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話の59:階層世界、下へ(+6)

 まさかこの階層で第6種ゼクスと遭遇するなんて。アクトレアの数と活動領域が増しているのは、やはり間違いないらしい。今のままではいずれ、この世界は……。手遅れとなる前に、女神を捜し出さなくては。


 それよりも今の問題は、奴をどうするかね。第6種ゼクスの外殻装甲は人間の作った武器程度では傷付けられない程に頑強。らう君の銃は勿論、私の天嬌鳳扇てんきょうほうせんも同じ。ダメージを負わせられるとしたら、アクトレアと同じ素材で出来ているウエインちゃんの武装ぐらいだわ。

 階層構造材を基体とする英知の柩ヴェスタ・ディギュウムでないと、まともな勝負は出来ない。でも今のウエインちゃんでは第6種ゼクスに勝てないでしょう。例え完調だったとしても、実力不足は否めないもの。互角はおろか、ろくな相手すら務められないのは明白。劉君も既に戦力外をなってしまったし、こちらの不利は濃厚だわ。

 この状況を打開するには、中位以上のアクトレアにも通用するもう1つの手段、直接『力』を叩き込んで破る以外に方法はない。そして今此処でそれが出来るのは魔導法士ソーサレスである私だけ。

 ウエインちゃんに劉君、どちらも魔導法士ソーサレスでないのは明らかだ。身に宿る魔力の総量と、その留め方から判別出来る。戦う力のない2人では第6種ゼクスを倒す事も、此処から逃げる事も出来ない。彼女達の命運は、今や私が握っているようなもの。失敗は許されないわね。


風皇ふおう君!」


 思案の最中に響いてきた声。ウエインちゃんの悲鳴に近い叫び。

 一声の出所へ視線だけを転じると、エレベーター内最端で床に突き立てた巨大な剣へ、寄り掛かる様にして立っている彼女が見えた。

 第6種ゼクスの襲撃時、第1種アインの意外と一緒に部屋端まで滑ってしまった所為なのだろう。髪から爪先まで全身が深紅の液体で塗れ汚れ、酷い姿だ。

 それでも少女は自分の有様など気にしていない。アクトレアの前でうずくまり、苦悶の呻きを上げ続ける劉君へ両眼を固定している。唇は戦慄わななき、顔面が蒼白。冷水を浴びたかのように体中を小刻みに震わせて。


「う、腕が……」


 床へとひざまずく劉君は、アクトレアへ許しを請うているかの如くこうべを垂れている。

 そんな彼の失われた部位を指差し、ウエインちゃんは短語を零す。

 微妙に揺れ動きピントの定まらない指先で、血の滴る右肘を示す彼女の瞳は暗い。最初に見た時、真っ直ぐな光を湛えていた少女の両瞳は今、不安と恐怖、そして薄からざる怒りに彩られている。


 彼女の言動から、劉君への確かな信頼は色濃く感じられた。私と出会う前から一緒に旅しているらしい2人が、どれだけの時間を共にし、どのような出来事を越えてきたのかは判らない。けれど2人の間には確固とした絆があり、互いにそれを大切に思っているだろう事は理解出来る。会ったばかりの私でさえ感じられる程、それは強く固い。

 その相手が、信認を置く連れ合いが、痛手を負い異形の前へ屈している。こんな光景を目の当たりにして、ウエインちゃんの心が穏やかであろう筈が無い。現に彼女の面上へは徐々にながら、只ならぬ色合いの感情が浮かび始めている。

 少女の内に渦巻く数多の思いは程無く、身を焦がす猛烈な憤怒へと取って代わられるでしょう。抑えの利かない激情は悲しみよりも何よりも、強く速く人の心を蝕むから。

 そうなれば、あの子は自分の不利も忘れて異形に挑み掛かるのではないだろうか。いくら怒りに身を任せても、絶対的な実力差は埋められない。冷静さを欠いていては尚の事、勝機は遠くなっていく。そんな状態で戦っても、みすみす死にに行くようなものだ。なんとしても阻止しなくては。


 ウエインちゃんの心が塗り代わり、行動を起こそうとする前に。奴が劉君へ止めを刺すより早く。私は第6種ゼクスを倒さなければならない。最悪の結果を招くかどうか、それは私の行動次第。


「『緑壁の覆いは盾への契り。対する偉業へ抗う鎧』」


 心を落ち着け、呼吸を整え、精神を澄まして記憶を手繰り、己に宿る言葉を紡ぐ。

 見えざる力へ形を与える、我が秘術の一端。如何なるものにも成り得る可能性、魔力という名の種子へ、無限の在り様を示す魔法の言葉。

 詠唱スペルに含まれた魔力の操作情報が、たゆたう力を呼び起こし、私の望む姿へ導いていく。手にした天嬌鳳扇てんきょうほうせんがそれを促し、魔力の動きをより一層に加速して。

 体内に満ちていた魔力の流れが、外へと向いて溢れ出る。体外へ散らされた魔力は私の前方で大きく渦巻き、次第に碧緑の輝きを帯びてきた。仄かな粒子が視覚化されるまでに半瞬。光が明確となった時には碧の薄膜が円形の盾となり、私の正面に全身を隠す程の障壁を生んだ。


 魔力によって構築された碧光の盾に護られながら、私は第6種ゼクスとの距離を詰めるべく走った。ウエインちゃんがショックから立ち直り、激昂に駆られて無謀な挑戦をする前に、白き異形との決着を求め。

 私の動きは奴の側方から。これに気付いたアクトレアは全身を横向け、私へと無感慨の瞳を定めてくる。

 これでいい。傷付いた劉君から私へ注意を逸らせたなら、彼の身にこれ以上の危険が訪れる事、僅かでも遅らせられた筈。後は私が奴を倒せば、それで全て解決する。2人の為にも負ける別けにはいかない。絶対に。


「決めさせてもらうわ」


 人語を解さない異形へ言い放ち、私は正面から第6種ゼクスに挑む。

 歩は緩めずに走力を保ち、相手の懐目指して只前へと。


綿津御わたつみさん?」


 離れた場所から、ウエインちゃんの驚声が聞こえてきた。

 動き出した私への呼び掛けだけれど、まだ声の内に気力めいた物は感じられない。混乱する頭が、現実を正確に認識出来ていないのだろう。覇気のない声調は、夢現ゆめうつつを彷徨う眠り人のそれ。

 尤も、彼女が茫洋とした意識でいてくれるなら、こちらとしては好都合。早々に目を醒まされて、暴走されたら元も子もないから。

 今の彼女には、返事や合図を送る必要もないでしょう。私はこのまま、自分の行動を続行するのみ。


 一定の距離まで至った時、ついに奴が動いた。からだ覆う棘状突起を一斉に逆立たせ、そのうちの一本をこちらへと突き出してくる。劉君の腕を突き破ったのと同じ、アインを数倍する速度の白く太い棘爪しそう

 確かに速い。これ以前のアクトレアと比べたら段違いだ。しかし見えない動きじゃない。避けようと思えば避けられる。ただ、私にそれをするつもりがないだけ。

 どんな些細な動きだろうと、回避したなら少なからず体勢が崩れてしまう。そうなったら第6種ゼクスの次撃を躱す事は難しい。これが第1種アイン第2種ツヴァイ第3種ドライ第4種フィア、でなければ第5種フンフだったなら、回避行動も取ったでしょう。例え躱した後で多少のバランスを崩したとて、まだ対処は可能だから。

