二、鶏のはちみつ生姜焼きで飼い慣らしてみました ー 花
「ただいまー母ちゃん」
表の玄関から夫の声がした。今日も帰りは夜遅い。きっと機械をいじっている内に夢中になって時間を忘れてしまったのだろう。いつものことだ。
カウンターの右後ろ、そこにあるドアをそっと開けて夫が入ってきた。うっかり勢いよく開けて、ばいんと花をはね飛ばしたことも一度や二度ではないが、さすがに学習したらしい。
夫の性格を一言で表すなら、「巨大な穴が一つだけ開いたでっかいザル」だ。あるところでは水も漏らさぬ緻密さだが、他のことではまったくの無能。つまりザルとしての機能はまるでないが、穴を何かで塞げば他の者が真似できないような働きをする。
まあ、能力云々より、とってもおもしろい人だってのが肝心なとこだよね。花はおかげで退屈したことがない。失明してから仕事を辞めなくてはならなくなったが、夫のいうとおりに田舎に引っ越したら新居にはこんなおまけがついていた。
退屈する暇もあったもんじゃないぞ。異界の賄いはなかなかに刺激的かつ有意義だ。
「母ちゃん、カレー? カレーだよね? 早く食べさせて」
夫の照は足踏みをせんばかりになって花に夕食をせがんだ。
「こんなでっかい息子産んだ覚えないんだけどなあ」
ぶつぶつ言いながら花はカレーを用意する。本当のことをいえば、夫が子どもっぽくふざけたり駄々をこねたりするのは嫌いではない。そもそも日向家に子どもはいないから、これくらい賑やかなほうが寂しくなくていい。
「はい、カレー。甘酢レンコンは後から持ってく」
「はいはい。あ、母ちゃんもう手を放していいよ」
手渡しした二枚の皿を持って夫は食堂に降りて行った。花もレンコンを山盛りにした鉢とスプーンとフォークを持って続いた。段差が緩やかなスロープになっているので、ややつま先に力を入れてバランスをとる。
「あ、水もってくる」
「お願い」
花が鉢をそろそろとテーブルに下ろす間に夫は身軽に水のポットとそれぞれのマグカップを取ってきた。
「母ちゃん、今日は何カレー?」
「牛すじのとろとろカレー」
「うわあ、いっただきまーす」
「どうぞ」
昼間砦の連中が貪っていた量の半分くらいを倍の時間かけて夫はじっくり食事する。花はさらにその半量だ。ちなみに昼はレンコンとおにぎりですませている。ここの連中の食欲につきあっていたら身が保たない。
「何かおもしろいことあった?」
おや、今日は何かいやなことがあったな。花は片眉をはね上げた。夫が花にネタを求めてくるのは仕事が立て込んでものすごく忙しかったか、気に染まない仕事を押しつけられたときだ。こういうとき、楽しいネタを提供してやるのも花の役目だ。幸い十年前ここに引っ越してきたときから、ネタは尽きることがない。砦はネタの宝庫だ。
「今日ね、新入りさんが来たよ。でっかいおじさんとちっこい妖精さん」
「へええ、妖精さんかあ。可愛いの?」
「スケさんが言うには、ふわふわ蜂蜜色の髪に若草色のきれいな目をしてるんだって。唇がさくらんぼみたいなんだってよ。ほっぺたが熟れ始めたばかりの桃みたいにすべすべで、これが自分の娘なら、しまいこんで外に出さないっていってた」
「さすがスケさん女の子の描写に抜かりがないねえ」
「オルたん男の子だよ?」
そりゃまた、と夫は笑った。花も思い出してにやにやしてしまう。オルコットという少年は口が悪くて元気な暴れん坊だ。そしてやさしい子。育ちが良さそうな気遣いと先輩相手に遠慮のないツッコミ。
ありとあらゆる容姿に関する褒め言葉に少年は激昂し、スケルトニオに殴りかかるところをヘムレンに止められていた。どうやら後ろから羽交い締めにされたらしい。そこでヘムレンの顎に頭突きをくれたのはゴッという音とぶぎゃっというヘムレンの悲鳴でわかった。
