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話の41:まずは休もう(+一)

 気に入らない。


「取り合えず、目が覚めて良かった良かった。心配してたんだぜ?」

私のわたくし事で要らぬ御心労を御掛けして、誠に申し訳御座いません」


 気安く、しかもそんな無礼な態度でユイ様に話しかけるな。

 気に入らない。気に入らない。


「頭下げる程のこっちゃないさ。ぶっ倒れてる奴の事で気を揉むのは、健康な者の責務ってもんだ。お前さんみたいな美人とくれば、心配するなったってしちまうよ」

「そのような御世辞を言われましても、私には何もして差し上げられませんわ」


 ユイ様の顔を覗き込むな。失礼だろう。

 気に入らない。気に入らない。気に入らない。


「おっと勘違いしないでくれ。俺の口は本当の事しか言わないように出来てるんだ。つまり俺の本心を嘘偽りなく語ってるのさ」

「まぁ、うふふふ」


 歯を剥き出して笑うな。ユイ様の前で下品に振舞うなんて。

 気に入らない。気に入らない。気に入らない。気に入らない。


「いいねぇ、その笑顔。美人がより美人に見える。ずっとその笑顔かおを俺に見せてくれると、堪らなく嬉しいんだがな」

「貴方の御心遣いは嬉しいのですが、こんな酷い顔で笑っても醜いだけでしょう」


 ユイ様の手を握るな!

 気に入らない。気に入らない。気に入らない。気に入らない。気に入らない。


「おいおい、さっきの言葉をもう忘れちまったのか? 俺は真実しか言わない男だ。嘘は此の世で1番嫌いさ。お前さんは本当に美人だ。笑った顔は更に最高。これ本当」

「……その、有り難う御座います」


 何時までユイ様の手を握ってるの、放しなさい! しかも擦るな!

 気に入らない。気に入らない。気に入らない。気に入らない。気に入らない。気に入らない。


「そうだ、こうしよう。俺の前では笑顔でいてくれる事。ついで、早く元気になってお前さんを心配してる連中全部を安心させてやる事」

「あの、それは?」

「お前さん達を助けた報酬だ。この2つが、お前さん達をかくまってやる事に対して、俺がそっちへ請求する報酬さ。これだけやってくれれば、俺は充分。これ以上は何も求めない」

「そんな、いけませんわ」

「気にしなさんな。こちとら金なんぞ掃いて捨てる程あるんだ。特に欲しいものなんざない。あるとすれば、元気になったお前さんの姿を見る事かな」

「イスラエル様……」


 もぉ、我慢出来ない!


「いい加減にしろ! ユイ様は目覚められたばかりで、御体の具合が優れないの! それなのに長々と話して……これから先生に診てもらうんだから、さっさと出て行きなさい!」


 それまで背を預けていた壁から離れ、私はイスラエルとかいう男に歩み寄る。

 ユイ様の御手に重ねているソイツの右手甲をつねり上げ、強引に引き離してやった。


「アイテテテ! ちょっと待てよ、お嬢さん」

「問答無用!」


 顔を苦痛に歪めて抗議してくるけど、そんなの無視。

 この無頼漢ぶらいかんを自ら立たせた後、腕を掴んで反転させて、扉目掛けて背中を押す。

 出来るだけ強く。力を込めて。


「あ、おい、こら、押すなって! じゃぁな、ユイちゃん、また後で!」

「ユイちゃん言うな、無礼者! とっと失せろ!」


 ギャーギャー煩くうるさ騒ぐけど、気にする必要はなし。

 だいたい、ユイ様を『ちゃん』付けで呼ぶなんて信じられない。厚かましいにも程がある。

 こんな奴はこれ以上1分1秒だって、ユイ様の御傍には置いておけない。断じて!

 最後は半ば蹴り出すような形で、あの無礼者を追い出した。

 何はともあれ、まずはこれで一安心かしら。


 それにしてもなんだっていうのか、あの男。

 ユイ様が御目覚めになったと聞いた途端、いきなり部屋に押し掛けて来て。挙句、ユイ様に対して無礼極まる言動の数々。

 例え私達を迎え入れてくれた相手と言えど、それがオーベール領区最大の商人だろうと、ユイ様にあんな態度で接するなんて許せないわ。

 ユイ様は私達のリーダーで、指導者で、トップで、ボスで、先導者で、兎に角とてもとても尊い方。そして偉大で聡明で勇敢で御美しくて、本当に本当に本当に素晴らしい方なんだから。

 あんな男、金輪際2度と近付ける訳にはいかないわね、うん。


「ライナったら、イスラエル様にあのような御無礼を働いて」


 包帯で隠されていない顔の左側で、ユイ様は子供にするような、窘めたしなの表情を作る。

 面上に浮かぶ咎めの色は、それなりに本気だ。


 ユイ様は御優しく、慎み深く、謙虚で、人を立てる事を忘れない方。だから命の恩人に類するあの男へ、強い恩義を感じているのだろう。

 どんなに傍若無人な態度で接せられても、相手が品性の欠片もない野蛮人でも、それが助けとなった存在なら、感謝の心を絶対に忘れない。そして敬い、礼を尽くすのがユイ様なのだ。

 しかもこの方は、自分を助けて貰った事よりも、私達を助けて貰った事に感謝をしている。 瀕死の重傷を負った自分は二の次に、部下で配下で手駒同然の私達の身をこそ案じておられる。

 私にはユイ様の御心が、手に取るように判るのだ。

 兄さんと一緒に昔からずっと、ユイ様の御傍に居たから。


 私のパパとママも女神代行守護者ミネルヴァガードの一員で、先代のリーダーである御領主様、即ちすなわユイ様の御父君に仕えていた。その関係で、私と兄さんとユイ様は小さい頃からの知り合い。所謂いわゆる幼馴染というやつだ。

 昔の私はユイ様を姉同然に慕い、常に付いて回っていた。沢山遊んで頂いたし、それこそ数えられないほど御世話にもなった。

 どんな時も一緒で、私は何時も1番近くでユイ様を見てきたから。だから判る。判ってしまう。私にはユイ様の御心が、御考えが。

 それだけの時間を共に過ごしてきた故に。


「何を言いますか。無礼なのは断然あちらです。私の応対は彼に相応しいものであると、確信していますから。ユイ様が御気になさる事はありません」


 私は悪びれもせず、胸を張って言い切った。

 そんな私へ向けるユイ様の顔は、少し困ったようなもの。ユイ様にこんな顔をさせるのは、申し訳ないし忍びないんだけど。

 でもここで私が強気且つ断固とした姿勢で臨まないと、ユイ様はあの無礼千万にして如何にも好色そうな男に、精神的アドバンテージを奪われてしまうじゃない。


 誰に対しても礼を欠かさぬ姿勢はユイ様の美点だけど、逆に言うと足元をすくわれかねない危険もある。そこをフォローするのが私の役目だと、私自身が勝手に思ってるのから。

 ユイ様は私にとって、そして兄さんにとっても、何より大切な御方だもの。あんな男の毒牙には、絶対に掛けさせない。

 今度こそ、私がユイ様を護ってみせるんだ!


「それだけではありません。あの男は、とんだ狸なのです。ユイ様、騙されてはなりませんよ」


 私は拳を固く握り、胸の前で振り払う。

 そんな私を、ユイ様は不思議そうに見詰めていた。

 突然こんな事を言われても、理解出来ないのは当然。ならば説明するとしましょう。あの男が、どれだけ腹黒いのかを。


「奴は、私達を助けた報酬が先に提示した2つだけでいいと言っていますが、とんでもない。先程タレスから、赤巴せきはと共にロシェティック領区跡へ向かっているとの連絡がありました」

「ロシェティック領区に?」

「そうです。何でも、助けてやった代償としてイスラエルにより遣わされたとか。奴はユイ様にああ言っておきながら、赤巴達に仕事をさせているのです」


 そうなのだ。私があの男を好きなれないのは、何もユイ様に無礼を働くからだけではない。

 ユイ様が御目覚めになられる少し前、タレスからUPCSを通じて外出報告が来た。

 同行人は赤巴、向かう先は旧ロシェティック領区、目的はロシェティック残党と接触し情報を入手する事。そして指令主はイスラエル・ブロークンハーツ。

 奴は赤巴とタレスを事前に働かせておいて、ユイ様には無報酬の姿勢を示して見せた。何の臆面もなく。

 呆れるほどの狡賢ずるがしこさだ。あんな無誠実な男、何故なにゆえ信用など出来ようか。


 彼が私達を迎え入れてくれなければ、私達はアクトレアがうごめく外界を、も無く彷徨さまよわねばならなかった。私達一同を助けてくれた事には感謝をしよう。

 だがそれでも、例え恩人だろうと、ユイ様へ近付ける訳にはいかない。ソレとコレとは話が別だ。


「……そうですか」


 私はイスラエルの吐き出した虚偽きょぎ暴露ばくろした。

 しかしそれを聞くユイ様は、特に驚くでもなく、平静とした面持ちで呟かれる。

 視線は私へと合わされたまま。その瞳の中に見たのは、ある種の諦観ていかんだった。


「イスラエル様は商人と聞き及んでいます。それもオーベール領区では並ぶ者の無い豪商だと」

「そのようですね」

「業商の世は、真面目一徹だけでは生き抜けぬ辛苦しんくの世界。そこで名をせるとなれば、相応の行いをせねばならぬでしょう。時には虚言きょげん妄言もうげんを用いて、他者を騙す必要さえ」


 左だけの瞳で、ユイ様は私を見ている。

 こちらの目を真っ直ぐ見ながら、さとす様に語り掛けてきた。

 私の内で燃えたぎるイスラエルへの不審と不満を、自らの言葉でぬぐおうとしているようで。そんなユイ様の御心が判るから、下手に異議を申し立てられない。


「ですから、仕方ないのです。イスラエル様が嘘偽りでわたくし達を騙そうとも、それはあの方が生きてきた道の中、染み付いてしまった処世術が如き物。私にそれを咎める気はありません」


