人を斬る手を、人を活かす手に
あれから一月が過ぎた。
何故あの人から逃げてしまったのだろうと徐福は考えた。龐徳公は彼を家に迎えると言った。龐徳公には裏表がない。語る言葉はすべて真実と思ってよかった。今にして思えば。だが。
あの時の徐福はそれを信じることができなかった。
汚い大人を見過ぎたせいかもしれない。信頼できる大人というものに徐福は縁がなかった。大人は子供を侮り、食い物にし、使い捨てにする。年端も行かぬ子供に人殺しをさせる大人の悪辣さに、もっと早く気づくべきだった。前科者になってようやく気づいた。自分は幼かった。
襄陽に着いてから、龐徳公が想像以上の名士であることを徐福は知った。道行く人が敬意をもって道を空ける。声望があまねく知れ渡っているのだ。徐福は急に怖くなった。自分が暗殺業をしていたことを龐徳公は知らない。もし知ったら…
龐徳公の家は川の中州にあり、小舟を使って渡る。あえて不便な場所に居を構えたのは人を避けるためだという。常に周囲を警戒しながら生きてきた徐福にとって、そこは絶好の隠れ家に思えた。しかし。
気がつくと彼は一目散に駆けていた。龐徳公が何か叫んだが振り返らなかった。
あの時と同じ、なまぬるい雨が降っていた。
徐福は薄汚い店の裏手で暗い空を眺めていた。腐った残飯の饐えた臭いがした。わずかな日銭を稼いで命を繋ぐだけの日々。組織を抜けた後は世間との関わりすら失われたようであった。少なくとも人を殺さなくて済むということだけが救いであった。
やくざ者はやくざ者のまま一生を終えるのだろうか。
相変わらず徐福は熟睡することができなかった。熟睡できたのは襄陽に着く前夜のみである。人の鼓動が安心をもたらすものだと初めて知った。知らなければよかったと今では思う。温もりを知らなければ求めることもないからである。
(温かいものは嫌いだ)
無意識に人肌と鼓動を探す自分が腹立たしい。
城下にいれば龐徳公の噂は耳に入ってくる。隠者のような生活をしてめったに人に会わないこと。荊州刺史の劉表と縁者で襄陽きっての名士であること。探してくれると期待するほど徐福は子供ではなかった。しかし諦めきれるほど大人でもなかった。本当はあの手を取りたかった。…
徐福は傷跡だらけの掌を見つめた。多くの人を殺めた手は血塗られ、汚れ、龐徳公の手を取る資格はないと思えた。
徐福は痩せた膝の間に顔を埋めた。
雨はあの時よりも冷たい。冷たい雨など平気だったのに。冷たさを知覚してしまうようになったのは、
――あの人のせいだ。
その時だった。目の前に黒い影が差した。
「そのままでよいのか?」
徐福は濁った眼を上げた。龐徳公が、あの日と同じ瞳で徐福を見つめていた。
音が消えた。
自分はきっと今呆けたような顔をしているだろうと徐福は思った。夢でもこんな都合の良い夢は見ない。
龐徳公は徐福の背丈ほどもある大きな包みを抱えていた。
「これを届けに来た者がいた。お前の旧友だと言っていた。石韜という」
石韜、と徐福は呟いた。驚きで声が出なかった。あいつが襄陽まで来たのか。これを届けに。
「父の形見なのだろう?」
徐福は剣を受け取った。捕縛されるまで徐福が肌身離さず持っていたものだ。とても大事な…
ずしりと来る真剣の重みに徐福は少なからず驚いた。これほど重かっただろうか。
「重いか」
「……」
「お前が奪った命の重みだ」
徐福は顔を上げた。雨で濡れた前髪が貼りつき、雫が目に入った。龐徳公の顔がぼやけた。
「剣に生きるなら、その重みを背負って生きねばならぬ」
「俺の過去、知って…」
「石韜から聞いた。彼も組織を抜けてきたそうだ」
徐福は龐徳公から目をそらし、ぎゅっと剣を抱いた。知られたくなかった過去を知られた羞恥は精一杯の虚勢となり、攻撃に形を変えて発露した。徐福は叫んだ。
「じゃあもう構うなよ!俺は人殺しだ。あんたとは違う!」
龐徳公の手が徐福の頬に触れた。徐福はびくんと体を震わせた。龐徳公の掌は温かかった。人肌のぬくもりに蕩けてしまいそうなほど。
