話の56:階層世界、下へ(+3)
「私の、旅の理由?」
私達を乗せたエレベーターは定速軌道に乗り、微細な揺れを治め、殆ど振動しなくなった。放置物が床や壁にぶつかる度、小煩く鳴っていた雑多な音は消え、安定した静けさが3人を包む。
3者の息遣いや、身動ぎした時に生じる布擦れ以外に目立った音のしない空間へ、私の発した声は一瞬にして溶け込んでいった。
「はい!」
半分近く立ち上がるような状態で、少女が大きく頷く。
私を見詰める彼女の瞳は、双方が強い輝きを宿していた。警戒の色は薄く、期待や羨望に近い光。少しぐらいは、心を開いてくれたのだろうか。そうだったら嬉しく思う。
こうして出会ったのもなにかの縁。不仲であるよりも、仲良くいられた方がいいに決まっているもの。それに、こんな可愛らしい子に好かれるのは、悪い気がしないし。
「私は女神を捜しているの」
質問に対する答えは隠す事でもない。だから私は真実を、脚色なくそのまま口にした。
その一言が、どのような反応を導き出すかは判っていたけれど。
「「女神?」」
告げた旅の目的に対して、男と少女は同時に声を上げる。
私の予想通りに、だ。
少女の顔には驚きが、男の顔には疑念が、それぞれ半々という度合いで浮かんでいた。嫌悪や畏怖といった負の色でないものの、諸手を挙げた容認でもない。理解や納得には遠い。
「女神ねぇ」
独り言のように呟きながら、男が訝しげに私を見る。
少しだけ開かれた糸目の奥、鈍く光る瞳に宿るのは疑いの眼差し。
けれど、それは特別おかしな応対ではない。寧ろ、当然と言える。この世界に生きている人々なら、私の言葉に誰しもが彼と同じ様な態度を示すだろう。
私の目的を易々と受け入れられる人はけして多くない。大抵は笑い飛ばすか、憐れみの姿勢を取るか、今と同じに胡散臭そうな目を向けてくるか、何れかだ。
それを判っているから、苦々しく思う事も、悔しさを感じる事もない。私は心乱さず、何時もと同じ平常心で奇異の視線を受け止められる。
「そいつはアレだろ? クソ古い御伽話だか伝説だかに出てくる、救済の女神様だろ?」
「ええ、そうよ」
「俺の生まれた群落にも伝わってたぜ。なんでも、この混沌とした世界を正常化して、皆を救ってくれるんだってな」
「ええ」
片眉を上げて、不審げに問いを重ねる男。
私は相手の目を見たまま、首を縦に振った。
「だがよ、そいつは『ド』がつく程の与太話だ。俺の故郷じゃ、5歳児だって信じてねぇ」
「そうでしょうね。信じている人間の方が稀だわ」
肩を竦めて見せ、呆れるような口調で男が言う。
私は少しだけ笑い返し、彼の言葉に同意した。
確かに女神の伝説は黴の生えた昔話かもしれない。多くの人がそう思っているのも事実で、それを否定する事は出来ない。出所は不明、根拠もない、そんな夢物語を真に受けられる人が少ないのも無理の無い話だろう。
でも、女神の伝承は存在している。
それは現状を打ち破りたい人々が抱いた、希望や願いの発露かもしれない。縋りつく為の作り話かもしれない。だけど今日に至るまで連綿と伝えられ、失われる事無く息衝いてきた。
始まりが何処にあるのかは判らない。けれど意味している事は判る。
救いだ。
救いを求める人々の意思が、伝説を生かし続けてきた本質。誰しもが不遇な境遇からの脱却を夢見て、口にしてきた神話だった筈。そう、神話なんだ。淡い期待と、遥かな展望に彩られた神話。
しかし、人は信じられない。それがどんなに切なる願いであっても、現実の重さを、厳しさを知っているから。嫌になるほど正確に理解出来ているから。求め欲しながらも、認められないでいる。
