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話の49:再会はあの場所で(1)

 青い空、か。

 それに白い雲。

 肌に感じる微風そよかぜ

 足元には草花。

 そして、1つの墓石。


 この光景には見覚えがある。そうだ、僕はこの場所を知っている。

 上に見えるのは本物の空じゃない。雲も偽者。あれは空と雲を投影しているだけだ。

 ルナ・パレスの天蓋、都市を覆うドームに作られた映像。

 この風も空調設備が演出しているにすぎない。

 流石に花や草、それから墓石は本物だけど。


 ……いいや、違うか。

 全て偽りだな。

 ルナ・パレスは遥か昔に無くなっている。この場所は月の何処にも、もう存在していない。

 今は西暦2100年期ではなく、月聖暦1531年。ルナ・パレスが在った地には、月の遺跡が聳えている。

 そうだ。これは夢か幻か。

 尤も、それを言ったら僕だって同じ様なものだろう。


 僕は何も見えないし、何も感じない筈だ。

 既に死んでいるから。

 タレスと共に吹き飛ばされて、僕は粉微塵に砕け散った。自分が消える瞬間は、驚くほど鮮明に憶えている。

 死ぬのも2度目となると、脳にも精神にも余裕があるのかな?


 最初は、そう。遺跡の深奥で、真璃亜まりあを護りティダリテスと戦った時だ。

 結局、僕は奴にトドメを刺しきる前に殺されてしまったんだったな。


 不思議だ。自分の死を客観的に捉えている感覚がある。

 まるで第3者の視点。自分の事なのに、他人の姿を見ているみたいだ。

 終わる瞬間までの記憶。僕の中にあるのは、間違いなくそれだよ。

 自分の視点で見ている、感じている。だけど横から見ているようでもある。

 変な感じと言う以外に表現が見付からない。


 それに記憶も完全に戻っている。

 生まれた時に見た調整槽ちょうせいそう越しの世界。6人の科学者。兄弟達との作戦。 焼き尽くしてきた次世代品種セカンドの姿。

 あの女と共にインフィニートの研究施設に居た事。真璃亜と過ごした時間。アウェーカーとして働いた日々。劉やウエイン、それにアキさんと一緒に駆けた戦場の街。

 真璃亜が各企業の代表を説得した光景。皆と一緒に遺跡へ乗り込んだ時。ティダリテスとの戦い。

 月の上での目覚め。自分の記憶を求めて彷徨った2年間。その間に抱いた感情、得た知識。仕事の為にこの手へかけたアクトレアと人々。

 ユイのロザリオ。女神代行守護者ミネルヴァガードとして繰り返した戦い。領区を奪われた瞬間。イスラとの会話。ロシェティック跡での爆死。

 全てだ、全て憶えている。

 僕としての記憶、その全てを、余す事無く。


 いったい、どうしたんだ。

 僕は、どうなっている?

 判らない。判らないな。


「あら、赤巴せきは君じゃない?」


 どこか聞き慣れた声が背に掛かった。

 墓石へ定めていた視線を外し、声のした方へ振り返る。

 僅かな動きでも風は頬を撫で、これが現実のような錯覚を意識の中へ芽吹かせた。

 それでも全てが偽りだと判るのは、身の内に宿る記憶の故。

 自分の死を知っているからこそ、虚偽を見破る現実の固さは何物にも勝る。


「やっぱり赤巴君だ」


 振り返った僕を見て、その人は華やかな笑顔を作る。

 朗らかな陽光を思わせる笑みを浮かべるのは、僕と正反対の赤い髪をした女性。

 穏やかさと強健な意志が共存する瞳、秀麗な面立ち、細身の体、そして僕よりやや高い身長。

 其処に居たのは見知った顔だ。綿津御わたつみ勇魚いさな、ユイから勇者呼ばわりされている女。

 着ているのは長袖長ズボンの桃色パジャマ。なんともこの空間には不釣合いな。


「あれ? でも赤巴君、顔の傷はどうしたの? 綺麗になってるよ」


 勇魚は不思議そうに首を傾げる。

 僕の顔へ刻まれていたアクトレアの爪痕が無い事に、疑問を感じているようだ。

 しかし僕にとっては然したる問題じゃない。なにせ僕は死んでいる筈なのに、こうして彼女と会話してるぐらいだからね。

 傷が治って、使い物にならなかった右目が見えていようと、それは然程驚く事じゃないよ。


「あぁ、でも別に変じゃないか。これは私の夢なんだから」


 傾けていた顔を元に戻し、勇魚は納得の頷きをする。

 全てを理解するような顔。そして彼女の口から出た言葉。この正体を突き止めたい。

 今度は僕が疑問を口にする番だ。


「これは君の夢なのか?」

「そりゃそうよ。だって此処、私のお母さんのお墓だもの。ルナ・パレスはずっと昔に無くなってるから、今在るこれは全部夢よ。それ以外にないでしょ」


 勇魚は人差し指を立てて、然も当然というように突き出してくる。

 つまり彼女はこれを自分の夢だと思っているらしい。着ている服がパジャマであるし、本当に寝ていたんだろう。

 だったら僕はどうなる? 彼女の夢だから傷がないとしても、記憶があるのは変じゃないか。

 そもそも他人の夢に登場する人物は、今の僕みたいに確固とした自我意識を備えているものなのか?

