話の36:苦い味、敗北の味(+弐)
「しまらねぇな」
その一言に、来客用の部屋に満ちる空気が、僅かに揺れる。
口を開いたのは、大窓のサッシへ凭れ掛かり、外を見詰めるメルルちゃん。
窓ガラスに吹き付ける雨粒を眺めたまま、彼女は独り言のように呟いた。
「あ〜ら、何が?」
そんなメルルちゃんを目端に置いて、アタシは何の気なしに問い掛ける。
まぁ、あんまり意識はそっちに向いてないけど。
今アタシが1番見てるのは、右手の薬指に続いて小指の爪へ塗り始めた、ピンクのマニキュアだもの。
湿気の所為か、ノリがイマイチねぇ。
「なんもかんもだよ」
彼女は外へ視線を投げた状態で、こっちも見ないで返してくる。
柄にも無く、黄昏てる感じだわぁ。
「やっぱり安物じゃ、これぐらいかしら。値段の割には見れたモンだけど」
あは〜ん、こっちの作業は終了よん。ちょっと粗目だけど、まぁまぁ満足の出来ね。
塗るのに使った専用の刷毛を小瓶に戻し、色素を上乗せたばかりの5爪を目の前へ持ってくる。
滑らかな表面に張られた同色彩の着色爪。この色合いは、思ったほど悪くないわ。
少しの間、親指から小指までを陶酔眺め、それから順々に息を吹き掛けていく。
乾くまで、ちょっと時間が掛かりそうなのはアレだけどねん。
「聞いといて無視かよ」
窓の外を見ているメルルちゃんから、それと判る舌打ちが漏れ出る。
案外、気にするタイプなのよねぇ。
うふふ、放置しておくのも可哀相だし、ちゃーんと話は聞いてあげましょうか。
「大丈夫よぉ〜、耳は貴女の声を拾ってるから」
「……嘘くせぇ」
「やぁねぇ。信じる者は救われる、よ」
爪に息を吹きながら、本格的にメルルちゃんを見てみる。
相変わらずサッシに背中を預けて、顔は降りしきる酸の雨へ向いたまま。
身に付けているのは黒いタンクトップと、青味掛かった男物の袴。右腕はギプスで固定され、頬には湿布、左手にも包帯が巻かれていると。中々に大した重傷ぶりだわね。
結局、無傷でいられたのはアタシと勇魚ちゃん、それから匝雲様だけ。
それでもメルルちゃん達だって、命があるだけずっとマシよ。
「メルルちゃんが何を言いたいのか、判らないでもないわぁ」
「あ?」
「すっかり寂しくなっちゃったものねぇ」
背けられている彼女の横顔へ、率直な感想を放る。
メルルちゃんは窓ガラスを覗いた状態から動かないけど、その静止した様がアタシの言葉を肯定してるわ。
これ以上ない程に。
「…………」
「…………」
アタシもメルルちゃんも、何も言わない。
2人揃って口を閉ざしたなら、アタシ達しか居ない室内に沈黙が訪れるは当然。
そんな中で、窓を叩く雨音だけが不規則に響いている。
自然と人工物の接音が物悲しく聞こえるのは、アタシ達の心が影響しているのかしら。
「……しまらねぇな」
暫しの間を置いて、メルルちゃんが呟く。
窓外へ視線を注ぐまま、幾多の感情を一言に込め。
「そうかもしれないわねぇ」
アタシは自分の爪に目を戻して、1度だけ頷いた。
ピンクの爪が天井からの光を反射して、そこへアタシの顔を映す。
何時も鏡ごしに見ている顔は、珍しく神妙な表情をしていた。
「ヘンリーの旦那にジークの野郎、他の連中も皆、逝っちまった。残ったのはオレ達だけだ」
「ついでに、お姫様は寝たっきりだしね」
「へっ、女神代行守護者も、もう終わりだな」
窓から視線を外して正面へ向き直ったメルルちゃん、その顔に浮かぶのは自嘲の笑み。
何かを諦めた人間特有の、疲れた横顔が見えるわ。
彼女がこんな顔をするなんて、ね。
ふぅ、アタシも人の事は言えないかしら。
「オレ達はよぉ、それなりに強ぇつもりだったんだぜ」
「そうねぇ。並み居るアクトレアや、インフィニートの実動部隊を相手にして、打ち負かせるぐらいには強かったわぁ」
お姫様の下、1つの意志で結託した女神代行守護者は、確かに強かった。
領区へ襲い掛かるアクトレアの群も、何度となく撃退してきたしね。
女神の涙の力もあったろうけど、個々人の覚悟と熱意、そして力がそこへ合わさって、常に勝利を齎してきたのよ。
