いまだ深き闇路を
深淵より深く~旅路編~
死というものを徐福は改めて考えたことがなかった。
それほど死は身近で、ありふれたものだった。彼の周辺では日常的に抗争が起き、人の死など日常茶飯事であった。成人子供の区別なく、些細なことで多くの人が物言わぬ骸となった。徐福自身も何度骸になりかけたか分からない。
十四歳の徐福の技能は殺人である。
倫理的な良し悪しは問題ではない。習得しなければ生き残れなかった。彼にとっては、ものの善悪よりまず自分が生き残ることが最優先事項であった。同年代で死んでいく子供などごろごろいた。これでも徐福は運の良い方である。人一倍器用で頭の良かった彼は、殺人スキルにおいても大人顔負けの技能を発揮した。これは大人たちに最前線で使い捨てにされやすい駒になったということでもあったが、十四歳でそこまで理解できるはずもなく。
恩ある人が理不尽な死を迎えた時、真っ先に立ち上がったのが徐福だった。
捕まって拷問にかけられ、市に晒されても、徐福に後悔はなかった。
死はありふれたものだった。死んでゆく者などごろごろいた。誰にも助けを求めず死ぬことに迷いはなかった。そのはずだった。あの雨の日も。
地上からすべての人が死に絶えたような驟雨の中、あの男――龐徳公は立っていた。
――共に来るか。
徐福は目を細め、眼前を早足で進む長身の男の背を眺めた。襄陽から来たと言っていた。
このまま行くと徐福も襄陽に至る。
(大人は嫌いだ)
大人は子供を侮り、食い物にし、使い捨てにする。少なくとも徐福の知る大人はそうだった。
しかしこの龐徳公という男は、少しだけ違う匂いがした。身なりや物腰からかなりの名士らしいことが見て取れたが、それだけが原因ではなさそうだった。もっと違う何かがある…ような気がする。
速度を緩めることなく先を行く龐徳公は、自分が連れているのが十四歳の子供だということを忘れている風だった。一度も振り返らない。徐福がついてきていることを疑いもしない様子である。
(逃げてしまおうか)
共に来るかと言われたからと言ってなぜ素直についてきてしまったのだろう。魔が差した、としか言いようがない。大人など大嫌いなのに。
しかし自分に行くあてがないことも徐福は知っていた。組織に戻る気は失せていた。ならば逃げる他ない。幼馴染の石韜の顔が浮かんだが、徐福はそれを打ち消した。
素足に砂利が食い込む。潁川を出てからは街道を離れ、ずっと人里離れたけもの道を歩く。罪人として縛されていた徐福は履物をはいていなかった。歩くことを想定していなかったからである。
山沢に分け入ってから道が悪い。棘の多い草は子供の柔らかい肌を刺し、角張った石の先端が足裏を傷つける。生傷だらけの足からは新たな血が流れたが、それを見ても徐福は何も感じなかった。痛みには慣れてしまっていた。寒さや空腹にも。
黙々と歩き続ける徐福の足の甲には丸い穴の形をした生々しい傷が口を開いている。拷問で釘を打ち込まれた跡である。肉の盛り上がった深い傷口は歩くたびにひどく痛むはずなのだが、感覚はとうに麻痺していた。思えば徐福は、痛みというものをずいぶん前から感じていなかった。体に受ける痛みも、心に受ける痛みも。皮膚に受ける温かさ冷たさその他あらゆる五感の感覚すら。
痛みとはどんなものだっただろう。
不意に前を行く背中が止まった。
龐徳公が、自らの草履を脱いだのだ。
(…?)