 僕は、そうは思わないな。


「でもどうして私の夢、それもお母さんのお墓に、赤巴君が出てくるのかしら?」

「……綿津御わたつみ静江しずえ


 改めて首を傾げ、怪訝な顔をする勇魚。

 そんな彼女へ向けて、僕は記憶にある女性の名を告げた。


「え?」


 勇魚の目が僕を見る。

 そこには隠し切れない驚きがあった。


「母親の名前だろ?」

「そうだけど、どうして知ってるの? ……あ、夢だからか」


 ポン、という音を立てて手を打ち、勇魚は目を閉じる。

 夢、の一言で全てを解決するつもりらしい。

 だが、そうはいかない。


「僕は静江さんを知っている。昔世話になったからね。それに、此処にも1度だけ来た事がある」


 そうだ、僕は此処を知っている。

 ルナ・パレス東街区、その端にある綿津御神社。其処から更に裏手へ進み、辿り着ける場所が此処だ。

 花畑の中に作られた小さな墓石。僕を造った次世代戦略兵器研究開発チームの一員、綿津御静江の眠る墓所。

 あのチームの主要メンバーは6人。その中で誰よりも優しく、兵器として生まれた僕達を人間として接してくれた唯一の人。


「此処に来た事があるって……え? 赤巴君、お母さんを知ってる? あれ、でも、それって1500年前よ?」


 勇魚は難しい顔をして考え込んでいる。

 混乱しているみたいだ。

 無理もないか。僕は自分が1500年前の人間だと言ってるんだからな。彼女と同じ、ね。


「あれは僕が16歳の頃。静江さんが病で亡くなったと聞いて、せめて墓参りだけでもと思い此処へ来た。……確かあの時、今みたいに君と会ったな」


 僕達の出会いは間違いなく此処だった。

 でも僕は記憶をくしていたし、彼女も1度会ったきりの僕の事は忘れていたみたいだ。

 互いに忘却していたが故、クリシナーデ領区で出会った時も初対面だと思った訳か。ユイのロザリオ以外にも、僕の記憶に関する手掛かりはあったんだな。

 とは言え、昔に2、3言葉を交わした程度の相手なんて記憶にある方が稀だろう。まぁ、憶えていたら僕は自分が1500年前の人間だと知れたんだけどね。


「私と赤巴君が此処で? ………………そういえば、昔に此処で誰かと会ったような」


 目を瞑り、過去を探る顔で勇魚が呟く。

 遠い記憶を辿っているのか、色褪せたピンボケ写真を見るように眉間へ皺を寄せて。


「君は今と違い、巫女装束だったよ。墓前に花を添えた僕へ、母の知り合いかと尋ねてきた」

「そうだ……そう……思い出した。私の質問に、昔世話になったって答えたのよね。それで名前を聞いたら、霧江きりえだって言ったから」

「そしたら君は、僕の母の名を当てた」

「うん、そうだった。お母さんが話してくれた親友の名前が、霧江きりえ光瑠ひかる。それを憶えてたから、霧江って聞いたら光瑠さんの息子だって思ったんだ」


 両手を胸の前で打ち合わせ、勇魚は得心の顔で大きく頷く。

 忘れていた物を思い出したのが嬉しいのか、瞳を輝かせて笑顔を見せた。


「お母さんが見せてくれた写真に写ってた人と、赤巴君がソックリだったからすぐに判ったんだよ。髪も同じ蒼だし、瞳も赤で瓜二つだったもん」

「……僕としては、似たくて似た訳じゃないんだけどね」


 霧江光瑠。僕達狩猟型次世代品種ネガ・セカンドを造った研究チームの一員であり、僕等の素体となった卵体の提供者。

 大元のDNAモデルが同じだから、似ているのは当然。僕達はあの女のクローンみたいな物だからね。

 あの女、確かに遺伝子学者としては非凡な才能を持っていた。けど僕の知る限りでは最低最悪の女だ。


「うわぁ、でも何だか凄い」


 左右の手を合わせて握り込み、勇魚は僅かに肩を震わす。

 祈るような姿勢で口を開く彼女は、些か興奮気味のようだが。


「だってお母さん同士が友達で、私達はもっと若い頃に1度会ってたのよ。そして今度は1500年も後で再会してる。これって運命的じゃない?」


 両目を先よりも更に強く輝かせ、彼女は1歩前へ踏み出した。

 全身から発せられる雰囲気は、僕に同意を求めているよう。

 またオカシな事を期待されてしまったけど。


「生憎と、僕は運命なんて信じない。ただ色々と状況が流れて、それが偶然重なった結果だ。それ以上でも以下でもないさ」


 僕は自分の考えを率直に述べた。

 別に彼女へ反目するつもりはない。ただ運命だとかいう「予め決まっていた」的な物の流れが嫌いなだけだ。

 生まれた時から戦い、壊し、殺す事を決められていて、しかも役目が終わったら今度は自分達が消される。そう決まっていた僕達の在り方に、今更ながら反発したいだけなのかもしれないけど。

 以前ティダリテスにはどうでもいいと言ったけど、本当は気に入らなかった。ふん。


「むぅ」


 僕の返答が不服だったらしい。

 勇魚は少し睨むように僕を見て、不貞腐れた声を漏らす。

 僕にとってはどうでもいい事でも、彼女には重大みたいだな。

 ふぅ、やれやれ。


 彼女の不満気な視線に射抜かれるのが、耐えられない訳じゃない。だけど少しぐらいなら、ほんの少しぐらいなら、彼女の意見に共感してもいい。

 運命なんて言葉で片付けるのはゴメンだ。でも、僕達が初めて出会った此処で、もう1度同じ様な再会を持ったのは、確かに不思議な縁だと思う。

 僕達3人が出会った場所だからな。特別な何かを感じないでもないよ。


「相変わらず、お兄ちゃんは乙女心が判ってないなぁ」


 トーンの高い、勇魚とは別の声が聞こえた。

 ひどく懐かしい、そして聞き慣れた声。

 この声を忘れる筈なんてない。誰の物かはすぐに判った。

 でも信じられない。何故なら、彼女は1500年も前の存在。今を生きているなんて事は……


 いや、例外なら目の前に居るじゃないか。

 1500年前の人間は、確かにまだ在る。だったら、あの子の可能性だって否定する必要はないのか。

 確認しなければならない。

 焦る気持ちを抑えて、出来るだけゆっくりと、僕は静かに振り返る。

 もしも違っていたら、ショックはきっと大きいだろう。だから期待はしない。しないつもりだ。

 でも心の中でそれは膨らむ。どうしようもない程に。



 そよぐ風を受けながら、視点方向を180度反転させる。

 見えたのは草花に囲まれた墓石が1つ。その表面に『綿津御静江』と彫り込まれてある。隣にはもう1つの名前。刻まれてあるのは『綿津御亮治りょうじ』。


 そうか、これは夫婦の墓だったな。眠っているのは勇魚の両親。

 尤も、彼女は父親の顔も知らないらしい。だから父の印象はかなり薄いんだろう。

 僕の場合は……研究チームの連中が父母になるのだろうか? だったら父親は3人居る事になる。

 その中には、彼女の父である亮治も加わっているけれど。


 これも因果というヤツか。



 墓石に描かれた名を(僕等の生まれた時代から100年ぐらい前は、戒名という別の名を刻んだらしい)最初に視界へ収め、気持ちを落ち着ける。

 あまり慌てて目標を追うと、いざという時、どんなミスをするか判らない。

 出来るだけ、あの子の前ではヘマをしたくないからな。


 ……期待しないつもりだったのに、もうあの子と決め付けている。

 僕はこんなにも、都合良く物事を考える男だったかな?