暗躍するインフィニートの部隊を撃退したのだって、1度や2度じゃないわ。
アタシ達の戦果は、大半が白星だしねん。
「それなのに、たった1人……たった1人を相手にして、全滅だ」
メルルちゃんは苦々しく声を押し出して、厳しさの混じった双眸を対面の壁面へ突き込む。
けれど彼女の目は、壁を見てはいないわ。
彼女が見てるのは恐らく、3日前の自分達。そして3日前に対峙した、あの男でしょう。
マニキュアを塗った爪、そこから繋がる指を順々に動かしながら、アタシも目を瞑る。
少し記憶を遡らせれば、未風化の映像が脳裏に流れ出す。
あの日、3万ものアクトレア群勢を1000人で相手取ったメルルちゃん達は、然したる被害もなく勝利を手に帰ってきた。
アタシは皆の様子を、備え付けのカメラ付属観測装置で見ていたわ。
達成感と勝利の余韻が全員に笑みを付与し、誰もが意気揚々としいた。足取り軽く、胸を張って進む姿は、正しく英雄の凱旋そのものね。
地上に出ている御屋敷の下、クリシナーデの始祖が敷いたナノマシンの群体。直系の子孫であるお姫様が自ら触れて命じれば、極微細の装置達は形成を変化させて地下への路を作ったでしょう。
女神の涙起動の際に構築される、人工衛星へ砲撃用エネルギーを送る照射塔のように。
開かれた通廊を下り、地下に作られた街へ帰還する戦士達。
領区を護り抜いた女神代行守護者は、救街の徒として、歓喜を以って民に迎えられる。
そう。本来ならそうなっていた。そんな未来を、誰一人疑わなかった。
だけど現実は違う。
1500年間、外敵から領区を守ってきたナノマシンが群体たる堅床。その上で、戦闘から戻ってきた一同を出迎えたのは……
回想を中断し、目を開けて自分の指を見る。
5爪に余さず塗られたマニキュアが、それなりに上々の光沢を放っていた。
少し安物っぽいけど、卑下する程じゃない。これはこれで、味があっていいと思うわ。
アタシ1番のお気に入りには、到底敵わないけどね。
やっぱりクリシナーデ製じゃないと、完全にアタシを満足させてくれる色艶は出ないみたいだし。
「相手が悪かった、としか言いようがないわね」
手を下ろして、視線を指から外す。
そのままメルルちゃんを見れば、剣呑な風気を刷いた両目が、今も壁面を睨んでいた。
……あらあら。
どうやらアタシの一言が、彼女の胸中で燻っていた叛意と憤怒の残り火を、不必要に刺激してしまったみたい。
「それで済む話かよ」
溢れようとする感情を押し殺し、彼女は声を絞り出す。
鋭さを増す両の目は、彼女本来の獰猛さを血光として宿らせた。
全身から鬼気が滲み出るようで、危険な衝動の覚醒が、徐々にではあるけれど始まっているのは明らか。
尤も、闘志を漲らせたところで、あの傷じゃ何も出来ないでしょうけど。
でもこっちの方が、メルルちゃんらしいわね。
「面白くないのは判るけど、今はどうしようもないわぁ」
放っておいたら飛び出して行きかねないメルルちゃんを窘めつつ、アタシもつい考えてしまう。
このまま此処に居たら、アタシの美しさに磨きを掛ける為の、最良の化粧品達とは再会出来ないまま。
それって、ちょっと大変だわ。容認出来かねる事態よね。
そう思うと、胸の奥に報復の火が灯るのを自覚してしまう。けれどそれは、胸の内で揺らすだけ。
我が身を焦がす愚は、おいそれと犯さなくってよ。
「チッ……わぁってんだよ」
メルルちゃんは絶対安静を言い渡された自分の右腕を見て、目を閉じた。
奥歯を強く噛み合わせたような顔で、また窓の方を向いてしまう。
何だかんだで彼女、感情的ではあるけど、そこまで馬鹿じゃないのよね。だから、自分の状態も正確に判断出来ないまま、無茶な真似はしない筈だわ。
多分。
「クソが……」
降り続く雨を見詰めるメルルちゃん。口から零れたのは、偽らざる苦悔の念。
それが誰に対してのものかは判らない。けれどそこに乗る思いは1つ。
彼女は比較的無事な左手を拳に変えて、背中置くサッシを打った。
乾いた金属音が、継続的な雨音に混じる。
「雨、止まないわねぇ」
アタシも窓の外へ視線を送る。
水滴の向こうに見える世界は、まだ暗い。