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旅路の終わり

街道を行けば七日もかからぬ距離を、もう二十日ばかりも歩いている。

山中の歩みは遅々として進まなかった。龐徳公が薬草採りにかなりの時を費やしているからである。その無駄に見える間に、徐福の怪我はだいぶ癒えていた。

しかし癒えたのは体の傷だけだと龐徳公は思っている。彼の傷はむしろ精神の方が深い。

(眠らない子供だな)

徐福は龐徳公の知るどんな子供とも違っていた。

彼は龐徳公の前では眠らない。睡眠中が最も無防備になるからだ。これは野生の獣の習性に近い。どのような生い立ちをしたらこうなるのか。徐福は自らのことを喋らない。というより極端に口数が少ない。最初は口がきけないのかと疑ったほどである。何故龐徳公についてきたかも分からない。生きたいのか死にたいのかそれすらも。

(それでもあの驟雨の中、彼は私に手を伸ばした)

生への希望をいまだ捨てていないということだ。

龐徳公は黙って椀を抱えている徐福に視線を走らせた。焚火の揺らめく炎が彼の顔に深い影を落としている。火は原始の記憶を呼び起こす。火を見つめる徐福の目は相変わらず鋭いが、旅の間に針のような気配がいくぶん和らいだ気がする。常時気を張りつめているのは大人でも難しい。

あれから龐徳公の出す食物を、徐福はおとなしく食するようになった。とりあえず龐徳公が危害を加える者でないことは理解したらしい。毒か薬か得体のしれぬ汁物でも躊躇なく口に運ぶため、時々中毒して苦しむこともあったが。

(語らぬ者に語らせる必要はあるまい)

ほとんど言葉を交わさぬまま、二人は旅を終えようとしていた。

共に寝起きするうちに、徐福が非常に賢い子供であることが龐徳公にも分かってきた。彼に学問をさせてみたい。彼が長じてどのような人間になるのか見届けたい思いが龐徳公の中に湧きあがっていた。勿論それには徐福の意思が必要で、襄陽に着いてから彼が暗殺業に戻っても止めることはできない。それでも彼には庇護する者が必要だと龐徳公は思った。

いつものように残り火の始末をし、毛足の長い敷物にくるまったその夜のことだった。


徐福は座ったまま意識を飛ばしていた。眠っているようで完全に眠ってはいない。五感は鋭敏に研ぎ澄まされたままである。もうずっと前から彼は人前で眠ることができなかった。自分以外の他者の気配は彼の眠りを妨げる。否、人前でない時も状況は大して変わらなかった。眠らないのではなく、眠れないのだ。原因も分かっていた。父が殺された時の夢を見るからだ。

徐福が物心つくかつかない幼いころ、彼の目の前で、徐福の父は殺された。

夢の中、白刃がきらりと月光を反射して父の胸に突き刺さる。父が断末魔の声を上げる。鮮血が飛ぶ。子供の徐福は父に駆け寄ろうとする。が、体は微動だにしない。足も石化したように動かない。何もできない。動け動け動け、と頭の中で声だけがぐるぐる回る。父と目が合う。逃げろ、と必死の色で訴える父の目から、徐々に光が消え、血と死の匂いが室内に立ち込める…

――やめろ!

父の命を奪った男は覆面をしていた。その目が、徐福に向かってかすかに嘲笑わらった気がした。

(子供のお前に何ができる。そこで見ていろ。指をくわえて父が死ぬのを待て)

――やめろ!

実際には犯人は徐福に気づかず仕事を終えるとすみやかに逃走した。見つかれば徐福も死んでいただろうからこれは記憶の中の虚像である。しかし彼の夢ではいつもこちらが現実であった。無数の赤い花が狂い咲く黒い空間に徐福はいた。父から流れ出る血が不吉な花を咲かせているのだ。いくつもいくつも。花が増えるたびに父の命が失われていく。父の命を吸って花は咲き乱れる。足元にはぽっかりと黒い穴が開いていた。ふと見ると、穴底から白い手が何本も伸びていた。手は徐福の幼い足首を掴み、腿に絡みつき、下へと引きずり込もうとするのだ。徐福は悲鳴を上げた。

何かを掴もうと徐福は手を伸ばしたが、虚空は死の花が満ちるばかりで、掴めるものは何もなかった。何も。誰も。彼と彼の父を助ける者などどこにも。

絡みつく手が増える。泥の中にずぶずぶと体が沈む。足が、腰が、胸が、顔が泥の中に沈んでいく。口が鼻が泥に塞がれる。息ができない。喉が破れるほど叫ぶ。叫んでも叫んでも声は出ない。どこにも届かない。

自分の声など誰にも届きはしない…

しかしその日は違った。

「どうした」

無音の虚空で、誰かが答える声がした。今までにないことだった。

次の瞬間、徐福の手は何かしっかりとしたものを掴んでいた。


徐福の様子を見に行った龐徳公は、彼の手が何かに縋るように差し出されているのを見た。それは初めて会った驟雨の時を想起させた。諦めながら、それでも何かを求めるように伸ばされた傷だらけの手を。

「どうした」

吸い寄せられるように龐徳公はその手を握った。子供と思えぬほど鍛え抜かれた徐福の手は、それでも年相応の小ささで龐徳公の掌に収まった。汗ばんでいるのにひどく冷たい。握ってみるとその手は小刻みに震えていた。悪夢でも見ているのか、口元は声ひとつ立てないまま固く引き結ばれている。

この子は何にそれほど苦しめられているのだろう。子供というものは無条件で愛されなくてはならぬものなのに。痛みを一身に背負う小さな存在が痛々しく、龐徳公は握る手に力を込めた。

その途端、小さな体が痙攣したように跳ねた。

徐福の目が驚愕したように大きく見開かれた。同時に、喉の奥でひゅうと空気の通る音がした。

(息をしていなかったのか)

足りない酸素を補おうとするように徐福が口をわななかせた。うまく呼吸ができないのか蒼白な顔が苦悶に歪んでいる。半開きの口はいたずらに震えるばかりで十分な空気が取り込めていない。

龐徳公は徐福の口をこじ開け、口移しに酸素を送り込んだ。

「落ち着け。息をゆっくりと吐け」

徐福の全身が硬直している。龐徳公は彼の痩せた背中を撫でた。爪を立てて嫌がったが強引に撫で続けた。


泥の中で窒息しかけていた徐福の呼吸が急に楽になった。徐福の手が掴んだ何かが、彼を泥から引き上げたのだ。無我夢中で徐福はその何かにしがみついた。声が届いた。自分の声が初めて。それが良い者か悪い者かは問題ではなかった。

その手がさっと剣を振った。父の愛用の剣だった。赤い花が一斉に散り、渦を巻いて虚空に舞い上がった。

剣先から清冽な風が吹いた。徐福はその風を胸いっぱいに吸い込み、…あとは何も分からなくなった。


口から送り込む呼吸に合わせて撫で続けるうちに、徐福の浅い呼吸は徐々に深くなり、正常になっていった。手負いの獣じみた抵抗もいつしか止んでいた。

よく見ると、徐福は龐徳公の腕の中で眠っていた。小さな獣が力尽きたような眠りだった。


眩しい……

徐福の瞼いっぱいに曙光が差した。薄目を開けると、視界に虹色の光が満ちた。生まれ変わったような思いで徐福は光を見つめた。不思議な感覚だった。

眼前にきらきらした陽光を束ねて流れる大河があった。

「襄陽だ」

龐徳公が彼方を指さした。悠々たる淯水の流れの向こうに城郭が霞んでいた。

徐福は目を凝らした。旅の終わりだった。



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