温かいものは怖い。知れば一人で立てなくなってしまう。
「人を斬るのは嫌か」
「触るなっ」
「才の使いどころを誤ってはならぬ。お前には別の才がある」
「大人は嫌いだ!」
「お前の知る大人ばかりではない。世を思い民を愛する人物もいる。巡り会えていないだけで」
「嘘だ!」
龐徳公の手が徐福の固く閉じた手を取り、指をひらかせた。拒みたいのに拒めない。
その手に触らないでくれ。汚れているから。
「剣は人を斬るが、之は人を活かす」
何かがするりと入ってきた。掌の中に、心臓の中に、魂の中に。…
うう、と獣のように徐福は唸った。拒絶できない自分が一番怖かった。
「違う生き方をしたければ、うちへ来い」
我に返った時、雨中に龐徳公の姿はなかった。
徐福は掌をひらいた。一本の筆がそこにあった。
さっとひと筋の光が筆に差した。
徐福は曇天を見上げた。雲の切れ目から太陽が顔を見せていた。雨は上がっていた。
小舟で中州に渡り、徐福は龐徳公の屋敷の前に立った。
門は開け放たれているのに、くぐる勇気がなかなか出ない。逡巡する徐福の耳に、どこからともなく、小さな子供たちの声が聞こえてきた。
曲がれば則ち全し。
枉まれば則ち直し。
窪めば則ち盈つ。
弊るれば則ち新たなり。
少なければ則ち得、
多ければ則ち惑う。…
しばしの間徐福はその声を聞いていた。乾いていた心に水が沁み込む心地がした。すべてを肯定されているような不思議な感覚が徐福を包んだ。今まで知らなかった世界だ。気づくと彼の口も同じ文言を唱和していた。
「『老子』だよ」
ぽん、と肩を叩かれて徐福は振り向いた。彼の幼馴染、石韜が、数人の子供の手を引いて立っていた。
「遅いぞ。せっかくこの俺が襄陽まで来てやったのに、待たせやがって」
「お前…何でここに」
「親友が行方不明になったら探すのが道理だろ。知らないおっさんと姿を消したっていうから、てっきり売り飛ばされたのかと思ったぜ。ま、そんな玉じゃねえか」
石韜はからからと笑って徐福の背中を思い切り叩いた。まるで家人のように溶け込んでいる。徐福は呆れた。石韜の如才なさはよく知っているつもりだったがこれほどとは。
呆気にとられる徐福を、子供たちが物珍しそうに取り囲んだ。さっきの唱和はこの子たちだったのだろう。
「何が楽しいのか、近隣から集まってくるんだよ。私塾でも開けばいいのに、あのおっさんやる気なくてすぐどっか行っちまうんだ。仕方ねえから俺が先生役さ」
「お前が先生?冗談だろ?」
「頭の回転と弁舌にかけちゃ、俺に敵う奴はいねえぞ」
徐福を遠巻きに見ていた女児の一人が急に泣き出した。ぷっと石韜が吹き出した。
「お前、目が怖いんだよ。蘭児ちゃんが泣いちまったじゃないか」
「俺のせいか?」
「ごめんな、このお兄ちゃん怖いよなあ」
「おいっ」
徐福が軽く小突いた時、釣竿を担いだ男がふらりと入ってきた。徐福ははっとした。龐徳公だった。
「来たか」
まるで予期していたかのように龐徳公は徐福を迎えた。子供たちが歓声を上げて龐徳公の裾に飛びつく。俺より懐かれてるなんて割に合わねえ、と石韜がぼやいた。
龐徳公は釣竿と魚籠を置いた。魚籠の中身は空である。からかうように石韜が言った。
「徳公、釣れませんでしたね」
「釣れるのは魚とは限るまい」
ふふ、と龐徳公は笑って徐福の方を見た。
「今日はお前が来る気がした」
「…え」
龐徳公は徐福の頭の上に手を置いた。
龐徳公の触れたところから、どくどくと脈打つように血が巡り始める。まるで新しい血に入れ替わったかのように。
(温かい)
不意に涙があふれてきた。
喉から突き上げる慟哭に徐福は自分でも驚いた。涙を流すなど何年ぶりだろう。思えば喜怒哀楽などずっと無縁で生きてきた。
徐福は子供のように声をあげて泣いた。子供たちが目を丸くして彼が泣くのを見ている。自分が何故泣いているのか彼自身にも分からなかった。
(了)