 でもこれが第6種ゼクスとなると話は別だ。奴の攻撃にはそれだけの速度と危険性が備わっている。

 可能な限り速やかに間合いを詰め、至近距離から強力な魔法を見舞う。その一撃で終わらせる以外、奴に勝つ術はない。初撃が失敗した場合、或いは倒しきれなかった場合、次手となる魔法を作る暇は得られないでしょうから。最初の一撃で確実に仕留めなければ、相手からの反撃で私もやられてしまう。

 チャンスは一度きり。一瞬の判断ミスが、明暗を、勝敗を、生死を別つ。


 直進してくる爪を敢えて迎え撃ち、私はより深く歩を踏み込む。

 敵撃が不可避の間合いへ入り、我が胸を貫きにきた。最短距離を恐るべき速度で直走ひたはしる白爪は、しかし私へ届く事はない。

 自らの進行を妨げぬ為に、相手の攻撃を見越して張っておいた防御魔法。碧緑の障壁が異形の凶爪を寸前で受け止め、獰猛な突進を淡い輝きと共に防いでくれる。これによって人体急所を正確に狙ったアクトレアの刺突は、私に何の衝撃も与えず空中で停止した。

 魔力の壁が存在する限り、奴の攻め手は私を襲う事が出来ない。この隙にもっと前へ進み、第6種ゼクスへの最接近を果たす。


 そのつもりだった。

 けれども現実は、私の予想を裏切る形で推移していく。


「やっぱり、簡単には行かせてくれないみたいね」


 口から零れる自分の声を第三者のように感じながら、対面の異常を瞳に映す。

 第6種ゼクスは自分の攻撃が通用しないと察するや、伸ばしていた爪はそのままに、反り上げていた他の無数なる爪をまとめて動かし始めた。ドーム型に形成されていた棘爪しそうが外へ伸び上がったかと思うと、1つずつが中途から歪曲し、数限りないそれが大挙として襲い掛かってくる。

 奴にとっては実に容易い事なのだろう。全ての行動が終わるまで、殆ど時間など消費していない。

 防御魔法として作り上げた碧の盾へ、次々激突する爪の乱舞。一本毎が必殺的大威力を宿す爪の猛襲に晒される守護壁は、そのことごとくから私を護ってくれている。すぐ正面、ほんの5cm程度しか離れていない空間で、私の命を奪おうとする兇気の群体が、殆ど隙間も時間的間隔もなく障壁を打ち続ける光景は、異様の一言。

 碧壁へ鋭爪の先端が叩き付けられる度、魔力と物質の接点から不思議と澄んだ音が弾け出た。若干の重さと引き摺るような余韻を残すけれど、けして不快にはならない。寧ろ精神面を落ち着かせてくれる。

 普段聞く事の出来ない特別な音色、それが私を勇気付けてくれた。障壁の内側に在る間、私は着実に歩を進め第6種ゼクスへと近付いていく。


 でも、それは長く続かない。

 アクトレアが繰り出す爪撃の雨霰あめあられ、その荷重圧力は守護の覆いが有す耐久力を急速に削り取り、防御能力の限界点へと一気に導いてしまう。何十回目かの攻撃を受けた瞬間、とうとう碧緑壁へひびが入り、それが音も無く放射線上に広がっていった。そして最後となる一撃を突き込まれると、投石を被った硝子の如く砕け散る。

 無音の崩壊。防御魔法の結集は第6種ゼクスの猛攻に耐え切れず粉砕され、空間へ散らばる破片は瞬時に色を失い、見えざる魔力へ戻って消え去った。

 それに続いて遣って来たのは、尋常ならざる勢いを持った爪撃の連打。護りのない今、降り注ぐ連轟打突は全てが私を刺し貫く。


「ぐッ!」


 自分の苦鳴さえ聞き取れない。

 視界を埋め尽くす接近影と、そこへ付随する夥しい移動音。どれがどれかを確認するよりも早く、痛覚の咆哮が全身を駆ける。

 右肩を貫かれた。左前腕を貫かれた。左大腿だいたいを貫かれた。右脛を貫かれた。左上腕を貫かれた。左脇腹を貫かれた。右手掌を貫かれた。右足首を貫かれた。左部胸郭きょうかくを貫かれた。右方腹体を貫かれた。左鼠経部そけいぶを貫かれた。右首筋を棘爪しそうが掠めた。

 それは衝撃だった。ただ、只管ひたすらに衝撃。何を感じるでもない圧迫感のみが、巨大な衝撃として全感覚を埋め尽くした。

 全身随所に穿たれた損傷部から、常時溢れ出る血液の熱ささえ今は遠く。


 白爪で抉られた箇所から太い攻撃体が引くと、粘性の赤い糸で細い橋が作られる。それは爪の更なる移動、距離の拡張に伴って中心から途切れ、出所と付着点双方へと弧を描くように引き戻された。然る後に我が身へと立ち返り、滴る血液の中へ溶け込んでいく。

 貫通と同時にこ削ぎ取られた皮膚と筋肉は、そこだけが綺麗な円を描いて小点を作った。対面から傷口を覗けば、穴を通した私の背後にある景色を見れた事だろう。

 打ち破られた血管からは全身を巡る生命線が溢れ出し、水源の決壊ででもあるように多量の血液を人体内部へ満たし広げた。それでも際立った圧迫感を覚えないのは、方々に穿たれた円形の傷から全て流れ落ちていく為。

 同時に断裂された神経系は既に伝える感覚を失い、脳への信号送信は滞っている。故に半ば何も感じぬ状態であり、それが私の意識をハッキリさせている理由のように思えた。

 突き砕かれた骨格は破片が体内に飛び散ったらしく、内側に奇妙な異物感がある。ただ立っているだけで周辺器官を傷付けているのが判るけれど、痛覚が遠い為に危機感は薄い。自分ではどうする事も出来ず、加えて今現在差したる支障をきたさないので黙認する以外には無さそうだ。


 第6種ゼクスの止まない攻撃に晒される私は、極めて致命傷に近いダメージを負っている。こちらの生命力を根こそぎ奪っていく猛攻が、現在進行形で体の随所へ新たな傷を作り出し、揺らめく命を更に削り落とす。防御魔法が破られた今、抵抗の手段を失った私は、甘んじて苛烈な連撃を受け入れるしかない。

 それでも意識を手放さず自我を保っていられるのは、やらねばならない事があるから。どれ程に傷付こうと、体の部位を失おうと、力が余さず尽き果てようと、私を私として確立するたった1つの理由が、立ち止まる事を拒み続けるから。私を常に駆り立て、突き進ませてきた強固な使命感が、膝を折る事を許さない。断じて。

 私を支配しているのは、女神を捜し出すという目的。それが全身の隅々にまで染み込み、意志へと絡みつき、魂をも縛り上げている。その限り、私が私の意思で歩みを止める事はけしてない。

 精神が肉体を凌駕するというのは、こういう状態をいうのだろうか。


 既に活動限界に至った体を引き摺って、強引に押し出して、尚も止まらず前へ進む。

 夥しい棘爪しそうの群舞に全身を打ち抜かれ、死への道程を急速に転げ落ちながらも、ただ前だけを見て、押し戻されそうな衝撃に耐え忍び、前へ。只管ひたすら前へ。今までの生き様と同じに、振り返らず、かえりみず、目指すものの為に前へ。真っ直ぐに、愚直に、馬鹿の様に、更なる前へ進む為、今を前へ行く。