 違うか。僕がこんなに浮き足立つのは、あの子だからだ。

 僕にとっては、文字通り命よりも大切な存在。何よりも優先すべき対象。僕の全て。

 僕はあの子の為だけに生きている。だからあの子を護れなかったなら、生きている意味は無い。

 1500年も前にあの子が消えていたなら、僕が1500年後の世界で命を繋ぎ止める意味なんてとっくになかったんだ。

 記憶が戻ったら、さっさと自害でも何でもして、人生に終止符を打っただろう。

 その必要もなく、木っ端微塵に砕け散った訳だけど。

 でも、あの子が今も生きているなら。僕もまた、生きなければ。死んだ事への未練が、急激に強くなってくる。



 さっき見た時は無かった。

 墓石の前に一輪の花が添えられている。

 蝋に似た光沢を放つ、白く分厚い花弁が6方向に開いた花。アングレカムだ。

 そしてその前に佇む、1人の少女。

 蒼く長い髪。小柄な体。まだ幼さの残る顔。そこへ浮かべられた愛くるしい笑顔。

 シンプルな無地のワンピース姿。

 見間違う筈もない。此の世で只1人、僕が全てを捧げ、護り通すと誓った妹。


「真璃亜」


 その名を口に出して呼んでみる。

 彼女は満面の笑みを浮かべたまま、音も無く1歩前に出た。


「リーラ? リーラじゃない!」


 僕の背後で歓声が上がる。

 ついでに駆けてくる音も。

 そうかと思えば僕の隣を通過して、彼女は真璃亜の前に飛び出した。


「えへへ、いさっち、お久しぶりだね」

「ホント、もうスッゴイ久しぶり!」


 八重歯を見せて笑う真璃亜。

 その手を握り、勇魚は嬉しそうに話しかけている。

 僕には背中を向けているから表情までは判らないけど、声の感じから随分な喜びようが伝わってくる。


 真璃亜は何時も話してたな。勇魚は1番の友達だって。2人はとても仲が良かったらしいし。

 この様子だと、勇魚も真璃亜の事を大切に思っていてくれたようだ。真璃亜からの一方的な友情でなくて良かったよ。


「元気だった? ちゃんとご飯食べてた? イジメられなかった? それにその髪、どうしたの? 染めちゃった? そもそもどうして此処に? あ、でもこれは私の夢だから関係ないのかな」


 勇魚は今までのブランク分なのか、矢継ぎ早に質問を浴びせ掛けている。

 手を握られている真璃亜は、それを正面から受け止めるばかり。返答しようにも、勇魚の言葉が全て遮ってしまっているような状態だ。

 でも嫌そうじゃない。寧ろ嬉しそうに見える。

 真璃亜も彼女と会えて、こうやって言葉を交わせるのは心地良いんだろうか。そんな感じだな。


「そんなイッペンに聞かれても答えられないよぉ〜」


 声では困ったように、しかし顔は変わらぬ笑顔のまま。

 真璃亜の間延びした悲鳴が空気にける。


「あ、ごめん。リーラに会えて嬉しかったから、つい……あはは」


 ここで我に返ったのか、勇魚は連投する質問に結びをつけた。

 手も離したようだ。漂う雰囲気から、舌も出していそうだな。


「えっと、真璃亜の髪はこっちが本当の色なんだよ。前は黄金こがね色に染めてたの」

「へぇ、そうだったんだ。……て、まりあ?」

「うん。真璃亜が本当の名前。リーライト・プリマイヤーは嘘の名前だよ。本当は、霧江きりえ真璃亜まりあっていうの」

「霧江って……それにその髪も……もしかして、赤巴君と?」


 2つの真実を告げられて、勇魚は困惑している様子。

 振り向いた彼女の目が、僕に答えを求めるように揺れている。


「そうだ。真璃亜は僕の妹だ」


 勇魚へ向かって頷きを返し、事実を教えてやる。

 投げられた解答に彼女が両目を瞬かせる間、僕も歩を進めて真璃亜の前へ。


 2年ぶりに傍で見るこの子は、最後に別れた時のままだ。

 実際の年齢よりずっと若く幼く見える容姿も、僕を映す赤い瞳も、あの女に似た長い髪も、艶のある滑らかな肌も、可愛らしい唇も、可憐の一言に尽きる顔貌も、全てが遺跡で見た時のまま。


「真璃亜。本当に、お前なんだな」


 僕は右手を伸ばし、真璃亜の頬に触れる。

 皮膚を通じて確かな感触が伝わってきた。それに仄かな温かさも。

 この質感、そして体温、匂いも、紛う事無く真璃亜そのもの。


「うん」


 春の花が咲き誇るような、満開の笑み。

 声も、口の動きも、声帯の揺れも、筋肉の運びも、表情の移り変わりも、笑顔の愛らしさも、全てが真璃亜のもの。


「お兄ちゃん、真璃亜ね、また会えて嬉しいよ」

「真璃亜、僕もだ!」


 考えるより先に、僕は動いていた。

 両手を伸ばし、真璃亜の背へ回して、この子の小さな体を抱き締める。

 強く。力の限り。

 でも真璃亜が壊れてしまわないよう最大限の注意を払い、調節して、出来る限り優しく。


 この子を前にして、我慢など不可能だ。

 理性的に振舞うのも、これ以上は無理!