つられて立ち止まった徐福の鼻先に、大人用の草履が突き出された。
「お前が履くとよい」
そのまま何事もなかったかのように龐徳公は歩き始めた。
「……」
徐福は草履を見つめた。今脱いだばかりの草履は人肌で温かかった。
子供の足にはやや大きいその草履を、徐福は手に持ったまま後を追った。履くのは、何故か躊躇われた。
温もりを手放したくなかった、とは思いたくなかった。
(では何故)
ほんの一瞬、徐福の意識が逸れた隙に、追っていた背中が視界から消えた。
「…あ」
思わず年相応の声が出た。徐福の背丈よりも高い灌木の茂みだけが目の前に広がっていた。黒い姿は見えない。
(何処へ行った)
徐福は首を巡らせた。
人の気配を察知するのは彼の得意である。ほどなく沢の方へ下りてゆく黒い影が目に入った。道はない。
ちっ、と徐福は舌打ちした。
(あのおっさん、野草摘みの寄り道ばかり)
これではいつ襄陽に着けるのか分からない。
徐福は草深い悪所へと傷だらけの素足を踏みだした。
その時、素足が空を切った。
道と思っていた場所に大地はなかった。とっさに掴むものを探した手はあの草履を握ったままで、判断が一瞬遅れた。小さな体が重力に引っ張られる。視界が逆さまになり、やがて暗転した。
遠い記憶が浮かんでは消える。
早くに死んだ父。苦労して彼と彼の弟を育てた母。病弱な弟。連座を恐れてもうずいぶん会っていない。
その父が徐福に笑いかけている。
(ちちうえ)
父が死ななければ、徐福が人殺しに手を染めることはなかった。徐福は無意識に腰に手をやった。肌身離さず持っていた形見の剣は、捕縛された時に取り上げられて今はない。
(ちちうえ)
「ひどい熱だ。その体でよくここまで歩いてきたものだ」
父の声がした。否、父ではない。からからに乾いた徐福の喉がひゅうと鳴った。声が出ない。
薄目を開けると黒い長身の姿がおぼろげに映った。
同時に何かを煮込む匂いが、嗅覚を刺激した。
(何だ)
羹らしいが、徐福の知る羹とは匂いが違う。もっと青臭く原始的な、薬に近い匂い。
徐福は顔をしかめた。薬は嫌いだ。
体を起こそうとしたが全身が痛くて動けない。あちこちを打ったらしい。徐福はようやく、自分が崖から落ちたことを思い出した。
「傷もひどい。今できたものではないな。これが発熱の原因か」
龐徳公は徐福が目を覚ましたことに気づいていないらしい。手早く傷の手当てをしていく様子は物慣れていて、医術の心得があることを窺わせた。薬草に詳しいのもそのせいか。
「!」
徐福は手当てする手を振り払った。他人に触られるのは耐えがたかった。
龐徳公が手を止めた。毛を逆立てた小さな獣のように自分を睨みつける徐福を見ても、特に驚いた様子はない。
「起きたか。丁度良い」
警戒心むき出しの視線に動じることなく、龐徳公は椀に羹を掬い、徐福に差し出した。
「傷に効くはずだ。飲めるか」
「……」
徐福は口をつけない。
「まあよい。気が向いたら飲め」
そう言うと龐徳公は火の傍へ戻っていった。別の鍋で何かを煎じている。羹ではない。火の傍には山草がうず高く積まれていた。薬なのか毒なのかもっと別の何かなのか、嗅いだことのない奇妙な臭いが漂ってくる。怪しさ極まりない。
(こいつ…何者?)
徐福は手の中の椀を眺めた。
(温かい)
温かい食べ物とは久しく縁がなかった。彼にとって、食事とは常に冷え切ったものだった。単に命を繋ぐだけの味気ないもの。家族といたころはそうではなかった……
温かいものは苦手だ。家族を思い出す。はりつめた気が緩む。体が溶かされてしまう気がする。
徐福は椀に口をつけた。味は分からなかった。温かさだけが知覚された。
温かさとはこのようなものだったのか。
不意に強い痛みが全身を襲った。知覚されていなかった痛みが、血のめぐりと共に呼び起こされたようだった。徐福は椀を取り落とし、蹲った。それでも声は立てなかった。
声は出ない。
偽りの妄言ならいくらでも口にしてきたが。
真実の声は、出そうとしても深く沈むばかりで。
死んでいた五感が少しだけ蘇ったような気がしたが、発熱のせいで頭が鈍っているのだろうと打ち消した。