「わ、綿津御わたつみ、さん?」

「ぐぅ、が……止せ……ネーチャン、死ぬぞ」


 背方と斜め前方、違う方向から男女の声が微かに聞こえる。

 でも私に答える余裕はないし、声の主へ目を向ける事も出来ない。

 必要な1歩を踏み、前へ進む事に全てを注ぐ今、余計な動作は不可能だから。求められている1つのみが、唯一の支えとして私を歩かせる。それ以外に出来る事もすべき事も、無い。


 終わらない攻撃。衰えない衝撃。そのことごとくが死へのしるべであり、破滅への導き手だった。受ける者に与えられた末路は等しく同じ形だろう。今までどれだけの人間が、この道程を辿ったのか。

 けれど私は負けなかった。

 襲い来る乱爪の波に各所を食い千切られながら、それでも立ち続け、歩き続け、ついに目指す場所へと踏み入った。

 第6種ゼクスの対面、奴の白い無機的な顔のすぐ前に。

 手を伸ばせば届く程の距離に、異形の頭がある。開かれた棘爪しそう群の内側で、それは眼前に立った私を見た。

 背後に気配が生まれる。第6種ゼクスが自らの覆いを展開し、爪状突起物で構成された外殻を広げたんだ。爪の集合体が素早く動く様、その流れが目端に映り込む。背方へ回り込んだ白い外殻は、私を抱き込む様にして退路を断った。

 確実に止めを刺すつもりらしい。でも、気にする必要はない。次で終わらせば、それで済む話だから。

 使い物にならなくなった左腕ではなく、辛うじて動かせる右腕を伸ばす。五指を広げて体前へ突き出すと、掌に開いた穴から異形の顔を覗けた。

 血と弾けた肉の欠片ですっかり汚れてしまった腕。それを限界まで送り、指先に触れた白面を掴む。そのまま指を全て同時に握り込み、もう殆ど入らない力を込めて、第6種ゼクスの顔へ押し込んだ。


 直後に、背中を、脹脛ふくらはぎを、肩峰けんぽうを、腰部ようぶを、膝窪しつかを、臀部でんぶを、肘頭を、新たな衝撃が貫く。私を取り囲んだ外殻から棘爪しそう達が突出し、全方位から一斉に突き刺した。それで間違いない。

 大量の血が、喉をり上がってきた。口の中に鉄の苦味が広がり、半開きになった唇から零れ出て行く。顎へと流れ、首を伝い、体まで垂れて流れる赤い色。それは命が直接出ていってしまうようで。物悲しさが、胸の奥に小さく灯った。


「『こごえる、波風、て付く、雨水……流れの、奥に、留まり、凍れ……然しとて、来たる、久遠の、安息……至り、落ちれば、我が身も、』」


 断続的な痙攣を起こして上手く動かない喉。無理矢理に筋肉を伸縮されて、声を、言葉を、詠唱スペルを吐き出す。

 その都度、咽喉いんこう部はポンプのように血液を吸い上げ、口の中へ鮮血を導いた。溢れ返る血の濁流は、濁った呼吸音と共に口腔こうこうから飛び散る。

 その傍らで私の紡いだ詠唱スペルは、確として魔力に流れと姿を与えていた。

 力なく垂れ下がり何の反応も返さないけれど、扇を握ったまま硬直する左腕のお陰で、手放さずにすんだ天嬌鳳扇てんきょうほうせん。数多の血で赤く染まりながらも欠損のない魔導補助具マジックアイテムは、詠唱スペル内に含まれた圧縮型の魔力運用情報、変成呪式を高速処理してくれる。

 扇の助けを借りて燃焼していく魔力は、空気中の水分へ溶け込んで次々に集約、凝結させ始めた。詠唱スペルは魔力の集積たる現象を結実させ、異形の身へと1つの魔法を顕現させる。

 私の右手下にある第6種ゼクスの顔が、透明な冷気に包まれ霜を帯びていった。そこから先は早回し映像のよう。凍気が実体化して、無味乾燥な異形の顔全体へ硬い氷壁が根を下ろす。極短時間で第6種ゼクスの頭部は基色以上に白くかげり、大部分が氷結した。


「こ、れ……で……」


 絶え間なく込み上げる血の奔流にむせ返りながらも、口唇は歪む。

 勝利を確信した瞬間だった。後はもう放っておいても魔力が形作る水分の変性現象で、アクトレアは体の芯まで凍り付いていくばかり。

 確かに受けて痛手は大きすぎるけれど、それと引き換えに第6種ゼクスを倒せたのなら上々の戦果と言えるでしょう。


 そんな事を思っていた矢先、異形の備える爪状突起の1つが、徐々に固まっていく顔の下から伸び出してきた。

 満足に動けなくなっていた私は無論回避など出来ず、至近距離から走る爪に胸の中心を刺し貫かれる。痛覚がそれを伝えてくる前に、背後の覆いが開かれるのを感じた。それと入れ替わりに景色が後方へ流れていく。


「がっ!」


 次に衝撃を感じたのは、硬い物質が背中を叩き、肉を裂いて背骨を破壊した時。一気に移動させられたと気付いた頃には、私は第6種ゼクスから大きく引き離され、エレベーター最端の壁に減り込まされていた。

 胸を抉り突く太い白爪が私を壁に縫い付けていて、身動きを完全に封じられる。失血の為か、酷すぎる損傷の為か、明度を失い全ての輪郭がぼやけ始めた視界に、異形の姿が映った。その傍に落ちている、私の下半身と一緒に。

 どうやら棘爪しそうの零距離刺突で腰が千切れ、上半身だけが押し遣られてしまったらしい。痛みも感覚も判然としない所為で、切り離された自分の脚を見るまで気付けなかった。

 視線を落としてみると、確かに腰から下が無くなっている。分断された腰部の付け根からは、血に塗れた腸がだらしなく垂れ下がり、傷口よりはみ出す背骨の粉砕部から髄液が滴っていた。

 自分の体ながら無惨な有様に吐き気を覚え、それでも込み上げてくるのは血液ばかり。顔を背けるようにしてもう一度前を見る。薄らぐ瞳での確認ながら、第6種ゼクスに目立った変化はない。奴を襲っていた冷結の進行は止まってしまったようだ。

 もう少しだけ触れていて、魔法を完璧に定着させねばならなかった。離れるのが速すぎて、奴を氷塊に変じさせる魔法は未完のまま解除されたのだろう。

 ……勝機を逸した?


「クソッ、タレがッ! ぐぅ、ッタレ……クソッ!」


 視野の中、異形の近くで動く影。

 遠くなり始めた可聴域に、燃える怒号が聞こえてきた。

 劉君が、立ち上がっているみたい。


「化けモンッ!」


 左腕を失い激痛に悶えていた彼が、荒ぶる戦意を、叛逆の決意を滾らせて第6種ゼクスを呼ぶ。

 自らの脚で、しっかりと床を踏み立ち上がった劉君へ、アクトレアが身を捻り顔を向けた。私に突き込んだ爪はそのままだから、未だこちらは身動きもとれないけれど。


「へ、へへへ……美人をイタブルなんざ、おめぇさんもアレな趣味してるじゃねぇか。えぇ? クソ野郎が」


 異形と正対しこれを睨んだかと思えば、劉君の右手が信じ難い速度で動いた。

 今までで1番の速さ。第6種ゼクスが行動に出るよりも、一手速い。追い詰められた事で極限状態に達した人体組織が、普段では出来ない限界反応を起こしたのだろうか。

 持ち上げられ、真っ直ぐ素早く動かされた腕が、アクトレアの顔面へ迫った。そこには今も黒い銃が握られたまま。重量感のある大口径銃を、その銃口を、彼は第6種ゼクスの左目、色も輝きも感情も何も無い穴だけのようなくらい瞳へ押し付ける。