 1531年とプラスすること2年間、僕は真璃亜と離れていた。そんなにも長い間ね。しかもそのうち最後の2年間は、あろう事か彼女の事を完全に忘れていたんだ。

 自分の馬鹿さ加減に嫌気がさす。だから全てを思い出した今、余計にこの子が愛おしい。


 腕の中に真璃亜が居る。小さな体を僕に密着させて。

 柔らかい。それに温かい。仄かに立ち昇る香りは、イスラ自慢のアブミールなんて話にもならない。

 この子の息遣いが、血流の音が、心臓の鼓動が、懐かしく僕の中へ響いてくる。

 可愛らしくて愛らしいお姫様。最愛の妹よ。


 真璃亜

 真璃亜、真璃亜

 真璃亜、真璃亜、真璃亜

 真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜真璃亜


 僕の真璃亜ッ!


「お兄ちゃん、あったかいけど、ちょっと苦しいよ」

「ごめん、真璃亜。でももう少しだけ、お前を感じさせてくれ」


 嗚呼、真璃亜。

 僕の下でもぞもぞ動いてるのが、尚一層愛らしいよ。

 身悶えるお前はより一層可愛らしいな。

 出来る事なら、ずっとこうしていたいぐらいだ。


「ね、ねぇ、ちょっと」


 遠慮がちに、僕の背中へ声が掛かる。

 忌々しい。少し黙っていろ。


「ねぇってば」


 僕と真璃亜の時間を邪魔する声。

 止まるどころか、さっきより強くなってる。


「ちょっと!」


 更に強く。今度は噴気さえ込めて。

 煩わしい声は僕の背を叩いた。


「なんだ」


 耐え兼ねて、僕は真璃亜との抱擁を解く。

 そのまま振り返り、声の主を睨みつけた。

 妹とのスキンシップを邪魔されたんだ、これぐらいはして当然だろう。


「こっちは1500年ぶりの兄妹再会だぞ。少しは気を利かせたらどうなんだ? まったく、君は無粋だな」


 苛立たしさを交えた悪態が口を突くのも仕方ない。

 悪いのは僕じゃなく彼女だ。蹴りをくれてやらないだけ、感謝してもらいたいね。


「何よ、その言い方。待ってたって全然終わる気配がないから呼んだのよ。私だって聞きたい事は沢山あるんだから」


 勇魚は腰に手を当てて、前のめりに上体を傾け、細めてた目で僕を見る。

「真璃亜と話したいのはそっちだけじゃない」とでも言いたげだ。

 フン、兄の僕を差し置いて真璃亜と談笑しようなんて、随分と図々しい女だな。

 勇者だか呼ばれてイイ気になってるんじゃないか? だが生憎と、僕は勇者だろうが女神だろうが、そんな事は気にもしないしどうだっていい。

 真璃亜との一時ひとときを邪魔するなら、相応の報復を考えるさ。


「お兄ちゃんもいさっちも、喧嘩は止めてよぉ。折角、昔みたいに3人で会えたんだから」


 睨み合う僕等の間に、真璃亜が割って入ってきた。

 可愛い妹に困ったような泣きそうな顔をされたら何も言えない。勇魚の方も同じ様に思ったのか、バツの悪そうな顔をしている。

 ここは真璃亜の願いを聞いて、反意を治めるのが兄として取るべき行動だな。


「別に僕達は喧嘩してた訳じゃないさ。そうだろ、勇魚?」

「そ、そうね。だからリーラ、じゃなくて真璃亜、心配いらないわよ」


 真璃亜を挟んで目配せし、僕達は一応の休戦を今この瞬間に決めた。

 僕の言い様に彼女も合わせ、揃って気持ちを友好の情へと切り替える。真璃亜を悲しませたくないというのは、あちらとこちらで共通の念らしい。目的が一致しているからだろう、この辺の息は見事に合わせられたよ。

 僕と勇魚双方の言葉を聞いて、真璃亜はそれぞれの顔を交互に見遣る。

 向けられた不安げな顔へ笑顔を返すと、我が妹は安心したように頷いた。

 わざわざ自分の手を使い、未成熟な胸を撫で下ろす動作までする。一緒に安堵の息も吐き、それから軽やかな歩で1歩退くと、僕達へ笑みを見せてくれた。


「よかった」


 この子の笑顔は曇らせたくない。

 そう改めて思う。

 軽快で快活な笑顔には、それだけの魅力と価値を感じる。

 再び護る必要が出てくるのなら、僕は何を於いてもこの子の為に戦おう。その気概だけなら、誰にも負けないと自負出来る。


 ふと隣を見れば、勇魚も決意を新たにするような顔だ。

 表情こそ穏やかに笑って真璃亜を見ているが、その両目、2つの瞳に宿る光は、僕の決意と同じ輝き。

 それだけは、はっきりと判る。


 ……本気で真璃亜の事を想っていてくれるのか。それならば、彼女への認識を改めないとな。

 ただ単に仲の良い友人という程度なら遠慮も何も必要ない。僕達の事に口出しなんてさせはしないさ。

 でも真璃亜の事を真剣に考え、親身になって受け止めてくれるなら。それだけ深い友情を抱いている相手には敬意を払おう。感謝もするし、認めもしよう。

 あの子には精神的な支えがいる。それは僕じゃない誰かだ。時には兄より親友に頼りたい事もあるだろうから。

 彼女が真璃亜にとってのそうした存在なら。真璃亜が想い、勇魚もまた同じ想いを返してくれる、それならば僕は……


「なによ?」


 僕の視線に気付いたのか、勇魚はこちらを見て怪訝な顔をする。

 双眸に覗く光が薄い警戒へ変化したのは、先刻の僕の応対が原因か。


「いいや、別に何でもない」

「何でもないのに見てたの? 言いたい事があるならハッキリ言ったら」


 先の仕返しとばかり、勇魚はやや挑戦的な物言いで返してくる。

 意外と根に持つタイプなんだな。自分で撒いた種とは言え、やれやれだ。

 口に出して言うと余計に関係を悪化させそうなので、溜息は胸の内で零すしかない。


「……思ったより、いい女だな」

「え? へ? えぇ!? ちょ、ちょっと! 何言って……」


 言えというから注文通り、相手の目を見て言ってやったら。

 勇魚は数度目を瞬かせた後、急激に頬を紅潮させ始めた。この手の科白セリフは言われ慣れてないようだ。

 さっきまで仇敵でも見るような顔をしてたのに、今は両目を忙しなく泳がせて、締まりの消えた表情で慌てふためいている。少し前まであった毅然とした様子は、なんとも呆気なく壊れてしまった。


