話の45:狂気、狂い咲き(−I)
闇。
それは孤独の色。
闇。
それは絶望の色。
闇。
それは安息の色。
闇。
それは私に馴染み深い。それは私の友。それは私自身。
闇。
まったき闇。
その中に浮かぶ、男の姿。
老齢の巨躯、その四肢を含む至る所へ、幾多の配管が繋がっている。
皮膚も筋肉も貫いて、無機的な鋼の管が、人体へ潜り込んでいる。
乱れた白髪を垂らし、俯く男に生気は薄い。
しかし、まだ生きている。
そうだ。私が生かしてある。
全ての自由を奪い、けれど五感は損なわせず、思考を許し、この場に繋ぎ止めてある。
そう簡単に死んでもらっては、面白くないではないか。
久方ぶりの再開なのだ。もっとゆっくり話したい。
殺してしまっては、それも出来ないからな。
「気分はどうだ、ヘンリー」
ここ最近、めっきり動かなくなった男の名を呼んでやる。
だが、やはりと言うべきか。思った通り、反応はない。
私の声は聞こえている筈だ。大方、応えるだけの余力がないのだろう。
まぁ、構うまい。どうせ聞こえているのだ、話を続けさせて貰おう。返事がないのは、少々寂しいがな。
「お前の為、特別に設えた席だ。遠慮はいらん、存分に堪能してくれ」
私の声が闇に響く。
そして漆黒の暗に吸い込まれて、何も無しやと消えていく。
照明など無用。闇の只中にあって尚、私には全てが見えているのだから。
古き懐かしき、かつての忠臣。その老兵が背面より埋め込まれている装置の全容も。
此処こそは我が故郷。クリシナーデが支配せし領区。
最下に近しき第6層、蒙昧なる父が閉じたる廃棄区画よ。
元は動力炉の1つであったようだが、機能を停止してとうに久しい。故に私が接客用に改装してやったのだ。
広大なる部屋の中、随所に根を張るパイプ群。それらが収斂せしは、中央に設けた旧動力炉。
大樹のように巨大に聳え、高き天井へと達している。
今や生命維持機能とエネルギー変換システムを兼ね合せた装置は、鋼鉄の樹幹に来賓を取り込んで、嬉々とした胎動を続けているではないか。
「都市の余剰エネルギーを吸収対象へ流し込み、生命活動を永久に維持してくれる。そして同存在より生命力を吸い上げ、都市の機能電力に変換するのだ。素晴らしい機関だろう? お前は領区に生かされ、領区を活かしているのだから」
愉悦に緩む。私の頬が。
屈強なる大男の憐れな姿は、かくも我が心を満たしてくれるぞ。
塵溜めのようなこの街に、塵屑のような命を吸われる。そして還ってきた塵の粕を受け入れ、再び塵糞を送り出すのだ。
なんという感動的な画か! おぉ! 美しいィ!
「気に入っただろう? 私はね、近いうちにユイも此処へ連れて来てやりたいのだよ。我が最愛の妹にも、領区と一体になる素晴らしさを教えてやりたい。ふふふふ、きっと、啼いて悦ぶぞ」
私の口から溢れ出る。止まる事を知らぬ哄笑が。
愛しき我が半身、その柔らかなる肌が、髪が、口が、目が、此処で悶え続ける様など想像しようものならば、何故に心静められよう。
愉快! ついぞ愉快!
