしていればよかった、と思うが後の祭りだ。
天沢は会議室からうなだれて出ると、定時まで勤めていればいいのだが、そんな気にもなれず自分の席に戻ると机の中を整理した。三人ほどいた社員が同情の目で見ていた。事情は分かっているようだ。情けない顔は見せられないと明るく振る舞って、持って帰るものは持って支店長に「お世話になりました」と礼を言って会社を出た。街に出ると誰かに見張られているような気配がした。気のせいかも知れない。早くアパートに帰ったからといって、これといってすることがないが、昼過ぎコンビニによって昼食を買うとアパートに帰り一人さびしくモスバーガーとコーラで昼食を済ませた。職も失ったしこれから先の展望も拓けない。仕方なくいつも持ち歩いているカバンを開いて夢銀行から来た書類を取り出すと、しげしげと見詰めて大きなため息をついた。とりあえず和子が帰ってきたら和子に相談しようと思い、再びカバンにしまい込んだ。しかし思い直して一刻も早く和子に相談しようと、夕暮れ時に彼女が勤めているイースト総合病院に向かった。こんなこともあろうかと先日和子の勤めている病院を突き止めていたのだ。いくら和子の仕事が忙しいからとて二十分や三十分の面会は許されると思っての行動だった。するとまたもや跡をつけられているような気がする。振り向くがそのような痕跡もない。気のせいかと歩き出す。イースト総合病院に行く道すがらなんと和子に話せばいいか思案しながら歩いていた。二人連れの黒人とすれ違った。彼らが手に持っていたビニール袋を落とした。壜が割れる音がした。地面から安物のウイスキーのきつい臭いがした。黒人の一人がビニール袋を広げて「おまえが当たってきたから落とした」とイチャモンをつけてきた。ビニール袋の中には割れた壜の欠片と琥珀色した液体が溜まっていた。
「弁償しろ」
二人がかりで目をぎょろつかせてなん癖をつけてきた。
「すみません」
ここは穏便に済ますために財布から二十ドル出して堪えてもらおうとした。でもこらえてくれなかった。もっと寄こせと因縁をつけられた。拙いことになったと思ったがとっさに逃げた。どこをどう通ったか分からないが相当走ってから後ろを振り向いてみると二人の黒人は見当たらなかった。逃げ切った。ヤレヤレとひと安心した。ところが現在地がどこか分からなくなってしまった。一歩間違えると、とんでもないところに出てしまうマンハッタン島だ。地理が分からなくなってしまった。こんなはずじゃなかった。見覚えのある通りに出ようとするが狐につままれたように同じところをウロウロしているような気がする。仕事や私用でかなりマンハッタン島の地理は知っていたつもりでいたが、どこをどう歩いているのかさっぱりわからなくなってしまった。京都の街のように碁盤の目のような街なのに迷うなんてどうかしている。日が暮れ、辺りはすっかり暗くなってきた。やがて迷路のような路地に迷い込む。薄汚れた星条旗だけがやたら風に翻っていて、ニューヨーク全体が同時多発テロで混乱していると言うのにここはゴーストタウンのように静かだ。崩れかかったビル、赤さびたシャッターが破れてぶら下がっている店、薄暗い照明に照らされたポルノショップ、廃墟と化したビル、本当に人影がない。ヤバイところに迷い込んだものだと焦るが一向にこの路地から抜け出せない。吹く風も生ぬるくて気持ちが悪い。街灯も少なく灯りも少ない。すると向こうからこつこつと足音を立て一人の男が近づいて来た。
助かった。あの人に道を聞こう。足音は廃墟と化したビルに反響して気味悪いくらい怖い。彼はトレンチコートに手を突っ込み、うつむきかげんに歩きながらやって来る。その男がザイハードに似ていた。前にも道に迷ったときザイハードが現れたので今度もまた命拾いしたと思った。まだ幸運は残っている予感がした。何かしら腐れ縁のようなものを感じて道を聞くついでにイースト総合病院で黒人に聞いた夢銀行のからくりも聞こうと思った。ザイハードだとわかると先ほどまでの恐怖感は全然なくなってきた。不思議なものだ。 近づいてきた男に、
「やぁ、夢銀行のザイハードじゃないか」
手を上げてからなれなれしく声をかけ、握手を求めると男ははて(・・)というような顔をして、「おれはザイハードじゃない。それに夢銀行って何のことだ」とむっとした表情をして言われた。
「絶望を担保に夢を融資してくれる夢銀行のことじゃないか」
ザイハードがてっきりしらばくれているとしか思えない。
「そんなの知らねぇな。あんた大の男をからかうんじゃねえぜ、それとも同時多発テロで頭でもおかしくなったのじゃねぇのか」
語気も荒くザイハードが食って掛かってきた。胸倉を掴まれ顔が間近に迫ってきたので、よく見るとこの男はザイハードに似ているが肌の色も白くイスラム系ではない。その上ザイハードよりかなり若い。人違いに気付いた。背格好といい、声といい、よく似ていたので暗闇ではわからなかったがよく見るとザイハードじゃない。そうとわかると急に恐怖心が湧いてきた。背筋が寒くなってくる。
「ぼ、ぼくは日本人だから同時多発テロなんて関係ありません。高みの見物ですよ。それに頭だっておかしくありません」
「先ほどから尾行していた。お前がアマザワってことは分かっている」
やはり尾行されていた。その隙に思いっきり体をねじって白人の男の手を払いのけようとしたが、よけい彼に締め上げられる始末だ。すると、今度は「金を出せ」と言う。
「な、ない」
首を振って震えながら言うと、
「そんなことないはずじゃ。金を出せちゅうたら出せ」
さらに首を締め上げてきた。
「そ、その手を離してください。か、金は出しますから」
白人は真に受けて放してくれた。とっさに逃げようとした。ところがまたもや首筋をぎゅっと掴まれた。観念するとズボンの後ろのポケットから財布を取り出ししぶしぶ渡す。
「腕に巻いている時計もだ」
もう、彼の言うことに従うより方法がなかった。ドルチェの時計も渡した。これでやっと解放されると思ったのだが、
「おめぇ、カズコから手を引け。さもなければただではすまねぇぞ」
思いも寄らず和子のことにまで及んできた。何故、和子を知っているのか? 恐る恐る聞いてみると、
「おれかよ。カズコの恋人だ。てぇめが現れてから、カズコの様子がおかしいと思っていたが、やっぱりてめぇと暮らしてやがった。でもな、おれだってカズコとブルックリンのアパートで逢い引きしているんだぜ。とにかくカズコから今すぐ手を引け、さもないとひどい目に遭うと思え。今日は忠告だけに留めておくが、もし忠告を聞かなければただではすまねぇぞ。わかったか」
掴まれていた胸倉をボーンと押された。その弾みで天沢は二、三メートル飛んで倒れた。立ち上がるとスーツを手でぽんぽんと叩き、汚れを落としてから逃げ出したいのは山々だが和子のことが気になって、
「和子とはどこで知り合ったんだ」
とへっぴり腰で後ずさりしながら聞いてみると、
「Yで知り合った」
Yと言うと、なにやらいかがわしいところで出会ったようだ。彼女に限ってそんな女じゃないと思われるが、
「Yって?」
「てめぇ、Yもしらねぇのか。だろうな。最近日本からきたらしいじゃないか。Yって言うのはな、YWCAかYMCAのことを言うんだ。カズコとはYMCAのプールで出会ったんだ。彼女から誘ってきたぜ」
そうか案外健全なところで出会ったらしい。それにしても和子から声をかけるなんて考えられない。ましてやこんなやくざめいた男に興味あるはずがない、と思うのだが男女の仲だけは当人同士でなければわからないところがある。和子はこんな男に騙されていてこの男と別れたくて、天沢と同居しているようにも思えてくる。よく見るとなかなかの男前だ。その面に和子は騙されて付き合っていたのか。
「そんな無法なあんたに愛想が尽きて、和子はぼくと暮らしているんだよ」
わけもわからないのに勝ち誇ったように言うと、
「何ぬかしているねん。つべこべ言わずにカズコから手を引けいうたら手を引け。わかったか」