「真璃亜には負けるけど」


 一目置いてやった途端にこれだ。

 今の勇魚はあんまり情けない。幾らなんでも、これは取り乱しすぎじゃないか。言葉1つでここまでうろたえるとは予想外。呆れると同時に失望するよ。

 だから本心を言い渡して、僕はさっさと視線を外す。


「へ?」


 真璃亜に目を向け直す横で、間の抜けた声が上がった。

 勇魚はピタリと動きを止めて、冷水でも浴びせられたような顔で、僕の横面へ視線を突き込んで来る。


「……て、なによそれは!」


 今度は怒りの為だろうか。彼女は顔を赤らめたまま、ヒステリックに挑み掛かってきた。

 目端を吊り上げて怒気も露に、僕の襟首を掴もうと両手を伸ばす。

 だが、そんなものを抑えるのは簡単だ。迫ってきた両腕の手首を1度で掴み、それ以上の進行を止めた。

 それで終わり。


「騒がしい女だな」

「君が、からかったりするからでしょ! しかも何よ、このシスコン!」

「言い掛かりは止せ。僕はシスコンなんかじゃない。ただ妹が可愛くて可愛くて愛しくて仕方ないだけだ」

「それをシスコンって言うのよ!」


 ろくに筋肉も付いてない細腕で、勇魚は尚も僕へ突っ掛かろうとする。

 しかし僕の手を振り解く事は出来ず、やはり進めないままだ。

 それにしても人をシスコン呼ばわりするとは。流石の僕も許せる度合いが限界に近付くぞ。

 正面にある双眸、罵声を浴びせる瞳の奥に見えたのは、激しく燃える怒り。反感に嫌悪。それと微かに震えるあれは悲しみ、か?


「うぅぅ、お兄ちゃんもいさっちも、喧嘩は止めてって言ったのにぃ〜」


 僕達のやりとりをオロオロしながら見ていた真璃亜が、今度は本格的に泣きそうな声を出した。

 それを聞いて、勇魚は冷静さを取り戻したようだ。僕へ向けていた力を抜いて、素早く手を引っ込める。次には僕から離れて真璃亜の傍へ行き、あの子の頭を優しく撫で始めた。


「ご、ごめんね。つい……もう大丈夫だから、ほら、そんな顔しないで」

「うぅぅ」


 勇魚に撫でられ、あやされても、真璃亜の表情は晴れない。

 不安と疑念の混在した瞳で、上目遣いに同性の友人を見ている。

 これには勇魚も困り顔だ。どうすればいいか判らないのだろう。渋々ながら僕の方を見てきた。

 別段、僕には彼女を助けてやる義理は無いんだけどね。でも真璃亜を悲しませる事は避けたい。だから当然、勇魚の為じゃなく、真璃亜の為に動くとしよう。


「真璃亜、昔から言うだろ。喧嘩するほど仲が良いって。だから僕と彼女も、そんなに悪い関係じゃない。アキさんとらうもそうだったじゃないか」


 目尻にうっすら涙を溜める妹へ、僕は普段以上に優しく語り掛ける。

 真璃亜の頬に手の甲を当て、僅かに擦って諭していく。

 この子は頭もいいし、聞き分けだっていい。勿論、他の部分もね。そうさ、きっとすぐに理解してくれるよ。


「本当?」

「ああ、本当だよ」


 勇魚に向けたのと同じ視線を僕にも注ぎ、真璃亜は心配そうに聞いてくる。

 僕はこの子の目を真っ直ぐ見て、しっかりと頷いた。


「僕が今まで、お前に嘘を吐いた事があったかい?」

「……いっぱいあった」

「……」


 微笑みながら問うと、少し考えてから不満気に真璃亜が口を開く。

 おかしいな。僕の記憶だと嘘を言った事は……10回か20回か50回ぐらいしか無かったような気がするけど。

 ま、まぁいい。どうやら僕は墓穴を掘ってしまったようだ。


 横目で勇魚を見れば、恐ろしく温度の低い、畜生か何かでも見るような目を僕へ向けている。

 ……君が困って僕に助けを求めてきたんだろ。なんだ、その目は。


「だったら、こっちの勇魚がお前に嘘を言った事はあったかい?」

「ううん。ない」


 例に聞いてみたら、今度は即答だ。

 横目で彼女を見れば、勝ち誇ったような顔をしている。しかもこっちを見下すような目で!


 この女、やっぱり気に入らない。

 そもそも最初から何か癇に障るんだ。生理的嫌悪というやつなのかは判らないけど。仲良くはなれそうにないな。


「じ、じゃあ、本当なんだよ。判るだろ?」


 勇魚への過激な感情故に握り固めた片手の拳。それが震えるのを精神力で抑え込み、僕は微笑を崩さず真璃亜に問う。

 今度は目を伏せて少し考えた後、僕の天使は顔を上げて頷いた。


「うん。判った」

「そうか。偉いぞ、よしよし」

「えへへ」


 見事な理解力を見せた最愛の妹。その頭を撫でてやる。

 真璃亜は少しくすぐったそうに、でも嬉しそうに笑ってくれた。

 やっと笑顔が見れたよ。やっぱり真璃亜は、笑顔で居ないとね。


「真璃亜ならきっと判ってくれると思ってた」


 そう言ってこの子の手を握り、勇魚は真璃亜へ笑い掛ける。

 これに反応する真璃亜の笑顔は、更に2割り増しの煌きを放った。


 どうも真璃亜は本格的に、勇魚へ心を開いているらしい。

 僕としては友人はよーく選ぶべきだと言いたい所だけど。


「じゃあね、お兄ちゃんといさっちにお願い」

「ん? なんだい?」

「何かしら?」


 華々しい笑顔を全開にする真璃亜の言葉へ、僕と勇魚は同時に首を傾げる。

 その様子を見ながら、真璃亜は嬉しそうに「お願い」の本筋を述べた。


「2人が仲良しのショーコを見せて」

「証拠って、何を見せればいいの?」


 勇魚が重ねて問う。

 対する真璃亜は名案とばかりに満面の笑みをし、僕達の方へ体を押し出してきた。


「チュー」


 真璃亜は目を閉じて、空へ向かって唇を突き出す。

 その行為が意味する事を、僕と勇魚はすぐに理解出来なかった。


「……は?」

「だからチューするの。仲良しさんなら出来るでしょ?」


 思わず聞き返した僕へ、真璃亜は目を開けて言い渡す。

 信じられないような事を、えらくアッサリと。


「それって、私と赤巴君が?」

「うん」

「真璃亜の前でか?」

「うん」


 僕達が相互に送った質問へ、我が妹君は笑顔のまま頷いてくれる。

 つまり真璃亜は、僕と勇魚にキスをさせたがってる、という事だよな?