「おもしろいよお」
「僕も早く会いたいな。クリスタならリボン攻めにするんじゃない?」
「それ、もうやった」
砦には二人の女騎士がいる。クリスタは男に勝る技量と体躯の持ち主だが、ファンシーな可愛いもの好きで、キャラクターグッズ好きの夫と仲が良い。二人とも飾り立てる対象が自分ではなく「小さいもの」というところも共通している。今のところ一番の標的は花だ。
いいとしをしたおばさんが、色とりどりのリボンやら猫耳やらで盛り付けられるのにももう慣れた。最初のうちは絶句していた砦の連中も慣れた。しかし、これからは不慣れな少年が二人の餌食となることだろう。
気の毒だけど止めない。花はレンコンを咀嚼しながらほくそ笑む。夫の弁によると、クリスタは波打つゆたかな焦げ茶色の髪と青い目をした迫力のある美女らしい。お姉さんと呼ぶにはいささか躊躇われる年だが、心は少女だ。
「見たかったなあ。ね、オルたんウサギ耳がいいと思う? それとも熊リュックかな?」
「まあ全部試してみればいいんじゃない?」
無責任に花は煽る。自分のことではないので何とでも言える。
「うん。あ、母ちゃんこの牛すじ、もうちょっとちょうだい」
「いいよ。もうそろそろローヴとヘイワン来るからちゃんと残してね」
「了解」
キッチンにに走った夫は鍋をかき回して牛すじを拾っているらしい。炊飯器も開けているから、白飯も食べるつもりだろう。
やがて戻ってきた夫は、好物のレンコンと牛すじをおかずに食事を再開した。
「この牛すじよく煮えてるねえ。ほんととろとろだ」
「長いこと煮たからね」
「手間かかってるんだあ」
「まあね」
大嘘である。時間はかかっているが手間はかかっていない。がんばったのは炊飯器であって花ではない。
洗った牛すじと玉ねぎ、生姜の皮、塩少々と水。これだけ炊飯器に突っ込んで、スイッチポン。これを三回繰り返す。後は適当に切って煮込むだけ。手間というなら、カレー本体のほうがよっぽどかかっている。
レンコンにしても、茹でて切って漬け込むだけだから、基本的に花の料理は、適当で手抜きだ。
食べる人々には秘密にしている。花だっていっぱい褒められて得意顔をしたい。そのために、簡単で美味しくてかつ手間がかかっているように見えるメニューを日々研究しているのだ。
「母ちゃんのカレー好き?」
「好きー」
よしよし。花はいたく満足した。これが花の至福の瞬間だ。これで明日も生きていける。
にまにましながら夫のむぐむぐ食べるのにつきあっていると、左手の引き戸がそろりと開いた。
「あ、来た」
足音もなく入ってくるが、誰かはわかりきっている。ローヴとヘイワンの夜行性コンビだ。
『ハナさーん、今日もかわぅいーねー。何か食わせてー。俺のなかのハナさん濃度がさがってんの』
『うむ、大盛りで頼む』
チャラいのが虎人のヘイワン。硬いのが狼人のローヴ。夫は密かに「チャラ虎」「狼侍」と名付けている。適当な呼び名は夫の得意技だ。本人たちには内緒だが。
『よう来たね、まあ座りんしゃい』
【*ここからはトロニア語でお送りいたします
「お帰りなさいませ、ご主人様! 今日も萌萌歓迎だっちゃ」
ああ、夫よ。なにゆえあなたはそんな特殊な言語センスをしているのだ。メイド喫茶か。だいたい「だっちゃ」ってなんだよ。年代がバレるだろうが。花は自分のトロニア語が訛っていることは百も承知で額を押さえる。もう十年にもなるのだから、なんとかならないものか。夫も自覚はあるらしい。日本語だと饒舌なのにトロニア語になると途端に寡黙になる。
「あー、テルさーん。こないだ滑車の修理してくれたじゃん? あれ、サイコー。お礼にじーさまばーさまが筍持ってけって」