「ん?」
男が動いている。
とは言え、首から上だけだが。
酷く鈍重な動きで、緩々と、頭を擡げる。
思う所、ユイの名に反応したようだ。
見知った顔が漸う私へ向け終えられたのは、随分な時間を掛けてから。
齢相応に老けた顔は、疲労と苦痛を隠すでもなく満面に滲ませている。
にも関わらず、険しき双眸には今だ、抵抗と憤怒の光が炎となって燃ゆいでいた。
流石はヘンリー・ジョヴィニエル。父の片腕を務めし、女神代行守護者最強の名を冠する男よ。凄まじい精神力ぞ。
そうでなくてはな。
「やっと返事をくれるのか。暫く何も言わぬので、寝ているかと思ったぞ」
闇の中に浮かび上がる男へと、笑いを潜めて声を投げる。
されど、返ってくるのは無言の注視。
奴の両目は明確な叛意を閃かせたまま、ただ一点、私の正顔へ合わさり止る。
その時間は十数秒か。
経過の後に、男の口が俄かに動いた。
「……若……」
罅割れ、震えた、小さな吐息。
否。吐息と紛う程の低まれた小声。
無音の闇に浸された此処だからこそ、我が耳に辛うじたりて届いたのだ。
半死半生なるが弱声かな。雄々しき猛者も、こうなっては終わりよな。
そうは思わんか? 爺よ。
「若、か。随分と懐かしい呼び方をしてくれる」
私から逸れぬ男の目。こちらも同様に見詰め返す。
男の表情に変化はない。依然として、疲痛の状態を湛えたまま。
当然だろうとも。私の造った装置は、取り込んだ対象に過度のダメージを負わせ続けるのだから。肉体的にも、精神的にもな。
「ならば私も、お前を昔のように呼ぼう。いい考えだと思わんか、爺?」
今は遠く、既に色褪せた記憶。まだ私が何も知らぬ子供だった頃の。
当時から父に仕えていたヘンリーには、私とユイも、よく世話を焼いてもらったものだ。
「あの頃、お前はまだ50歳ほどだったか。なのに随分と老けて見えた。日々繰り返されるアクトレアとの戦いで、心身共にに疲労が溜まっていたのかもしれん。だが幼い私達は、そんな事に思い至る筈もない。老いて見えるお前の事を爺を呼んでいたな。憶えているか?」
私の問い掛けにも、男は黙して応えない。
ただ視線を合わせ、それより微動だにしない。あの一言以外、言葉も口にしない。
私が話すばかりだ。これでは独り言だな。
ヘンリーよ、果たしてお前は、何を考えている。
「ユイはよく泣く娘だったな。些細な事で涙を流す。それに引っ込み思案、人見知り、怖がりで酷く大人しい。私の後ろを何時も付いて歩いていた。そうでなければ母の足にしがみ付くか、お前の後ろだ。ふふふ、懐かしい」
薄らいだ過去の記憶。その断片を思い出し、口ずさむ。
確かに懐かしい。しかし、それだけだ。他に思う事も無い。どんなに振り返ろうと、それは過ぎた時間の話。戻る筈もなく、また、戻りたいとも思わぬ。
今が我が人生で、最も満たされている時なのだから。
「……若……何故……」
男の口が僅かに開閉する。
動きに合わせて送り出されたのは、実に聞き取り難い掠れた声だ。
それでも間違いなく、奴の声である。数日ぶりに発した二言目だな。最近では返事をする事さえ稀よ。
「……怨んで、おいで……なのか……殿とて、止む無く……」
ほぉ、少し驚いた。血でも吐き出しそうな形相で、男は必死になって口を動かしているぞ。
域も絶え絶えという様子で、男が紡ぐのは僅かばかりの言葉。切れ切れであり、上手く要領を得ないが。
それでも何を伝えようとしているのか判るのだから、私の理解力も満更捨てたものでもあるまい。
尤も、直接的な関係者で無ければ、奴の言わんとする事など把握しきれぬだろうがな。
『殿やワシや領区の皆、妹君である姫を怨んでおいでなのか? しかし、殿とて望んで貴方を放逐した訳ではないのです。止む終えなかったのです。こんな事を言っても言い訳にさえなりませんが、本当に殿は苦しまれた。愛する御子と、領区に生きる全ての民の命を天秤に掛けねばならなかったのですから』
結局、老いさらばえた爺の言葉はこんな所だろう。
この期に及んで実にくだらん。全く以ってな。あまりの茶番ぶりに、思わず失笑してしまう。
「爺よ、お前は何か勘違いをしていないか? 私は誰も怨んでいない。そう、誰もな」