 僕と、この女が?


 ……冗談じゃない。

 この底意地悪い女と唇を合わせる? で、唾液交換しろだって?

 はっ! ジョークにしちゃ笑えないよ。物凄くね。

 真璃亜とならまだしも、この女とだけは御免被る。


 いったい真璃亜は、何処でこんな事を憶えてくるのやら。

 思い当たる節としたら、劉辺りだな。

 野郎、僕の目を盗んで余計な事を真璃亜に教えやがって。もし時間が戻せたら、最初の戦いの時に全力で焼き消してやる所だ。


「そ、それはちょっと……他の事にしない?」

「いさっちはお兄ちゃんと仲良しじゃないの?」

「え、いや、あのね、そりゃ、仲良し、だけど」

「だったらチューして。出来ないなら仲良しじゃないよ。そしたらまた喧嘩するんでしょ? そんなの真璃亜イヤだよ。悲しいよ」

「うっ……そ、そう、だね。悲しいのは、嫌だよね」


 果敢に説得を試みる勇魚だが、真璃亜の真摯な訴えに心打たれて、反論の手を封じられてしまった。

 早々に何も言えなくなり、すごすごと引き下がっていく。

 まったく、使えない女だ。


「真璃亜」

「お兄ちゃん?」


 戦意喪失の勇魚に代わり、僕が真璃亜と向き合う。

 妹の顔を真っ直ぐに見て、決して視線を逸らさない。


「手とか、頬じゃ駄目かな?」

「ダメだよ。唇にだよ」

「どうしてもかい?」

「お兄ちゃんも、他の事にしようって言うの? いさっちと、チュー出来ないの?」


 真璃亜のすがるような眼。我侭を言って僕を困らせた時、真璃亜は決まってこの眼を向けてきた。

 捨てられた子犬が拾い手を求めて、目の前を取りすがる人へ注ぐのと同じ様な。期待と願いに彩られた、反則的な威力を、輝きを秘めた眼差し。


 だが僕とて、伊達に狩猟型次世代品種ネガ・セカンドとして多くの次世代品種セカンドを狩って来た訳じゃない。

 彼等の中には救いを求め、慈悲を乞おうと必死に懇願する者も居た。しかし僕等はそのことごとくを黙殺し、この手で消してきたんだ。

 哀れみの感情が無い訳じゃない。だがそんな事は僕等にとってどうでもよかった。与えられた命令は抹殺。完全なる殺害。

 彼等が子供だろうが、女だろうが、老人だろうが、家族が居ようが、恋人と共に在ろうが、一切関係ない。ただ等しく存在を抹消する。それが僕等の生まれた理由であり、定められていた使命。

 命令に従い戦う事だけが、僕達の存在意義だったんだ。


 その僕が、例え妹だろうと、無理な願いを聞き届ける訳が!


「1度しかしないから、良く見ておくんだよ」

「え、え? 赤巴君!?」


 どうやら勇魚は僕に期待を寄せていたようだ。

 僕なら妹である真璃亜を説得し、この要求を白紙撤回出来るものだと。

 だから僕の言葉に、己が耳を疑うが如くの困惑ぶりを見せているんだろう。

 でも生憎だったね。


 真璃亜の御願い事を断れる訳ないじゃないかッ!

 真璃亜があんな顔をして、必死に御願いしてるんだ。応えてやらないでどうする!

 それがどんなに無理難題であろうとも、真璃亜の潤んだ瞳を見たら不可能だなんて言ってられない。

 是が非でも、何があろうと、完璧に叶えて上げないと。

 真璃亜を悲しませる事だけは、絶対にさせはしない。絶対にね。

それが、兄ってものだろォッ!


 と、いうわけで、本当は死ぬ程イヤだが仕方ない。

 真璃亜の為に口を合わせてやるよ、勇魚。


「ちょ、ちょっと赤巴君!?」

「真璃亜がああ言ってるんだ。僕等がもう喧嘩しない、仲良しの証拠を見せてやらないと」


 真璃亜から視線を外し、勇魚へと顔を向ける。

 まだ何かゴチャゴチャ言ってる彼女に、一応の通告をしてみるが。


「だからって、でも」

「君だってさっき、真璃亜の説得に失敗したじゃないか。それで仕方ないとか言ってただろ」

「そ、それはそうだけど。それとこれとは……」


 簡単には覚悟が決まらないらしい。

 勇魚はこの期に及んで尚もモゴモゴ何か言っている。しかも無意識なのか意図したのかは判らないが、僕から離れようと1歩退いた。

 だがここでグズったって何も進展しない。まったく無意味な事さ。

 後退の初動作を始めた勇魚の両肩を、僕は即座に掴んだ。勿論、逃げられないように。

 その瞬間、彼女の全身がビクリと震えた。けれど今は気になどしていられないし、する必要もない。


(僕だって本当は嫌なんだよ。君とこんな事するなんてね。だが真璃亜の為だ)

(私だって嫌よ! よりによってシスコンで、年下で、しかも女の子みたいな)


 互いに向き合った状態で、僕達は真璃亜に聞こえないよう小声で言葉を交わす。

 その間も勇魚は落ち着き無く目を動かし続け、僕を見ようとしない。ついでに体は小刻みに震えてるときた。

 だがそんな事はどうでもいい。この女、僕の事をまたシスコン呼ばわりしたんだぞ。

 いや、それもこの際どうだっていい。もっと重要な事がある。


(確か君は22歳だったな)

(そうだけど)

(生憎と、僕はこれでも26なんだよ)


 何だか前にも同じ様な事があったな。

 軽い既視感デジャヴを覚えながら、僕は勇魚の肩を引き寄せる。

 突然の動きに彼女の両目が見開かれ、今度ばかりは焦点を僕へと合わせた。

 肩を掴んだ腕越しに、彼女の全身にかなりの力が入ったと判る。緊張と警戒が同時に最高潮へ達した為だろうか。

 しかしそれすらも、僕にとって意味を成すべき事じゃない。

 どうしても、言っておくべき事があるからだ。


(それと、2度と僕を女みたいだとか言うな!)