誰も夫の珍妙な言葉遣いを気にしてないから直らないんだな。納得のうえ、花はキッチンに向かった。ヘイワンの一族が掘ってくる筍は柔らかく香り高い。五百年前に「ずれた」のは家屋や水田だけにとどまらず、竹林や沼もある。お陰で花たち現代人はおいしい思いをさせてもらっている。
「いつもありがとね。明日は筍ご飯と木の芽和え、それから鶏肉と煮ちゃろうかね。樹ちゃんが来たら天ぷらにしてもらおかね」
じゅるり。喩えではなく実際に舌なめずりの音がした。夫が含み笑いをしながら指摘する。
「むふふふふふふヘイワン、ローヴ、尻尾ふりふり、きゃぴりん萌っちゃ」
そうかそうか、そんなに嬉しいか。花は虎と狼の尻尾が並んで、ゆらゆらふさふさ揺れているのを想像して幸せな気分になる。中途失明は困ることも多いが、映像や色をイメージしやすいのはありがたいところだ。
「茶碗蒸しと筍ハンバーグ。それからがめ煮」
砦で夫の次ぐらいに口の重いローヴが控えめにリクエストした。
「追々作っちゃるけん」
花の手はゆっくりと、いろいろな物の位置を確かめながら動く。目の代わりをするのは主に手であることも、見えなくなってから知った。
大きな深皿二枚に飯の残りをすべて盛り付ける。そこに温めたカレーをかける。これは重い。どれだけの量を作ろうとも、残飯がまったく出ないのは彼らの胃袋のお陰だ。ただし、量が足りないと世にも悲しい声で唸るし遠吠えするので、多めに作るのが常になっている。さらにいつでも使える食材を備蓄してもいる。
「カレーって聞いてたからさあ。やべーうれしすぎるって、無駄に草っぱら走り回っちゃったよお。いやあ、腹減ったぁ。ハナさーん何とかしてぇ」
カウンターでごろごろ喉を鳴らすヘイワンはチャラいおねだりモードに入っている。遠回しすぎて面倒なので全力でスルー…と思ったところでど真ん中どストレートの剛速球が来た。
「肉が足りぬ。肉を所望する」「ローヴ、おまいさんねえ、もうニホンジンとつきあい長いんだからさあ、何かこう、ニホン的な気遣いっちゅーか、奥ゆかしさっちゅーか…」
「知らぬ。ハナ殿は常に要求を簡潔かつ明瞭に言えと仰せだ」
「ああ、そのほうがよか」
花は冷凍庫から肉の塊を取り出した。鶏のもも肉を四枚。これを解凍する。
「すぐに作っちゃるけん。牛すじカレーと甘酢レンコン食べながら待っちょりよ」
二人は小さく吠えたりうなったりしながらカレーを攻略し始めた。
「うう、うまい」
「あおぉん」
なかなかいい反応だ。鼻歌まじりに花は解凍した鶏肉から漬け汁をこそぎ落とす。熱したフライパンに皮目を下にして並べ、皮に焦げ目がついたあたりでひっくり返し、ちょっと焼いたら酒を振りかけて蓋をする。蒸し焼きして終了。
キャベツの千切りを添えたそれは、なんともいい色に焼き上がっているはずだ。
「ハナさん、これ何?」
すかさず皿を取りに来たヘイワンが尋ねた。
「鶏肉をおろし生姜と蜂蜜、醤油、酒に漬けちょったと」
「ああ、ローヴんとこの蜂蜜ね」
狼人の一族は森の外れで養蜂業を営んでいる。草原の至る所に自生しているロムラという黄色の花の蜜を集めているのだが、濃くて上質なので、貴重な収入源のひとつだ。
「また持参する」
ローヴの声が弾んだ。きっとまた尻尾振ってるな。花はほくそ笑んだ。
ヘイワンの運んだ皿を前に、二人は再びじゅるりと舌なめずりした。
「よう食べり」
お行儀良く二人は肉にナイフを入れて食べ始めた。途端に肉食獣のうなりが漏れる。
「ぐうう、これはただの照り焼きじゃないねえ」
「常よりも肉が軟らかい。それにこの香りは」
「ローヴ、一口あーんだっちゃ」
レンコンをつまんでいた夫が味見をしたくなったらしく、隣のローヴにねだった。
狼男が中年男に「あーん」をしているところを想像し、花は噴き出した。ヘイワンも吠えるように笑っている。
これだから賄いはやめられない。花の一日はおおむね、こうしてのったりまったり暮れていく。