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ささやかで、かけがえのない善意

今日もよろしくお願いします!

 優季も叩頭して挨拶を返す。

「ご無沙汰しておりました、シェルトナー伯爵夫人。ご多忙にもかかわらずお時間を作っていただき、感謝いたします」

「堅苦しい挨拶はやめましょう、わたくしとあなたの仲じゃない。それより本当にお久しぶりね。こちらが依頼をしないと会いにすら来てくれないのだもの。わたくしもクルエルも待ちわびていたわ」

「恐れ入ります。今日は、クルエル様は?」

 クルエルというのは、優季に懐いている四番目の子どもだ。今年五歳になった、シェルトナー家待望の長男だった。

 優季に対面のソファを勧めながら、夫人はクスクスと笑った。

「あの子は、今日は王宮のお茶会に招かれているの。年の近い子ども達で集まって友人を作る場なのだけれど、ユーキさんに会いたいから欠席すると散々ごね続けていたわ」

「それはまた、何と言いましょうか……」

「あぁ、ユーキさんが謝る必要はなくてよ。あの子の一方通行だと承知しているから。だってユーキさんには、シル様がいらっしゃるものね」

「……ハハハ……」

 夫人は貴族なのに驕り高ぶったところがなく、階級社会に慣れない優季としても比較的付き合いやすい相手なのだが、この一点だけが玉に瑕だった。

 優季とシルを、恋愛関係だと思い込んでいる。

 当初などは夫婦と思っていたらしく、慌てふためいて否定する優季を眺めてようやく恋人なのかと納得してくれたほどだ。

 その認識すら間違っているのだが、ただの仕事仲間兼同居人だと説明しても、なぜかこれ以上は頑として譲ってくれなかった。

 ちなみにクルエルの一方通行だとする夫人の言にも全く根拠はない。かの少年は恋愛感情など一切抱かずに懐いているだけだ。

 ――この世界のどこに、三十四歳結婚経験なしの女を好きになる人がいるのかって言うね……。

 とっくに結婚願望など潰えているのに、不思議と心が痛い。

 やさぐれそうになった優季は、場所をわきまえ慌てて居ずまいを正した。

「ですがシルはあの通りの外見なので、貴族女性からも指名依頼が間断なく舞い込みますよ。その内、いいご縁に出会えるかもしれません」

 遠回しに否定すると、夫人は楽しそうに笑った。

「いやだわ。シル様は、どう見てもユーキさん一筋じゃない。どれほど若く美しい女性が群がろうと見向きもされないわ。そうして立ちはだかる幾多の困難を乗り越えた末に、二人は世界中から祝福されるのね……わたくし、ずっと応援しているわ」

 他人の恋愛話が楽しいのは分かるけれど、この妄想癖だけは治してほしかった。

 しかも恋愛至上主義的な発言が目立つ彼女だが、実際は聡明な社交界の華だ。

 怒涛の話題に呑まれうっかり口を滑らせようものなら、笑顔の裏でことごとく利用され尽くす。

 優季とシルの敬称を呼び分けている時点で、いかにくせ者であるか分かる。シルが『取って食われないように』と警告をするのも当然だと思う。

 優季は失言を避けるため、すぐに本題を切り出すことにした。

「本日面会をお願いしたのは、シェルトナー夫人にお伺いしたいことがあったからです」

「あら、わたくしに会いに来てくれたのではないのね。こうしてあなたが頼ってくれたこと自体は嬉しいけれど」

 愛らしく拗ねてみせる夫人が、優季の求めに応えてくれるかは未知数。リタの出自を吹聴するような真似も避けたい。

 優季は今日までずっと、どう質問をすべきか頭を悩ませてきた。

 緊張を努めて悟られないようにしながら、慎重に口を開く。

「……実は依頼で、貴族と庶民層での死亡率の差を調査しておりまして。ですが私には、戸籍に目を通す権限はありません。そこで、社交界に顔の広い夫人ならば、戸籍に頼らずともあらゆる情報に精通しているのではと思い当たりました。無理な願いであることは承知しておりますが、昨年お亡くなりになった貴族籍にある方を、把握している限りで教えていただきたいのです」