男からつばを吐きかけられた。顔にかかり手で拭くと臭い臭いがして、気分が悪くなったが、どうすることも出来ない。天沢は彼の気が緩んだ隙を見てとっさに逃げた。一心不乱にわけもわからず、道もわからず逃げに逃げた。必死だ。一キロほど走って振り向くと追ってくる気配がなかったので歩き始めた。見覚えのある場所に出てきたので安心した。まったく冷や汗ものだ。肩で息をしながら「和子に男がいたのか」と呟くと、重たいものが体に覆い被さってくる気がする。女が二十八歳にもなって男がいなかったというのがおかしい。ましてや独りだ。単身アメリカで暮らしていれば男だって欲しくなる。男がいてもすでに切れていれば、天沢もとやかく言う気はないが、あの男の様子じゃ、まだ完全に切れているとは思えない。とにかく和子が家に帰ってきたら、あの男のことを聞いてみようと思った。それにしても今日は厄日だ。さんざんな目に合った。それもこれもみんな夢銀行に書類を送っていないからだと疑心暗鬼になっていた。ここ数日会社は首になるし、和子からも変な言いがかりをつけられるし、悪い男に捕まり和子の素性を知ると、また幼少年期のようにいじめられている感覚がぶり返してきて、いじけた状態でアパートに閉じこもっていた。
ところがその数日後の夕刻思いも寄らず、和子が日本料理の食材をいっぱい手に抱えて帰ってきた。
「ただいま」
その声で急に部屋が明るくなった気がした。和子が食材を置くと抱きついてきて、三週間振りにキスの雨を天沢の顔に降らす。和子が夕食の準備を始めた。ソファで横になってテレビのアクションドラマを見ていたのが、行き着くところは、和子の恋人のことが気になってストーリーがわからなくなってしまう。天沢は和子の元彼のことを切り出そうか、切り出すまいか思案していた。和子はこうして天沢が元気でいることに満足しているのか、そっくりな人が病院に入院していた件は誤解だとわかったのか何も言い出さない。和子が出来上がった料理を食卓に運んでくると、
「浮かない顔をしているけれど、どうしたん」
和子の恋人の件で悩んでいることなど気付いていないようだ。
「放っておいてくれ」
ついつい邪険な言葉が出てしまう。
「どうかしたの。変な人」
和子が顔を覗き込むと、その顔を手で払いのけ、
「和子の恋人に遭うた」
胸にしまっておこうと思ったが気になっていたのでついつい出てしまった。
「私の恋人?」
首をかしげている。
「そんな人、私にはおらへん。何かの間違いやわ」
「現に会って和子から手を引けと脅され、財布や時計まで巻き上げられた」
「おかしいわ。そんな人はいないけれど」
和子が否定するがよけいに怪しい気がする。二十八歳にもなって恋人がいなかったというのもおかしい。和子は美人だし器量もいい。男が放っておくはずがない。ましてや単身アメリカに来てさびしい思いもしたときがあったに違いない。そんなときやさしくしてもらえれば誰だって心はなびくはず。男がいてもおかしくない。和子がそんな男はいないと否定するより、「いたにはいたが今は切れているから心配しないで」と言ってくれる方が安心する。
「あほらしい。何かの間違いやわ」
相手にしてくれない。疑惑が深まってくるのを抑えることは出来ない。
「彼との関係はどうなっているんだ。病院で仕事が忙しいからと言っておきながら、その裏ではブルックリンのもうひとつのアパートであの白人の男といちゃついているちゃうやろう」
和子の男関係が気になるし、会社は首になるわでこのところ満足に寝ていない。神経も尖っていてイライラが続いていた。
「ばかなこと言わんといて。怒るわよ」
その時点ではまだ、和子は本気で怒っているようには見えなかった。
「ホンマのことを話してくれ」
卑屈な目で和子を見ると、彼女の表情がしだいに険しくなってきているのがわかる。
「しつこいわね。なんともないってば。そんなことにこだわっとらんと、早くご飯を食べなさい。私にはあなたしかいないわ」
和子が否定すればするほど疑惑が深まるばかり。
そのときだった、玄関のチャイムが鳴った。和子はエプロンをはずすと玄関に行って、「どなた」と覗き穴から外を見ていた。
「ジョンだ」
聞き覚えのある声が聴こえてきた。
「どうぞ」
和子がドアチェーンをはずし、戸を開けてジョンを迎え入れた。どこかで聞いた声だと思っていたが、やはり以前道に迷い財布や時計を奪った和子の恋人と名乗っていた男が、バラの花を両手いっぱいに抱えて笑顔で立っていた。
「今日はカズコの誕生日だからお祝いに来た」
和子がうれしさを体いっぱいに表し、花束を受け取り大袈裟に抱きつくとハグして感謝の意を表していた。ジョンが和子の肩越しに天沢を見て勝ち誇ったようにしてウインクを飛ばしてきたので、天沢はムカッときた。さっき和子が「私にはあなただけよ」と言っていた矢先のこの出来事だ。いい気がするはずがない。その上いやになれなれしい。どう見ても恋人同士のように思える。恋人ならわざわざ天沢のいる家にこなくても隠れて会うはずだが、そこらあたりがわからない。もう和子にとって天沢は用無し男になってしまったとも取れる。もっと惨めに思ったのは今日が和子の二十九回目の誕生日ということだ。この男が和子の誕生日だと言ったので初めて和子の誕生日を知った。うかつだった。普通、恋人の誕生日なんて真っ先に聞いてその日が来たらプレゼントをするのが常識だ。ここはアメリカだ。そういうことを特に大事にするお国柄のはずだ。そんなことすら眼中になかったのだからうかつだったでは済まされない。誕生日を聞こうとしなかった自分を責めたが後の祭りだ。自分の誕生日くらい家で過ごそうと和子がアパートに帰ってきたに違いなかった。
「やっぱり君達は出来ていたんだ」
こうもなれなれしく、うれしそうにしている二人を見て裏切られた気がして、嫉妬心がめらめらと燃えたぎってくる。
「何を言うてんのよ。ジョンに失礼よ」
すかさず和子が白々しく切り返してくる。ジョンは日本語がわからないからいいようなものの和子は露骨に嫌な顔をしていた。今まで見たことのない怒りに満ちた和子の顔が目の前に迫ってきたのを見て、
「ジョン、帰ってくれ」
天沢は我慢できなくなって、彼の手を取ると無理やりドアの方に引っ張って行った。ジョンは嫉妬するに十分値する男だし幸せな家庭を壊す侵入者だ。
「何をするのよ。ジョンは私の大事なお友達よ」
ジョンの手を振り解くよう和子がジョンと天沢の間に割り込んできて止める。
「おれとジョンとどっちが大事なんだ」
理性を忘れた天沢は大きな声を出して和子に食って掛かった。
「勿論あなたよ。今日はジョンが私の誕生日のお祝いにきてくれたんやんか。アメリカじゃこんなこと常識よ」
和子がジョンを体の後ろに回し楯になって彼をかばった。ジョンもジョンだ。今日はやけにおとなしく優男の振りをしている。
「ジョン。てめぇ、この前和子の恋人だと言っていたじゃないか。本当かよ」
矛先をジョンに向けた。和子じゃらちがあかない。
「あぁ仲のいい友達さ」
「この前和子のことを恋人と言っていたじゃないか」
「そんなこと言ったけ」
ここでもはぐらかされた。どうやら二人はぐるになっているみたいだ。今度は和子の前に行き、
「奴はこの前おれの金を巻き上げ、腕時計まで奪った男だ。そんな奴を何故和子はかばうんや。おかしいやんか」
八つ当たりもいいところだ。もうこうなったら破れかぶれで、どうなっても構わない。ジョンに和子を渡すわけには行かない。
「そんな人じゃないわよ。彼は立派な紳士よ」
ジョンの悪行を暴いて窮地に追い込もうとするが、反対に自分が窮地に追い込まれていく。
「紳士だってチャンチャラおかしい。君は騙されているんだ」
ジョンは小憎らしいほど落ち着き紳士的に振る舞っていた。その上、和子の後ろに隠れて前に出てこない。か弱い男を演じきっているジョンを見ていると、はらわたが煮えくりかえる。騙されている和子がかわいそうでならない。
「誤解よ。彼にはかわいい奥さんもいるわ」
「奥さんがいるからって、浮気しない保証はないはずだ」
どう言えば和子がわかってくれるのだろう。もどかしい。
「私の言うことが信用できないのなら、もうおしまいだわ。あなたがとっとと出て行って頂戴。ここは私のうちだからあなたが出て行って。そんな情けない男とこれから暮らしていけへん」
ついに和子が切れてしまった。最悪の場面になった。和子に顔面に平手打ちを一発かまされ、勢いでドアまで飛び頭を強打した。踞って頭を押さえていると、
