セニョリータ・オチョ
「夏の夜の恋物語企画」参加作品
第1話 2948文字
「よしっ! ジョギングを始めよう!
一年の計は元旦にあり。ということだ」
自分の決意を自分に言い聞かせるようにしないと、
鈍ってしまうとわかっている。
我ながら情けないとは思うけどな。
何もしないでいるよりは、きっとマシなはずだ。
年も改まったことだし、いつまでも過去に拘っても仕方がない。
体を動かして汗をかけば、彼女を忘れるのも少しは早くなるだろう。
それに、俺も今年、遂に三十だ。
体力の低下は認めざるを得ない。ここで頑張っておけば、
課長やそれ以上の人たちみたいなハラにならずに済む。ハズだ……
起床は5時半! 6時からウォーキングとジョギングで1時間。
それなら仕事に行くのも充分間に合うしな。
そんな決意のもと、早、丸三か月。我ながらよく続いてるもんだ。
同じ30分でも、走るペースも上がってきたし、距離も伸びた。
いつもの運動公園の中のベンチで一休み。
水分を補給して、息を整える。
周りを見渡せば、ジョギングコースになっている土手の上を
かなりのペースで走ってる人、ウォーキングしてる人。
そして、俺の近くのベンチを目指して歩いてくる、
犬を散歩させている若い女性。
あの人も休憩かな。
ワンコはボーダーコリーかな?
ワンコにえらく見られてるな。
犬に好かれるのは、今に始まったことじゃない。昔からだ。
「犬好」姓は伊達ではないのだよ。
ファンタジー風に言うのならば、
「犬好の血」に宿るスキル【犬に好かれる】が発動中。ってわけだ。
オイ、ボーダーコリー。飼い主さんが呼んでるぞ。
それを無視してまで、俺に注目するのはどうなんだ?
そんなに俺にかまってほしいのか?
俺の思っていることが伝わったのか、
立ち上がって、しっぽブンブン状態だ。
あんな姿を見たらかまってやりたくなるけども、
飼い主さんは若い女性だしなぁ。
こっちから近付くのはなんとなく躊躇うなぁ。
変な男が近付いてきた。なんて思われるのはなぁ。
飼い犬の状態を見て、犬の希望を理解した飼い主さんが、
こちらに歩いてくる!
もうボーダーコリーは耳ペタになってしまっている。
相当に人間好きだな? お前は。
俺の目の前まで来たボーダーコリーは歩幅が小さくなり、
トタトタとでもいうような足音だ、
姿勢も低くなり、体全体で嬉しさを表現してくれている。
セリフをつけるなら、「さぁ、遊ぼうっ!」だろう。
あぁ、かわいいなぁ。犬のこのしぐさは、人を嬉しくさせるね。
まずは右手を開いて差し出してみる。
スンスンスン、うん、わかった!
もういいよ、さぁ、撫でてくれ!
もう、そう聞こえてくるようだよ。
手の匂いを確認したあとは、目を見てくる。
頬を撫でてやろうと、手を触れれば、向こうから押し付けてくる。
こうなると、正直撫で難いんだよ。
両手で顔を包んでやると、圧力が下がる。
犬の気持ちと勢いを受け止めたら、お次は飼い主さんにご挨拶だ。
「おはようございます。
この子はボーダーコリーですか?」
立ったまま、無邪気に撫でられている愛犬を眺めている飼い主さん。
まぁ、美人さんだ。
化粧っけがないのは、朝の散歩で油断をしているからか、
もともと必要がないのか。
年の頃なら、27,8かな?