「俺の腕とネーチャンの仇だ! 逝っちまえよッ!」


 激しい怒声が鼓膜を震わせる。同時に連続する発砲音が後へ続く。

 異形の瞳へ当てた銃を連射して、彼は強弾を次々と怪物へ撃ち込んだ。避ける事など許さない、密着状態からの射撃。その全てが敵へ命中しているのは明らか。

 第6種ゼクスの外殻は硬い。高い防御能力と攻撃力を兼ね合せる攻防一帯の装甲。生半可な武器では傷など到底付けられないし、打ち破るなど夢のまた夢。でも外殻が堅固であるに対して、内部はそれ程でもない。護りに覆われていない箇所からなら、その内側へと攻撃し、的確なダメージを負わせられる。

 そしてその唯一外殻に覆われておらず、体内目掛けて仕掛けられる場所は、今正に劉君が弾丸を叩き込んでいる眼部だけ。彼は意識してか、或いは無意識か、何にせよ第6種ゼクスに勝てるチャンスが詰まった弱点を見事に突いた。これならば、もしかしたら。


 第6種ゼクスへのダメージは確実に蓄積されている。それは奴の双眸から滲み出る深紅の流液が、如実に物語っている。

 刻々とかすれ、見える物が朧気になっていく私の目にも、それだけはハッキリと判った。


「へっ、ザマァ見やがれってんだ。この風皇劉様を怒らせると、只じゃすまねぇんだぜ。判ったら、あの世でじっくり反省してな」


 装填そうてんされている全銃弾を撃ち尽くしたのだろう。劉君は揚々(ようよう)とした雰囲気で、アクトレアへと言い放っている。

 その声は得意気で、確かな手応えと勝利の予感に裏打ちされた喜びを感じさせた。

 全体に見難くなってきた両瞳の世界で、彼の腕が下ろされていく。銃の直撃を受けていた眼部から、ドロリとした流液が流れ出し、床へと際限なく落ち出した。

 それを見る劉君の顔には、痛みも忘れる勝利の余韻が、笑みとなって浮かべられる。


 一方で、私を貫いたままの爪は依然として存在したまま。

 第6種ゼクスが倒された今、拘束力は無きに等しいのだろうが、もう私には腕一本動かす余力さえ残っていない。残念ながら自力での撤去と脱出は不可能だ。ウエインちゃんと劉君にこの爪を退けてもらって、それから命を繋げる術をなんとか敢行しよう。

 私にはまだやるべき事がある。こんな所で死ぬ訳にはいかないから。


「風皇君……だ、大丈夫?」


 おずおずとした声調で、ウエインちゃんが問い掛ける。

 声の方へ視線を向けると、覚束無い足取りで、劉君の方へ近付いてくる彼女を見る事が出来た。手にする剣を半ば引き摺る形で引っ張っており、黄金の刃先が床を擦っている。

 少女の表情までは良く見えない。けれど持っている雰囲気は、夢遊病者のように安定性を欠いたもの。まだ意識がハッキリしていない様子だ。

 目の前で起きた戦いに気を飲まれ、我を忘れていたのだろうか。私がこんな姿になるような光景を目の当たりにして、更に大きなショックに沈んでいたのかもしれない。どちらにしても、そのお陰で彼女が無茶をしないで済んだのは不幸中の幸いと言える。


「ああ、俺はこの通り……アチチッ」


 劉君もまた彼女の方へ向き直り、右手を上げて応える。

 けれど痛みを思い出したように腰を屈め、苦痛の声を口端から零した。

 戦いの空気が解けた事で緊張が途切れ、意識から排斥していた感覚が戻ってきたのだと思う。私のように、もう何も感じなくなってしまうよりは遥かにマシだ。その痛みに喜べとは言わないけれど、最悪では無い事へ多少の安堵を覚えてもいいんじゃないかしら。


「ま、ちとアレだが、でぇーじょーぶだから」


 苦しげな声に反して、彼は不敵を笑みを作っているよう。

 最初の調子へ戻っているように感じた。ウエインちゃんを安心させる為でしょう。

 私がこんな状態で無ければ、すぐに治療用の魔法を使って千切れた腕をくっつけてあげるんだけど。


「俺よりも……ネーチャン、がな」

「あ……あぁ……わた、つ、み……さん」


 2人の視線を感じる。

 苦虫を噛み潰してでもいそうな劉君、血の気を失い声を無くしているウエインちゃん。彼等の姿は陽炎のような不確かさに至っているも、大まかな空気から感情の変動が知れた。

 痛ましげな両者の視線が私の姿に何を思っているか、大凡の見当もつく。生きているか死んでいるか、それを見極めようとしているのだろう。私個人としては、まだ生きていると自ら語りたいところだけど、喉も動かなくなってしまったので無理。

 どうしようか。


「とにかく、だ。まずは下ろしてやらねぇとな」

「……う、ん……」


 アクトレアに襲われた人間を何度か見た事があるのなら、私の様子にも臆する事はないだろう。

 現に劉君は気をしっかり持っているし、まとっている気配も落ち着きを取り戻した状態に近い。対するウエインちゃんは、かなりの精神的衝撃から立ち直れてはいない様子。流石に劉君のようには振舞えないのは仕方ない。それでも卒倒しないのだから、大したものだと思う。


「え?」


 劉君が動き出した時、不意に、ウエインちゃんが呆けた声を漏らした。

 その理由、私はすぐに知れる。この位置からだと、嫌でも見えてしまうから。視力が失われてきたとはいえ、大きな物の動きは確認が可能だ。


「あ?」


 ウエインちゃんの声と、近場で起こった動き。それは劉君にも事態の変転を認知させ、結果として疑問の一符を吐き出させる。

 尤も彼が反応を示すより早く、それは彼の明言を閉ざしてしまったけれど。


 倒したと思っていた。目玉を撃ち抜かれ、体内に多数の銃弾を叩き込まれたのだから。既に活動力は尽き果て、身動き出来ないものだとばかりに。

 けれど、奴は生きている。

 再度動き始めた第6種ゼクスが、広げた外殻の白爪を、無数の棘爪しそうを一気に繰り出した。予備動作など無い。正しく一瞬、速攻の襲撃。

 幾多の兇爪が、ウエインちゃんの目の前で劉君の全身を貫く。四肢も、胴も、首も、突然の猛襲によって串刺され、彼の体は異形の爪先で持ち上げられた。


「イ、ヤァアアアアァァァァアァッ!」


 ウエインちゃんの絶叫が、下降を続けるエレベーター内に響く。

 絶望色に塗り込められたそれが、劉君への鎮魂歌となった。断末魔の演習も、兼ねる事になるでしょう。

 今ここで1番無力なのは、私だ。


「アァアアアァアァァアッ!」


 喉が潰れてしまうのではないか。そんな心配をしてしまう程の絶叫。

 それは眼前で劉君を突き抜かれた為に始まった、ウエインちゃんの狂ったような悲鳴。エレベーター内に響く彼女の悲痛な声は、正気を疑わずにはいられない声量と、完全に外れてしまっている音程からなる。

 喪失の進んだ私の目には、もう少女の姿は見えないけれど、その尋常でない有様は容易に想像出来た。


 先までの戦いを目の当たりにした事で、彼女の精神は酷く不安定になっていただろう。そこに来てのコレだ。限界まで伸びきったゴムが切れてしまうように、少女の理性も飛んでしまった可能性が高い。

 冷静な判断も常識的な対応も出来ず、爆発した感情と脊髄反射のままに動く獣。そんなものに成り果ててしまった危険性もまた、同様にして高いのでは。もしそうだったなら、私に彼女を止める事が出来るだろうか?