「こんなことになるのなら、今まで通り一人の方が楽よ。気を使わなくていいしね。とにかく今すぐ出て行って頂戴」
そう言われても行くところがない。思案していると和子が玄関のドアを開け、
「出て行け言うたら、出て行け! この黒髪野良犬野郎!」
鬼のような形相で天沢を足で蹴飛ばした。拍子にドアの外へ天沢はゴロンと倒れた。和子のこんなに怒った顔を見たのは初めてだ。抵抗する気力もなくあっけに取られていた。ドアを閉め再び部屋に入らないように、チェーンロックをかける音がした。そのとき和子との仲はこれで終わりだ、と悟った。やっぱり駄目だったか。おろされた幕は再び上がることはない、と思うとなにやら知らないがさびしくなってくる。取り返しのつかないことをしてしまった自分が、哀れで惨めでどうしようもない。それにしても和子に平手打ちを食らわされたときも、蹴飛ばされてドアで強打したときも痛みがなかった。普通あれだけひどい目に合わされたら痛くて立ち上がれないと思うが……。しかし、腕を見ると黒ずんでもいない、打撲の症状もない。一体どうなっているんだろう。わけがわからない。先日も和子から電話で「頬をつねってみてよ」と言われたとき、つねってみたが痛くはなかった。
おかしい。何かある。和子がその何かを知っているような気がしてならない。だから天沢を振って元の彼、つまりジョンの元に寝返ったのかも知れない。おれはひょっとすると夢の世界にいるのじゃないかと天沢は思うが、夢の世界にいる感覚ではない。夢なら大抵嫌なことが起こると汗びっしょりかいて、うなされながらも目が覚めるものだ。ところが和子にこんなにひどい目にあっても目が覚める気配がない。やはり、夢ではない。これは現実の世界だと悟る。こんなことを夢の中で考えること自体がおかしい。いや、いや夢が覚めてもまだ夢を見ている夢をよく見ることがあるので、その現象のひとつかと思うが、それでもないようだ。夢なら覚めてくれと思うが、どの角度から見ても夢ではない。そうとわかるとドアをドンドンと叩き、
「開けてくれ、おれが悪かった」
泣き声でドアにしがみつくが開けてくれる気配がない。しばらくドアを叩いたり、わめいたりしていたが中に入れてくれそうにないとわかると、仕方なく立ち上がり、もうどうなってもいい気になってきて人生のさじを投げてしまった。こんなことなら、一か八か夢銀行から来た手数料返済の書類にサインして返送しようと思いつくがその書類も部屋のカバンの中だ。ひょっとしてサインして投函すればこの非常事態も好転するかも知れないが、支払期日はとっくに過ぎている。さりとていまさら部屋に入れてくれそうにない。くそ! つい先日電話で和子が「助けてあげるからね」と言っていたのは噓だったか。助けてくれるどころかこんなひどい仕打ちまでしてくる。裏切られた。ドアに耳を当てて部屋の中の二人の様子をうかがうと、
「うまくいったわね」
「そうみたい」
「死んでくれると助かるわ」
「会社も首になったようだし、もうニューヨークにいてもいなくてもいい存在だな」
会社を首になったことも知っているみたいだ。頭の中が錯乱状態になった。小一時間ほどそこで踞っていたが何の進展もなかった。ついていないときはこんなものだ。踏んだり蹴ったりだ。会社は首になるし、和子には三行半を突きつけられるし、希望も夢もなくなってしまった哀れな男に成り下がってしまった。その上、頼みにしていた夢銀行も手数料を払っていないために、夢の融資をストップされたままだ。アメリカに来ていい目ばかりしていたので、日本にいたときよりもひどい状態になった気がした。この落差に耐えられない。そして日本にいたときのように再び終末感に襲われ、知死期をゼッゼッと予感した。足は自然とハーレムの崩れかかっているアパートに向かっていた。
その跡を和子とジョンと四、五人の黒人と白人が天沢に知られないようにつけていた。行く道すがら挫折感と絶望感それに虚無感が複雑な模様を描いて頭の中に繰り返し襲ってくる。空を見上げても星ひとつ見えない。こんなに晴れているのに星ひとつ見えないなんてどうかしている。
死にたい。死んでしまいたい。街は死んだように静かだ。いや本当は騒がしく、人通りも多いのだが心はすでに死んでいて、何も感じなくなってしまっている。どれくらいヨロヨロと歩き続けたろう、夢銀行の屋上に張り巡らされている蜘蛛の巣のようなアンテナがはるか向こうに見えてきた。でも心ひとつ動かない。両方とも、もう過去の遺物だ。足取りも重い。そこへ突然ミッチェルが駈けてきた。こんなに遅い時間に一体如何したのだろう。天沢に足早に近づいてくると、ポルノショップの前で、
「アマザワ自殺するのはやめなさい。今すぐ夢銀行の返済通知書にサインすれば事態は好転する。だから死ぬのだけは止めなさい!」
「そんなのムリだよ。手数料返済の書類は和子の部屋だ。おれもあの書類にサインすれば事態はよくなると思ったけれど和子が部屋に入れてくれなくて手の打ちようがなかった」
天沢は踞り小さな蚊が鳴くような声で元気もなくしょげ返っていた。
「今ザイハードがカズコの部屋に向かっているわ。ザイハードなら部屋に鍵がかかっていても難なく部屋に入れる。すぐ書類も持ってくるわ。だから死ぬのは少しだけ待って」
ミッチェルは焦っている様子がありありとうかがえる。
「ほんとうか?」
「勿論だわ。これはカズコの陰謀よ。アマザワを死に導いている張本人よ。ここで彼女の策略に乗ってしまえば死ぬことになる。死んではいけない。生き続けなくちゃニューヨークに来た意味がないわ」
「和子はそんな悪い人間ではない」
「騙されているのよ。しっかりしなさいよ」
「それなら書類にサインすればまた和子と一緒に暮らせるのか? そんなこと信じられない。一度壊れた仲など修復できないよ」
「ただの夫婦げんかのようなものだから心配することはないわよ」
「夫婦げんか?」
天沢は夫婦げんかをしたことがなかったので、ただの痴話げんかにすぎないことを知らなかったのかも知れない。元はといえば嫉妬に狂ったのが原因だ。
「勿論よ。だからお願い! 死ぬのだけは止めて」
「何だかよく分からないけれど、じゃザイハードがここに来るまで待つよ。そして書類にサインする。そうすればまた元の生活に戻れるのだな」
「そうよ。もう間もなくザイハードが書類を持ってくるはずよ」
そのとき和子やジョンと連れ立っていた薄汚い黒人と白人の青年がここは出番とばかり五、六人一斉に走って行きミッチェルと天沢を取り囲んだ。和子とジョンはその様子を薄汚れたカフェの陰から見詰めていた。黒人達に囲まれたミッチェルは天沢の手を取って逃げようとしたが天沢は黒人に捕まり極貧アパートの雑草が覆い茂っている裏側に連れ込まれた。道路からは一切見えないところだ。ミッチェルは逃げ切った模様だ。彼女もやはり新聞沙汰になる暴力には手を出さない主義のようだ。ザイハードと同じように傷つくことを恐れている。逃げ足も速く心得ている。彼らの標的は日本人である天沢だったようだ。
ここで金を出せとか金品になる物を身に付けていないか調べられたが、持っていないと分かるとボコボコに殴られ蹴られ血だらけになって倒れた。それでも暴行はやまなかった。ここで殺されてもいい気がした。自殺する手間が省ける。しかし殺されることもなく、暴力がやっと終わったときには足腰も立たないくらい痛めつけられ、地面にうつぶせに倒れていた。黒人達はいつの間にかいなくなっていた。顔を上げてミッチェルを探したが辺りにはいない。ここは道路からかなり奥に連れ込まれている。それにいくつか建っている極貧アパートの谷間だ。
ザイハードは和子のアパートに来ていた。目指すは天沢が持っている夢銀行との契約書を探し持ち帰るためだ。部屋の前に来るとスーッと壁から中に入った。キレイに整理された部屋。和子も誰も居ない。天沢はどこに契約書を置いてあるのか探すが流石のザイハードでも分からない。
クローゼットを開けて棚板の上や洋服の中を探すがない。パソコンデスクの引き出しを開けて探しても見つからない。一体どこに……。テレビの下の物入れも見てみるがない。和子が持ち出しているのか?