胸元まで伸びる綺麗なストレートヘア。
赤みを帯びた茶色の髪。たぶん黒の方が似合う。
派手ではない顔立ちは、話を聞くのが上手そうだなぁ。
大きな会社の受付とかにいそうな雰囲気だ。
服装からも、大人しめな性格だろうと窺える。
茶色いロングスカートに、グレーのニット、ネイビーのダウンベスト。
控え目な色合いと言うべきか、地味というべきか。
言わないけどな。
「はい、おはようございます。
この子はボーダーコリーの女の子で、名前はオチョっていいます」
声の感じから、物怖じしている様子はない。
それほど高くないトーン。低めの声は聞き取りやすい。
やっぱり、初対面の人と会話をすることには慣れがあるようだ。
自慢の愛犬なんだろうな。微笑みながら告げる飼い主さん。
表情からそれが伝わってくる。
「お前は、オチョっていうのか。オチョ、オチョ」
呼びかけながら、背中を腹をつついてやる。しっぽはパタパタ。
黒い長毛の背中も、腹もモフモフだ。
しかも、ちっともごわついていない。
こまめにシャンプーしてもらってんだな、オチョ。
肩から、首回り、前足までは白いんだな。
まるで上から白い塗料でもかけたみたいにまっすぐに。
最後かなと思い、オチョの頭を撫でてやる。
「そこの模様が数字の8に見えませんか?
だから、スペイン語の8、オチョにしたんです。
さすがに【ハチ】は安直すぎますよね?」
飼い主さんが名付け秘話を披露してくれましたよ。
確かに、オチョの額と鼻周辺は8の字型に毛が白い。
「シー、セニョリータ・オチョ、オラ、コモエスタ!」
もちろんこれは飼い主さんに向けて言ったわけではない。
お前に言ったんだからな、オチョ。
あ、飼い主さんが笑ってくれている。
ちょっと嬉しいぞ。
さてそろそろ終わりにして帰ろうか。
オチョの頭から手を離す。
朝はみんな忙しい。
飼い主さんもこれから仕事だったりするだろうしな。
いつまでも犬と遊んでる時間は、俺にもないし。
だがオチョには解ってもらえなかったらしい。
「クゥン、クゥン」
鼻を鳴らしながら、俺の膝にお手をして、体を預けてくる。
もっと撫でろ。もっとかまえ。と催促してくる。
「まぁ、珍しいじゃないオチョ。
男の人にこんなに甘えるだなんて、見たことないわよ?」
飼い主さんは、驚いてるね。
「そうなんですか? 相当に人が好きそうに見えますけど」
「私以外にそんな声出してるの初めて聞きました。
ウチの家族にだってそんな鳴き方してませんし、
彼氏になんて近付こうともしないんですから」
そうなのかぁ。まぁ、そうですよねぇ~。
えぇ、それは世の摂理です。
綺麗な女には、男がいるもんさ。
マンガとかでさ、こういう出会いで始まるのとかあるだろう?
そういうの期待するなってのは、無理ってもんだろよ。
けど、始まりもしませんでしたっと。
俺の儚い野望は1分で潰えた。
俺を気に入ってくれたのは、女性ではあっても種族がちがう、
セニョリータオチョでした。
それからもオチョと飼い主さんとは、ほぼ毎日顔を会わせた。
毎日約3分。もっぱらオチョが俺に会いに来るのに、
飼い主さんが付き合わされている。といった状態だったけど。
そんなんだから、会話の中身はほとんどオチョと犬の話。
窺い知れた飼い主さんの情報は、彼氏がいること(泣)
オチョを飼って10年になること。
勤務地の最寄り駅。
車の免許は持っている。
まぁ、そんなもんだよ。
恋人のいる女性が、他所の男に自分のパーソナルデータを
そうそう話すわけないじゃないか。
だからこっちも下心があると思われない話題を選ぶわけで、
話しかけるのはほとんどオチョにだ。
まぁ、警戒されても、避けられても実生活にはなんの影響もない。
そうなったら、走るコースを変えれば済むだけ。
とはいえ、せっかく出会えた縁を粗末にするつもりもないから、
当たりも触りもしない内容の会話になるわけだ。
飼い主さんにしてみれば、愛犬が喜ぶから俺に寄ってくるだけ。
彼女自身は俺に用なんてない。
淋しいような、そうでないような。
そんなこんなで、四月も終わり、世の中はゴールデンウィーク。
カレンダーは赤い日が続く。
ゴールデンウィークの期間、オチョと飼い主さんは、公園に来なかった。