話の54:階層世界、下へ(+1)
正面の壁に設けられた縦長の窓から、外の明かりが入り込んでくる。
分厚い強化硝子は外側に大量の埃が付着し随分と汚れているけれど、それでも射し込む光を完全に妨げてはいない。そのお陰で、エレベーター内は一定の明度を保っていられた。ただ汚れが酷くて、外の様子は満足に見えないけれど。
壁面に沿って敷かれたレールを伝い、下降移動を続ける箱型のエレベーター。その天井は人一人が立ち上がっても、まだ充分に余裕のある高さ。内部空間は3人程度なら寝転んでも自分の場所を確保出来、他人の邪魔にはならない程度の広さを持っている。
何に使うのかよく判らない機材の塊が、粗雑にあちこちへ置かれている事を除けば、居心地は比較的悪くない。それでも長時間此処に居ると、いい加減、自分の脚で歩きたくなってくる。
私はもうずっと、この中で壁に背を預け、硬い床に座り込んだままだから。
尤も、こうしたエレベーターを使わずに下層を目指して歩こうものなら、どれだけの時間を掛けても然程下には進めない。人の脚とこの移動用機械では速度に圧倒的な開きがあるし、人の場合は休憩を挟まねばならいから、更に時間が掛かるもの。
壁伝いに只管下降を続けるエレベーターは、既に10時間以上も停止しないで動いている。運転手が居る訳でもなく、何時入力されたのかも定かでないプログラムに従って、延々と下り続ける箱。
幸い、内部には簡素なトイレも個室として併設されているので、そちらで困る事はない。トイレに巣食っている強性バクテリアが排泄物を瞬間的に分解し、消毒・消臭効果のある霧液を化学反応で作り出してくれる為、密閉空間で鼻を抓む必要も。
こうしたエレベーターは、この世界の至る所に存在している。けれど何時、誰が作ったのかは判らない。それはずっと昔から存在し、上昇と下降というたったそれだけの仕事を、恐ろしく長い年月休む事無く繰り返してきた。
しかも相当に頑丈な作りであるから、簡単には壊れない。私は今までの旅中で、壊れて動かなくなったエレベーターを見た事はなかった。
例外として、レールが破損した所為で、それ以上先に進めなくなった物はあったけれど。
この世界には無数のエレベーターが走っている。けれど、それを使っている者はかなり少ないと思う。
人々が自分達の集落、或いは都市から離れる事は滅多にないし、例え離れてもエレベーターを使ってまでの遠出はしないからだ。
私のように何基ものエレベーターを乗り継いで、ずっと旅し続ける物は本当に少数だろう。流石に私1人という事はないだろうけど。
私が今まで旅中で、同じ様にエレベーターを使い移動する者に会った事は、数えるほどしかなかった。しかもその全てが明確な目的を持ち、其処を目指しての『当て所もある旅』。私のように目的地も判然としない旅人は皆無だ。
それを悲しいとは思わない。辛いとも、苦しいとも思わない。とっくの昔に、そういった感情は擦り切れてしまった。
私はもう、一人旅にすっかり慣れてしまったから。寂しさに、馴染んでしまったから。
私は私自身が、どれぐらい旅を続けているのか判らない。
いちいち日数を数えていないし、此処では日付なんて物は殆ど意味を持たないから。判っている事といえば、歩んできた時間が膨大だという事ぐらいだ。
長い長い時間を、私はこの旅に費やしてきた。気の遠くなる程に巨大で、終わりの見えない広大なこの世界を、私はずっと1人で。
それでもまだ終着は見えない。今まで同じ様に。これからもそれが続く可能性は充分にある。それでも私は、この旅を止めるつもりはない。
もしかしたら目的を遂げられず、何処かで誰に知られる事もなく、無様に野垂れ死ぬかもしれないけれど。何をする事も出来ず、悔しさと悲しみに塗れて散り果てるかもしれないけれど。
それでも私は、旅を続けるつもりだ。これからもずっと、今までと同じ様に。求めるものを、手に入れるまで。
長い間、ただの一度も停止する事無く動き続けていたエレベーターが、不意に速度を落とし始めた。
壁面に敷かれたレールを噛むブレーキ音が響き、断続的な微震動を伴って、巨大な箱は下降速度を緩めていく。
それから程無く、エレベーターは大きな音を立てて、最後に1つ震動を伝え、止まった。
実に10時間ぶりにエレベーター進行を止めたエレベーターだが、此処はまだ私の目的地ではない。私が目指していた場所、更に下の階層へは、もう暫く乗っていないと辿り着けない筈だ。
このエレベーターに乗った時、最初に行き先を下降限界まで設定しておいたから、途中で止まる事はないんだけど。でも止まってしまったという事は、レールが途絶えていて進めないのかもしれない。それならばまた、別のエレベーターを探さないと。
この世界には数多くのエレベーターがある。でも世界は本当に広くて、本当に大きいから、エレベーター同士の間隔はとても離れている。だから望んだ場所に都合良くエレベーターがあるとは限らないし、寧ろ、無い事の方が多いぐらいだ。