パソコンラックの椅子の上にビジネスカバンが置いてあったのでその中にあると思い開けようとするがロックされている。ザイハードはこの中だと確信したがカバンは開けられない。透視能力でカバンの中を見ると確かに契約書がある。特殊な手袋をズボンのポケットから取りだし、はめて手をカバンの表面から入れてザイハードは難なく契約書を取り出した。ポケットにしまい込むと和子の部屋から出た。
天沢はザイハードやミッチェルなら探してくれると思うが一向に来ない。万事休すだ。
ここはやはり初期の目的通り自殺しようと必死に立ち上がるが身体は傷だらけ血だらけなのに痛みはないが思うように手足が動いてくれない。不思議だ。足取りも重くただ夢遊病者のように歩いていた。
辺りにいた数人の黒人すら薄気味悪がって近寄ってこない。
その様子を和子とジョンはしめしめと思いながら注意深く遠くの陰から見守っていた。天沢は黒くて崩れかかった近くにある四階建ての極貧アパートの階段を上っていった。なるべく人気のないところで死にたい。吸い込まれるように汚い部屋に引き寄せられていく。汚い黒人の男が二、三人いたが声もかけられないし、絡んでも来ない。普通なら日本人と分かれば何らかの行動を起こすものだが、もう手も足も出さない。
もはや彼らから見ても相手にする値打ちもないくらいにダメージを受けてボロボロの状態だ。埃だらけで黒ずみべたべたした湿気の多い階段をはうように上る。誰もいないひとつの部屋に入ると、くさくてゴミが溜まって足の踏み場もない。壊れたテレビや椅子、食器類、その他判別のつかない物が乱雑に転がっていた。壊れて赤さびた水道の蛇口からは水がポトリポトリ落ちているのが見える。やっと死ぬ夢が叶う。
天沢は腹巻きにしまっていた精神安定剤と睡眠薬を取り出し全部口に含むと、近辺に転がっている食器の欠片を拾ってきて水を入れて一気に飲んだ。今まで苦しかったこと悲しかったこと困り果てたことを思い死ぬ夢を頭の中でドライブさせた。確かザイハードは「決して死ぬ夢を見ないでください。もし見るようなことがあると大変なことが起こる」と言っていたのを思い出した。しかし、どんなことが起こるか何も言ってはくれなかった。死ぬのに大変なことが起きても知ったことじゃない。しばらくしてから頭がきりきり痛くなってきた。しだいに頭の痛みが激しくなってくる。極楽往生の夢を見た。せめて死んでからは極楽な世界で愉快に暮らしたい。もうちょっとの辛抱。頭が痛い。あまりの痛さに頭を抱えて海老のように反り返る。おかしい。異常に頭が痛い。今回ははっきりと痛みが感じられる。今までと違う。こんなはずではない。そこへザイハードとミッチェルが書類を持ってようやく駆け込んで来て、
「アマザワ死んだら駄目だ!」
とわめいていたが電気のようなものが体の中を駆け巡り強い衝撃が走った。天沢は死ぬと感じて、意識がなくなっていった。
第六章 再び光が
天沢の目が覚めたのはイースト総合病院の五階のある個室だった。以前この病院の外来患者の黒人が言っていた夢銀行から夢の融資を受けた者が眠っているといわれている病院の部屋だ。
「気が付いた」
うっすらと目を開けると和子の顔が目の前にあり天沢を覗き込んでいた。記憶が回復してくるに従い何が何だかさっぱりわからなくなってきた。確かスラム街の極貧アパートの一室で薬を飲み、最後に電気のようなものが走り死ぬ、と感じたことまでは覚えていたが……。
「あなたが自殺した日から、もう一週間も経っているわ」
天沢の手を和子がいとしげに握り顔に近づけ頬ずりをした。
「よかった」
和子は涙をこぼしている。おかしい。和子に三行半を突きつけられたはずではないのか?現状を理解できない。
「ここは一体、どこだ」
恐る恐る和子に聞いてみた。
何分和子の恐ろしい形相だけが思い出され、やさしくしてくれるのが不思議でならない。ベッドの上に起き上がると何だか体がすっきりして軽くなったような気がした。
以前、住友鉛筆姫路販売でバリバリ働いていたときのような気力が充実していて、活力も湧いてくる気がした。アメリカに来て夢銀行にお世話になったときも、すっきりした気分になったのだがその頃よりもはるかに気分がいい。
モヤモヤとして霞がかかっていたような気分と頭の上から重たい石で押さえつけられていたようなものが剥がれ落ちて、なにやら知らないがペパーミントのように爽快で、生まれ変わったような気がする。
「実を言うとね。あなた夢人間だったの」
「夢人間。それは何だ」
わけがわからないのでベッドの上に胡坐をかいて座り、うっすらと涙を溜めて天沢を見ている和子に尋ねてみた。
「実を言うと私も夢人間だったのよ」
和子がベッドの上の天沢の肩に両手を置き、まるで子供をさとすように言う。
「どういう意味だ。わけが分からへんけれど」
和子が彼女の部屋から天沢を追い出したときのように怒っていないのも不思議だ。やさしい。和子がハンカチで涙を拭くと真剣な目をして、
「驚かないで」
と前置きしてから「よかった」と言って抱きついてきた。天沢は何が何だかわからない。和子は天沢を抱きしめて語り始めた。
「実は、私も夢銀行で夢を融資してもらった経験があるのよ。アメリカに来て本当は惨めだった。最初の二年ほどはルンルン気分で暮らしていたんやけれど、それからが大変だった。アメリカに来て三年ほどしてかしら、そのうちに億という金を使ってしまったわ。男に騙されてお金も巻き上げられた。好きだったアメリカ人にも、もてあそばれるだけもてあそばれて捨てられた。お金の切れ目が縁の切れ目だったの。絶望と挫折の日々が続いたわ。そんなある日、ひょんなことから夢銀行のザイハードに会い、絶望や挫折を担保に夢を融資すると言われ、うまく騙されたのよ。するとイラストレーターになる夢を見れば、ニューヨークデザインコンクールに入賞するし、男に騙され億という金を騙し取られたことを思い出して、宝くじを買えばそれ相当の金も返ってきたの。また男達も寄って来始めたわ。中には私のタイプの男もいた。お金も男も出来て幸せだった。ところがそんなある日、夢銀行から手数料を払い込めって書類が送られてきたの。それには儲けたお金をほとんど払わなくてはならなかったわ。そんなことしてしまえば手元にお金は残らない。手数料にほとんど、もっていかれてしまう。とうてい納得できなかったわ。だから夢銀行から送られてきた書類にサインせずに放っておいた。そうすると、今度は悪いことばかり続くじゃない。好きな男にも愛想はつかされるし、賞を取ってニューヨークイラストセンターで働いていたのに、そこも首になり死んでしまいたいと、日本に帰ったの。せめて死ぬときぐらいは日本で死にたかった。それに、あなたにも会いたかった。あなたとあの日寝たのも、この世の別れに、あなたとセックスしてから死にたかったの」
何かしらないけれど、和子だって死ぬ前に天沢とやりたくて、日本に帰ってきたようだ。
そう言えばあの日やけに積極的に和子がホテルに行こうと誘ってくれた。据え膳を食わねば男の恥と一も二もなくその誘いに乗ったものだ。すでに職場に船田靖子という彼女がいたにもかかわらず和子の誘惑に負けてしまった。
「……」
「あくる日の夜私は姫路の大手前公園にある公衆便所の中で、睡眠薬とウイスキーを飲んで、死ぬ夢を見て自殺したの。そしたらしばらくして猛烈に頭が痛くなってきて、体に電気のようなものが走り、気を失ってしまったの。何日か過ぎて気が付いたとき、この病院のベッドの上だった」
天沢は何故、日本の姫路で自殺したのに、気が付いたところがこのイースト総合病院のベッドの上なのか合点がいかない。声を出して、そのことを和子に聞こうとするが声が出ない。
「死ぬ夢は夢銀行のスーパーコンピューターを狂わすのよ。死ぬことは絶望のなれのはてなので、それが夢というのでは夢銀行のコンピューターは反応しないのよ。死ぬのが夢という矛盾した夢はインプットされていないから、コンピューターがどう処理していいかわからなくなって、私は元の自分に還ったのよ」
それはどういうことなんだろう。ひょっとすれば、当時巷にいた和子は和子のコピーということになるのか。