 答えは否。

 今現在の状態では、不可能以外の解が見付からない。


 無力な自分自身に歯痒さが募る。

 今までずっと1人だけで旅をしてきたから、こんな風に誰かの身を案じる事は無かった。例え自分の力至らなさを感じたとしても、結局被害をこうむるのは自分だけだったから。ある意味でその気楽さが、少なからず私に安堵へ寄る余裕を与えていたのは事実。

 けれど今は違う。同じ目的を持つ人々と出会い、それに向かって共に歩もうと決めた仲間の存在。

 今までとは明らかに違う状態が、私の心へあおりとかげりを同時に付与している。自分の失態がそのまま自分に返ってくるのではなく、同行する他人に行ってしまう恐怖。焦燥と不安。それら暗色の感情が、私の内へと姿を現し始めていた。

 まるで忘却の彼方から立ち返った遠い記憶のようで、不快ではあるけれど、懐かしさすら感じるのは何故だろうか。

 女神を捜す。その目的だけを求め延々と旅してきた過程で、今抱く感情を胸に灯した事は、私の憶えている限りでは1度も無い。それなのに、新鮮なそれへ対する困惑は無く、当然のように受け入れている自分に驚く。

 何故、私はこの感情を容認出来ているのだろうか。いとも容易く迎え入れ、違和感の1つとて芽生えないのはどういう事?

 不思議な気分だ。とても、不思議。


 ―――ッ



 微かに、何かがぎった。

 仄かに、頭の中を走った。

 僅かに、記憶へ揺らぎがあった。

 何かを思い出しそうな、そんな気がした。

 でも、何なのかは判らない。それは本当に小さくて、一瞬で、儚くて、気付いた時には消えていたから。

 正体を探る事は出来ない。けれど確かに、微細なノイズのようで、古い映像めいた、何かを見た気がする。

 今までにもこんな事は……何度かあった。全てが何処かで誰か、人と一緒に居る時に起こっている。見ず知らずの相手、名前も知らぬ相手、ただ気高き魂と、けして挫けぬ決意とを抱いた者。その誰かと同じ場所で同じ時間を共有している時、稀に、今のような淡い衝撃を頭に覚えた。

 やはり何なのかは判らないまま。連続性はなく、規則性もまたない、アトランダムな現象。だけど嫌な気分じゃない。寧ろ、もっと別の……大切な、何かであるような。


「ウウァァアァアアアァァアッ!」


 殊更ことさら壊度かいどを増した彼女の叫声が、私の意識を思索の内から引き戻す。

 主だった感情の色合いすら窺えぬ程に、少女の雄叫びは深淵を強め。全てを飲み込み底無き果てへ導いたかと、錯覚させるまでに混沌として。

 希望も熱意も失われた悲愴な声出せいしゅつが、事態の最悪化を雄弁に語っていた。

 次いで起こる唐突な変動。それは大気の動きであり、幾層にもなる空気の壁が軒並み揺れるという現象。波紋のように広がった大気の蠢動は、静かながら確としたものだと肌を通じて感じ取れる。

 何がそれを為したのか、発生源は想像にかたくない。脳裏に描いた仮定を裏付けるように、明度を著しく欠いた視界の先で黄金の光が走った。鈍い輝きの後、大きな衝撃音を経て、赤い物の流出が知れる。現出した赤は人間の血よりも更に深い紅。

 その理解と時を同じくして、何かが床の上に落ちた。硬い落着音が伝播して、事の発生を私へ告げる。


 全てに於いてつく大凡の見当は至極単純。

 正気を逸したウエインちゃんが手にする大剣を力任せに振り抜き、第6種ゼクスの外殻を一部切り裂いたのだろう。そして彼女が狙ったのは、劉君を貫いていた棘爪しそうの筈。

 床に落ちた何かの音は、そこはかとない弾力を感じさせた。第6種ゼクスの外殻は硬質であるから、あのような音が鳴るのは、人間の体が床へ接した為だと考えるのが妥当。つまり劉君を刺し貫く爪状突起部を狙って、彼女が斬撃を見舞ったという予想が立つ。


 ついに最も恐れていた事が始まってしまった。

 ウエインちゃんはアクトレアの装甲を部分的に切除出来たみたいだけど、同じ事はこれから先続いてなどいかないでしょう。

 今の彼女は力配分を考えていない状態。最初から全力では体力も続かないし、隙も大きくなる。何より第6種ゼクスが一方的な攻撃を許す筈がない。

 この戦いはどう考えてもウエインちゃんに不利。それを彼女自身認識出来ていないのが問題だ。かといって気付かせる術もない。


 その間にも響く第3の衝撃音。

 壁伝いに走り来た新たな震動は、私の予想が早くも現実化した証だった。

 ぼやけた視界内で、全容が判然としない影の移動が確認出来る。

 正式な姿を見てはいないけれど、大体の大きさからウエインちゃんだろう事は知れた。第6種ゼクスに吹き飛ばされ、最寄りの壁面に叩き付けられたらしい。

 これであの子が止まればいい。だけど今の彼女は先の私と同じ、精神力だけで動いているようなもの。劉君や私の惨状を前に、灼熱の激情へ心を食われ、憤怒に駆られて動いているだけ。本来なら痛みや状況の悪さを察して心が体を止めるけれど、今のあの子にはそれがない。

 凡百の相手ならば、それも有効でしょう。でも今回は相手が悪すぎる。このままだと、あの子は本当に殺されてしまう。

 危機感は増すばかり。今のままでは、それを払拭する事は出来ない。今の私では、どうする事も……

 本気で彼女を助けるつもりなら、私も相応の覚悟を決める必要がある。自分を捨ててでも、他者を救う覚悟が。

 私はウエインちゃんを助けたい。劉君も同様に。その思いは本物。断言出来る。

 でも自分を犠牲にしてまで助ける価値が、意味が、彼女達にはあるのだろうか?


 ある。


 自問に対する答えは、迅速且つ簡潔に出た。

 あの子達の高潔な魂を、温かな心を、類稀な決意と胆力を、こんな所で無為に散らしていい筈がない。彼女達には充分な価値も意味もある。

 かつてと同じ様に、私が、私自身が、それを認めた。だからこそ、かつてそうした様に、今度もまた覚悟を決めた。


「ウウウウァァアウァァァァウウゥアアァッ!」


 り止まぬ咆哮は、自らの戦意が健在さを示しているのか。

 咆声の主であるウエインちゃんが、今はまだ無事だと知れて安堵するのも束の間。壁面へ押し付けられていた影が動き、それへ伴い黄金の光も高らかに掲げられた。

 彼女は英知の柩ヴェスタ・ディギュウムの変形した刃を振りかざし、今一度第6種ゼクスへ斬り掛かろうというのだろう。こうむったダメージも、肉体の停止を訴える痛覚も、全てを無視して、視野の外へ追い遣って、ただ敵を倒す為だけに動こうというのだ。