この階層に下層行きのエレベーターがあるかどうか、それは判らない。探してみない事には、何とも言えない。
もし無ければ、ありそうな場所まで徒歩で降りていかなければ。その場合、すぐに辿り着ければいいけれど。最悪、何十時間、何百時間も進まなければいけない、その可能性もある。
現に今まで、そんな事は何度もあった。だから今回も、それを覚悟しておく必要がある。
私は移動の為に、腰を浮かせかけた。
丁度その時、箱の側面に設けられている扉が、自動的に外側へと開いた。
それはエレベーターが搭乗希望者を迎え入れる動き。何者かが外で、エレベーターの停止可能位置で、移動する箱を止める為に停止ボタンを押し、待っていたのだろう。
エレベーターは組み込まれているプログラム通りに動きと停めて、搭乗者の侵入が可能な形を作った。事故での停止ではなく、正規の機動に則ったもの。
ここ最近、エレベーターに乗ろうとする者と会っていなかったから、つい何かしらの不具合で止まってしまったのかと思った。
そんな私の思い余所に、開かれた入り口の先、外の世界で2つの人影が揺れる。
到着したこのエレベーターを指して、何か話しているようだ。
「いやぁ、丁度いい所にエレベーターがあって助かったな」
「本当だね。そんなに待たなかったし」
開け放たれた扉の向こうから、若い男と女の声が聞こえてくる。
その2人が交わす気安い掛け合いは、久しく聞いていない人の温もりを感じさせた。
流れ込んできた声に続いて発声主である人影が、連れ立ってエレベーターの中に入ってくる。
「おっと、こいつは珍しい。先客だ」
「あぁ、本当だ」
内部に踏み入ってきた2人は、適度な広さを持つ空間の端で座る私へ、すぐに気付いた。
エレベーターに人が居る事は珍しい。だから彼等は驚きを面上に浮かべ、好奇心を伴った目をこちらに向ける。
それは極自然な反応だと思う。私が彼等の立場であっても、恐らく同じ様な顔をしただろうから。
「あの、こんにちは」
私の姿を認めた2人組の片方、ピンク色の髪をショートカットにした少女が、微笑みながら会釈してきた。
まだ10代だろうその子は、小柄で線が細く、化粧っ気はないけれど整った可愛らしい顔をしている。くっきりとした両目には強い輝きがあり、若者独特の強い活動力を感じさせた。
着ているのは淡い桃色のセーラー服。袖は長いけれどスカートは少し短くて、滑らかで白い細やかな脚が露出する。紺色の長いハイソックスと、動き易そうなスニーカーを履き、軽快な足取りでエレベーターの中程まで歩んできた。彼女の動きに合わせて、右手に嵌められた金色のブレスレットが小さく揺れる。
中々珍しい服装だと思う。私が今まで通ってきた階層では、似たような衣装を着ている若者を見た事もあるけど、その数はけして多くない。その所為か、凄く特徴的に思える。
「ええ、こんにちは」
少女がしたのと同じように、私は彼女の顔を見ながら微笑し、挨拶を返した。
ただ、暫く人と会って話していないし、微笑む事も随分としていなかったので、本当に笑えたかどうかは判らない。
少女は特に怪訝な顔をする事も無く、にこやかな顔で目礼してきたから、多分成功していたとは思うけど。
「どーも、こんちわ」
彼女に続いて、男の方も軽く頭を下げてきた。
ボサボサとした緑色の髪を持つ背の高い男だ。少女との身長差は10cm以上あろうか。
齢は20代半ばぐらい、年季の入った薄茶色のロングコートを着ている。
でもそれ以上に目立つのは、その顔。特別ハンサムという訳じゃないし、どちらかと言えば三枚目系の笑い顔だけど、糸の様に細められた両目が印象的。瞑っているのか開いているのかハッキリとしない目が、彼を人の良さそうな、或いは何か企んでいそうな、そんな両極端に背反な人物と思わせる。
少女と男は対照的だ。特に反対のように感じられるのは雰囲気。
少女の方は型にはまった礼儀正しさを持ち、どことなく育ちの良さを感じさせる。一方の男は軽薄で、自由というか野生的というか、何物にも縛られない存在、そんな風に感じた。
それでも2人は仲良さ気で、互いの間には壁らしい物は感じられない。気を許しあった友人のような空気がある。
そう。2人の関係は友人という言葉がしっくりくる。あくまで見ている分には、だけど。男女のペアではあるけれど、ちょっと恋人同士には見えない。
「こんにちは」
男にも挨拶を返し、私は浅く頭を下げた。
その間に2人はエレベーターの中央付近まで進み、揃って私の対面である壁際に腰を下ろす。
と、殆ど同時に開いていた扉が自動的に閉まり、空間内は再び密閉状態となった。それから少しして、止まった時と同じ様な震動を1つ起こしエレベーターが動き出す。数度の微震動で箱内を揺らした後、今までと同じ様に安定した動作で下降を始めた。