「私は夢銀行から夢を融資してもらうサインをしたとき、一通りの手続きが終わってから、ミッチェルが運んできた珈琲のようなものを飲まされたの。それには強烈な睡眠薬と特殊な薬が入っていて、あの夢銀行の商談室、つまりコンピューター室で猛烈に眠くなって、黒いソファで寝させてもらったわ。そのとき私は特殊な薬で身体を分離されたのよ。つまり本物の私は隣のイースト総合病院に移され、もう一人の私、つまり夢人間はこの部屋で目が覚め、部屋を出てニューヨークの街で今まで通り生活していたのよ。イースト総合病院で成功物語の夢を見ている私が指令を出し、巷にいる夢人間である私が夢の実行者だったのよ。そして日本に行って、自殺した私は夢人間のため死体も残らず消えてなくなり、イースト総合病院で夢を見ていた私は、コンピューターが制御できなくなって、夢から覚めて、現実の世界に戻ってきたわけよ。当然、夢人間が日本の姫路で死んだため、私はイースト総合病院で目が覚めたってわけよ。だからって夢人間が残していった財産は全部私のものだし、夢人間の私が経験した出来事は全部記憶しているわ。莫大な手数料も払わずに現実の世界に戻れたのは私一人ってわけよ。だから私は二人いたわけじゃないから、別にこの病院から出ても、友達や顔見知りの人は今まで通り、何の違和感もなく付き合えたのよ。イースト総合病院で目が覚めたとき、ザイハードがそばで座っていたわ。そして彼は『君にはうまくやられたよ』と言うていた」
天沢は和子と同じ手口で、夢銀行で二人に分離され一人はイースト総合病院のベッドの上で眠り、一人はニューヨークの巷に彷徨っていたことになる。そう解釈すると和子が言っていることがなんとなくわかる気がしたが、どうして和子は天沢が夢銀行で夢を融資してもらったこと知っているのだろう、と疑問に思う。
和子は、
「あなたが大好きなの。誰にも渡したくないわ」
大粒の涙をこぼし再びキツく抱きしめた。天沢はそっと抱きしめる。だったら天沢にどうしてあの日三行半を突きつけたのか。やっぱりこれも、夢銀行と関係しているのか。合点がいかないし、わけがわからないので、和子を抱きしめたものの戸惑っていた。要するに天沢も夢人間で、今このようにして現実の世界に戻って生きたということか。
「よかったね」
という聞き覚えのある声がして、振り向くと例の和子の恋人ジョンと白人の女、それに住友鉛筆の田村支店長が何かほっとした表情で立っていた。
「精神医科医のジョン夫妻よ」
にこやかに和子がジョンと白人の女を紹介した。
「エリザベスです。ジョンの妻よ」
またもや何が何だかわからなくなってきた。
一体どうなっているんだと、微笑をたたえて、晴れ晴れとした顔の和子を見ると、
「みんな、夢銀行から夢人間にされたあなたを救出するために、協力をお願いした人たちよ。私が勤めている病院に、あなたが夢銀行から運ばれてきたとき、私は驚きと恐怖で震えたわ。最初は双子かも知れないって思った。よくよく考えてみれば私が夢人間になって、幸運が続いたように、あなたもそんな兆候が出ていた。間違いなくあなたが夢人間になったように思えた。あなたが夢人間ではないかと疑っていた私は、そこで友人の精神医科医のジョンと田村支店長に事情を話し、あなたを救出する作戦を立てたの。あなたを絶望の海に沈め、死ぬ夢を見させようと決心した。第一弾として住友鉛筆の田村支店長に相談して、あなたを首にするようお願いして、第二弾としてジョンに頼み、強盗に見せかけてあなたに近づいたっていうわけ。幸い、外見はザイハードに似ていたので、薄暗いところではザイハードかどうかわからへん。そのときあなたは『夢銀行のザイハードじゃないか』とジョンに声をかけた。そこでジョンはあなたが夢銀行のザイハードを知っているっていうことは、夢銀行で夢を融資してもらっていると判断したのよ。だからすぐさま、お芝居に取りかかりジョンが強盗に変身し、私の恋人のように振るもうたって言う訳なのよ。このままじゃあなたはベッドの上で永遠に眠り続け、私と暮らしているあなたは夢人間にすぎへん。幻の人間よ。あなたが夢人間に間違いないとわかったので、ジョンには私の恋人役と強盗役を頼んだわ。さっそく第三弾としてジョンが私のアパートに誕生祝いといって現れたってわけよ。私はあの日が誕生日じゃないわ。私の誕生日は十一月二十五日よ。そしてあなたが私のアパートを出て行った後、ジョンと私とジョンの友人の黒人と白人五、六人であなたの跡をつけ、あなたが自主的に死ぬ思いをするくらい痛めつけて殴る蹴るの仕打ちをしたのよ。後はもうあなたも覚えているわね。幸いあなたはうまく引っかかって、こうして現実の世界に還ってきた。とにかくニューヨークで会った日、あなたが死ぬのが夢だったら……、と言って私を驚かせたけれど、その手であなたが自殺してくれれば、あなたは現実の世界に戻ってくると私の例からして信じていた。私の予感は的中し、あなたはこうやって現実の世界に戻ってきた」
何が何だか分からないなりにも理解できる天沢だ。ジョンが「ごめんなさい」と言って以前に盗られた財布と腕時計をベッドの上に置いた。さらにジョンは「強盗の振りをするため会社を首になって街に出てから天沢の後をつけ回し監視して機会が来るのを待っていた」とも告白した。やっぱり監視されていたのかと納得した。田村支店長がいつになく上機嫌で、
「和子君のお陰だぞ」
笑顔で言うと、さらに、
「元気になったらまた会社に出て来い。アメリカで君が採用になったことなど、姫路販売の社長が知るわけないだろう。ちょっと考えればわかることだ。人を疑わない君のまっすぐな姿勢がぼくは好きなんだよ。それに姫路と神戸が合併して兵庫販売になる予定だ。当然、姫路販売の社長は勇退するよ」
手を出して握手を求めてきた。その手を握ると、なにやら知らないが涙がこぼれてきて、あわててもう一方の手で涙を拭いた。
「もう二人お祝いに駆けつけてくれている人がいるのよ」
和子がドアの方に向かって
「どうぞ」
と言うと、これまたにこやかな顔をしたザイハードとミッチェルがバラの花束を抱えて入ってきた。どうも変だ。
「おめでとう」
何が何だかわからないが、とりあえずミッチェルから差し出された花束を戸惑いながら受け取った。
「夢銀行の呪縛から逃れたのは、君とここにいるカズコ君だけだ。日本人にはかなわないよ。イタ公もチャイナもコリアンもみんなこの病院で眠ったままだ。私が言うのも変だが、夢銀行で夢を融資してもらった人は日本で言う自転車操業のようなもので、決して本人のためにはならない。夢銀行だけが儲かる仕組みになっていて、借金地獄と同じ状態になるのだ。つまり、いくら金を儲けても夢銀行に三十パーセントの手数料を払わなくてはならない。三十パーセントと言えば聞こえがいいが、その金額は夢で儲けた金のほぼ全額だ。残るのはほんのわずかな金でしかない。金にはならない幸まで、手数料として金に換算して払わなくてはならないからだ。そして、ゆくゆくは担保の絶望や挫折がなくなり、夢が融資してもらえなくなって、ボロボロになって死んでいく。それに、もし手数料を払わなければ契約時に話したように、ベッドの上で暮らすようになる。その間長い人で五年だ。その点君達はラッキーだった。ミッチェルと私は必死に君が極貧アパートの一室で自殺するのを止めようと努力したが駄目だった。通知書を持ってくるのが一歩遅かった。よからぬ男が現れて計算が狂ってしまった。ちょっとの差で君は逃げ切った」
ザイハードが脱帽! と言ってテレ笑いを浮かべ天沢の肩を叩いた。ようやく天沢も何故ここにいるのか、どういうわけでどんな状態だったのか、少しずつわかりかけてきた。
「するとぼくは日本からきた天沢夢髙か、それとも夢銀行から生まれた夢人間の天沢夢髙ですか」
ミッチェルがベッドの横に来て、
「安心してください。あなたは日本からきた天沢夢髙です。死んだ方が夢人間の天沢夢髙だわ。夢人間には国籍もないしセックスしても子供も生まれない。その上、身体にはコンピューターに反応する私が研究開発した薬が流れていて、その薬が切れてくると夢の融資がストップするし、またその薬がにごってくれば発狂する。夢の融資がストップした時点で頭がおかしくもなるわ」