 そこまで言って、ユイ様は小さく微笑んだ。

 対する私はといえば、正直に言って、返す言葉が見付からない。

 ユイ様は私と違い、相手の辿ってきた人生行路までを加味して、その上で相対者の人となりを受け入れると。

 何という視野の広さ、度量の大きさ、そして御優しさか。反対に、私は自分の狭い視野と器の小ささを思い知らされた。

 私程度の気遣いなど、ユイ様には無用だったのだ。それ所か、この方の高潔な精神に不必要な汚れを添加てんかせんとしていたとは。

 良かれと思い、また気付かぬ故にとはいえ、堪らなく愚かな事をしてしまった。

 結局、私は何も判ってなどいなかったのだ。長年ユイ様の御傍に居て、ユイ様の御心、その在り方を理解出来るつもりでいただけ。しかし本当は何も判ってはいなかった。いや、判ろうとしていなかったのか。

 今ほど自分の矮小わいしょうさ、愚昧ぐまいさを呪った事はない。


「ユイ様、その、申し訳ありませんでした」


 謝る以外に言葉が浮かばず、私はただ頭を下げる。

 他にすべき事など判らない。今の私は、自分の浅はかさに自分でいきどおる事しか出来ない。


「ライナ、顔を上げて。何も謝る事はないのです」


 ユイ様からの優しい御声が頭に掛かる。

 けれど私は動けない。面と向かってユイ様の御顔を見る資格が、自分には無いように思えて。


「貴女が私の事を想い、助言してくれているのは知っています。それはとても嬉しいし、本当に有難いと思っているの。だから御願い、顔を上げて」

「ユ、ユイ様、そんな、御願いなどと」


 ユイ様の御声を受けて、私は慌てて顔を上げる。

 私風情に対して、主君たるユイ様が気を折る必要など一切ない。そのような事をさせる訳にはいかない。

 まして、それがユイ様の御願いとあれば、拒む道理など何処にもない。

 再び見たユイ様の御顔は、右半分を包帯に包まれながらも、御優しさを湛えた美しい微笑みだった。


「ライナ、貴女が私の気持ちを察してくれるように、私も貴女の心が判るつもりです。貴女の言葉も行動も、全ては私の為なのでしょう。それをわずらわしいなどと思った事は1度としてありません」

「ユイ様、ですが、私は……」

「ライナ、そんな顔をしないで。貴女が今、どんな気持ちでいるか判ります。でもそうじゃないのよ。この世界で私の心を誰よりも理解してくれているのは、間違いなく貴女なの。貴女だけ。判るかしら? 私が1番信頼しているのも、信用出来るのも貴女なのよ」


 澄んだ微笑は桜の花弁を思わせる。

 紡がれる言葉は、一語一語が体を打ち、心の中に染み入ってくる。

 それだけで充分だった。

 私の中で、言い表せない感情が波打っている。それは苦しくて、でも嬉しくて。欠けてしまった何かを満たしてくれたような、そんな感じがした。


 我知らず、目から雫が落ちる。

 心地良くたかぶった感情が涙腺るいせんを刺激して、私の目から一滴二滴と涙を零れさせた。

 ユイ様の前で、情けの無い醜態しゅうたいを晒したくは無いけれど。自分では止められない。でも、気持ちの悪い涙じゃない。


「ライナ、御免なさい。貴女には随分と迷惑を掛けてしまいました。今まで看病をし続けてくれた事も、それにジークの事も」

「う、うぅ、ユイ、さま……」

「もう我慢しなくていいのです。今だけは、昔のようにしてもいいから。……おいで」


 ユイ様が手を差し伸べてくれる。

 それを見たら、私の中で今までこらえていた物が、一気に噴き出してきた。

 自分ではどうしようもない感情の波。それが大きく弾けた瞬間、私は自らの意思に反して……いいえ、自らの思いがままに、ユイ様へと駆け寄っていた。


「ユイさまぁ、ユイさまぁぁぁぁ!」

「よしよし。貴女はよく頑張りましたね。ライナ、本当によく」


 ユイ様へすがりつき、その胸に顔を埋めて、私は泣いた。

 ユイ様への気遣いも忘れ、年甲斐もなく、声を上げて泣きじゃくった。

 そんな私の頭を、ユイ様は唯一残っている右手で、優しく撫でてくれる。

 昔、まだ私が子供だった頃。事ある毎に泣いていた私へ、何時もしてくれたのと同じ様に。


「うわぁぁぁぁぁん!」

「もう大丈夫ですよ。ライナ、私の可愛い妹」


 ユイ様の温かさと優しさを感じながら、私は泣き続けた。

 頭上から降り注ぐユイ様の声は穏やかで柔らかく、私を受け止めてくれる体からは良い香りがする。

 今、この時ばかりは、ユイ様の事を本当の姉と思っていいよね?

 許されるのなら、もう少しだけ、こうして甘えていたい。




「も、申し訳ありませんっ!」


 泣き乾いた喉から可能な限りの声を絞り出し、私はユイ様へと謝罪する。

 ユイ様から数歩分の距離を取り、90度直角に腰を曲げ、頭頂部がユイ様の視界に入るまで頭を下げた。自分の視線は、今履いているスリッパの爪先へ定める。

 気恥ずかしさと、自分の馬鹿さ加減に対する呆れと、御無礼を働いた事への申し訳なさが、頭の中をぐるぐると回り、まともにユイ様の顔を見られない。


 仲間の死、兄さんの死、領区を奪われた事、ユイ様の負傷。様々な事柄に起因する不安や悲しみや恐怖が、私の中には渦巻いていた。それは限界近くまで溜まり、自分でも気付かないうちに私の精神を圧迫していたのだろう。

 そんな時に聞いたユイ様の慈愛に満ちた御言葉が、感情のせきを切り、無数の思いを一気に溢れ出させたのだ。

 私には、それを抑える事など出来なかった。内側から噴き上がり、押し寄せる感情を吐き出す以外には何も。

 その結果、私は自分の立場も忘れ、ユイ様に抱き付いたまま子供の様に泣き続けるという痴態ちたいを演じてしまう。


 ユイ様の背中に両手を回し、喉を震わせ、涙を流していた時間は、4、5分程だったろうか。

 思う存分泣き上げて感情がしずまってくると、私はようやく我に返った。

 そして自分の仕出しでかした事の重大さに思い至り、退くようにしてユイ様から身を離し、今に至る。


 私の馬鹿! 大馬鹿!

 よりにもよってユイ様に泣き付くなんて。自分の事ながら信じられない。

 もし今自分自身と相対出来るなら、自分で自分を思いっきり張り倒してやりたいよ。

 胸倉むなぐら掴んで、小1時間は説教してやる。


「謝らなくてもいいのよ。わたくしは気にしていないから」


 ユイ様の御声は相変わらず穏やかで、美しく、温かだ。

 その御優しい声音を聞いていると、罪の意識が薄らいでいく。

 しかし己のあやまちを容認する訳にはいかない。


「そういう訳にはまいりませんっ!」


 私はユイ様を主君とあおぎ、命をして仕えると決めた。ユイ様の剣であり、盾であり、しもべである事を己に課した。身命を以って生涯ユイ様の為に働くと、自らに誓ったのだから。

 それなのに、昔に立ち返って泣き喚くなんて。自分の弱さや脆さが、どうしようもなくうらめしい。

 例えユイ様御本人が何と言おうと、自分に掲げた約束をたがえる事は、私自身が許せない。


「ライナ、貴女は真面目すぎます。それは貴女の長所であり、同時に短所でもあるわ。私はね、昔のように貴女が甘えてくれて嬉しかったのですよ?」

「う、嬉しい、ですか?」


 ユイ様の御言葉が予想外だったので、私は思わず顔を上げてしまう。

 正面に見たユイ様は、おっしゃる通り喜びに寄る微笑みを浮かべていた。


「ええ、そうです。出来る事ならこれからも時々は、今のように甘えて欲しい。そう思っている程ですから」


 な、なんと。よもやユイ様がそのように御考えとは。

 でも、私には私の誓いが……


「本当を言うとね、ライナやジークが昔のように接してくれなくて、少し寂しかったのです」

「さ、寂しい、ですか?」

「貴女達が私に忠誠を示し、仕えてくれるのは嬉しいのですよ。それは本当。けれど、貴女達はクリシナーデ領区の宗主、ユイ・クリシナーデとして私に接するのみで、ユイ個人としては接してくれなくなりましたから」

「そ、それは、宗主たるユイ様に御無礼だろうと……」

「ええ、それは判っています。貴女達の心遣いは、痛いほど判ります。それに周囲の目や、立場もあるでしょう。昔のように振舞えないのも当然なのです。頭では理解しているのですけど、心は……だから、これは私の我侭わがまま


 ユイ様は変わらぬ笑顔を向けて下さっている。

 でもその中に悲しみの色がある事を、私は見逃さない。

 美しくも寂しげな微笑み。それを見ていると、心が痛む。


 そもそも私がユイ様の忠実な僕になろうと決めたのは、この方を護り、助けになりたいと思ったからだ。

 小さい頃からずっと御世話になってきて、大好きで、とても大切な方だから。その笑顔を曇らせたくなくて。

 ユイ様に助けられ、護られるだけの存在ではなくなろうと思った。逆に私がユイ様を助け、護れる存在になろうと思ったからこそ。

 だから!