口許へ微笑を刻み、心配性の元部下に投げ掛ける。
奴の顔には驚きと猜疑が浮かぶが、仕方あるまい。
「私は自分が何故、領区を追われたのか理解している。父の選択が統治者として正しかった事も、今では疑わないさ」
男の目は信用の光に乏しい。
いや、朦朧とする意識では、私の言葉を正確に汲み取れぬという所か。
実際、奴の面上に窺える知性の欠片は随時、収縮と消滅の下り坂を滑り落ちているのだ。これでは思考力を伴う言語も、正式に解さぬかもしれんな。
さりとて、私は寛大ぞ。相手が吸収出来ぬ知識とて教えてやろう。昔のよしみだ。
「私は生まれついて、不正規端末因子を持っていた。別段、望んで得た物では無かったがな。……父の処置は道理に適っている。寧ろ、5歳まで息子として育てて貰えた事に、感謝さえせねばなるまい。誕生と同時に処理されなかっただけ幾倍もマシだったろう」
私の中に容認せざる素養があった事を看破していながら、父は私を育てた。何処かに幽閉するでなく、ユイと差別するでなく、息子として私を育てたのだ。その実績を考えるなら、私が父を疎むのは御門違いというものだな。
ルージー・クリシナーデは、父親としては最上級の良人だった。これ程に良く出来た父は、他を探してもそうそう居るまい。
彼奴の子として生まれた幸運が無ければ、私は今此処に立っていなかったろう。
しかし父よ、クリシナーデ領区の宗主として、お前は歴代最低最悪の屑だ。塵にも劣る愚か者だ。
そんな事は奴自身がよく判っているだろう。死した後も、人の意識というものが残っていればの話だが。
所詮、私は人と相容れぬ存在よ。それを知りながら息子であるが故に生かし育て、結局は何時までも傍に置けぬ事を知覚して、捨てた。
そこで半端な情を掛けず、私を殺していれば良かったのだ。クリシナーデ以外の何処かでなら生きられるだろうと、無意味な希望を添えて、安全地帯になど私を置かず。
後顧の憂いを絶つべく、早急に私を葬っておくべきだったな。お前がそれをしなかった為に、この領区は死ぬのだから。幾万の民と共に、お前の愛した娘も連れて。
全てはお前の失態。そうだろう、父よ。
ルージー・クリシナーデは人間性を捨て、どこまでも冷徹に平等に全てを計算し、回し動かす絶対の統治者であるべきだった。なまじ親の心などという馬鹿げた感情に己を占めさせた所為で、お前は破滅を招き入れてしまったのだ。
代々続いた防衛軍を失ったのも、今の有様を作ったのも、お前の生温さが全ての元凶と知れ。
なれど、お前の暗愚さが故に今の私があるのだから、それには心よりの謝辞を送ろう。
他意のない、心底よりの感謝だ。
「そうとも。全ては父のお陰なのだ。父が私を生かし、中途に育て捨てたからこそ、私は絶望の旨味を知れたのだ。ユイが生き、私の得られなかった幸福を一身に享受していたと思うからこそ、狂おしい憤激の甘味に脳髄を融かし込められたのよ」
もし幸福を知らなければ、絶望もまた知らなかったろう。
絶望しか知らずに生きていれば、それがどれ程に辛く苦しくとも、嘆く事はなかったろう。
無情の苦界に始めから身を投じ、それだけを見て存在出来れば、それだけしか理解出来ねば、救いを、癒しを求める事もなかったのだ。
半端に幸福など知ってしまったばかりに、絶望のなんと深く大きく感じる事か。
尤もそのお陰で、暗色の愉悦に身を委ねる事の心地良さを、打ち震える程に満喫出来るようになったのだがな。
「気が付いたら見知らぬ場所に居た」
今でも思い出すのは容易。忘れられぬ始まりの日だ。
朱い空の下。荒れた岩場に1人、寝かされていた記憶。
岩石の冷たさ、遠く果てし無い荒野の厳しさ、手繰らぬとも頭に浮き立つ。
「傍には誰も居ない。人の気配もない」
最初は何処なのか判らなかった。夢かとも思った。
其処は見知った自室ではなく、隣には妹の寝顔もない。政務に追われる父の姿も、優しく微笑む母の香りも、護衛兼遊び相手の爺の巨影も、見当たらなかった。
「気配を感じ振り向いたら、アクトレアが居てね。私は逃げたよ。何処に行けばいいのか、判らなかったがな」