手振り身振りを交えて話してくれた。そう言えば天沢は頭がおかしくなりかけたのを思い出した。住友鉛筆姫路販売を辞めた当時のように、精神に異常をきたしたと思ったが、あれは夢銀行の仕業だったのか。道理で。ザイハードがさらに渋い顔で話し始めた。
「先ほど、部屋の外でカズコ君が夢銀行のからくりを話しているのを聞いていたが、まったくその通りだ。夢銀行はこれで二人も逃げられた。その上、手数料も払わずにだ。夢人間が掴んだ金は全部君のものだ。もう手数料は払わなくていいんだよ」
「でもおかしいじゃないですか。夢の融資がストップしているのに、死ぬ夢を見るとコンピューターは反応するなんて」
天沢は納得いかない顔でぼそぼそと小さな声で呟いていた。
「ごもっともです。コンピューターは夢を融資しているお客様には手数料を払っている、いないに関わらず感知して反応します。反応はしますが融資をストップしているお客様にはそれ以上の指令は出ませんがコンピューターは依然有効に動いています。
ところが君の死ぬという夢をコンピューターは感知しましたが、その時点で〝死ぬのが夢〟という相反する夢にコンピューターは何が何だかわからなくなってしまったのです。そして夢人間はスラム街で跡形もなく消えてしまい、この病院で眠っていた正真正銘のアマザワユメタカが目を覚まめしてしまったわけです。この欠点はカズコ君のときわかっていたのですが、現在プログラムを開発中でまだ実現には至っておりません。こんなことが二度と起こらないためにも、研究チームにはっぱをかけて開発を急がせています。もうほぼ完成に近づいていますが君の件でやはり未完成だと分かりました。いい教材になりました。いずれにしろ、夢が死というのは厄介なものです。死ぬということはあまりにも手軽に努力しなくて掴めるので、これから先こんなことが度々あってはならないのです。お互い相反する夢というのはこのほかにもあるかも知れませんが、今のところ見つかってはいません。〝死ぬのが夢〟という相反する夢で逃げ切ったのは君とカズコ君の二人だけだ。カズコ君が日本からやってきたVIP待遇の第一号だ。グリーンカードを当てたのも私達の力が働いていた。一旦カズコ君は我々の手から消えてしまったが君をマークしていると、カズコ君が接触してきて拙いことにならなければと危惧していた。カズコ君には見事に逃げられたが君は我々の手の内においておきたかった。まだ利用価値が残っていた。でもカズコ君にうまくやられた。これでまた我々の研究は振り出しに戻った。まだまだ夢銀行のプログラムは未完で甘い。この経験を生かして今後プログラム破りに遭わないようにより強固なものを作っていくつもりだ。今までは日本は我々夢銀行が手を出しにくい国だったがこれで連携が取れる国になった」
ザイハードが悔しそうに顔をゆがめて言ったが芯は日本人と夢銀行が関わり合える手がかりが出来たと喜んでいるようにも見受けられた。天沢は安堵の色を浮かべた。
ミッチェルもうなずいていた。すると和子が
「横になったら」
と言ってくれたので、遠慮なくベッドにころんだ。
「もうひとつ聞きたいのだけれど」
「遠慮なく何なりと聞いてください」
ザイハードがいつになく饒舌だ。
本当ならうまく夢銀行の呪縛から逃れたので悔しいはずだがザイハードはむしろ、さばさばしている。夢銀行であったときより機嫌がいい。
「蹴飛ばされても、頬をつねっても痛くないのはどういうわけです」
「あぁそのことですか。それは簡単です。あなたが夢人間だったからです。夢人間は夢を見ているのと同じ現象で痛くはありません」
「そうか、それで和子に蹴飛ばされたときも極貧アパートの近くで殴る蹴るの仕打ちを受けても痛くなかったんだ」
「じゃ夢なのに快楽は体に感じたが……。夢人間なら快楽も感じないんじゃないの」
セックスをしていて快楽を味わったことを言っているのだ。
「なかなか鋭いことをおっしゃる。夜夢を見ているときよく思い出してください、怖さは感じますが痛さは感じません。ところが快楽はいくら夢とはいえ感じています。だから男性は夢精をするのです」
うーん、と唸ってしまった。そうか。そうするとこれまで和子とセックスして射精したとき、この病院で寝ていた正真正銘の天沢は夢精していたことになるのではないかと、いらぬ詮索をしてしまった。
「天沢君、アメリカは何でもありの国だが、だからってアメリカはそんなに甘いものじゃないんだ。おいしい話には落とし穴があって、リスクも伴う。人はみな努力と情熱と忍耐で夢を掴むものだ。苦労しなくちゃ幸せは掴めないんだ。いい勉強になったじゃないか」
田村支店長が真顔で天沢をさとすと、天沢はこっくりうなずいて目に涙を溜めた。再び起き上がると、ジョンとなにやら話していたザイハードが、天沢のところに来て、
まだ聞きたいことがあるのか、というような顔をしていた。
「ザイハードも夢人間だろう」
思いあたることがあったので聞いてみた。
「そうです。よくおわかりで」
ザイハードと夢銀行のコンピューター室であったとき、彼が壁の中から部屋に入って来たのを見ていたので、確かめてみただけの話だ。あの芸当は夢人間でないと出来ない。だからわかった。
「ザイハードは正真正銘の男に還りたくないのか」
「私は正真正銘の男に還りたくありません。私とミッチェルはもう百三十年は生きています。勿論年は取りません。私達の正真正銘の体はアメリカ連邦銀行本店の地下室で眠っています。日本流に言うと摂氏マイナス二十五度で保管されています。ですから何年経っても私は死ぬことはありません。私の夢は人に夢を与えることです、もっと突き詰めれば、勧んで夢人間になりました。夢人間になるのが夢でしたので……。夢人間であっても何ら支障がないのです。むしろその方が自分にあっています。ミッチェルだってしかりです。私達は夢人間に誇りを持っていますし、アメリカ政府からの強い指示で動いています。いや正確にはアメリカ連邦銀行に眠っている、私達の頭脳にアメリカ連邦政府が指示を送り、そこから初めて私達の夢が作られるのです。普通の夢人間と違うのです。私とミッチェルはどんな障害物があっても、すーっと抜けられます。たとえばこの壁から外へ抜け出すことも出来るのです」
と言って、二人は一旦壁にぶち当たってすーっと消え、再びその壁から病室に入ってきた。
「この通りです。でも君の夢人間は同じ夢人間でも、そういう芸当は出来ません。出来るのは夢銀行の特殊な部屋だけです。むやみやたらとそれをやられたら、夢人間であることがすぐわかってしまうからです。また暴力沙汰が起こると私もミッチェルもすぐ逃げます。特殊な訓練を受けていますので逃げ足は速いのです。そこでもし傷つき血が流れるようなことが起きると私たちは直ちに消滅して、アメリカ連邦銀行の地下の冷凍室でマイナス二十五度の温度で氷結されている本物の私たちが眼を覚ますことになっています。私達は夢人間の役目が終了するからです。だから些細な事件でもまず逃げます。些細な騒動でも身の危険を感じたら本能的に逃げます。この商売をやっていると自然にからだが反応してまずは逃げます。ミッチェルも同様です。もし身体に傷が付くと血が流れ出し止まらないからです。どのような些細な傷でも血が一旦流れ始めると身体全体の血がなくなるまで流れて私は消滅して、元の人間に還ります。ちょっと喋りすぎました。これ以上は申し上げられません。でも、おおよそ夢銀行のからくりは、おわかりになったことと思います」
天沢はうーんと唸って、
「大変だね」とザイハードに言うと、
「ちっとも大変なことはありません、むしろ一日が楽しいですよ。そうでしょう。今だから明かしますが君がアメリカに来ることは君がニューヨークに研修旅行に来て自由の女神が見える公園でカズコ君に写真を撮って貰ったときカズコ君は偶然を装って必然的に君にアプローチを掛けていたんだ。その時点で君は後々アメリカに再び来るように我々が仕組んだ罠だった」
いかにもザイハードは一日が愉快でならないような素振りだ。
「そうだったんだ。すべてはザイハードの計画通りすすんでいたのか」
「その通り」
