潤いはヒビに沁みる
「夏の夜の恋物語企画」参加作品
第3話 2049文字
雨の日が嫌いだ。
なぜなら雨の中をジョギングする理由がないから。
普通の人は雨の中を走らないからだ。
そこまでストイックに体を鍛えてるって思われるのも恥ずかしい。
青春熱血少年でもなければ、
憎いアンチクショウと闘う予定もない。
そんな普通のアラサー男は、雨の中を走らない。
かといって、傘をさして公園に行くのはもっとできない。
「あなたに会いたくて来ているんです」そう言ってるのと同じだから。
理由が説明できない。ゆえに行かない。
だから、彼女とオチョに会えない。結果、雨の日が嫌い。
己の中だけでは、理論武装も説明も完璧だけど、
披露する相手も場所もありはしない。が、
朝のいつもの時間に雨が降っていなければ、この限りではない。
数日会えずにいた後のオチョのテンションは最高潮だった。
最初は飛び掛かられ、ひっくり返ったくらいだ。
ファウン、ファウンと鳴きながら飛びついてくる。
まるで恋愛映画のラストシーンのようだった。
撫でようと思えば、顔をベロベロと舐められ、
撫で始めて、わずかでも手が止まれば、悲しそうな声をあげる。
「好き」と「うれしさ」が爆発していた。
これには彼女も大笑いだった。
落ち着かせるのが大変だった。いつも以上に。
何事も進展しないまま、梅雨が明け、夏になっていく。
ただ、俺の体も心もだいぶ健康になってきたことだけは実感できた。
仕事で疲れにくくなり、積極的に仕事に取り組めるようになり、
上司からの評価もあがった。
去年の年末と比べれば、かなりいい傾向だ。
ジョギングを始めようと決めた正月の自分を褒めよう。
最大の功労者は彼女とオチョなんだがな。
オチョの示してくれる「好き」な態度と、
オチョと遊ぶ俺を見て笑う彼女の「笑顔」
それを見られることが、俺の心の潤滑剤になっている。
おかげで軋むことなく、心が動く。
あんなにひび割れていたはずなのに……
7月に入ってからの忙しさにはまったく参る。
連日2時間は残業をするハメになり、土曜も出勤だし、
なによりボーナスの後ってのが気に入らない。
ボーナス前なら査定に色々口出せたろうに。
冬にはすっかり忘れられてる気がする……
ここのところ、そんな毎日だから忘れてたんだ。
今日が花火大会の日だってことを。
帰りの電車は大混雑。
花火見物の人たちの降りるのは、俺の降りる駅でもある。
最悪だ。こんな日に残業なんてするんじゃなかった。
定時で帰ってれば、ここまで混雑してなかったのに!
打ち上げ開始まではあと1時間。
まさに混雑のピークに見物客に混じって歩くのは、
ものすごいストレスだ。
きっといつも帰りに寄ってるコンビニも、
今頃とんでもないことになってるに違いない。
こりゃ、時間をずらしたほうがよさそうだ。
打ち上げが始まるまでは、どこかで待とう。
反対方向へ逃げるか。
戦略的撤退だ。転進するべし。
出店、人通りの少ないルートで移動を開始せよ。
そんなことを考え、最寄り駅の改札を出て、
花火見物会場とは反対の出口を出る。
ホントに今日は最悪だ。
なぜ、そこを歩いている。
去年歩いたからか。
こっちは人が少なくて、花火がよく見えるって教えたからか。
来年も一緒に見ようねって約束したからか。
なら、なぜ俺の知らない男と、そこを歩いている。
せめて違う道を通ってくれればいいのに……
なぜ、俺が教えた道を、約束した場所を、他の男を連れて歩くんだよ。
せっかく、直ってきていたのになぁ……
時間を潰そうと思っていた場所には行けないな。
仕方ない、別の場所へ行こう。
逃げ込むように辿り着いた公園のベンチはぼつぼつ空いていた。
ここは木がわずかに邪魔をして、花火が見えにくくなる。
花火大会の日でなければ、夜の公園にスーツ姿の男が、
いじけた顔で座っていたら、通報されかねないな。
もっとも、別の日だったらあの顔を見ることも、
あんな光景を見ることもなかっただろうけど。
ベンチに背中を預け、夜空を仰ぐ。
悔しいほどに晴れてやがるな。
去年の約束なんて忘れてたのになぁ……
約束を忘れたんじゃないな。
約束の存在自体が無かったことになった。だろうな。
あいつに恋をしてたころは、こんな別れが来るとは思ってなかった。
あいつは、あそこを歩いて、花火を見て、何を思うんだろう。
俺のことを思い出すんだろうか……
同じように淋しいだなんて思わないんだろうなぁ。
そりゃそうだ。独りじゃないんだから。
俺も独りじゃなかったら、あいつの姿を見ても平気だったのかな。
ひとりで大丈夫だと思ってたんだけど、強がりだったみたいだな。
乗り越えても、振り切ってもいない。
ズルズルと引き摺ってるじゃないか。
いや、毎日思い出してたわけじゃないぞ。
今日、見掛けてしまったから思い出しただけだ。
会いたいと思っていたわけじゃない。
古傷に打撃を受けて痛かっただけだ。
ピンポイントだったからダメージがあっただけだ。
とはいえ、叩き落とされて緊急着陸したのは確かだ。
ノーダメージじゃあない。それは認めよう。
あぁ、癒しがほしい。潤いがほしい。沈み込んでしまうまえに。
早く明日の朝にならないかなぁ。
彼女とオチョに会いたいなぁ。