 ……それなのに、そんな私の思いが、行動が、ユイ様を寂しがらせていたなんて。


 あの切なさがにじむ微笑みは、私が作らせてしまったもの。

 やっぱり私は、ユイ様の事、何も判っていなかった。全然ダメダメだ。


「ユイ様、私は、あの……その」

「いいのです、ライナ、気にしないで。色々あって、私も心が弱くなっているのね。こんな事を言うなんて。御免なさい。今の言葉は忘れてね」


 ゆっくりと首を振り、ユイ様はまた、悲しみを交えて微笑む。

 語られる言の葉と、表情は一致していない。恐らく、自分でも変化には気付いておられないのだろう。

 それだけじゃない。ユイ様の右手は、白いシーツを固く握り締めている。こっちも御本人は無自覚なのだろうと思う。

 長年をついやして育まれた歪みが今、顕在化けんざいかしてきているようで。

 こんなに深く、大きな傷が、ユイ様の内には刻まれてしまっているのか。……私達が、刻んでしまったのか。


 私はユイ様の心の奥にずっとあった思いを見抜き、理解する事が出来なかった。

 でも今は、それを知る事が出来た。自分で辿り着けた訳じゃないけれど、ユイ様御自身に言わせてしまったけれど、それでも兎に角、知れたのだ。

 だからこそ、正していける。少し遅くなってしまったけれど、これから。


 もう意地を張るのは止めよう。

 だって私の誓いは、ユイ様の為にあるんだから。


「あの、ユイ様っ!」

「どうしましたか、ライナ?」

「私、本当はずっと、ユイ様に御言いしたい事があったんです。でも、ユイ様はクリシナーデの宗主で、とても偉い方で、だから失礼だと思ったし、私は部下で、その、だから……」


 うぅ、頭がこんがらがって上手く言えない。

 ユイ様は私の言葉を待っていて下さるのに。ああ、駄目、顔が赤くなってくる。

 兄さん、私に平常心と勇気を頂戴!


「何でしょう? 気兼ねする事はありません。言っていいのですよ」

「あ、あのっ!……お……おねえ、さま」


 言ってしまった。

 遂にユイ様の前で、口にしてしまった。

 もうずっと昔から、言いたくて、でも言えなくて、今まで我慢してきた言葉。

 言う機会は永遠に来ないだろうと勝手に決めて、諦めていた呼び方。

 私の思いと願いを込めた、この一言。


「本当は、ずっと、こう御呼びしたかったんです。昔から、ユイ様は私の御姉様だったから。あの、ですから」

「……ライナ」

「っ?! ユ、ユイ様! 如何いかがなされました?!」


 ユイ様の目に涙がっ!

 ま、まさか、私の常軌じょうきいっした非礼ぶりに対し、怒りの余り涙が滲み出たの?!

 そうじゃなかったら、私の愚か極まる対応に、情けなくて泣けてきたの?!


「御免なさい……驚いてしまって。それから、嬉しくて」


 ユイ様は目尻に浮かんだ透明な雫を、右手の人差し指でぬぐわれる。

 涙をすくいながら、顔は笑っておいでだ。

 さっきまで寂しさ、悲しさは消えて、喜びと嬉しさが広く刷かれている。


「ユイ様……」

「もう、姉とは呼んでくれないの?」

「いいえ。御姉様さえ良ければ」

「ええ、ええ。構いませんよ。大丈夫……うふふ、嬉しいですわ」


 御姉様は泣き笑いされている。

 あれは嬉涙みたい。それなら私も嬉しい。

 御姉様の笑顔が見られて、安心出来た。


「さっき、御姉様に撫でられながら妹と呼んで貰えて、本当に嬉しかったです。私は昔から御姉様の事を、本当の姉の様に思っていたから」

「うふふ、私も、貴女の事を妹みたいに思っていました。だから御姉様と呼ばれて、とても嬉しいのです」

「良かった。これから2人きりの時は、御姉様と御呼びしますね」

「ええ、そうして、ライナ」


 御姉様は笑顔で応えてくれる。

 それを見て、私の顔もほころんだ。


 もっと早く、素直になっていれば良かった。

 難しい事を考えないで、自分の心へ正直になっていれば。そうすれば、私の大好きな御姉様の笑顔が、もっとずっと見ていられたのに。

 兄さんにも、見せてあげられたのに。


「御姉様、涙がまだ」


 御姉様の瞳に付く涙の粒を、私は右手を伸ばしてぬぐってあげる。


「ライナ、有り難う」


 そんな私へ、御姉様はとても華やかで、美しくて、幸せそうな笑顔を向けてくれた。

 私の護りたかった笑顔が此処にある。私のとても大切な人が此処に居る。

 だから改めて私は誓う。

 この方を、ユイ・クリシナーデ御姉様を、私は絶対に護りきってみせると。

 例え相手が何者でも、どんなに強大でも、2度と傷付けさせはしない。だからといって、その為に命を散らせるような真似をする気もない。

 だって私が死んでしまったら、御姉様のこの笑顔は消えてしまうから。

 御姉様を護り、私自身も護る。これが私の、新たな誓い。


「そろそろ仕事を始めたいんじゃがな」


 突然、背後から声が聞こえた。

 その声が誰の物か考えるよりも早く、私は反射的に振り返る。視界が180度変わる間に、不測の事態にも対処出来る様、戦闘態勢へ移行して。

 素早く移った視野の奥、そこに見たのは1人の女性だった。彼女は部屋の入り口に設けられたドアの前で、こちらを見ながら静かに佇んでいる。


 私達を映す細くわった目に宿るのは、此の世の全てを見透かすような透徹とうてつした輝き。

 その上に掛けた色つきの丸眼鏡と、パーマがかった白茶しらちゃの髪が特徴的だ。

 高い鼻の目立つ理知的な容貌と合わさり、180cm強の長身に羽織る白衣が非常に良く似合っている。

 ぱっと見の第一印象は、やり手の女医といったところ。


 しかし只者で無い事は明白。なにせ気配を全く感じさせず、何時の間にか室内へ入り込んでいるのだから。

 格好は医者なのに、自らが動いた痕跡を一切残さぬ所作しょさは、伝説の隠密戦士『ニンジャ』を想起そうきさせる。

 それでも外敵に対するような警戒心が働かないのは、彼女が私も良く知る人物だから。


匝雲そううん先生」


 私が口を開くより先に、御姉様が彼女の名を呼んだ。

 匝雲・リアトラ先生は、その声へ軽く片手を上げて応じる。

 それは何気ない動作ながら、無駄も隙も皆無。軍人顔負けの完成ぶりは見事の一言だ。

 けれど私には、それよりももっと他に、気に掛かる事があった。


「先生、い、何時から其処に?」


 自分でも表情が硬くなっていると判る。

 喉が渇いたようにザラつき、押し出す声は微妙に震えている。

 それも全ては、御姉様との語らい現場を目撃されていたらどうしようか、という不安と緊張のゆえ

 私は女神代行守護者ミネルヴァガードの一員で、ユイ・クリシナーデ様の臣下しんかに過ぎない。その私が主君を御姉様などと馴れ馴れしく呼び、あまつさえ泣き寄っていたと知られれば、仲間の結束にひびが入る要因となったり、色々問題があって大変そうであるような違うような……


 正直に言うと、私が恥ずかしいからなんだけど。


「イスラエル殿が追い出された後、少しした頃ぐらいかのぉ。タレス達が外出しているという話の辺りじゃ」

「そ、それって、随分最初の方ですよね?」

「うむ、そうなるな」


 30代後半程度に見えるのに、言葉遣いはもっと高齢のような匝雲先生。

 実年齢不詳の彼女は、私の問い掛けへ事も無げに答えてくれる。

 間を置かず返された言葉を受け、私は引きる表情を自制出来ない。


「どうして、もっと早く声を掛けてくれなかったんですか!」


 人に見られた恥ずかしさと動揺で、ついつい語気が荒くなってしまう。

 情けなくも、私は自分の意思に反してヒステリックに叫んでいた。


「何故と言われてもな。女子おなご2人が仲むつまじくイチャついているのを、邪魔するほど無粋ぶすいではないからの」


 それでも先生は何処吹く風。私の半悲鳴など気にする様子もなく、自分のペースで問いに応じる。

 口元を軽く緩めて、からかうような微笑まで浮かべる余裕。

 それはさながらそびえ立つ大樹の如く、深く根を張った落ち着きぶり。そんな先生の姿を見ていると、混乱によってトゲトゲしくなった私の心も、自然と平静さを回復してきた。


「まぁ、イチャつくだなんて。うふふ、嫌ですわ、先生」


 徐々に沈静化してきた感情の横を、御姉様の笑声が通り抜ける。

 振り返って見れば、御姉様は口に右手を当てて、御顔をほころばせていた。

 その笑顔が最後の決め手となり、私は完全に落ち着きを取り戻す。

 最後に浅く深呼吸して、再び先生へと顔を向けた。


「あのですね、その、今さっき見聞きした事は……」

「ワラワが他人のプライベート事を、吹聴ふいちょうして回るような下衆げすに見えるか? 無駄な心配をするでない」


 どう口止めしようか悩んでいた私に先んじて、匝雲先生は溜息を吐く。

 やれやれ、とでも言いたげな顔をしているけれど、その中に彼女なりの気遣いが感じられた。


「有り難う御座います」

「ふん。この程度で礼を言われ、ワラワが喜ぶとでも思っておるのであるまいな。ワラワも安く見られたものじゃ」


 お礼を言うと、先生は不機嫌そうな顔をして鼻を鳴らす。

 気分を害したような顔だけれど、本当にそうなら直ぐに出て行く筈。文句を言っても行動に移さないのは、本心は別にあるから。そう思う。


 少々偽悪ぎあく的なところがあるけれど、基本的に先生は良い人だ。

 私も御姉様も、そして女神代行守護者ミネルヴァガードの皆も、先生の事は信用しているし信頼している。

 医者として、また人生の先輩として。


「ほれ、もう無駄話もいいじゃろ。いい加減、仕事をさせんか」


 呆れたように言って、匝雲先生は部屋の中へと踏み入ってくる。

 不思議なほど足音はしない。やはりニンジャではないかしら?