「ところで先ほどぼくが夢人間ならまだ利用価値があるように言っていたけれど、それはどういう意味?」
ザイハードが真顔になって、ちょっと困惑した表情をした。ベッドに近寄ってきて天沢の耳に口を寄せ、
「君も私達と同じ夢人間になってもらいたかった。私とミッチェルとじゃもう限界だ。君が仲間として必要だった。ゆくゆくは君を組織に入れてトリオでと期待している」
意外にも流暢な日本語で囁いた。天沢はどちらがいいかとっさに判断できなかった。
「……」
和子に聞こえたかどうか分からなかった。だが十分検討に値する課題であることには間違いなかった。
「あなた、もういいでしょう。元気になれば結婚届の手続きに行きましょう」
和子が病室の南側のカーテンを引き、窓を開けると新鮮な空気と太陽の光が差し込んできて、部屋は急に平和で明るい未来に満たされたようになった。支店長もジョン夫妻もザイハードも現実の世界に生還してきた天沢をたたえて、拍手してから部屋から出て行った。和子が何度も病室から出て礼をすると、
「私達の結婚式には皆さんを招待しますので、そのときはよろしくお願いします」
と笑顔で見送っていた。
終章
日曜日の朝、
「あなたテーブルの上の珈琲を飲んだ」
和子がブルックリンの四LDKのベランダにある花を手入れしていた手を止め、半開きになった掃き出しの窓から部屋の中に入ってきた。天沢は珈琲を手に持つとすすった。
「ぬるくない」
「猫舌のおれには丁度ええ」
和子がテーブルの椅子に座っている天沢の後ろから抱きつき、
「ねぇ、どうして私たちには子供が出来ないのかしら。もう結婚してから二年も経つのにその兆しさえあらへんわ」
「これだけは天下の授かり物だからな」
「私ね、実をいうと医者に行って赤ちゃんが出来ない身体かどうか調べてもうたの。でも医者は『大丈夫! アマザワカズコさんの身体はチャンと赤ちゃんが生まれる身体で、たまたま産まれないだけですよ』と言われたわ」
「そんなに子供が欲しいのか」
「そらそうよ。私子供が大好きなの。私は一人っ子だったので最低三人は欲しいわ。早く授からへんかしら」
天沢は気まずそうに珈琲を飲んでフーッと溜め息をついてトイレに向かった。
天沢と和子が結婚してから早二年は経つ。
天沢は今まで通り住友鉛筆ニューヨーク支店に勤め真面目に働き成績もよく支店長から一目置かれる存在になりつつあった。
和子は看護師を辞めて自宅でフリーのイラストレーターとして仕事をしていた。元々イラストレーターの才能があったので、クライアントも何故か夢銀行のザイハードの紹介で次々と舞い込んできていた。ウサギのデザインが得意でコップや陶器に描いたりTシャツやエプロン、ハンカチ、ネッカチーフ等々あらゆるものにウサギのデザインを施したりして順調に仕事が舞い込んできていた。
和子に子供が欲しいと告白された後天沢はサンフランシスコに三日間出張に行くと言って自宅を出たが……。それは和子への言い訳で実は夢銀行のミッチェルの部屋に行ってそこの集中治療室で眠っている実の自分と血を入れ替えるのが目的だった。
と言うのも天沢は夢人間から正真正銘の人間に還ったがその一ヵ月後、再び夢銀行を訪れて一ランク上の夢人間になっていた。ザイハードから例の夢銀行の商談室で私とミッチェル、それに天沢の三人でで夢人間をやらないかと誘われて、和子には内緒で一ランク上の夢人間に志願したのだ。
一ランク上の夢人間は配偶者がいても子供が出来ない。普通の血液型でないので子供が出来ない仕組みになっていた。この前までの夢人間とはいささかチガウ。ザイハードやミッチェルに一歩近づいたがまだまだ二人のように特権は与えられない夢人間だ。前よりも一歩進化した夢人間であることは間違いない。リスクも少ない。身体には痛みも快楽も感じる。いつでも三日間で元の人間に自分の意思によって入れ替われた。
天沢の身体にABO型の血が流れている限り性交渉をしても子供は出来ない。一般の血液型と違うために卵子と精子が結合出来ない仕組みになっているからだ。その欠点を解消すべく天沢は夢銀行のミッチェルのシェルターのような部屋で眠っている本来の自分と血を入れ替えた。丸三日間かかって天沢は正真正銘のA型の血が流れている天沢に戻って和子が待つアパートに帰って着た。これで精子と卵子は受精する。
そして毎夜子作りに励んだ。
お陰で四ヵ月後に和子は妊娠した。それも双子だった。二卵性双生児だった。
和子は狂気になったかのように喜んでいた。それを確認した後天沢は又サンフランシスコに出張だと言って夢銀行に行き三日間掛けてABO型に血に入れ替えて自宅に帰ってきた。
だが天沢が夢銀行から帰ってくるとさっそく日本の住友鉛筆に転勤を命じられた。両人とも日本に帰国することは拒んだが断り切れなかった。夢銀行からも日本行きを勧められた。
和子はさんざん迷った挙げ句日本に帰ることに同意してくれた。彼女の仕事はネットが繫がりさえすれば出来る仕事なので、日本で住んでいてもクライアントと良好な関係を築いていれば差し支えなかった。何かトラブルが発生したときはすぐさまニューヨークに飛んで問題を解決しさえすれば良い。それに夢銀行のザイハードが交渉代理人になってくれているので面倒なことになれば彼を通じてクレームの処理を頼めば難なく解決してくれた。夢銀行のザイハードやミッチェルが仕事をドンドン取ってきてくれるので別に日本に帰ったからと言っても差し支えなくて月に一度くらいニューヨークに顔を出していれば良いと言われていた。
和子は天沢が一ランク上の夢人間になって以降ザイハードやミッチェルから仕事を和子に紹介してくれるようになったって訳だ。天沢の要請によるものだった。和子が仕事で得た金の四分の一は夢銀行に手数料として取られていた。それでも月三千ドルドルつまり稼ぎの四分の一は日本円にして三十余万円は手許に残った。コンスタントに稼げるのもザイハードのお陰だ。勿論ザイハードとミッチェルにそれぞれ四分の一が支払われた。
天沢は和子と違って一ランク上の夢人間に成ったので自分のA型の血をABO型のちょっと変わった血にすり替えていたのだ。こうすることによってどこに居てもどんな障害物があってもするりと障害物の中には入れたのだ。無断で他人の家に鍵が掛かっていても難なく壁からは入れるし、いくら難解なセキュリティーが施された金庫ですら開錠もせずに手を入れることが出来る。このABO型の血液が流れているからこそ出来る技であり、普通の血液型つまりA、B、AB、O型の血液が流れている人には出来ないのだ。その上複雑な赤外線網で侵入通路が塞がれていても難なくスルーできて引っ掛からない。この世にないABO型の血液の持ち主だからだ。赤外線が反応しない。その上街角やビルの一角、商業ビルに設置されている防犯カメラや監視カメラにも写らない。頑強で複雑に施錠されている金庫でも金がなんぼあるのかも分かる。金庫の中身も透視できた。金の額が見える眼薬も与えられているからそれを一滴差してみれば易々とみられる。この眼薬はミッチェルが開発した新薬だ。ABO型の血液が流れているものにだけ効き目がある特殊な眼薬なのだ。そして何十万ドルあっても盗むのは二万ドルだけ。施錠されている金庫からどうやって札束だけ持ち出せるのかと言えばこれまたミッチェルが開発したABO型の血液から作った九十センチ四方の布にくるんで金庫から出せば何の抵抗もなく頂戴することが出来るのだ。
天沢の仕事は住友鉛筆で仕事をする合間あいまを縫って盗人をすることだった。幸い盗人を実行するときは午後六時以降が多い。昼間はいくら何でもやりにくい。米国では夕刻になると食事や映画、ミュージカル等の所用で家族全員が出かけるからだ。
ワンランク上の夢人間になって初陣を飾るときは二年前だった。ザイハードからグラマシー地区にある豪邸に侵入し金を二万ドル頂戴してくるように任務が下った。初陣である。会社は午後五時三十分に終了し、ニューヨークの中心部から少し南に位置するグラマシー地区に現れていた。昔からある気品高い建物が並ぶ閑静な住宅地に住んでいる悪徳政治家の家に侵入する。辺りはその静けさからは賑やかなマンハッタンにいる事を忘れてしまう事もあるくらい閑静な地区だ。緑も多く、古き良き風景を楽しむ事が出来るエリアである。