眼前に現れた異形。その戦慄と恐怖は、これが非現実だという思い込みを許さなかった。
振り上げられる怪物の腕を辛うじて擦り抜け、走った。奴から逃げる為、ただそれだけを考えて必死に。
「きっと爺が助けてくれると思っていた。そうでなければ父が来てくれるものだと。だが、そうはならなかった訳だ。ふふふ、誰も来なかった」
どれだけ待っても、どれほど歩いても、どんなに叫んでも、私は1人きり。
荒涼とした大地の上で、まだ5歳でしかない私は、皆の姿を求め何処行くともしれず彷徨ったさ。何が起こっているのかも判らず、何をする事も出来ず。誰かが何とかしてくれると莫迦のように信じ、救済を願って。
あの侘しさ、悲しさ、孤独感は、永遠に忘れられまい。
「その後、領区間を移動する商船団と偶然出会えてな。最寄の街まで運んでくれる事になった。全く幸運だったよ。既に3日は飲まず食わずでいたからな」
連中の顔はまったく覚えていない。
意識が朦朧としていたのもあるが、ショックのあまり何も感じられなくなっていた故に。
他に憶えている事と言えば、その時に与えられた水とパンが、今まで食べたどんな料理より美味に思えたぐらいか。
「しかし領区には辿り着けなかった。船がアクトレアに襲われたのだ。移動船は大破し、私以外の全員が死んだよ」
救命艇に私を押し込んで外へ逃がしたのは、男だったか女だったか。
はて、思い出せんね。
何か叫んでいたような気もするが、炎の熱さと、煙の濃さと、血の色ぐらいしか記憶には残っていないな。
「船から辛うじて逃げおおせた私は、小さな群落に辿り着いた。領区に属さぬ珍しい所で、大きな岩場の合間に隠れる形で息衝いていたよ」
どれほどの人間が住んでいたろうか。私を見付けたのが誰で、何を話し、何処に連れて行かれたんだったか。
ははは、これも殆ど憶えていないな。やはり食べ物の味だけは強烈に焼き付いているが。
「此処もアクトレアに襲われた。私が来た、その日の内にな。それで漠然とだが気付いた。私がアクトレアを呼んでいるのだと」
怪物に頭から貪り食われる同年の子供を見ながら、ふと思ったのは憶えているぞ。
化け物共は私の在る所に現れ、死と破壊を撒き散らしていくのだ。クリシナーデ時代、爺や父が忙しなく戦に駆け出て行ったのも、恐らくはその為だろうとな。
「異形による虐殺の場と化し、焼け落ちる群落を背に私は逃げた。そして自分が父達に捨てられた事を、漸く理解したよ。そして、何の謂れもない無関係の者達が食い散らかされて死んでいくのに、化け物を呼び寄せる自分が生きている理由が判らなくなった」
あの時から、私は昔の私では無くなったのだろうな。
家族に捨てられた事実と、自分の存在。あらゆる事が頭の中で暴れ回り、心も散々に乱れた。人格形成もまだの子供には耐えられまいよ。
まともな思考能力は失せて、自分が誰なのかもはっきりしないような状態のまま、幾日も大地を歩いた。目的地など無い。意味も、価値も、何もな。
心身共に崩れ果てたような時間の中で、私は1度壊れてしまったのだ。
何とも可哀相な話ではないか。我ながら同情するよ。昔の私に。
「そんな時だよ。あの御方に拾われたのは」
右手中指で、眼鏡のブリッジを軽く押し上げる。
私は笑っていた。我知らず、口が笑みの形へ変形したのだ。
それを見てなのか、レンズ越しに映る男の顔が、痛烈な色に歪んだ。
「誰かなど、改めて言う必要もないだろう?」
1歩踏み込み、男の目を覗き込む。
口の端が吊り上るのを抑えられない私とは対照的に、相手の表情は硬さと苦しさを濃厚にしていく。
それがまた愉快で、私は謳う様に声を吐いた。
「インフィニートの総帥。頂点に君臨される我等が主。人類の改革者。世界の改変者。栄光の煌きを纏う御方。偉大なる覇権の王」
男の口が僅かに動く。
だが言葉にはならない。だから私が代わりに言ってやる。
「ティダリテス・フォルド・インフィニトスCEOだ」
男の目が大きく見開かれた。
喉を震わせ、何かを言おうとしている。けれど聞こえてくるのは、苦しげな呻き声だけ。
しかし私の心を満たすには充分。薄暗い喜悦が全身を駆け、ゆっくりと神経へ浸透していくのが心地良い。