 それはそれとして。


『御願いします』


 白衣の裾を揺らして近付いてくる先生へ、私と御姉様は一緒に頭を下げた。



「先生、どうでしょうか?」


 パジャマの上着を脱ぎ、上半身をあらわにして、御姉様は匝雲そううん先生へと問い掛ける。

 先生は今、御姉様の体を覆う包帯の上から、触診しょくしんを行っている最中。

 その様子を眺め見る御姉様は、少し不安そうだ。


 ベッドに上半身を起こしている御姉様の体は、隙間なく包帯で巻かれ、殆ど肌が見えない。

 イスラエルが来る前に換えてあるので、今の包帯は白いまま。けれど交換前の物は、傷口から滲み出た鮮血で所々が赤く染まっていた。

 見ていて気持ちの良い物でもなし、早々に処分してしまったけど。あの汚れ具合からして、御姉様の容体は楽観視出来る程度ではない筈。

 それを思うと、先生の診断結果を待つ私まで緊張してしまう。


「ふむ。これならもうしばらく休んでおれば、近いうちに傷は癒えよう」


 御姉様の体から手を離し、先生は軽く頷きながら述べる。

 拍子抜けするほど簡潔。つ望ましくも嬉しい答え。

 私は安堵の息を吐き、ほっと胸を撫で下ろした。


 匝雲先生は、私達を安心させる為にえて良好な結果を、つまり気休め的な嘘を伝えるような人じゃない。

 先生に限って、そんな事は絶対にありえない。

 先生は医の道に真摯しんしな人だ。良くも悪くもそれだけは徹底している。だからこそ、患者を気遣う為の嘘やでまかせは絶対に言わない。

 例え診察相手の余命が半年しかないと判っても、不治の病に侵されていると判明しても、患者が病状の通告を拒否してさえも、先生は必ず真実のみを伝える。情け容赦もなく、慈悲を与えず、非情に徹し、医の求道者として、現状と起こりえる未来を正確無比に。

 その結果として患者が絶望し自ら命を断とうが、それは本人の意思であり自由。先生個人の関与する事ではないし、そのつもりもないと。

 患者には在りのまま、全てを隠さず教え、その後でどうするかは本人に任せる。それが匝雲先生のスタイルでありポリシーらしい。

 そういう人だから、例え御姉様が相手だろうが、伝えるのは真実のみ。


 その先生が大丈夫と言うんだから大丈夫だろう。

 なにせ先生は優秀な魔導法士ソーサレスでもあり、凄い魔法の使い手だもの。

 今までだって魔法を用いた治療で、女神代行守護者ミネルヴァガードの面々を癒してくれてきた。今回も御姉様のみならず、メルルやエリックも御世話になっている。

 勇魚いさな救出作戦でズタボロにされた私が、今こうしていられるのも先生のお陰だし。


「安心してよいぞ、ユイ。傷痕も残らんだろうからな」

「そうなのですか?」


 更に先生は続ける。

 年上の女性医師が語る内容は、私達にとってこの上ない吉報だった。

 御姉様もこれには驚いたらしく、パジャマの上着を着直しながら、目をみはっている。

 流石は先生。最高の魔法で、御姉様を完全回復させてくれるのね。


 でも本当を言うと、一抹いちまつの不安があった。だって御姉様の体に刻まれた数多あまたの傷は、どれもがかなり深く、簡単に治ると思えないから。

 皮膚を裂き、筋肉をえぐり、血管を割って、幾つもの神経を断裂させ、おまけに骨まで達すような裂傷、刺傷の数々。それに全身を余さず蹂躙じゅうりんされた御姉様の御姿は、無惨を通り越して凄愴せいそう

 かくいう悲惨な状態を目の当たりにした者としては、不安と心配の種は尽きない。


 しかしそれも匝雲先生の力強い言葉で、跡を残さず綺麗に払拭ふっしょくされた。

 偉大なる魔法の力。そしてそれを操る先生の力。その凄さに、ただただ感服するばかり。


「じゃがの、癒せるのは体の傷だけぞ。その顔と、左腕はどうにもならん」


 先生は御姉様の顔を見て、真剣な面持ちで告げる。


 言っている言葉の意味が、よく判らない。どういう事?

 最も治って欲しい所が、御姉様の御顔が元に戻らないの? あの御美しい、素敵な御顔が?


「な、なんで?!」


 私は思わず叫んでしまう。


 突き付けられたのは衝撃的な事実。それを理解するのに、数秒を要してしまった。信じたくない思いが私の思考力を低下させ、解答への接近をはばんでいたのだろうか。

 ようやく意味が判った時、今度は感情が全てを押し退け、並々ならぬ勢いでり上がってきた。

 その結果が、部屋の中に響き渡る一声だ。


「……いいのです、ライナ。覚悟はしていましたから」

「御姉様?」


 肩の震えも、動揺を隠せない顔も、どれとて自制出来ない私とは対照的に、御姉様は落ち着いた様子で口を開く。

 私が抱く混乱、恐怖、怒り、そのどれもが御姉様には存在しない。

 先生から送られた絶望の語を、御姉様は動じずに受け止めている。

 それは正しく言葉通り。最初から覚悟を決めていた故の、悲しい平静さなの?


「何故、と、問われてものぉ」


 私の声に対して、先生は出来の悪い生徒に向けるような顔をする。

 その目が私を馬鹿にしているような気がして、頭に上った血が更に熱さを増すのが判った。


「先生はお医者様なんでしょ?! 凄い魔導法士ソーサレスなんでしょ?! だったら答えてよ! 治してよ!」


 生まれでた熱は理性を焼いて、私の口から新たな叫びを吐き出させる。

 頭の片隅では、それが無意味な求めだと理解出来ているのに。御姉様が元の姿に戻れないという話が、私の全てを押し遣って、感情の暴走を許してしまっていた。


「ライナ、匝雲そううん先生を困らせてはいけませんよ」


 食って掛からん勢いの私を、御姉様は声を荒げるでなく、静かにいさめてくる。

 御姉様の私を見る目は悲しげだった。自分の傷が癒えないと、先生に告げられたからじゃない。私の心を御姉様の事で乱させ、先生へ言い掛からせてしまった事が、申し訳ないという顔だ。

 今1番辛いのは御姉様御自身だろうに。こんな時まで自分でなく私達の事に気をいて下さるなんて。


 思えば、御姉様は何時もそうだった。御自分の事をかえりみず、常に誰かの為に働いていた。

 私はずっと御姉様の御傍に居たけれど、御姉様が自分自身の為に何かをした事が、いったい何回あっただろう?

 民の為、皆の為、自分以外の誰かの為、御姉様は昔から、その思いに従って自らを鍛え、律し、生きてこられたのではないか。御自分の事は二の次、三の次にして、ずっと。


 御姉様は自分の体など、どうでもよいのかもしれない。それよりも今は、奪われた街と、インフィニートの支配下に置かれた民と、失われた仲間の事を、深く重く考えておられるのでは。

 誰よりも責任感の強い御姉様のことだから、きっと私など考えが及ばない程に心を痛めておられるのだろう。全てを自分の所為だとして、身に受けた傷も当然の罰だとさえ思っているかもしれない。

 そんな中にありながら尚、私を気遣ってくれるなんて。

 嗚呼、御姉様……


「御姉様、申し訳ありません」


 御姉様の瞳が、声が、御心遣いが、噴き立つ激情を鎮めてくれる。

 落ち着きを取り戻して頭を下げると、御姉様は優しく微笑み頷いてくれた。


「先生も、すみませんでした」

「気にしておらんよ。小娘のヒスにいちいち憤慨ふんがいする程、ワラワも狭量きょうりょうではない」


 私の謝罪へ、先生は嘲笑の含みを口元に浮かべ、適当に片手を振る。

 先生の仕草が、態度が、私に改めて自分のあやまちを認識させた。

 彼女の言う通り、私は本当に小娘だ。反論なんて到底出来ない。心の底から情けなくなってくる。


「あまり思い詰めないで、ライナ。わたくしは貴女の心が嬉しいのよ」

「御姉様……」


 何度目かの自己嫌悪にさいなまれる私は、2人に顔向け出来なくて俯いていた。

 けど背後から掛けられた御姉様の優しい言葉が、痛む心を少しだけ癒してくれる。

 温かな思いが感じられて、熱くなる胸の奥。嬉しさが込み上げてきて、私はこの思いを涙にして零さないよう、両の拳を固く握った。


「この際じゃ、はっきりさせておくとしよう」


 先生の声に反応して、私は自然と顔を上げる。

 正面に見た彼女は、再び腕を組み直して私達を見ていた。

 私へ向けられた先刻の嘲弄ちょうろうは既になく、代わりに哲学者めいた明晰めいせきさが面上に宿っている。


「そなた等は、魔法を何でも出来る万能の力だと思っておらぬか?」

「えっと、違うん、ですか?」


 先生の問いへ、私は小さく首を傾げる。

 だって『魔法』だもの。何だって出来るような気がするし。

 だからこそ、御姉様の傷も治してくれると思ったのに。


「当然じゃ。仮に全ての不可能を可能とする力だったなら、ワラワ達は今こんな所にるまい」

「ヤクモに勝てている筈ですものね」

「そういう事じゃ」


 私の返答に呆れる先生は、御姉様の言葉に首を縦へ振る。

 言われてみれば、確かにそうだ。

 何でも出来るなら、私達は負けていない。つまり魔法だからといって、全てが思い通りに運ばせられる訳じゃないって事?