何代も何代も、人々はそんな葛藤を繰り返してきたのだろう。受け入れる事も忘れ去る事も出来ず、そのままに時間を重ねて。誰も信じていない伝説が今も伝わっているのは、その為だ。
女神とは、実体のない空虚な幻想なのかもしれない。誰かが語った作り話で、つまらない童謡の成れの果てかもしれない。もしかすると、その可能性の方が高いかもしれない。
それでも、私は捜してきた。長い長い時間を掛けて、延々と、女神を捜し続けてきた。そしてこれからも、何があろうと一心に、私は捜し続けるだろう。女神を見付けるか、私が朽ち果てるか、どちらかになるまで私の旅は終わらないだろう。
人々の積層せし思いを体現しうる唯一の力。救世主となる未来を秘めた眩い輝き。それを見付け出す事が、私の存在意義だから。私が私として此処に在る、たった1つの理由だから。
「しっかしなんでまぁ、そんな与太話を信じる物好きとこうも出会うかね」
私から視線を逸らして、男は糸の様な細い目を天井へ向けた。
高い位置にある天蓋を見詰めながら、彼は溜息と共に独りごちる。
言い方とは対照的に重さを感じない吐息の中、一緒に零れ出た言葉。私は何よりもそれが気になった。他にも女神の伝説を信じる者と出会ったと、彼はそう言ったのだから。
「どういう事?」
持ち上がった疑問と興味に動かされ、私は男へと問い返す。
それを聞いた男は空中へ投げていた視線をこちらへ引き戻し、左手の親指を立て、自分の隣を指し示した。
「こっちのお嬢さんも、女神様を追ってるのさ」
男に呼ばれると、少女は姿勢を正して表情を引き締める。
背筋を伸ばしたまま、彼女は私を見て頭を動かした。顎を僅かに引いて顔を小さく前後させた後、先刻以上の煌きを帯びた瞳をこちらへ注ぐ。
「貴女も女神を?」
「はい!」
少女へ顔を向け直し、改めて聞くと、彼女は元気良く頷いた。
けれど直ぐに目を伏せ、幾許か声のトーンを落とした小声で喋る。
「……あ、でも本当は少し違うんです」
「違うって、何が?」
なにか不安そうにしている少女へ微笑み掛けると、彼女は上目遣いに私を見てきた。
こちらの顔色を窺うような眼差しは、勢い余って返事してしまった事への負い目からだろうか。私は気にしていない事を教える為に小さく頷き、微笑を違えず先を促す。
それを見て安心してくれたのか、少女はもう一度顔を上げて、視線を真っ直ぐに合わせてくれた。
「私には兄が居るんです」
「お兄さん?」
「はい。兄はずっとこの世界について、そして女神について、熱心に調べていました」
語りながら、少女は昔を懐かしむように目を細める。
それは彼女にとって楽しい思い出だったのだろう。話している時の雰囲気から、幸せそうな暖かさが感じられた。
少女が纏う空気は朗らかで、優しさと愛情に恵まれた育ちなのだと判る。彼女自身、自分を包む家族と社会を深く愛しているだろう事も。
「そんなある日です。兄は突然、家を出て行きました。女神を捜すと言って」
その件を口にした途端、少女の表情が曇る。
快活だった顔には辛さが滲み、眉根は揃って小さく震え始めた。底から這い登る感情を堪えるように、噛まれた唇が俄かに変色している。
急激な変化は、彼女が伴う喪失感の大きさを私に理解させた。
「父と母は兄の出奔にとてもショックを受けて。それは私もなんだけど……それで私、どうしても兄に会いたかったから」
「お兄さんを捜す為、旅に出たのね」
「はい。でも兄の手掛かりは何も無くて。だから兄の追っていた女神を捜していけば、出会えるんじゃないかと」
「そうだったの」
