犬よ導きたまえ
「夏の夜の恋物語企画」参加作品
第5話 2493文字
「あの、よければ水を飲みませんか?」
彼女の背中に声をかける。
一呼吸おいて、彼女は振り返る。
自分に言われているのだと気付いたのだろう。
声をかけたのが、誰なのかも。
ベンチにまっすぐ座り直し、顔をこちらに向けてくれた。
自分が取り乱していたと思ったのだろう。
照れ隠しに髪を弄ろうとして、
いつもと髪型を変えていることを認識したのだろうか、
さらに慌てたように手を自分の腿に下す。
恥ずかしがっている女性の仕草というのは、
どうしてこうも可愛らしく思えるんだろうか。
俯きかげんになりながら、チラチラと覗くように見られると、
こっちまで恥ずかしくなってしまう。
「あ、あの、こんばんは。お水頂いていいですか?」
人の好意を素直に受け取るのって美徳だよな。
「はい、こんばんは。どうぞ。まだ開けてませんから、安心してください」
けっこうな量の水を飲んだ彼女は、ふぅー。と息を吐きだす。
あれだけ息を切らして現れたんだから、相当慌てて、走り回ったんだろう。
「水を飲んで、ゆっくり大きく息をして、落ち着きましょう。
たぶん問題の半分は解決しましたよね?
残りの半分はきっと俺が説明できると思います」
頭の上にはてなマークを浮かべて、首を傾げる彼女はやはりかわいい。
「えっと、まずですね。ちょっと説明するための準備といいますか、
名も知らない他人が話すことでもないので……」
いざとなるとすごく勇気がいるな。
「ホント、今更ですけど、お、俺は『いぬよししんぺい』といいます。
犬好きの真っ平と書きます。あなたのお名前を伺えますか」
うん、そりゃ、ポカンとするよね。
話の脈絡なんてないもの。
「犬好きの真っ平さん……
あ、ゴメンなさい。『さとみよりえ』です。
里を見ながら伏して咲くって書きます」
さとみよりえさん。
「えっと、名前も知らない顔見知りを卒業して、知人ということで。
里見さん、どうぞよろしく」
不格好だが構うもんか。一歩近づけた。
「え? あ、はい、よろしくお願いします……」
戸惑わせてごめんなさいね。
「なんでわざわざって思うでしょうけど、
他人の言葉っていうのは、無責任なものだと思ってるんです。
だから、自分の言葉に責任を持ちたいなって。
あー、だから、名前も知らないやつが何言っても届かないっていうか、
その、ちゃんと伝えたいっていうか……」
あーっ、焦りまくって何言ってんだか自分でもわかんなくなってきた。
「きちんと言葉のやりとりをするには、お互いをちゃんと認識する。
そういうことですよね。
つまり大事なことを話してくださるんでしょう?」
理解力ヨシ! 気遣いヨシ! 笑顔ヨシ! 会話も上手!
「はい、その通りです。却って助けられちゃったな。
えっとですね。オチョが今夜、あなたの元を勝手に離れて、
見つけたと思ったら、俺の隣に座っていたことに、
色々と思う所があっただろうなって、思ったんです」
「まぁ、そうですね。理由が判らないのと、ちょっとした嫉妬ですね」
真面目な表情もいいなぁ。
「ですよね。えっと、里見さん、不躾ですけど、
最近悩んでいたり、元気がなかったり、
そんなことはありませんでしたか?」
眉根が寄った。うん、そうですよね。
何故そんなことを?ってなりますよね。
「まぁ確かにここの所、ちょっとブルーでしたけど……」
「そんな里見さんが、今日はいつもと違う服を着た。
それを見て、オチョはチャンスだと思った」
ちらりと視線をオチョに移すと、オチョはベンチから降り、
俺たちの正面に座り、里見さんの顔を見る。
その行動は俺の意見を肯定しているように見えるはず。
「なんのチャンスなんですか?」
オチョを見つめたまま里見さんが質問する。
「犬ってね、飼い主がどんな時に笑っていたか。
それをしっかり覚えているもんなんですよ。
だからオチョはどうしても、
今日の里見さんを俺に会わせたかった。
今日の、浴衣姿の里見さんを俺に会わせれば、
里見さんが笑顔になるって思ったんですよ」
眉間の皺が濃くなってしまった……
「すいません、ちょっとよくわからないんですが……」
「オチョはね、あなたに笑って欲しかったんですよ。
オチョの記憶の中で、里見さんがどんな時によく笑っていたのか。
オチョが望んだのは、いつもの朝の笑顔で、
オチョにとって印象が強かったのは、
オチョと俺が遊んでいるのを眺めて笑っている時の、
あなたの笑顔だったってことです」
里見さんは、笑顔のオチョを見つめ、真意を確かめているようだ。
「オチョは自分とアイツがいれば、あなたが笑顔になるって考えた。
だから、アイツ、俺とあなたが会える機会を作ろうとした。
でもアイツはヘタレだから、自分が背中を押さないと動けない。
いつもより魅力的なあなたの浴衣姿を見せれば、
俺が踏み出す勇気を持つだろう。これはチャンスだ。
今日しかないって考えた」
オチョから視線を俺に移した彼女の、真面目な表情は美しい。
マイナスの感情はなさそうに見える。
「順序が悪くてすみません。
今日の里見さんの浴衣姿は、とっても綺麗です。
誰が見たって綺麗です。
オチョは俺にそれを言わせたかったんですよ」
「あ、ありがとうございます……なんか恥ずかしいですね……」
顔を赤くして照れる姿はキレイというよりカワイイですけどね!
「オチョの願いでもあるし、俺自身の願いでもあるので、言いますね。
朝の散歩の時間以外でも会えるようになりたい。だから、
里見伏咲さん、俺とその先を含めた友達になって下さい」
表情が変わらずに、瞬きだけが繰り返される。
彼女の理解力を以てしても、時間がかかるか。
「随分と変わった告白ですね……
仰りたいことはわかりますけど……」
苦笑した里見さんは、凡そ理解してくれたようだ。
いきなり好きだの、付き合ってだのと言って、断られたら
全部が終わってしまう。だから。
「朝のあの時間。
あれは俺にはとっても大事な時間で、
あんな時間がもっとあったらいいなって思ってたんです。
でもそれを欲しがったが故に、朝の時間は失いたくない。
男としてズルイとは思います。けど俺の素直な想いです。
俺は、ゆっくり、あなたと仲良くなりたい。
その結果、友達止まりなら、それはそれでいい。
あなたと、オチョに会えるのなら。
どうでしょうか?」