「魔法はの、何でもかんでも自由自在に出来る便利技能ではない。在るべき事を起こすだけじゃ」

「在るべき事を起こす?」

「うむ。制限が色々とある訳じゃな。よって、出来る事しか出来ん」

「それはどういう?」


 先生の言っている事はいまいち判らない。

 何が出来て、何が出来ないのか。その境界を教えて欲しい。


「魔法とは、魔力によって作り出される事象を言う。魔力は此の世の様々なものに宿る不透明な力での、言うならば未分化の可能性といえる代物じゃ」

「未分化の可能性、ですか?」

「つまり、何になるか決まっておらん力よ。それ故、如何様いかようにも利用出来る。その扱い方さえ知っておればの」


 魔力の扱い方を知っている、すなわち魔法を使える者が魔導法士ソーサレスね。

 私や御姉様も、漠然とだけど魔力という物は感じられる。でも明確な扱い方までは判らない。

 魔法を使うには、魔力をはっきりと認識出来ないといけないんだっけ。私達ぐらいの感じ方じゃ、魔法を使う事は不可能なんだって。

 でも魔力を感じられるか、ちゃんと把握出来るかは、先天的な素養で決まるみたい。だから生まれた時に、魔導法士ソーサレスになれるかどうかは決まってしまう。

 どんなに訓練しても、この能力だけは変化しないらしいから。

 でも大異変以前の月では、微かにだって魔力を感じられない人が、人類の大半だったという話。それを思えば私達はまだいい方かも。


「無限の可能性、それが魔力。現象を引き起こす原動力。……こう言うと何でも出来そうに聞こえるがの」

「そうですね。けれど、実際は違うのでしょう?」

「そうじゃ」


 先生は、御姉様の言葉へ頷き返す。

 それから右手の人差し指を立て、私と御姉様を交互に示した。


「魔力によって作り出される事象、つまり魔法じゃがな。これは今現在『在る』状態を別の状態に移行する事は可能でも、元々『無い』状態を新たに作り出す事は出来ぬのじゃ」

「在る状態と、無い状態?」

「例えば炎じゃ。ワラワは今この場で魔法を使い、瞬時に炎を生み出す事が出来る。このように」


 先生が右手の中指と親指を擦り合わせ、軽快に弾いて音を鳴らす。

 すると、先生の人差し指先端に炎が生まれた。小さく、か細い、蝋燭のような火だが、宣言通りだ。


 勇魚いさなが魔法を使う所も見た事あるけど、彼女は何やら長ったらしい呪文を唱えていたのに。でも先生は何も口ずさまず、一瞬で炎を出してしまった。これが彼女の言っていた、魔導法士ソーサレスとしての実力差だろうか。

 本来魔力の操作には、炎症だか詠唱だかいうヘンテコな呪文を唱えないといけないらしい。けれど優れた魔導法士ソーサレスともなると、思うだけで魔力を操れる=意思1つで魔法を使えるんだと、勇魚は言ってたっけ。

 彼女も匝雲そううん先生は凄いって連呼してたし、やっぱり先生は皆が認めるスーパーウーマンなんだな。


「この炎はの、空気中に滞留する分子の運動状態を活発化させ、燃焼状態へ移行させた故に生まれた物よ。逆に分子の運動状態を極端に停滞させれば……」


 先生は再び中指と親指を擦り合わせ、軽やかな弾音だんおんを発す。

 と、今まで指先で燃えていた炎が、一瞬で小さな氷の塊に変化した。

 その光景は正しく『魔法』。それ以外の何物でもない。


「このように、氷を作り出す事も出来る。判るかの?」

「一連の分子運動は、先生が魔力を使い操作したのですね」

「うむ、その通りじゃ」


 御姉様が状況の推移すいいを述べると、先生は満足げに頷く。

 今の先生は、出来の良い生徒に対する教師のような顔だ。


「魔力とは選択の自由を与えられた可能性。それを用いて現在の状態を変成させるのが魔法ぞ。されど魔法は、魔力とそれを操作する者が居るだけでは発動せん。もっと根本的な物が必要なのじゃよ」

「根本的、ですか? う〜ん、私には良く判らないですね」

「諦めるのが早過ぎるわ! もっと頭を使わんか!」

「ひっ!」


 私が降参の旨を口にすると、先生は打って変わって鬼教師の顔で一喝する。

 あまりの迫力に、思わず体がすくんでしまった。ついでに声の威力なのか、先生の作った氷も砕け散った。

 私の顔は、きっと恐怖に歪んでいるだろう。本当は悲鳴も上げる所だったけど、喉が引きって最初の1語しか発せられなかった。

 でもそのお陰で、人前で情けない悲鳴を上げずにすんだ。私の自尊心は、ギリギリ寸前で保たれた訳だ。

 うぅ、兄さん、私もやっぱり頭が弱いみたい。兄さんより勉強は出来るつもりだったけど、先生の前じゃ同じ低能扱いなのね。


 それにしても先生の表情、御姉様に向けたのとはまるで違う。その豹変ぶりは、こちらも魔法と見紛みまがう程。

 スーパーウーマンは伊達じゃないか。


「先生、わたくしにも御教授下さいませ」

「む、なんじゃ、ユイまで判らんと言うのか?」

「はい。ですから、ライナばかりを責めないであげて下さい」


 御姉様が静かに声を上げて、先生の意識と視線を私から引き離す。

 そのすぐ後、先生の鬼相きそう憮然ぶぜんへと変転した。まるで目を掛けていた優秀な生徒が、答えられると思っていた問いに答えられなかった時のような、落胆とも驚愕とも取れる微妙な顔だ。

 一方の御姉様は、私へ優しい微笑みを向けてくれる。それを見て私は全てを悟った。


 本当は、この答えが判っているんだ。

 私と違って完璧に理解出来ているのに、えて判らないフリをしている。

 だって御姉様は、とても賢くあらせられるから。御姉様は博識で、学が深く、理解力の高さも1級品。どんなに難しい専門書だって、1度熟読すれば本質を会得出来るし、応用だって思うがまま。

 その際立った頭脳が、聡明さがあるからこそ、若くしてクリシナーデ領区の宗主を立派に務めておられたのだから。

 そんな御姉様が、何故出来ないフリをするのか?

 御姉様の性格や、現状から考えて導き出される理由は1つ。私をかばう為だ。先生の風当たりから私を護る為に、ワザと判らないフリをして下さっているのよ!


 嗚呼、御姉様……御姉様の御心遣い、本当に嬉しいです。涙が出るぐらい感激してしまいます。

 こんな私の為に、御姉様はオバカの泥をかぶろうとして下さるのですね。

 申し訳なさと、でもやっぱり嬉しさで、私の胸は一杯です。

 何時か必ずこの御恩、全て余さず御返しします。私の誇りに誓って。私の命に誓って。必ず、必ず。


「仕方ないのぉ」


 先生は呆れたような顔で肩をすくめ、眼鏡越しに私達を見る。

 さっきまでの憤激は微塵も感じられない。どうしたのだろうか?

 ……少し考えれば答えは見付かる。何も悩む必要などなかった。

 私が御姉様の御考えに思い至ったのだ、先生がそれを出来ていない筈がない。

 先生は全てを知った上で、私達の為に講義をしてくれるんだ。


「つまり、魔力で影響を与える為の媒体じゃな。先刻の炎にしろ氷にしろ、分子の運動状態を操作して発生させておる。このように、魔法とは現象の根幹に相当するモノがなければ行えぬ」

「だから魔法は、今在る状態を別の状態に変える力……在るべきものを使い、起こるべく事を起こすわざと」

「判ってきたようじゃな、ユイ。魔法とはそういう物じゃ。一見便利に見えるが、実際はそれ程でもないて」


 御姉様は得心の顔で、先生に向かって頷いている。

 私はと言えば、判ったような、判らないような……困った。困ってしまった。

 このままじゃ私、頭の弱い駄目な子になっちゃう。頑張って復習しないと。


魔導法士ソーサレスの多くは詠唱スペルを使い、魔力を導き魔法を形作る。これは詠唱スペルの中に魔力の変成呪式へんせいじゅしきが織り込まれておるからじゃ」

「えっと、ヘンセージュシキ、ですか。それはどういった……」

「よいか? 1つの魔法を使う為に必要因子の変化総量や、使う魔力の大きさなどをイチイチ計算などしとれん。常に同じ魔法ばかり使うならまだしも、状況によって複数の魔法を使い分けるのが一般的な魔導法士ソーサレスじゃからの」

「今までの話からすると、魔法は魔力で変質させる為の土台が必要ですから、その土台ごとに魔力の使用法が変わってくるのですね」

如何いかにも。炎を作る、氷を生む、雷を呼ぶ、風を起こす、全て異なる魔力運用が必要じゃ。しかも状況によって、規模や強さを変えねばならん。その都度、膨大な計算式が必要になってくる。余程の天才でない限り、まず頭が追いつかんわ」


 な、成る程。魔法って計算式とか数学的? な事も必要だったのね。

 確かに面倒くさい。それを考えると、あんまり便利じゃないかも……


「そこで登場するのが詠唱スペルじゃな。詠唱スペルの中には最初から、全ての組み立て式が含まれておるのよ。望む結果を導く為の魔力情報を、必要な物に必要分だけ送るよう調整された術式。それが変成呪式へんせいじゅしき

「それでは魔法を使う際、詠唱スペルさえ唱えれば魔力の運用は自動的に行われるという事ですか?」

「そうなるな。全ての計算をするより、詠唱スペルを覚えた方が圧倒的に楽じゃ。遥か古の先人が遺した、偉大なる遺産よな。詠唱スペル1つを作るのに、どれだけの時間が掛かった事か」


 先生は此処でない何処かを見るような、遠い目をしている。

 大昔の魔導法士ソーサレス達に思いをせているのだろうか。

 邪魔しちゃ悪い気がするんだけど、聞きたい事があるんだ。……聞いちゃおうかな。


「でも先生、さっき先生は詠唱スペルを使わないで、魔法を出しましたよね」

「ふむ。魔力の比較的簡単な運用計算ならば、詠唱スペルを用いずともワラワには出来る。それは必要な組み式を体が覚えておるからじゃ。熟練した魔導法士ソーサレスならば、長年使う魔法の状態変化度合いは、身に染み付いてくるものよ」