「はい。それで、その途中に知り合ったのが」
少女が横を向き、隣に座る男を見る。
腕組みをし、私達の会話へ耳を傾けていた彼は、少女の視線に気付いて片目を少し開けた。
「ま、お嬢さん1人で旅なんざ無謀すぎるからな。俺みたいなボディーガードが居なくっちゃよ」
口の端を吊り上げて、男は不敵に笑ってみせる。
表情だけ見ればあくどく見えるけど、本心までそうじゃないのは簡単に判った。
少女は彼の事を信頼しているようだし、我欲に染まって非道を走る風にも思えない。話した時間は短いけれど、それとなく彼の人間性は伝わってきたから、そう思うのだろう。
「あの、お姉さんも同じに女神を捜してるですよね?」
私の側へ向け直した顔から、不安に黒ずんだ暗色の気を払いつつ、少女は聞いてきた。
瞳に再輝している光は期待の色。それを見れば彼女の言わんとする事は大凡想像がつく。
「ええ、そうよ」
「それなら一緒に行きませんか? 私達の目的は大体同じだし、1人より2人、2人より3人の方がきっと楽ですよ」
思ったとおり、少女の提案は私と行動を共にする事だった。
彼女も兄を捜して旅する中で、女神の伝説を嘲笑う人々と何度か会ったのだろう。女神を捜していると私が述べた時この子が私へ向けた瞳は、同目的者を見付けた喜びを映していたようだ。
私達のような存在は、この世界では極めて稀少。女神を捜す者がこうして出会う確率は、それこそ奇跡に近いレベルではないだろうか。それこうして邂逅しているのだから、今この瞬間を機会を大切にし、同じ道を共に歩もうと申し出るのは、けして間違っていないように思う。
なにより私自身、彼女等への同行に異論はない。今までは1人だったけれど、共通の目的を持つ人と行動が出来るのなら、迷わずにそちらを選ぶ。移動速度は多少遅れるかもしれないけれど、身の危険は格段に減る筈だから。
「私は構わないわ。貴女達さえ良ければ、是非ご一緒したい」
「本当ですか!」
「ええ」
少女の顔から暗いものが払拭され、代わりに明るい感情が広がっていく。
彼女は目を一際強く輝かせ、拳を握って立ち上がりかける程。余程嬉しいのだろう。無邪気に喜ぶ彼女を見ていると、私の頬も緩んでくる。
「風皇君、いいよね?」
「ん? あぁ、まぁ、いいぜ。長いこと一人旅だったらしいからな。足手まといにゃならねぇ程度に、腕は立つんだろうからよ」
満面の笑みで隣席の男へ問う少女。
一方の男は曖昧に頷いて、うっすら開けた横目で私を見る。
先の言葉を完全には信じていないと、遠回しに告げているようだ。それも仕方ない。無条件にこちらの話を信じてもらおうとは思っていないし、簡単に理解も出来ないだろうから。でも共に行動するのなら、これから少しずつでも認めさせられる筈だ。その機会を得られただけでも充分。
一緒に動かないのならば、そんな事を気にする必要もないけれど。そうでないのだから心に留め置いて、思案の一念として考慮していこうと思える。
「それじゃ、自己紹介をしましょうか。私は勇魚。綿津御勇魚よ」
正面に座す2人の顔を交互に見て、私は名乗った。
右手を胸に当て、自分を指すようにして。
「俺は風皇劉。ま、よろしくな、ネーチャン」
「私はウエイン・ダートルーナです」
続いて男と少女も、自分の名前を口にする。
私は彼等の名を胸中で繰り返し、記憶の中へ染み付けていった。誰かと名乗り合うなんて、本当に久しぶり。だからこそ忘れないよう入念に。
その過程で胸の奥が震えるように感じるのは、仲間を得た喜びなのだろうか。あまりに久しい感情だから、少し判らなくなってしまっている。でも悪い気はしない。