 もちろんこれは方便だ。

 リタによると、金にものを言わせて彼を孤児院から引き取ろうとした女性は未亡人だったという。

 夫は先年死んでしまい、このままでは屋敷から放り出されてしまうと、苦々しく語っていたと。

 昨年亡くなった、既婚者の貴族男性。

 優季は、これだけでもかなり数が絞られるのではないかと考えたのだ。戸籍を閲覧できないのなら、把握している者に直接訊ねればいい。

「もし教えていただけるのなら、今後シェルトナー伯爵家のご依頼があった際は最優先で着手させていただくつもりです。もちろん依頼料も、それを遂行するためにかかった費用も、一切いただきません」

 優季が差し出した破格の条件に、夫人の貴族らしい笑みが一瞬で消えた。

 無理もない。街のしがない『何でも屋』には、店を傾けかねない無謀な条件だ。

 おそらく彼女は、連絡をとった瞬間から優季の身辺を探っていたはず。わざわざ語らずとも、リタという少年が見習いになっていることも、その理由も大方把握しているはずなのだ。

 まともな依頼料すら発生しない、子どものちっぽけな願い。

 にもかかわらず優季は、ほとんど捨て身ともいえる条件を提示した。利害関係やしがらみの多い貴族である彼女には、理解しがたいかもしれない。

 それでも優季には、絶対に後悔はしないという確信があった。

 無垢で、一生懸命で。居場所を得ようと必死になるあまり、手を抜くことさえできない不器用な少年に、優季はとっくに絆されているのだ。

 真っ直ぐにぶつかり合う眼差しと、長く続く気詰まりな沈黙。

 ふと視線を逸らしたのは、伯爵夫人の方だった。

「……嫌だわ。ユーキさんはまだ、わたくしを信頼なさっていないのね」

 薔薇の吐息もかくやという憂い顔で、彼女はため息をこぼす。

 その若干芝居がかった仕草に、優季はどのような攻撃が飛び出すかと身構える。

 けれど彼女から向けられたのは、思いがけず人間味のある笑顔だった。

「ねぇ、ユーキさん。初めてお会いした時のことを覚えていらっしゃる?」

 夫人は遠い日を思い返すような眼差しをした。

 待望の男児出産に湧いていたシェルトナー家ではあったが、あの頃の夫人は身なりに気を遣うことができないほど追い詰められていたという。

 出産経験があるとはいえ、子どもというのは一人ひとり性格が違うもの。クルエルは、とりわけ手のかかる乳児だった。

 母親の腕の中でないと常に泣き続けているような状態で、乳母だけでなく父親である伯爵すらも拒絶した。今の天真爛漫な姿からは想像もつかないが、敏く繊細な赤子だったのだろう。

 社交界の華として磨き続けていた美貌が、見る影もなく衰えていく。

 体形は崩れ髪は艶を失い、肌もガサガサ。目の下には色濃いくまが常に居座り、その内鏡を覗くことさえしなくなった。

 けれど、容貌の衰えくらいなら我慢できよう。

 どうしても耐えられなかったのは……頼れる者がいない不安。

 抱き締めていないと眠らない赤子だったので、横になって休むこともままならない。昼も夜もなく泣き叫ぶ乳児をあやすだけの日々の中、腕の重みを預けられる相手がいない。孤独と恐怖がじわじわと胸を蝕んでいく。

 そんな時、何気なく現れたのが優季だった。

「『お休みになってください』とあなたが言ってくれた時、強ばった腕からあの子を抱き上げてくれた時――わたくしがどれほど救われたか」

 夫人は、テーブル越しに優季の両手を、そっとすくい上げた。

 柔らかな感触と、作りものではない笑み。

 いつでも完璧な美しさを損なわないシェルトナー夫人にしては珍しく、飾らぬ感情が表れていた。

「あまり見くびらないでいただきたいわ。わたくし、恩を忘れてあなたを利用するほど、薄情な人間ではなくてよ」

「夫人……」

 思いがけない優しさに、優季は言葉を失った。


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