 習うより慣れろ、か。

 私みたいな銃操使者ガンナードや、御姉様のような剣闘勇士ブレードストライカー、メルルとかの万能戦兵コマンドハンターに、エリックがそうな貫徹狙撃スナイプエッダー、これら各戦士系の技術と、先生や勇魚がやる魔導法士ソーサレスの魔法っていうのは、案外似通っているのかも。

 今まで雲の上の神秘の力だと思ってたけど、少し魔法の認識が変わったよ。


「他にも魔力の運用を助ける魔導補助具マジックアイテムという代物があってな、こいつを使えば魔力の変成速度を格段に上げられるのよ」

「あ、そう言えば勇魚がそんなのの話もしてた。扇がどうとか」

魔導補助具マジックアイテムには様々な形状があるからの。僅かな詠唱スペルだけで、内部に含まれておる変成呪式へんせいじゅしきを読み取り、高速で働かせ、魔法の発動を促すのじゃ。あると無いでは大違いぞ」


 ふーん、色々と勉強になった。御姉様も聞き入ってるし。

 要するに、魔法は私達が思ってる程には使い勝手がいい訳じゃないと。だから出来ない事も当然あって、御姉様を癒す事は残念ながら出来ない、という訳ね。

 ………………

 …………

 ……


「なんでよっ?!」


「なんじゃ、突然叫びおって」


 左耳に人差し指を差し入れて、先生が迷惑そうな顔で問うてくる。

 横に目をやれば、御姉様も少しばかり驚いている様子。

 かくいう私自身も、つい大声を出してしまった事に意外さを感じているぐらいだ。御姉様の事になると、まだまだ感情のコントロールが上手く出来ないみたい。

 これでは御姉様の御迷惑になってばかり。少しは自制出来る様にならないと。


「声を上げたのは、その、すみませんでした。でも、どうしても納得出来ない事があって」

「ほぉ、なんじゃな? くだらん内容なら鎮静剤を打つぞ」


 耳から指を離し、私を見る先生。

 言ってる事は冗談みたいに聞こえるけど、この人だったら絶対にやるんだろうな。


「先生は、御姉様にも魔法を使っていましたよね」

「うむ。ユイの全身に刻まれた傷を癒すには、生半可な医療行為では追いつかんからな」


 そう。先生は御姉様に魔法を使っていた。私はその現場を、この目で見ている。

 傷付き倒れた御姉様に両手を当てて、何か呪文を……詠唱スペルを唱えていた。その時の先生の手が淡い金の光を生み出していた事、同じ光が御姉様の全身を包んでいた事を憶えてる。


「それはどうやってやったんですか?」

「納得出来ん事とはそんな物か? まぁよかろう。人間の体は凡そ60兆個の細胞で出来ておる。この細胞が分裂する事によって人は成長する。髪や爪が伸び、傷も癒えていく。それは判るな?」

「はい」

「ワラワがユイに使った魔法はの、細胞の分裂速度を増進させる物じゃ。負傷部周辺の細胞に魔力を注いで活性化させ、ユイ自身の再生能力を極限まで高めたのよ」


 そうやって治療していたのね。

 だから先生は御姉様の体の傷が、痕も残らず完治すると言ったんだ。

 でもそれなら尚更……


「それじゃ、どうして御顔と腕は治せないんですか? 同じ様に魔法で治療出来る筈ですよね?」

「そうじゃな、普通ならば可能じゃ。健全な細胞があればの」

「え? それはどういう……」

「無いんじゃよ。ユイの顔の半面と、左肩一帯の細胞は全て死んでおる。故に魔法を使おうとも癒す事が出来ん」


 先生は両手を組んで、浅く息を吐く。

 難しい顔をしている先生に対し、御姉様は押し黙ったままだ。


「先刻から言っておるがな、魔法を使うには変化させる対象が必要不可欠じゃ。回復魔法も結局は細胞の増殖機能を促進しておるに過ぎん。しかしそれを行うべき細胞が無いのでは、魔法は使えんよ」

「細胞が死んでいるなんて、そんな事あるんですか?」

「生体細胞には分裂の限界値がある。一定以上の分裂を繰り返すと、分裂速度は次第に低下していき、最終的には分裂停止となり増殖不能となるのよ。そうなった細胞は再生する事無く、死んでいくのじゃ」

「それじゃあ、御姉様の細胞死も仕方の無い事だと?」

「いや、ユイはまだ若いし、肉体的にも健康じゃ。遺伝子に異常がある訳でもなく、細胞は一般的な健全さを保っておる。顔と腕以外の部分ではな」

「と、言うと?」


 なんだか嫌な予感がする。

 御姉様の身に何か、大変な問題が起きているんじゃないだろうか。


「これ程大量の細胞が、狙ったように一定部分だけで機能を停止してしまう。ふむ、こんな事は普通でない。少なくともワラワは前例を知らん」

「それって……」

「何かが細胞の機能を意図的に殺しておるんじゃ。そうとしか考えられん」


 先生は言いながら、ゆっくりと首を振る。

 普段以上に細まった目や、引き結ばれた唇、固い表情から、事の重大さが窺い知れた。


 何か? 何かって、何?

 きっと先生は、その正体を知っている。それならそれを教えて貰いたい。

 私が知ったって、どうしようもないだろうけど。それでも、御姉様に何が起きているのか、私は知りたい。

 少しでも、御役に立てるかもしれないから。例え無理でも、何も知らないままでいたくはない。


「ナノマシン、ですね」


 私が先生に詰め寄る前に、それまで黙っていた御姉様が呟いた。

 何時ものように落ち着いた、いだ湖面のような声。

 だけど今はそれが、重く低く響いているように感じられる。


「クリシナーデ領区を護っていた、そしてヤクモに操られ私達を襲ったナノマシン。恐らくはそれが、わたくしの体内に入り込んでいるのでしょう」

「やはり気付いておったか。その通りじゃ」


 御姉様の言葉を、先生は一言で肯定する。

 それに対して御姉様は、口を閉じ目を伏せてしまわれた。

 まるで、何かに耐えるような表情をなさっている。


「ユイの半顔と肩周りの細胞には、ナノマシンが侵入しておる。それ等が細胞機能に弊害へいがいを与え、一切の生命活動を阻害そがいしておるのよ」


 ナノマシン……知っている。幾らか前、御姉様に教えて頂いたから。

 ナノの語源は、太古に存在した聖地『地球』の地方言語、確かラテン語というものの「小人」から来ているんだったか。

 1nmナノメートルは10億分の1mに相当する極微細なサイズ。

 当時の『地球』、そして月では用途別に無数のナノマシンが存在していたと。複数のマシンが複合して目視可能な大きさのシステムを構成している物もあったし、電子顕微鏡を使わないと見えないようなシステムもあったらしい。

 構成素材も蛋白質たんぱくしつで出来ている物から、機械仕掛けの物まで様々だったって。


 クリシナーデ領区は1500年前の創設時から、このナノマシンに守られてきたんだ。

 凄まじい量のナノマシンが結集し、地下に作られた領区の入り口となって、女神代行守護者ミネルヴァガードと共にあらゆる外敵を打ち倒してきたと。

 代々の宗主の血に連なる者の命令のみを聞き入れ、主の望む姿を自在に取る。それがクリシナーデ領区に伝わってきたナノマシン郡。

 今ではもう、誰も造れないような凄い装置だという話。


「別の部分から細胞を取り移植しても、既存きぞんのナノマシンが侵食し、新たな細胞を殺してしまう。手に負えんのよ」

「それなら、御姉様に入り込んでるナノマシンを全部壊しちゃえばいいじゃない。そうよ、そうすれば!」


 我ながら名案だわ。

 そもそも1番手っ取り早いじゃない。異物は取り除いちゃえばいいのよ。

 もぉ、先生も御姉様も、意外と抜けてる所があるのね。ふふふ。


「それは出来ないのですよ、ライナ」

「え?」

「クリシナーデ領区を古き時代から守ってきたナノマシンは、自己量産機能を有しているのです。立体構造を自己形成し、自己構築する能力を持っているわ。簡単に言うとね、どんなに破壊してもぐ増えてしまうの」

「そんな……」


 だったら、1つ残らず全部まとめて、一気に!


「それにの、このマシン共は他の健全な細胞にまで、分離因子を忍び込ませておるようなのじゃ。他の細胞に潜んでおるマシンは、現在機能を働かせておらんがな」

「恐らくは現行で起動しているシステムが停止すると同時に、一斉機能を始めるのでしょう。一体どれ程の細胞が侵されているか判りませんが」

「それじゃ、壊す事も出来ないんですか?」

「そもそも現在の科学技術、医療技術では、細胞内に潜伏したナノマシンだけを狙って破壊する事は出来ぬのじゃ。例え今、強引にそれを敢行かんこうしたとしても、細胞毎破壊するよりない。マシンの潜む疑いがある細胞を虱潰しらみつぶしに消していけば、ユイが死んでしまうわい」


 そんな、そんな事って……

 信じられない事実を前に、脚から力が抜けていく。

 目の前が暗くなり、体がふらついてしまう。

 私はそのまま数歩後退あとずさり、背中が壁にぶつかった所で、床にへたり込んでしまった。


「ライナ、大丈夫?」


 そんな私に、御姉様は心配そうな顔で声を掛けて下さる。

 こんな時まで、私の事を気になさるなんて……


「御姉様、うぅ……」


 目尻に涙が浮かぶ。また私は泣いてしまうのか。

 悔しくて、悲しくて、胸が苦しい。

 どうして御姉様ばかりが、こんな目に遭われるのだろう。御姉様は何時も皆の為に尽くしておられたのに、どうして御姉様ばかりが。


「ライナ、私の事を心配してくれるのね。有り難う。でも私は大丈夫だから。ね?」


 悲しさと優しさを混在させて、御姉様が微笑まれる。

 私は、何を言えばいいの? 御姉様に、何て言えば?