実にイイ気分だ。人の、それも自分の見知った相手の苦しむ姿というのは、かくもグロテスクに美しいのだろう。信じ難い快感を与えてくれる。
はははは、まったく堪らんよ。
「あの御方は言って下さった。私の力が必要なのだと。己が力を忌避し、疎み、呪い、されど死す勇気もなく無為に生きる。そして生きている事自体へ罪の意識を負っていた私には、あの御方の一言が、どれ程の救いになった事か」
砕けていた心が、再構成されていくのを感じた。喜びと感激と安心感、待ち望んだ幸福の再来に咽び泣いたもの。
あれは間違いなく、我が第二の生誕ぞ。ヤクモ・クリシナーデではなく、ただのヤクモとして、新たに生れ落ちた瞬間だ。
「あの御方に教えられ、私は自分の力を知った。何故、私がアクトレアを呼び寄せるのかをな」
生まれながらに具わる不正規端末因子。それが全ての原因なのだ。
月の遺跡とは巨大なシステム。ある種のコンピューターとも言える。
遥かな昔から、月の遺跡は外部よりの内部機構へ対する干渉を拒んできた。不当へこれを行う者に対して、物質的な反撃・排除機能を発動させる。そうして創り出される外部因子の抹消プログラムこそが、自己防衛用対外殲滅機関。
連中が地上に蔓延っているのは、今や月全体が遺跡の内部と同域であると、遺跡の最中枢機構に認識されている為。月面上に在る全人類は、遺跡へ不正規干渉しているウィルスのように見られているのだろう。だから抹消プログラムであるアクトレアが襲ってくるのだ。
その中でも私が宿す因子は、干渉した遺跡に大きな弊害を与える特別なもの。それ故に最優先の抹消対象として認知され、アクトレアが差し向けられる。
だが一度遺跡への接続を実行すれば、支配率を書き換え其処に備えている機能を奪い取る事が可能。即ち、遺跡のシステムを部分的ながら意のままに操れるようになる訳だ。
私はその力をティダリテス様に見込まれた。
父や母や、信じていた者全てに裏切られた私を、あの御方だけは正面から向き合い、迎え入れて下さった。
だからこそ私は、あの御方の理想実現の為に働こう。それが今の、私の存在意義なのだからな。
「それに私は、あの御方から贈り物をされている。誠に光栄であるぞ」
笑みに変じた面貌のまま、笑声を含み肩を揺らす。
男が何か言おうとするが、先程と同様に何も聞こえない。
もはや声帯を満足に震わす事さえ出来ないようだ。
「私の力、不正規端末因子を有効活用する為の物だ。何処にあるか知りたいか?」
見詰める私の前で、男の目が左右へ揺れる。
否定の意味ではあるまい。何かを探しているようだ。
ふむ、中々に勘がいいな。流石はヘンリーと、褒めてやろう。
「良く判っているようだな。そうだとも、此処だ。爺よ、お前の真上にある」
私が指差す先。それは装置に繋がれた憐れな男の頭上を示す。
だが男の方からは見られまい。この闇の中ではな。
尤も、闇が晴れたとて、今の爺には首を更に上向ける力など残っていないかもしれぬが。
「あの御方が自ら遺跡より切り出してきた、超構造物の一部だ。ふははは、素晴らしいではないか」
闇の奥間で、高き天井に張り付く物体。
肥大した内臓とでも言うべき、或いは特大球の蟷螂の巣とでも言えばいいか。それは見事なまでに膨らみ、粘着質な皮膜に覆われた肉感的な存在。
無数に浮き出た血管の如き青筋、収縮と膨張を繰り返す外縁、生命の輝きを一点に凝縮したような、不快なる美麗のディティール。
規則的に脈打ち、自らの正常稼動を教えてくる。
「あれはな、遺跡の機能でも私達に馴染み深い部位なのだ。そう、アクトレアを製造する器官だよ」
人類に対して明確な敵意を以って、苛烈な攻撃を加える異形の怪物。
それを生み出す遺跡の機能が、あの御方から与えられている。この私が触れる事で、本来遺跡の防衛システムである装置は、私の意に副い私の為に働くだろう。
あの御方が求めておられるのは、正にそれだ。
「どうした? 何故そんな物が此処にあるのか、とでも言いたそうだな」
男の目に疑問と困惑が揺れている。
言葉に出来ない分、目表情で私へ訴えかけているようだ。
大方の予想はついているんじゃないのかな?