 最早、一刻の猶予もない。


 幸いにして、アクトレアから伸びた棘爪しそうは今も私の胸部を穿ち、私と奴との接点を維持している。

 わざわざこちらから出向く必要はない。あとは私に突き刺さっている異形の部位を介し、事を始めるだけだ。

 意識を集中し、自らの内側へ集約させる。体外にある全感覚を排除し、たった1つ、我が身に連なるアクトレアへのみ認識を留め。更に意識を一点へ凝縮させ、己を空虚とす。

 肉体を器と断じ、精神のみで個を認め、器に掛かる異物へと自身を向けて。それへ融け込むようなイメージを作り、実際に意識を同調させていく。

 形あるモノが崩れ、曖昧な異質感を得たなら、そこよりもっと自分を沈め、奥深くへ潜り込み。然る後、眩い光に覆われ、輝きに満ちた空間を抜けて、燦々(さんさん)と照り渡らす煌珠絢爛こうじゅけんらんたる世界へ。

 そこは実体の無い世界。無数なる情報によってのみ、あらゆるものが存在し得る場所。現実空間と一線を画す、本質の領域。

 此処こそが、全てを変えうる決戦の舞台。今の私に出来る、唯一にして最大の戦い。

 さぁ、やりましょう。


 光輝が無限に続く空間。上も下もなく、右も左もなく、北も南もなく、東も西もない。前後も、方位も、果ても、終わりも存在しない、広大極まる悠久の世界。自分の立ち位置など、到底判らない。其処は、そんな領域だった。

 本来にして実体が存在出来ない此処でも、私は現実空間の姿を保っている。尤も、血肉を備えた本当の体ではなく、個性を強く残した人格が無意識のまま反映させて、擬似的に構築させた精神体の似姿だけれど。あくまで私の意識が作り出した仮想の写し身だから、損失した部位も健全な状態で存在している。


 そんな私の前を通り過ぎ、不規則に踊り狂う黒の結晶群。それは掌に収まる程度の黒球1つを核として、外周へ立体的なリングを幾重にも重ねている。球と同じ黒のリングは複雑に絡まり、けして交わる事無く別方向へ回転を続けていた。更にその一回り外を、同色の黒き覆いが囲う。

 黒球とその周囲を回るリング、そして全体を包む黒の膜。そこら中を飛び交う黒の結晶は、この三つからなる。大きさこそ違えど、全ての結晶は同様の構成である事が確認出来た。


 乱れ飛ぶ結晶達は、一切の関連性なく縦横無尽に領域内を巡っている。けれどその幾つかは、同じ方向を目指しているようだ。先行きを追おうと、私は結晶の進行方向へ意識を傾ける。

 一瞬のうち、認識出来る空間は位相の急変化を起こし、次には私の知覚領域へ巨大な流れが現れ出ていた。

 時間も距離も意味を成さないこの空間独自の移動法。その末に見られた物は、多用な色彩の複合形として眩く虹色の大河。遥かな彼方まで伸び行くそれは始点も終点も見られず、ただ無尽蔵の煌きを一定側へ彷徨ほうこうさせるのみ。

 もしも現実空間であれば、直視は即座に眼部破壊へ繋がる程の明光。豪奢な虹色が膨大な量対流するそれは、此の世の全てたる情報の海。現実世界へあらゆる物を形作る根幹にして根源、各々の存在を決定する要。真実の姿を映し出す、剥き出しの本質。それらが溶け合い、混ざり合い、絡まり、飲まれて、長大な流れを形作っている。


 先より舞い飛ぶ黒の結晶は次々に虹色の奔流へ飛び込み、際限なき超流へと一体化していった。

 けれど私はこれより先へ進まない。雄々しい大河にも、渡った先の対岸にも興味はない。今、私がすべき事は1つ。此処へ来た理由はそれしかないから。

 近くを通りかかった黒き結晶、仄かに瞬くそれへ腕を伸ばし、進行を阻むように掴み取る。私の意識に捕らえられた結晶は逃げる事叶わず、然したる抵抗もなく手中へ収められた。握った結晶を引き寄せ強く握り、囲んだ五指を通して意識を内側へ流し込む。

 すると最外周を覆っていた黒い膜が霧のように立ち消え、結晶の本体が露出した。更に複数のリングは金色の輝きへと変わり、途中から砕けて中心核より離別し出す。黒球から離れた元リングは帯状になり、私の体へと漂ってきた後、皮膚に触れて体内へ溶け込んでいった。

 最後に残った黒い球体は、リングの完全消失と同時に無数の微粒子に変じて、音も無く消え去ってしまう。

 手の中に在った結晶が欠片も残さず霧消した所で、私は意識をこの領域から切り離す。



 目を開ければ、全ての在り様が寸分違わず視認出来た。

 天井に開いた穴、硝子の砕けた窓、そこより覗く下降中の景色、床に散らばる第1種アインの亡骸、壁も汚す深紅の液体、空間の中心に位置付く第6種ゼクス、その足元に全身へ棘爪しそうを埋め込んだまま横たわる劉君、彼の傍らに立ち黄金の刃を振り上げるウエインちゃん。

 色も、形も、距離感も、どれもが正常に、正確に視える。先まで霞んでいた視界は完全に回復していた。

 私が虚数領域に意識を侵入させてから、現実空間では1秒とて時間は経っていない。虚数側での極度に圧縮された加速的時間域を経由した私には、体感時間が変化して感じられる。しかし実際には向こうでの数分は、実時間にして0.1秒にも満たない。

 その結果として、私は一切のタイムロスをせぬまま望む作業を終えられた。


 私を貫き、壁に繋ぎ止めているアクトレアの鋭爪。しかし白色の設えをするそれは、先端から金色の細糸状に分解され、急速に形成を解いていく。

 白爪が変異した金糸は私の分断された腰部へと流れ込み、そこで渦巻きながら失われた部位を急遽再生させ始めた。金色の糸が傷口に触れた瞬間、糸は構成を変化させて人体組織へ転じ、圧倒的速さで損壊部を修復する。遺伝子を、細胞を、骨を、神経を、血管を、血液を、臓器を、筋肉を、皮膚を、今まで消えていた要部を、金糸は見る間に作り出し、癒し尽くした。


「オオオオオァオァオァアァァオアァッ!」


 急激に治癒される体から視線を外し、狂声高らかなウエインちゃんの方を見る。

 彼女は握りの前後に刃の付いた分厚い大剣を勢い良く振り下ろし、白き異形の外殻へ叩き付けていた。けれど接触の瞬間、異形側が無数の爪状突起体を太刀の方へ伸ばし、鋭い爪先で刃を打つ。何十という棘爪しそうの激突を受けた剣は攻勢力を大きく削ぎ落とされ、標的へ命中する頃には敵外殻を断つだけの威力を失っていた。

 結局、刃はアクトレアの天然装甲にぶつかっただけで動きを止め、何一つ成果を上げられない。それを狙っていたと思しき第6種ゼクスは、斬撃の直後で動きの止まった少女に数本の白爪を突き出す。正面から襲い来る凶爪を、ウエインちゃんは硬直の解けた一瞬で回避に移った。

 けれど、逃げられない。爪の1つは彼女の右肩を抉り、別の1つは脇腹を掠め、また別の1つは右の大腿を貫く。


「フゥゥウゥゥゥウ」


 辛うじて他の攻撃は寸で躱す事が出来たようだが、三点の同時射ちは少女の体力を容赦なく奪った筈。

 現にウエインちゃんは強引に体を退いて貫通部から爪を抜き取ったけれど、数歩よろめき、床に片膝を付いてしまった。喉奥から低い唸り声を上げ、殺意に満ちた瞳を異形の顔面へ注いでいる。