 女呼ばわりされた事が起爆剤となり、僕の脳天に怒りの爆発を巻き起こす。

 それが最大の要因となり、僕は報復の意味も込めて一気に動いた。

 身を固めて動こうとしない勇魚を、腕の力だけで自分の側へ強引に寄せる。合わせてこちらからも身を乗り出し、素早く顔の距離を詰めた。後はもう一直線に進み、抵抗する間を与えず 勇魚の唇へ僕のそれを押し当てる。


「〜〜〜っ!!!」


 勇魚は何かを叫ぼうとしているようだ。けれど口を塞がれているので声にはならない。

 両目は限界まで開き、一点のみを見詰めている。方向は僕の目みたいだが、もっと別の何処か、此処ではない遥か遠くを見ているようだ。

 全身は鉄のように硬直しピクリとも動かない。

 唇越しに伝わる温度は、凄まじい速度で上昇していく。しかも肩に置いた手からパジャマ越しに、それが全身の体温全てで起こっている事だと判った。


「わぁ〜〜」


 横合いからは、羨望に近い真璃亜の視線が感じられる。

 それは僕と勇魚の顔、取り分け触れ合ったままの唇へ定められているようだ。

 僕はこうまで体を張ったんだから、しっかりとこの光景を瞳に焼き付けてくれよ。これでこの子も満足な筈だ。


 時間にして5、6秒。僕達は唇を合わせていた。

 数秒が経過した時点で見切りをつけて、僕は勇魚から顔を離す。

 ついでに肩からも手をどかし、彼女をさっさと解放してやった。

 勇魚より1歩身を退いて、今度は真璃亜を見る。

 本当は今直ぐ唇を拭いたいけど、流石にそれを此処でやったら全てが無意味になってしまうからな。仕方ないけど我慢するさ。


「ちゃんと証拠は見せたよ」

「うん、見たよ、見た。もうバッチリ!」


 些か興奮気味に、真璃亜は親指を立てた右手を突き出す。

 両の瞳をキラキラと輝かせているけれど、先に比べて頬は赤い。目の前でキスする男女を見て、恥ずかしさでも感じたかな?

 何にせよ、可愛らしいじゃないか。


「……静かだな」


 唇を合わせた瞬間に何やら喚こうとしていたから、勇魚はまた何か言ってくるのかと思ったが。

 予想に反して彼女は黙ったままだ。

 いったいどうしたのやら。少し気にはなるな。


 真璃亜に向けた視線を、今度は横へ戻す。

 僕の右隣に立っている勇魚の方へ。

 すると彼女は、何か斜め下の草花を見詰めたまま、第2間接で曲げた右手人差し指を唇に当てていた。

 心此処に在らずという様子だ。

 僕とのキスがそんなにショックだったのか? フン、それはこっちこそだと言ってやりたいね。


「いさっち、どーしたの?」


 真璃亜も勇魚の異変に気付き、傍に寄って顔を覗き込む。

 だが真璃亜が呼んでも返事がない。視線は相変わらず地面を突き刺して、身動き1つしようとしない。


「おーい、いさっちー? もしもーし」


 流石に心配になったんだろう。真璃亜は勇魚の袖を引っ張って彼女を呼んだ。


「え? なに?」


 それでようやく気付いたらしい。

 彼女は我に返ったように顔を上げ、パジャマの袖を引く真璃亜を見た。


「いさっち、大丈夫? なんだかボーっとしてたよ?」

「そ、そう? ううん、大丈夫だから。心配はいらないわ」


 自分の傍で見上げてくる少女に微笑んで、勇魚は頭を動かす。

 横側へ振られた顔は、次に僕の方を見た。それと同時に、僕と彼女の目が合う。

 瞬間、驚くべき速さで勇魚は僕から視線を逸らした。それも顔毎だ。


 ……真璃亜の為とはいえ、無理矢理キスしたのが相当効いたらしい。

 僕の顔など見たくも無いという事か。

 不本意なのはお互い様だっていうのに。やれやれだよ。


 でも少し妙だ。

 僕から即行で顔を背けたくせに、あんまり嫌がってないように見える。

 思いつめたような重苦しさもないし、嫌悪や憎悪の色も皆無。

 全体的な雰囲気も怒りから、という感じじゃないようだけど。

 一向に僕と顔を合わせようとしないんだから、避けられてはいると思う。でもその理由が、いまいち不透明だよ。

 顔に差してる赤みは、憤怒の故じゃないのか? もしかして恥じらい?


 まさかこの女、直前までブツブツ言ってた割、マンザラでもないんじゃないだろうな。

 そんな可能性は万に一つも無いだろうが、もし仮にそうだとしたら、迷惑この上ない。

 そもそも彼女は僕の好みじゃないし、好意を寄せられたって面倒なだけだ。


「あのね、グー! だよ。いさっちとお兄ちゃんが仲良しさんだっていうのは、もぅスゴーク判ったからね」

「そう……なら、良かったわ」


 勇魚へ向けて、真璃亜は再びサムズアップする。

 僕から視線を逸らしたまま、それを見る彼女は曖昧に微笑んだ。

 真璃亜の機嫌が直った事を喜ぶべきなのか、唇を奪われた事を悲しむべきなのか。どうすべきか迷っているようにも見える複雑な表情で。


「さっき『昔みたいに3人で会えた』って言ったわよね? 私達、前にも会った事があったのかしら?」


 結局、勇魚はどんな顔もしないで、1つの疑問をぶつけて話の方向性を変えた。


「うん、そうだよ」


 やや無理矢理的な話題の変転だったが、真璃亜は疑問もなくこれを受け止める。

 この子は単純だからな。


「お兄ちゃんが静江おばさんのお墓参りに来た時ね、真璃亜も一緒に居たの。だから、此処でいさっちとも会ってるんだよ。お兄ちゃんと、真璃亜と、いさっちで。今みたいに」

「そうだったんだ。……そういえば、あの時、赤巴君の後ろに隠れてるみたいな女の子が居たような……」


 勇魚は目を閉じて、過去を思い出すべく考え出した。

 遠い記憶の欠片を掬おうと頭を働かせているのが、寄り合わさる眉根から知れる。


「うん、そうだよ! 真璃亜は小っちゃい頃、いっつもお兄ちゃんの後ろに隠れてたの。いさっちが真璃亜の事を憶えてないのは、その所為だと思う。真璃亜もいさっちの顔、良く見てなかったから軍隊で会った時、気付かなかったもん」