「簡単な話さ。それは……」
私達の頭上で、天井に張り付く器官が動き始める。
外膜が空気を入れたかのように膨らみ、一ヶ所に小さな傷が走った。
傷は見る間に十字型へ広がり、それを基点として外膜を四方へ捲り上げていく。
膜が離れると今まで隠れていた器官の本体が露出し、新たな構造体の姿を我々の前に晒した。
蠢動を続ける内臓的存在。その内側から覗くのは心臓に似た鳴動体と、それより生え出ているような白塗りの突起物が4本。
心臓状の内部体は上下が順序良く動き、文字通りに呼吸しているかのよう。そうかと思えば無機的な4本の突起物が迫り出し、僅かな電光を帯び始めた。
突起物は互いが共鳴するように響き、纏う電光を物質間で結びつけた。これによって作られる紅光の電輪。物体から迸る電動光は紅いのだ。
等間隔に配された突起物、それを囲むように作られた紅電輪、中心で蠢く心臓部。奇抜なコントラストの只中で、電輪が中央部へ収縮し、紅い小さな光点と化した。
それは確かな明滅を繰り返しつつ、心臓体へと吸い込まれていく。
直後、同心臓体より強烈な紅光が放たれ、雷のように下方の室内床へと叩き落ちた。あまりの光量であった為に、空間内の闇が一瞬払われ、部屋の隅々までが照り出される。
そして放たれた雷の落下点で、紅光が何かの形を作り始めた。
人型である。
紅雷の嘶きが踊るように走る最中、何も置かれていない床の上、無の空間に質量を伴う存在が現れ出す。
その現出体が一定の大きさまで急速に成長すると、雷光は唐突に消失した。
後には闇が舞い戻り、静寂を敷き、そして、第3の存在を残す。
「こういう事だ」
私は微笑を刷いて爺を見遣り、自らの手で闇の中に立つ存在を指し示す。
男の顔に浮かんでいるのは驚愕。それと共に怯え。
此奴程の武人が、この程度の相手に臆するとは思えない。遵って、その恐心は自らでなく他の者達、平時であれば彼奴が護るべき庇護対象に向けられての物だ。
そう、戦士として勇名を馳せたこの男も、今では自由の利かぬ囚われの身。常時送り込まれる痛みと、抜き取られていく生命力の為に、もはや満足な会話さえ出来ぬ状態。これでは何者も護る事など叶うまい。
それを誰より理解しているからこそ、目前の脅威が力ない民草を蹂躙する恐怖に慄いているのだ。己の無力さに歯噛みしながらな。
闇の傍に在るモノ、それは紛れもない人類の敵。遺跡が生み出した殺戮用抹消プログラムの顕現、アクトレア。
脊髄状の胴部を晒し、黒と灰により色合いで彩られた存在。4本の棘型脚部を備えた下半身と、細く長く鋭利な腕部。170強の背丈をし、頭部に見えるのは能面のような顔。
アクトレア第1種だ。
私の意思によって産み落とされた異形は、命令を待つ奴隷のように、闇の内奥で佇んでいる。
「行け」
私が一言だけ命じると、誕生直後のアクトレアは俊敏な動作で闇の中を走った。
足音もない疾走は濃い闇を揺らし、次いで気配も消える。
それでも男の目は、走り去る異形を正確に追っていた。姿は見えずとも、存在感を尾けたのだろう。
だが対象が部屋を出てしまえば、その追跡も不可能となる。
「これと同じ装置を、私は領区の彼方此方に仕掛けてある。既に多量のアクトレアが生成され、領区内を走り回っている事だろう」
私の言葉に、男が目を大きく見開く。
信じ難いとでも言いたげだ。
此奴が信じようと信じまいと関係ないがな。事実は個人の思考を越えて確と存在し、現在進行形で流体しているのだから。
「民の事が心配か? 案ずるな。全員仲良く、可愛い化け物共に殺し尽くされるわ。ふふふふ、この領区に出口はない。先祖伝来のナノマシンが上で蓋をし、何人の脱出も侵入も拒んでいる。誰も逃げられん」
腹の底から湧き上がる愉悦の波に、手足の指先までが震える。
脳天を突くような精神的快感が胸中で踊り、私の顔を強制的に笑顔へと変換せしめる。
度を越した恍惚感に浸りながら、私は男の顔を覗き込んだ。