 致命的な隙を生じさせた少女へ、第6種ゼクスは躊躇い無く棘爪しそうでの追撃を開始。外殻から伸び出た爪は、獲物を串刺すべく斜め上方より降り注いだ。本能的に危機の接近を感じたのか、優れた反射によって床を転がり直撃を避ける少女。彼女が離れた後の床へと、数瞬遅れの爪群が雪崩れ込み、硬材床を一気に砕く。

 危ない所で致命の攻撃より逃れた少女は、転がる最中に敵の側面へと回りこみながら半身を起こし、止まると同時に腰を落とした低姿勢に移行。両手で握り構えた大刃を腰溜めに留め、上体を捻るようにして後方へ位置付けた。下段から相手を斬り裂く、逆袈裟懸けを狙っているようだ。


「ガアアアァァァアアァァァッ!」


 獣めいた大喝を迸らせ、ウエインちゃんは黄金剣を異形目掛けて振り抜く。

 太刀の切っ先が床面スレスレを走り、下方から第6種ゼクスの右側方外殻へ激突。幾多の猛爪に防ぎきられ切断には至らないが、破壊力は殺されていない。インパクトが生んだ力の進行流に押され、少女を倍する異形の巨体が床上を滑った。

 距離としては大した事もないが、攻撃主はこれに勢いを得て敵体へ飛び掛り、スカートを靡かせながら大刃を叩き込む。バットのスイングを思わせる横薙ぎの一撃。その直撃は、防御に回された棘爪しそうの幾本かを斬り飛ばした。


 ウエインちゃんが戦っている間に、私の腰から脚は完全に再生された。

 我が身を穿った爪は既に貫通地点を遠く離れ、幾許か遠方までが無くなっている。折れた訳でも、切れた訳でも、溶けた訳でもなく、別存在へ構成変化し分解された爪。尚も消失部を更新しつつ、それが変じた金糸が私の体へ流れ込んでいた。

 自分の構成部位へ異変が生じた事を第6種ゼクス自身も気付いている筈だ。しかし爪1本は細事と見ているのか、はたまたウエインちゃんの猛攻に対する為か、奴がこちら側へ注意を向けている様子はない。再生を邪魔されないという観点では好都合だけど。

 元通りに修復された下半身に続いて、胸部を始めとする全身の被損箇所へ淡く輝く糸が絡みつく。それらは半瞬後には蛋白質の人体組成へ変異し、傷を負う以前の状態を再現した。

 同時に、私の全身を外側から巡りつつ密着してくる細糸は、順次該当繊維へ変性しながら、見るも無惨に破れ去った着衣も再成さいせいする。腰周りへ穿いた黒いショーツに、胸を覆うサラシ、その上へ羽織る薄地の襦袢じゅばん。その後で着込む黒の胴衣が作り直され、私を戦闘以前の状態まで戻してくれた。


 虚数領域へ干渉し、階層構造体を基部として生み出されているアクトレアを組成変化。それを自らの実数情報として転用する事で、己自身を再構成する能力。それこそが私の奥の手であり、長年を1人きりで旅してこられた最大の要因。

 接触しているアクトレアを介してのみ虚数領域へ意識を侵入させられ、やはり接触体のみの構成情報書き換えに留まるけれど。それでも自らの傷を容易に癒す事が出来るが為、私は過去何度と無く死の淵から甦ってきた。

 その都度、記憶と感情、そして心の何割かを虚数側に散らし、自分という存在を少なからず失ってきながら。

 アクトレアを自分の体に変える、その反動だろうか。或いは此の世の本質を限定的ながら任意に操作する超然たる力を使う故なのか。詳しい事は判らないけれど、再構成が私自身を代償としている事に間違いはない。

 何を失い、何が欠けているのか、喪失部を正確に認識する事は不可能。記憶にも感情にも心にも欠損部がある事は漠然としてしか判別出来ず、それさえ時間と共に平淡となり、失った事を忘れてしまうから。

 けれど微かに残る違和感が、私自身の減少と磨耗を感じさせた。

 女神を捜し旅を続ける以上、この世界にひしめくアクトレアとの遭遇は避けて通れない道だ。連中と戦い、今回のような酷い手傷を負う事もけして少なくはない。その度に私は再構成を繰り返し、命を繋げ生き永らえてきた。自分を自分と定義する様々なものを失い、少しずつ本当の自分ではない自分へと変化して。

 恐怖はある。他の誰でもない、自分だけの記憶に感情に心、2度と得られぬ唯一の財産達を失い、自分が変わってしまう事に対する怯えも。先の見えない暗く巨大なトンネルを進むような不安感、嫌悪感、不快感、それらは常に付き纏う。

 でも、だからといって、私は止まる訳にいかなかった。

 女神を見付け出すまで、歩を緩める訳にはいかない。例えどれだけ自分を捨て去り、別の何かに成ったとしても、それで進む事が出来るなら、私は進む。迷わずに。それこそが私自身の生きる意味だから。


 ウエインちゃんや劉君を見て感じた思い。それらはかつての私が持っていたものかもしれない。既に失ってしまった、私自身の心かもしれない。

 時折に生じる正体無き衝撃と、それに付随する映像めいた物も、何時の頃かに私がくした記憶の一部なのだろうか。消え果てた想い出の幾許かを、その残滓ざんしを、私の頭は必死に集めようとしているのだろうか。

 それを思うと少しだけ悲しくなる。

 失われた記憶が、感情が、心が、私の中に全て残っていたなら、私はもっと私らしくしていられた?

 ……私らしい私というのが、どんな私なのか、それすらももう判らないけれど。


「今は、他にすべき事があるわね」


 自分自身に言い聞かせ、現実へと意識を向け直す。

 感傷は断ち切って気持ちを切り替え、甦った両脚で床を踏む。

 確かな感触を脚に得ながら、正面を見て、少女と戦う第6種ゼクスへ視線を固定。右腕を体面へ伸ばし、肩の高さで水平に留めてから、開いた掌を白の異形へと向ける。


「『かけそき燐光、嗜虐しぎゃくの熱意、眩き壊意かいい、舞い散るほむら、老い行く輝き久遠くおんを穢し、青き翼を亜色に変える』」


 アクトレアを構成変化し作り出したのは、肉体や衣服だけじゃない。私に必要な魔力もまた、奴を利用し精製してある。

 長い時間の中で何度も用い、以前から大きく消費していた魔力を、この機に限界近くまで取り込んでおいた。そうして補充した魔力を再び振るい、1つの魔法を形作る為に詠唱スペルを口ずさむ。

 呪言の内に設けられた変成呪式に導かれ、伸ばした右手へ大量の魔力が集まってきた。全身を満たしていた未分化の可能性が、新たな姿を構築しようと四肢を這い、胴を伝って、片手の中心目指して流れていく。無色透明だった魔力は移動しながら金色の可視光と変わり、掌の一点で明度を引き上げだした。光の集点が徐々に膨らみ、内包するエネルギーを極大化し始める。

 私が持っている魔法の中でも、取り分け威力の大きな物を選んだ。小手先の魔法を使うつもりはない。こうなれば一気に、確実に、止めを刺す為の決め手で攻める。


「『鳴き止まぬ声、迎い討つ息吹、こじれた視野に明日臥あすがを灯せ、六道盟埜ろくどうめいや永久とわ逸色いしょくは』」


 右手に集った金の大光は規模を強める。それと共に収束が開始された。輝きの進路は定まり、多方向から流れ込むそれが螺旋を描きながら明確な形を作っていく。

 研ぎ澄まされた巨槍を描き出し、全てを貫かんとする剛毅ごうき湛えた魔力。左手に変わらず握り締められる天嬌鳳扇てんきょうほうせんの補助を以って尚、多量の詠唱スペルを必要とする甚大な魔法が、今、とうとう完成の時を迎えた。