 私には、言うべき言葉が見付からない。


「しかしせんな」


 失意からうつむく私の耳へ、先生の声が届く。

 けれど私は御姉様の事で頭が一杯。何か他事を考えるなんて、とても出来そうにない。


「ワラワはナノマシンやらにして詳しくはないが、どうにも引っ掛かるの」

「どういう事でしょうか?」

「これ程の機能を有すシステムが、何故、体の1部分だけに留まっておる? マシンの機構から考えても、人間の生体細胞を喰い尽くすなぞ造作もなさそうじゃが」

「確かに、そうですわね。身体機能を部分的に停止のではなく、血流に乗って心臓まで達し、其処で心肺機能を侵せば、それだけでわたくしを殺す事は簡単な筈」

「うむ。それに自己増殖する機能を持っていながら、一定以上の数に増えて起動しようとはせぬ。増えても、今現在動いている物以外は眠ったままとは。妙よな」


 先生と御姉様が話している。

 御姉様に入り込んだナノマシンの事らしい。でも私は、それを只聞いているだけ。


「まるで、そなたを生かしたまま苦しめようとしているようじゃ。何者かの意思の介在かいざいを疑うの」

「……恐らく正解でしょう」


 なに? どういう事?


「目覚めてぐ、異物が体内に侵入していると気付きました。それが先祖代々、領区を守ってきたクリシナーデの至宝だという事も」

「ほお」

「このシステムは、クリシナーデの直系がめいによって機能します。ですから何度も命令を送ったのですが、反応しませんでした。わたくしの言葉を受け付けていないようです」

「故障、という訳でもあるまい」

「はい。考えられる事は1つ。より高次の命令権を持つ者から、私の指示を拒むようロックを掛けられているのではないかと」

「そうなると何者の仕業かは容易に判別出来るの。ヤクモ・クリシナーデじゃな」

「それ以外には考えられません」


 ヤクモ? ヤクモ・クリシナーデ?

 ……そうだ。あいつが全ての元凶なんだ。

 ヘンリーさんや女神代行守護者ミネルヴァガードの皆を殺し、兄さんを奪い、御姉様に酷い傷を負わせた。

 全部あいつが、あの男がやった事。


「ヤクモは私の双子の兄。ナノマシンへの影響力も同等の筈ですが」

「インフィニートの従者じゅうしゃとして舞い戻ってきたのじゃ。向こうで何かしら改造でも受けたのであろう。インフィニートはガレナック領区も襲っておるしな」

「あそこは生命研究で有名でしたものね。同領区が保有していたノウハウを奪っていったなら、生体改造の可能性は充分にあるでしょう」

「それによって、そなたの回復を妨げておる、か」


 あいつが、御姉様を今も苦しめ続けているの?

 全てを奪い取り、御姉様を悲しませただけでは飽き足らず。

 許せない。許せる訳が無い。


「その気になれば殺す事も出来るのに、えてそれをせず、意図的に腕と顔のみを潰すとはの。腕が無ければ確かに不自由じゃが、顔を狙った理由は……」

「女性にとって、顔を傷付けられる事ほど辛い事はありません。しかもそれが無惨で、2度と治らないような傷ならば尚の事」

「やはり、それが目的なんじゃろうな。しかるにヤクモの狙いは、そなたの命でなく、心、精神を殺す事ではあるまいか」

「私もそう思います」


 御姉様の御優しい御心を踏みにじるのが目的だなんて。

 どこまでも危険な男だ、やっぱり野放しにはしておけない。

 皆の仇でもある。絶対に倒さないと。


「しかし、そなたを苦しめるのがインフィニートの意思とは思えん。彼奴きゃつめの独断のようじゃが」

「そうですね。私もそのように感じます。あの男の悪意と憎悪が、ナノマシンから流れ込んでくるような……」

「ふむ。インフィニートに従う者が、主の命にそむいてまで己の我を通そうとするとはな。四鳳絢将フォースジェネラルという立場から考えて、ある程度行動の自由は許されておると思うが、それにしてもこれはの」

「……そう、ですね」

「そなたを相当憎んでおるようじゃが。何か心当たりは?」


 先生、何を言ってるんですか。御姉様が人に怨まれるような事をする訳がないでしょう。

 確かに、皆を導く為に強く厳しくあろうと、時には冷徹に振舞われたかもしれませんが。でもそれは民をまとめ率い、護っていく為です。

 御姉様は只の1度とて、感情に任せて誰かに叱責しっせきを浴びせた事など、当り散らした事などありません。

 先生だって、それは判っている筈でしょう。


「私と兄は共に生まれ、5歳の頃までは一緒に育ったのです。けれどある日、兄が病に倒れたと御父様に言われ、以来会えなくなりました。更に数日が過ぎてから、兄は病状が悪化して死んだと告げられたのです。領区を挙げて葬儀も執り行われました」

「そのような事があったのか。ワラワがガレナックからクリシナーデ領区に移ってきたのは、10年程前じゃったからな。知らぬ筈じゃよ」

「ええ。領民は皆、兄は死んだと信じておりましたし、御父様達も死者の話題には触れようとしませんでしたから。葬儀以後、兄の事を口にする者は居なくなりました」


 御姉様に兄上様がいらしたのは、私も知っている。

 御姉様が1度だけ教えて下さった。でもそれが、あの男だなんて。とてもじゃ無いけど信じられない。

 確かに似てはいたけど、御姉様とは中身が全然違う。

 人を笑いながら殺すような男よ。そんなのが御姉様の兄上様だなんて、何かの間違いだとしか思えない。


「けれど私は感じていました。双子である為でしょうか、兄が生きていると。姿を見たり、声を聞いたりした訳ではありませんが、感じていたのです。兄の存在を。命の鼓動を」

「ヤクモの姿はそなたに良く似ておった。一卵性双生児なのじゃろう。元々は1つの存在だった故に、片割れを感覚的に捉えておったのかもしれぬ」

「何処に居て、何をしているのか、何故死んだ事にされたのか。何も判りませんでしたが。ヘンリーに聞いても死んだの一点張りで、詳しい事は何も教えてはくれませんでした。ですから御父様が亡くなり宗主を継いだ時、自分で探そうとしたのですが……」

「その様子では見付からなかったようじゃの」

「はい。しかしまさか、インフィニートの幹部になっていたなんて。……領区から姿を消した後、兄がどのような人生を歩んできたのかは判りません。もしやすると御父様達の所為で、あのように狂的な人格となってしまったのかもしれないのです」

「そなたにこだわり、苦しめんとする理由わけが、そこにあるのやも知れぬな」


 御姉様の悲しみ、苦しみは私にも判る。

 もし兄さんが、ヤクモのようになってしまったら、きっと同じ様に感じるだろうから。

 でも私は、御姉様と同じ立場になった時、きっと兄さんを許さない。


「しかし、例えどのような理由があれ、ヤクモのやった事を許す訳にはいきません。彼は、多くの仲間の命を奪い、クリシナーデ領区をインフィニートに明け渡しました。民の生活をおびやかす者を、何故許せましょう」

「実の、それも双子の兄なのじゃぞ? それでもか?」

「はい。此の世で最も自分に近い存在だろうと、関係はありません。ヤクモは必ず、討ちます」


 御姉様、嗚呼、御姉様はやはり強い御方。唯一無二の我が主。

 この私、ライナ・ダートルーナは、この命燃え果てる最後の瞬間まで、御姉様と御傍で戦います。


「私も、御姉様と共に」


 顔を上げる。

 喉を動かし声を出し、両脚に全身に再び力を込めて立ち上がる。

 項垂うなだれている訳にはいかない。

 御姉様は諦めず、前を向いて、歩む決意をされているのだから。

 ならば私が立ち止まってどうするのか。御姉様の行く所、何処までも御供しよう。

 その為に、私も立ち上がるのだ。


「その心意気は大したものじゃ。しかし実際問題として、今のユイではろくな戦力になるまい」


 私達を交互に見た後、先生は御姉様の失った左腕を指差す。

 自分の状態を良く判っているからか、御姉様は左肩を掴み目を閉じられた。


「確かに片腕のハンデは大きいかもしれない。でもそれだったら、私が御姉様の腕となって、代わりに働く!」

「ライナ……」


 私は拳を握り、1歩前へ踏み出す。

 そんな私へと、御姉様は何か言いたそうな目を向けてきた。

 不安や喜び、心配や嬉しさ、複数の感情が入り混じった瞳。私はその輝きを見詰め返し、安心させるように強く頷く。


 そうだ。今こそ御姉様に受けた長年の御恩を御返しする時。

 御姉様が苦しんでいる時こそ、私が御力になって差し上げねば。そして憎っくき仇敵、ヤクモを討ち取ってみせよう。


「成る程、気概きがいは充分なようじゃの。しかし奴がクリシナーデ領区に座している限り、そなた等の勝ち目は無きに等しいぞ。1000人からなる女神代行守護者ミネルヴァガードが壊滅させられたのじゃから、当然よな」