相手の目は名状し難い叛意の灼熱を燃やしているが、その獰猛さがまた私の嗜虐心をそそる。
「クリシナーデの歴史も終わる。これより此処はインフィニートの為の、アクトレア繁殖場となるのだ。邪魔な住民は皆殺し、アクトレアの生成工場として私が管理する。お前は其処の動力として、死ぬ事も許されぬまま働く。嬉しかろう? ハハハハハハ!」
限界まで口を開き、力の限り哄笑する。
私の甲高い笑い声が闇の全域へ染み入って、壁面に跳ね返り乱反響した。
抑えられない感情の奔騰に頭を痺れさせ、絶笑に耽る。
その上では装置が再起動を始め、新たなアクトレアの製造準備に移行していた。
ティダリテス様の目的が達成される日も近い。その供物として、クリシナーデ領区を捧げよう。
ユイ、お前がどんな顔をするのか是非とも見てみたいな。
「さて、もう一仕事しなくてはな」
溢れ出る笑いを止め、懐へ手を入れる。
次の行動に必要なシリンダーを取り出し、男の前に翳してやった。
激情に滾る奴の目が、私から手に持つ注射器へ移ったのは一瞬。その目は間を置かず私を睨み直す。
興味は無いとでも言うのだろう。だがそれこそ、私には関係のない話だ。
「この中に入っているのはナノマシンだ。勿論、我が血の命令に従うな。これには様々な使い方がある。しかしユイは上手く使っていたと言えん」
注射器の中には薄緑の液体が詰まっている。
保護液と共に、微小機械を収めてな。
「ナノマシンにはプログラムを書き込む事が出来る。それを利用して、特定の擬似人格を形成可能だ」
身動きの出来ない男へ背を向けて、私は闇の奥へ踏み込む。
丁度この時、アクトレア製造機の紅電光が床に落とされ、眩い明るさが暫定的に周囲を照らし上げた。
その中に在る、私の足元で寝かされたもの。それは動く事の無い、年若い男。
「人の手で作り上げた偽りの人格を乗せて、マシンを新たな器に打ち込む。これを脊髄に注入するとマシンは脳幹まで流れ込み、其処に留まって自己増殖を始めるのだ。一定量に達した時、システムが結合して1個の人格として働き出す」
腰を落とし、床に片膝をついて、私は寝かされた男の首筋へ注射器を宛がう。
細く伸びた針を皮膚に刺し込み、確かな手応えを得た場所でシリンダーを押し込んだ。
内容器に入れられていた液体が針を通って人体へと流れ行き、全てを注入し終えた所で針を抜き取る。
「私の命令に忠実な僕として、な」
使い終わった注射器を放り捨て、私は立ち上がる。
そのまま振り返り、男へと笑いかけた。
反して相手の表情は硬い。かつて見た事がない程の、厳しい形相だ。
お前は私が捨てられると知った時。或いは捨てられたと知った時も、そんな顔をしてくれたのか?
「此奴は領区の番人として働く。侵入者を打ち倒し、邪魔者を排除して、この領区を護るのだ」
背後の男は動かない。注入したナノマシンが増殖し完全に機能するまでは、もう暫く掛かるだろう。
なに、時間は幾らでもある。此処の住民が1人残らず狩り尽くされる頃には目覚めよう。
「自分で遣った事とは言え、回収した当初は欠損が酷くてな。修復する為に、お前の細胞を培養して代替品に当てた。お陰で元々の部分より、ヘンリー・ジョヴィニエルの箇所が多くなってしまったが……女神代行守護者の混成体だ、性能はかなり期待出来よう」
男の顔が歪む。
憤怒に。憎悪に。嫌悪に。嘆きに。哀しみに。
それを見て、私の心は再び疼く。嬉々とした喜びの色へ。至高の悦楽に酔う、薔薇色の芳香を得て。
「ナノマシンに組み込んだ人格と対成す戦闘技能は、爺よ、お前の物を大元に使わせて貰ったぞ。ふふふふ、今から活躍が楽しみだよ。ジークムント、私の可愛い操り人形」
今は物言わぬ幼馴染へと振り返り、喜色満面にして笑いかける。
眠っていても尚、精悍な男の顔。野生的な妙味もあって、その力強さに期待が高まる。
見れば瞼が微かにだが、動き始めていた。
「昔のようにまた、皆で戯れようではないか。今度は命懸けの潰し合いおな。ふふふふ、ハハハハハハ!」