この悪徳政治家は裏献金や口利きで莫大な賄賂を貰っているといわれているが証拠がない。帳簿もチャンと記載されているがザイハードが内偵した限り何百万ドルもの隠し金を自宅の金庫にしまっていると推定されている。
夕刻七時家族全員が外出したのを見計らって天沢は豪邸の裏に回り壁をすり抜けて入るとそこはキッチンだった。目指すは書斎だ。豪邸の中は静まりかえり僅かな足跡の音が邸内に響く。十坪ほどの書斎には理系から経済、哲学、法学の書籍が整然と書棚に並べられている。この書棚の奥に隠し金庫がある。
天沢は書棚の前に立って一気にぶち当たると難なく金庫の前に到達した。金庫の中には数え切れないほどのドル束と金塊が積まれている。そこから二万ドルだけ九十センチ四方の特性の布で包んで頂戴して素早く後を汚すことなく退散した。
その何十回となくその手で盗人に入った。
報酬は成功の五分の一。つまり二万ドル盗んでくれば天沢の取り分は五分の一の四千ドル、日本円にして四十万円余りだ。後の五分の三は夢銀行への上納金とザイハードとミッチェルに分配される。後の五分の一は親に見放されたり早くから両親に死に別れたりして養護施設で暮らしている園のポストに投函していた。その際いつも怪盗サムライと書いた紙を置いてきていた。
だから天沢はニューヨークでは怪盗サムライと呼ばれていた。
天沢は汚職で金を貯めて金庫に現ナマを何千万ドルも貯め込んでいる政治家、税金を誤魔化して金庫に金を貯め込んでいる商売人、不正で金を貯め込んでいる人たちを標的にして盗人に入り二万ドルだけ頂戴する。金庫の中の金を全部奪うことはない。ほんの二万ドルだけ盗むだけだ。だから盗まれた方も気付いても知らんふりをしていた。何分裏金だから警察に被害届を出さなかった。ニューヨーク近辺の養護施設では喜ばれ怪盗サムライと言う名を頂戴して貧困層の間ではヒーローに祭り上げられるようになっていた。
夢銀行の一階は店舗だが三階以上はそれぞれ病院のように個室になっており夢人間のナマの人間が無菌室で管理されているのだ。巷で活躍しているのはABO型の人間だがナマの人間はこの夢銀行の三十階建ての部屋で眠っている。
夢銀行にはABO型の血液型の人間が百四、五十人ほどいる。みんな世界中で活躍している。
そして米国とそれぞれの自国の間を行き来しているのだ。それを統括し管理しているのがザイハードとミッチェルと言うことになる
天沢もそのうちの一人だがただ特別待遇で天沢の身体は、夢銀行のミッチェルの部屋に二つあるシェルターで管理されている。三階異常の部屋で管理されるのが普通だがまだ新米だからだ。いつ失敗するか解らないのでナマの人間も命を落とさないように注意深く管理されているのだ。
天沢夫妻を日本に帰すには夢銀行が一役かっていた。と言うのはニューヨークでいくら稼いでもアメリカの国にとってはプラスにもマイナスにもならずゼロの状態で自国の稼ぎにはならない。そこで天沢夫妻を日本に帰して日本で稼いで貰ってアメリカの外貨を稼ごうというわけだ。微々たる金だが世界の国では夢銀行が関わっている百四、五十人の夢人間が自国でアメリカの外貨を稼いでいるのだ。夢人間の取り分は五分の一だから後の五分の三は夢銀行とザイハード、ミッチェルに支払われる。あとの五分の一が貧困層の施設や養護施設にバラまかれるのだ。
アメリカで二年間盗人の修業を積みその期間が終わるとそれぞれ自国に帰国してアメリカの外貨を稼ぐ役割を果たすのが一ランク上の夢人間だ。
このような夢人間がアメリカで修業して自国に帰り夢銀行の規則に従い夢ドロボーをやっている。元の人間は夢銀行の五階以上の個室で眠っている。
日本の住友鉛筆本社に転勤が決まり身辺整理が始まったある日、ザイハードから米国で最後の仕事の指令が下った。株で大儲けをして政治家にヤミ献金をしている相場師の自宅に入り込み二万ドル頂戴するという任務だ。自宅の大きな金庫には現金が何百万ドルも入っているという。脱税もしているらしい。現ナマで持っているので税務署の査察官が自宅を捜査しない限り巨額の脱税は見破れない。
そこに目を付けたのがザイハードだ。そして天沢に彼の最近一ヵ月の自宅周辺及び家族の行動を詳しくチェックしたデーターが送られてきて、一番安全な日を選んで実行するように指令が出た。
目的の邸宅はセントラルパークの東側エリアにある。アッパーイーストサイドに天沢は向かった。マンハッタンの中でも言わずとしれた高級住宅地で名高い。大理石で出来た三階建ての豪邸の前にドアマンが立っているのが見える。警護も厳しそうだがドアマンは異変もないので弛みきっているのが分かる。周りには街路路が植えられ高級車がずらりと並んでいる。まさに別世界の一角である。用心深くこの豪邸を観察して忍び込むタイミングを計る天沢だ。今までの経験からして二十分もあればこの任務は遂行できる。一度侵入したことのある邸宅だから見取り図は解っていた。どこに金庫があるかも知っていた。
午後六時ここの豪邸の家族が門の前に現れた。夫婦と三人の娘を連れ外出する様子だ。行き先はブロードウェイでミュージカルを観に行くとザイハードからのデーターに載っている。
家族が出ていった二十分後天沢はドアマンの隙を狙って死角になっている場所から難なく壁をするりと通り抜けて大理石で出来た豪邸の金庫のある部屋に真っ直ぐに向かった。
一番奥の部屋に来ると高級絨毯をめくり地下室の入り口を見つける。地下室に階段を伝って入ると大きな金庫が真正面に鎮座している。金庫内を透視してみると莫大な金額のドル紙幣が整然と積まれている。この中の二万ドルだけ頂戴する。
金庫内に手を入れたとき、
「何者だ」
としわがれた声がして天沢が振り返ると車椅子に乗った顔一面髭だらけの老人がライフル銃を構えていた。
わちゃ。
想定外だ。一度侵入して何もかも分かっていると油断していた。ザイハードのデーターにも載っていなかった。殺られる、と思った瞬間ライフル銃は火を噴き天沢の胸に命中した。米国での最後の仕事で失敗だ。
天沢は一発で仕留められた。天沢はゆっくりと床に倒れた。胸からは血が流れていたが徐々に徐々に身体は消えていった。血が大量に流れれば流れるほど天沢の身体は消えてなくなり、十分もしないうちに天沢の身体は消滅した。流れた血も消えた。任務失敗。
ライフル銃を持った老人は何が起こったのか分からずに目を丸くしていた。天沢は身体が消えてなくなっていくのを自覚してしながら老人を観察していた。
二日後天沢は夢銀行のシェルターで目が覚めた。ザイハードとミッチェルが側に立っていた。
「良かった」
ザイハードの口からぽつりと漏れた。任務に失敗してそのまま死んでしまう夢人間もいるが天沢は再びこの世に生還してきた。
「日本に帰ってしばらく身体を休める良い機会じゃない。そのうち又私たちのところに来なさい。又グレードアップした夢人間になれるわ。そして今度は日本で悪徳人間を処罰しましょう」
ミッチェルが天沢の肩に手をやりやさしく微笑んだ。
「今のアマザワの身体じゃ当分夢人間になれない。夢人間も成功と失敗を繰り返しながらバージョンアップしていくものだから君は何度でも夢人間になれる。心配することはない。今回で証明できた。君も私たちのように不老の夢人間になれる。でもそれには一つ条件がある。カズコ君も夢人間になって貰わないと困るんだ。君たちはペアーで活動して欲しいのだ。そうすればいつまでも生き続けられるし効果も倍増する。身の安全も保証する。どうだろう」
ザイハードはベッドの横にある椅子に座って落ち着いて語った。天沢は
「考えさせてくれないか。和子に相談してみるから」
とベッドに起き上がって胡座をかいて力強く答えた。ザイハードがベッドの横で背を低くして天沢の耳元に口をやり、
「分かった。一度相談してみてくれないか。決して夢人間になったからって損をするわけじゃない。良いこと尽くめだ。だから」
ザイハードは自信にあふれて流暢な日本語で言って天沢の肩をトントンと叩き背を伸ばした。
その一カ月後天沢と身重の和子は日本への帰国の途についた。見送りにザイハードとミッチェルが空港まで来てくれていた。
―了―