 記憶を手繰たぐる勇魚を前に、真璃亜はその補助をするように昔を語った。

 僕達3人の最初の出会い。そして当時の自分。


 今より幼い頃の真璃亜は、随分と人見知りが激しかった。

 僕以外の人とは滅多に口を利かなかったし、1人っきりで何かをしようともしない。

 何時も僕の後ろに付いて回って、誰かに会ったら僕の後ろに隠れてしまう。人の事をずっと怖がっている、そんな子だった。

 あの子が変わったのは、恐らく此処で勇魚と会ってからだろう。

 小さな真璃亜は勇魚に撫でられ、優しく話し掛けられた。それが切っ掛けだ。

 今まで他人は皆怖い者だと思っていた真璃亜は、あの日から優しい人も居るのだと知って、少しずつ社交的になっていったから。


 その結果としてあるのが1500年前、女神と呼ばれた真璃亜の姿さ。

 人と人の心を繋ぎ、人類を結束させてアクトレアとの戦いを押し進めた英雄。

 それが真璃亜だ。

 あの日、此処での出会いが、女神の起点となった。その意味で勇魚は、間接的に多くの人々を救った事になる。女神誕生の立役者だからね。


 まぁ、だからといって、僕が彼女へ向ける感情の温度に変化なんかは起こりえないけど。


「意外な所で、私達には縁があったのね」


 目を開けて、たった1つの墓石を見詰め、勇魚はしみじみと呟く。

 今も彼女の頭の中では、運命という安直な単語が踊り回っている事だろう。

 親の代から続く因果因縁は、確かに並々ならぬ深さを感じるし、1500年後に再び結び付く奇抜さは驚嘆ものだ。

 数奇なえにしを感じない訳じゃない。

 だけどそれが最初から定まっていたものだなんて、僕は思わないさ。

 何をしても決まった通りにしか進まないなんて、そんなのはつまらないじゃないか。命令されたままに生きる事を強要されてるのと何ら変わらない。

 そんなのは願い下げだ。


「そういえば、どうして真璃亜は偽名なんて使ってたの?」


 しばし遠い目をしていた勇魚は、視線を真璃亜へ戻し、思い出したように問う。

 聞きたい事は山程あるらしいからな。その1つずつを消化していくつもりなんだろう。

 尤も、どこか茫洋としている今の彼女が、外から流れ込む情報を正確に理解出来るかは疑問だけど。


「えっとねぇ」


 真璃亜は右の人差し指を口許に当てて、視線を宙へ彷徨わせつつ小首を傾げる。

 どう言ったものかと悩んでいる時の、あの子独特の仕草だ。

 どうやらこれは、僕の仕事らしい。


「真璃亜は月の遺跡に関係する特別な力を持っているんだ。その所為で危険な連中に狙われていた。そいつらの目を欺く為に、僕が髪を染めて、偽名を用意し、偽の戸籍も作った」


 思案中の真璃亜を助けるべく、僕が口を開くと。

 勇魚は1度だけ僕を横目で盗み見て、またすぐに視線を逸らした。そのまま俯いてしまう。加えて両手の指を合わせ、忙しなく動かし始めた。

 どう見ても落ち着かない様子だが。


 言いたい事があるならハッキリ言えといったのは、あっちが最初じゃないか。

 なのに、あの煮え切らない態度はなんだ?

 僕はああいうウジウジマゴマゴした奴が、女呼ばわりしてくる奴の次に嫌いなんだよ。


 自分から質問しておいて、僕の話を聞いてるのかどうかすら怪しい。

 だが、もうこの際どうでもいいさ。

 僕は僕の説明責任を果たすだけだ。後で『聞いてなかった』って泣き付いてきても、一向に知らないね。


「それから月都防衛軍ムーン・ガーズに入れたんだよ」

「そうそう。お兄ちゃんが真璃亜にリーラって名前を付けてくれて、軍隊さんに入る手続きもしてくれたんだよ」

「連中は軍の上部組織でもあり強い影響力を持っていたけど、まさかその中に捜している対象が紛れているとは思わないだろう。自分達の懐に潜り込んで来るようなものだからね。灯台元暮らしって奴さ」

「そうそう。トーダイモトグラシーだよ。それに皆が真璃亜の顔を見てるから、居なくなってもスグ判るもんね」


 真璃亜は腕を組んで何度も頷いている。

 浮かべられている満足気な顔は、自分の発言が的を射ている事を確信しているから。

 ただ僕としては、軍人仲間に認知されるのは大した期待を持っていなかった。軍人が1人突然行方不明になるなんて、理由は幾らでも用意出来るだろうからね。

 軍が嫌で逃げ出した、と言っても充分通用しそうだ。特別任務で転属になったと言えば、誰も疑わないだろう。

 要は隠し場所として最適かどうかだ。それ以外の効果は望んではいなかったよ。


「そ、そうなんだ。それで真璃亜は軍隊に居たのね」

「うん! いさっちとも再会出来たし、えへへ、良い事イッパイだね」


 勇魚はどこか余所余所しく、遠慮がちに口を開く。

 俯いた状態を維持したまま、こちらを向く素振りは皆無だ。

 対して真璃亜は気にした様子もなく、元気良く肯定の頷きで返した。


 僕を見たくないならそれで構わないが、真璃亜の顔ぐらい見てやったらどうだ。

 それぐらいの気も遣えないなんて、程度の知れる女だな。

 一生そうやってモジモジしてるつもりか?

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