「『綻ばぬ冥食めいしょくあぎとりしてつる天牙の破槍、を打ち砕く、無情のいななき、遠現ええげん狭鵬さほうとお』」


 第6種ゼクスの外殻が棘爪しそう諸共薙ぎ払われる。その衝撃に負けたウエインちゃんが弾き飛ばされ、両者の間に距離が生まれた。

 好機。

 折り良く訪れた期待の瞬間、どうして逃せられようか。天運の計らいがもたらした絶好の狙い目を定め、私は撃ち出す。保有する御業の中でも、最大級たる『破』の魔法を。


「『貫き通せ、煌輝一擲こうきいってき皇剣おうえんい』ッ!」


 最後の詠唱スペルが結び終わると、私の右手で輝きが爆ぜる。

 伸ばした右腕の上腕を左手で掴み、質量を持たぬ筈の魔力が噴出に耐える。それでも予想以上の反動に押し遣られ、背後の壁へ背が叩き付けられた。

 右手から解き放たれた膨大な魔力、その集合である光の巨槍が、刹那の間に標的を射抜く。直線状に空間を駆け抜けた光がアクトレアを瞬時に飲み込んで、まったく衰えない勢いのまま、対面の壁を突き破った。後はただ、有する破壊の力が赴くに任せ、彼方へと飛んでいく。

 きらめく軌跡に、魔槍の余波たる金色の羽根が舞った。優雅に、軽やかに、くるくると回りながら、大気を踊る黄金こがねの羽根。柔らかな羽毛を形作るそれらは、床に落ちる前、溶ける様に霧消する。

 異形を捉え、抵抗も許さず消滅させた力の結晶。その激突に際して巻き起こった超大な衝撃波が、ウエインちゃんを吹き飛ばした。彼女の細身を壁と床へ連続して打ち付けて、ようやく終わった頃には、いたいけな少女も流石に気絶してしまう。


 私の魔法にり抜かれ消し飛んだエレベーターの壁面から、外の様子が窺えた。

 私達が下へ行くのに際し、上へと流れていく景色。果てし無い遠方まで、超々高層の構造物が延々と続く世界。それらは遥かな底より聳えている物もあれば、視認不能な頂空から突き出している物もある。無数の構造物が隙間なく、或いは広く離れて乱立し、天も地もなく満たした空間。

 無造作に、幾何学的に、複雑に、簡潔に、幾多も連なり、重なり、分岐し、分離し、数限りない造形の構造体が、高層物の周りには張り巡らされている。多用な形容を持つ展開式の領域が通路を作り、階段を作り、全てを繋げ終わり無く広がる。

 何時、どうやって造られたのか、何の用途で造成されたのか、何も判らない構造物。1つ1つが外壁に煌々たる照明を設け、周囲を照らしているから暗くは無い。けれど、もしあれが無ければ、この世界は暗黒に閉ざされているでしょう。上にも下にも際限なく続く世界だ。あれら以外に、光の取り入れ口などないのだから。

 暗く大きな、気が遠くなる程に巨大な、多層構造型階層世界。私達の住んでいる世界。


「ふぅ」


 肩から力を抜いて息を吐き、張り詰めていた緊張を解く。

 上げていた右腕を下ろし、魔法放射時の体勢を崩してから、軽く頭を振った。左手に握ったまま右腕へ押し付けていた扇を閉ざし、後ろ腰の帯結び目へと差し込む。それから周囲を見回し、もう一度息を吐く。

 もう敵の気配はない。取り合えず、安心していいでしょう。

 私達やアクトレアがあれだけ暴れ回ったというのに、何の問題もなく運行を続けるエレベーター。その中に倒れる2人へと視線を向けた。

 ウエインちゃんは全身打撲に、第6種ゼクスの攻撃で裂傷した箇所が幾つか。劉君に至っては致命傷が多数。少女の方はまだいい。しかし男の方は、もう殆ど絶望的。けれど、このまま放っておく訳にはいかない。

 消し飛んだ壁から望む世界を横目に、私は2人の傍まで歩み寄った。丁度、近しい位置で気を失っている両者の合間に立ち、腰を下ろす。そこから両手を伸ばし、左手で劉君に、右手でウエインちゃんに触れた。


「まさか、まだ生きてる?」


 生じた驚きに思わず声が漏れ、彼の姿へ見入ってしまう。

 劉君はまだ生きていた。全身を白爪に貫かれ、肉を骨を引き裂かれ、砕き散らされ、多量の出血で動く事など不可能な状態に追い遣られていながら、それでもまだ体には意識を残していた。凄まじいバイタリティ、生への執着、常人離れしたしぶとさだ。

 体から完全に意識が離反し、虚数領域に流れる情報の大河に飲まれてしまったら、幾らなんでも甦らせる事は出来なかった。でも体に意識がしがみ付いている今ならば、肉体を再生する事で助けられる。

 アクトレアを使っての再構成は私自身にしか効果を及ぼさない。それで彼等を癒す事は無理だ。でも治癒魔法で損傷部を修復するなら可能。それ以外に救う術もない。


「『快方かいほううた、歓喜を以って静かにおうり、持たつ記憶を呼び戻して、今一いまいの有様、ただはからか』」


 両手へ集った魔力が、倒れる2人の体へ覆い被さる。

 着衣を透過して素肌へ至り、体内に音もなく溶けていった。それへ合わせて2人の姿は、淡い青色を発し出す。魔法が順調に始動している証だ。

 私の送った魔力が詠唱スペルによって彼等の各細胞へ染み入り、分裂速度を急速化させて欠損部の早期再生を促す。細胞の1つずつに活力が宿り、通常の数倍という速度で増殖を行い進めた。

 この治癒魔法最大の特徴は、テロメラーゼ活性を誘発して、各細胞内にあるテロメアDNAの修復をも行う所。テロメアDNAは細胞分裂の度に短くなり、一定の短さに達するとその細胞は分裂停止、即ち再生する事無く死んでいく。通常、細胞の分裂速度だけを速めて自己回復力を高めても、それによってテロメアDNAは短縮されてしまう為、細胞死の速度をも速める事になってしまう。

 けれど私の魔法ならば、テロメラーゼ酵素の活動をも促進させ、細胞分裂によって短縮されたテロメアDNAの常時修復が可能だ。細胞分裂の限界数を初期化して、肉体の再生維持を強く進められる。


「大丈夫よ。2人共、必ず助けてみせるわ」


 未だ気を失ったままの両者に囁き、私は目を閉じる。

 細胞分裂による生体組織の拡張が全方位から内肉を育み、統合して纏まり傷口を塞ぐ様は見えていた。彼等の完全回復も遠くない。

 今思うのは、この2人を救いたいと願い、強く念じている自分について。

 かつての私もこんな風に、傷付いた誰かの治療へ意識の多くを傾けた事があるのだろうか。その時の私は、誰に対してどんな言葉を掛けたのか。どんな思いでいたのか。

 何時かまた再構成をしたなら、今こうしている私の心も消えてしまうだろう。何度目でそうなるかは判らないけれど、きっとその時はくる。そうなったら、次の私も今の様に昔の自分を懐かしむのかな?

 ……どうなるかは判らない。何が起こるかも判らない。けれど、今はこの気持ちを、大切にしたい。何時か失う自分でも、その記憶を感情を心を、深く抱いて。

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