「それに、ヤクモが命令を変えればその瞬間、わたくしの命はき消されるでしょう。そうなれば彼以外にナノマシンを操れる者は居なくなる」

「そんな事、私がさせ……」


 させません。とは言えなかった。

 どんなに強く思っても、願っても、思い通りにいくものではないから。気持ちはあっても、私に出来る事は何も無い。

 悔しいけれど、それが現実。

 でも諦めるつもりはない。私に出来る範囲で御姉様を治す道、きっと探し出してみせる。


「絶対に不可能なんて事は無い筈です。少しでも可能性があるなら、私はそれを徹底的に追うつもり!」

「言うではないか。先刻までベソまみれだった小娘の分際でな」

「んなっ?!」


 先生は顎に手を当てて、意地悪く笑う。

 痛い所を突かれて、私は何も言えない。

 顔が赤くなっている気がする。もの凄く恥ずかしくて。

 うぅ、御姉様の前で何度も醜態しゅうたいさらした自分がうらめしくて仕方ない。


「しかし諦めぬ姿勢は良い。無茶を承知で走るなど、ワラワにはもう出来ぬかと思っておった。これも若さかのぉ」

匝雲そううん先生……」


 私をからかっていた先生が、今度は懐かしむような顔で微笑をく。

 ほんの少し寂しそうに見えたのは、私の気のせいだろうか。


「幸いにして、ヤクモめはユイを今ぐ殺すつもりはないらしい。時間を掛けてじっくり苦しめようという腹じゃろうて。しかしこれは好機じゃ。今のうちに、ユイからマシンを取り除く術を探ろうではないか」

「はい!」


 先生の言葉に、私は握った拳を突き出して応じる。

 1人より2人、2人より3人、3人より皆で考えれば、きっといい知恵が浮かぶ筈。

 何はともあれ、動かないと始まらない。


「けれど、現代科学や医術では切除が無理なのでしょう? やはり魔法の力で行うのですか?」

「残念じゃがな、それも無理よ。そなたを治療する際、ナノマシン共を破壊しようとやってみたのじゃが、魔法が効かなんだ。古代の技術でコーティングされておるのか、魔力を寄せ付けぬのだから、始末に悪い」

「魔法が効かぬような存在だったとは、私も知りませんでした。長い時間の中で、宗主へ伝わる秘宝の口伝も失われた部分があるのでしょうか」


 御姉様は残念そうに目を伏せられる。

 まるで自分が悪事を働いて皆を困らせてしまったというような、自責の表情をして。

 こんな御姉様の御顔を見ているのは辛い。一刻も早く治療法を見つけ出さねば。と、気ばかりが焦ってしまう。

 駄目だ駄目だ。何事も落ち着いて、冷静に考えねば。感情に突き動かされて先走り、それで失敗するのが私の短所。

 御姉様に教わった事を思い出して、急いでいる時こそ慎重に進まないと。


「八方塞ですわね。クリシナーデ領区に戻れれば、解決法も見付かるのでしょうが」

「う〜ん」

「ふむ。……1つだけ、手段が無いでもないがの」


 うつむいて悩む私の御姉様へ、先生の声が掛かる。

 それを耳に受けた瞬間、私は顔を上げて身を乗り出していた。


「本当ですか!」

「そう近付くな、暑苦しい。……確率で言えば0に近い方じゃがの。まったく手掛かりのない現状では、充分な価値があると思うぞ」


 私を追いるように、片手を「しっしっ」と振りながら、先生は希望の言葉を紡ぐ。

 高まってきた興奮で全身に力が入る私は、先生の所作しょさも気にせず続きを待つ。

 御姉様は何も言わないが、少なからぬ期待の眼差しを先生へ注いでいた。


「ガレナック領区じゃ」

「ガレナック領区って、インフィニートにとされた?」

「うむ。あそこは生命科学、医療技術、そちらの方面に力を注いでいた街。ここらには無い治療設備や研究結果があるじゃろう。それにクリシナーデ領区同様、古代の遺産を受け継いでおるとも聞く。それがどのような物かは知らぬが、地下深くに隠してきたと言われておった」

「つまり1500年前の優れた医療技術が、封印されている可能性があると。そういう事ですか」

「過去の遺産が何かは判らぬが、ガレナック領区が生命の研究へ傾倒けいとうしていた事から考えるに、何かしら関係性があるのでは無いかと思っての」


 先生は記憶を探るような表情で、私達の問いに答えてくれる。

 与えられた情報は正しく望んでいた物。興奮と喜びのあまり、私は全身の震えを止められない。

 先生に抱き付いて感謝の口付けでもしたい気分だ。でも実際にやったら、鎮静剤を打たれるかメスで反撃されそうなので、止めておくけど。


「じゃが知っての通り、ガレナックは既にインフィニートによって叩き潰されておる。インフィニートの連中が全てを奪ってしまい、何も残されていない可能性は極めて高いぞ」

「でも、奪われずに残っている物がある可能性だって、0じゃないですよね? だったら、私は行こうと思います」


 無駄足になるかもしれない旨を説うてくる先生へ、私は正面から向き合う。

 眼鏡の奥にある双眸そうぼうを見詰め、自分の意思を、迷い挟まぬ声に乗せて届けた。


 折角のチャンス、駄目かもしれないと諦めて、何もしないまま捨ててしまう訳にはいかない。

 御姉様の為にも、皆の仇を討つ為にも、私は自分に出来る事をすると決めたんだもの。


「少しも悩まぬか。ふん、夢を見て、現実の厳しさに打たれようともワラワは知らぬぞ」

「どうせ後悔するなら、何もしないで後悔するより、思う存分動いてから後悔したいですから」

「ありがちな科白せりふを吐きおって」


 小さく鼻を鳴らす先生へ、私は自らの考えをはっきり告げた。

 これに返ってきたのは、どこか満足気な顔に付与された微笑。

 私達の応答を、御姉様はベッドの上から穏やかな眼差しで見詰めておられる。


「ユイの体に入り込んだナノマシンが除去出来れば、顔の傷も癒せるしの。流石に左腕は再生不可能じゃが、マシンの妨害がないなら擬似躯体サイバーウェアを取り付ける事も難しくない」

「上手くいけば、摘出したナノマシンを利用して、ヤクモの手を封じられるかもしれません」

「それだったら尚の事、成功させないと」


 最初は絶望していたけど、何だかんだで光明が見えてきた。

 ガレナック領区に望む物があるとは限らない。それでも期待はしていい筈よね。

 最初から駄目だと決め付けたら、そこで終わってしまうもの。


「話は聞かせて貰ったぜ。その仕事、オレも一枚噛ませてもらおぅか」


 突然、私達以外の声が耳に響いた。

 驚いて頭を動かすと、部屋の入り口に見慣れた顔を発見する。

 それは白銀の短髪。続いて入ってくる黒い長髪。その後ろには赤いセミショート。


「貴方達……」

「お嬢、目が覚めたんだって?」

「ユイ様! 良かったです」

「これで一安心ってところかしら」


 扉を開けて室内に踏み込んでくる3人を、御姉様は少し驚いた顔で見ている。

 メルル、エリック、それから勇魚いさな。ヤクモの元から共に逃げてきた仲間達が、等しい笑顔と思い思いの言葉をって、御姉様の傍へとやって来た。


「心配を、掛けてしまったようですね」


 ベッドを囲むように立った三者の顔へ順々に視線を向けて、御姉様はすまなさそうに頭を下げる。

 その仕草に対して、メルルは頭をきながら手を振った。


「よせよ、お嬢。オレ達に頭下げるなんざ、らしくねぇぜ。何時もみたく胸張っててくれねぇと調子狂うってもんだ」

「そうですよ、ユイ様。ユイ様を心配をするのは当然です。だから謝らないで下さい」


 メルルはぶっきらぼうに、エリックは嬉し涙を瞳に溜めて、それぞれ御姉様へ声を掛ける。

 2人の姿を前にして、御姉様は柔らかな微笑みを浮かべられた。

 元気な2人をじかに見れて、やっぱり嬉しいみたい。


「貴女が起きたと聞いて、皆喜んでるのよ。勿論、私もね」

「勇魚様」


 勇魚は笑いかけながら、御姉様の右肩に手を乗せる。

 御姉様は微笑を面上に乗せたまま、彼女へと顔を向けた。

 これがイスラエルみたいな男なら馴れ馴れしいと憤怒する所だったけど、勇魚は御姉様が全幅の信頼を寄せる伝説の勇者様だ。その気安い行いを咎めるつもりはない。

 尤も、さっき散々御姉様に泣き付いたりしていた私では、今更いきどおる資格もないような気がするけど。


「さてと、挨拶も早々に本題に入らせてもらうがよ。さっきの話な、ガレナック領区へ乗り込もうっての。オレも参加するぜ」

「ボクも行きます。ユイ様の為に頑張ります!」

「今度も私の手は借りない、なんて言わせないわよ。色々御世話になったし、借りは返しておきたいから」


 メルルも、エリックも、勇魚も、皆私達の話を聞いていたらしい。

 力強く頷いて、協力を申し出てくれる。

 皆の顔をもう1度見回す御姉様は申し訳無さそうに、でもそれと一緒に嬉しそうな顔をされた。


「……有り難う御座います」

「ユイ様、謝辞なのよいのです。皆、ユイ様の御力になりたいのですから」


 礼儀正しく頭を垂れる御姉様へ、私は笑顔で応じる。

 顔を上げた御姉様は、傷付いていながらも御美しい微笑みを見せてくれた。

 ちなみに皆の前だから、御姉様の事はユイ様と言っておかないとね。もしメルル辺りにバレでもしたら、絶対にからかわれるもの。


「話がまとまった所で1ついいかの」


 皆が集まってから初めて口を開いた先生の方へ、全員の視線が集まる。

 先生は腕組みしたまま、ざっと皆を一瞥して、首を左右へ振った。


「そなた等、自分達の状態は判っておるな? 目的意識を持って走り回るのもよいが、今しばらくは、ゆっくり養生せい。半病人共の遠足なぞ認めんからの」


 投げ付けられたのは、医者として発せられた注意の言葉。

 私達の有様を見る限り至極尤もな意見ではある。そもそも此処に居る全員を看たのは先生だし、主治医の見解は最大限尊重すべきだと思う。

 でもやっぱり、水を差された感は否めないようで。

 やる気満々だった皆のテンションが、ちょっぴりえたような気がするのは、私だけ?

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