話の35:苦い味、敗北の味(+1)
「うっ、くぅ……うぅ」
「ユイ様……」
質素だが気品あるベッドの上に寝かされたユイは、苦悶の呻きを上げている。
彼女の額から流れ落ちる汗の粒を、ベッドの傍らに座るライナが心配そうに拭う。
瞼を閉じて苦痛に喘ぐクリシナーデの姫君。その看病に従事する少女の顔は暗い。
肉体的な疲労と心労によってヤツレた様は、見ているこちらが辛くなる程。
「ライナ、少しは休んだ方がいいわ。ユイは私が見てるから」
「……ありがとう、勇魚。でも、いいの」
私の申し出に、ライナは憔悴しきった顔で弱々しく微笑み、首を左右へ振る。
緩やかだが頑とした拒否。
彼女のユイへ対する忠誠は本物だ。だから何が何でも此処を動かないだろう。例え自分が倒れる事になっても。
「ユイ様が目を覚まされるまでは心配で」
覇気も快活さも欠いたライナの声は、重い。
それも当然か。
ベッドに横たわる紫髪の女性を見れば、その無惨な姿に目を逸らしたくなるもの。
水色のシンプルなパジャマに着替えさせられているけれど、服の下は包帯で覆い尽されている。しかも本来白い筈の布地は、殆どが赤く血で滲み、傷の深さと多さを容易に教えてきた。
全身と同様に首にも、そして顔の右半分にも巻かれた包帯。今の彼女は、健全な部分を探す方が難しいぐらいだ。
中でも特に目を引くのは、消えてしまった左腕。肩から指先まで全てが失われ、左の袖内は空白。
命に関わるほどの重傷を負い、ユイはこの3日間、意識を失ったまま悶え続けている。
あまりの酷さに、語る言葉も見付からない。
彼女の魂の灯は、小さく脆くも儚く、今にも消えてしまいそうで。ライナが一時とて傍を離れようとしないのも判る。
「匝雲先生は大丈夫だって言ってたよ。だから信じよう?」
「……そうね」
気休めにしか聞こえない、か。
こんなユイを目の当たりしたら、とても安心なんて出来ないから、無理もないよね。
「うぅ……ごめんなさい……ヘンリー、ジーク……皆、うっ……ごめんな、さい……」
「可哀相に。ずっと魘されてるわね」
「ユイ様、頑張って下さい。……兄さん、どうかユイ様を護って」
苦しみもがくユイを前に、ライナは右手に嵌めた黄金の腕輪を、手首毎握る。
悲しみ、怒り、口惜しさ、幾つもの感情が鬩ぎ合う顔は懊悩の色に染まり、彼女の胸中を私に感じさせた。
変色するほど強く下唇を噛んでいる事に、少女自身は気付いているだろうか。
「ライナ……」
「私は平気。だから気にしないで」
残された右腕でシーツを握り締める、苦渋に満ちたユイの顔をタオルで拭きながら、ライナは声だけで応じる。
けれど本人の言葉とは裏腹に、とても大丈夫そうじゃない。
ユイの看病に集中するあまり、この3日間ろくに寝てないし、食べてないもの。体は限界の筈。
それに精神的な問題もある。
あの腕輪はライナのお兄さん、ジークムントさんの形見。実のお兄さんを亡くして、彼女の心はどんなに傷付いているか。
なのに、私の前では一度だって涙を見せない。気丈に振舞ってるけど、無理をしてるのは誰の目にも明らかだわ。
襲い来る感情の波に耐えようとする姿は、堪らなく痛々しい。
彼女が苦しんでいるのは判っている。判っていながら、何も出来ない自分がもどかしい。
「……勇魚、水を代えてきてくれる?」
ライナに呼ばれて我に返る。
幸い、彼女はユイへ視線を固定したまま意識もそちらへ傾けているから、私の様子にまで気を割いていない。
きっと言葉に出来ない複雑な表情をしていただろうから、もしも見られていたら、余計に彼女へ気を遣わせてしまうだろう。
これ以上、18歳の女の子に要らぬ気苦労はさせたくない。それが不発に終わって、小さな安堵が胸に生まれた。
「あ、うん。判った」
無数の感情が入り混じる混沌とした胸中を気取られぬよう、努めて平静を維持して返事をする。
それから彼女の横脇に置かれた洗面器を持って、部屋の出口へ。
私が扉の前に立ったら、センサー感知したドアが自動でスライドし、外への道を開けてくれた。
内外の境目を踏み越え外に出ると、またしても自動で扉が閉まる。
「はぁ……」
対衝撃及び防音性の金属扉へ背を向けて、胸に篭った息を吐き出す。
そしたら自分でも驚くくらい、色褪せた声が出た。
私も疲れてるんだろう。
「何だか、大変な事になっちゃってるなぁ」
誰にともなく独りごちて、私は洗面器を抱えて廊下を進む。
夕暮れを意識したような照明の下、近くにある手洗い場を目指して。
思い返せば、ユイに出会ってからというもの、いいえ、その前からも驚く事の連続だった。
あまりに多くの事が立て続けに起こるものだから、何に驚けばいいのか判らないぐらい。
ユイの屋敷で彼女と別れた後、私はライナや女神代行守護者の専属医である匝雲先生から、色々な事を教えてもらった。
始まりは、今が月聖暦1531年だという話から。
これを西暦に直すと、3636年になるらしい。つまり私が生活していた西暦2105年から、1500年以上も後の時代になる。
信じられない事に、私は15世紀もの時間を越えて、遥かな未来世界へ来てしまっていた。
何故?
最初は誰かの魔法じゃないか、なんて予想も立てはしたけど、直ぐにその考えは捨てたわ。
魔力で時間に干渉するなんて、どれだけ大量の魔力と、それを制御するだけの能力が必要になるか。
御祖母ちゃん級の魔導法士が何百人集まったって、まだ足りない。全然及ばない。
それ程の魔導法士が一堂に会して、私を未来に送る? そんな事、在り得ないじゃない。だからこんな予想は却下。
寧ろ魔法より、科学の方が可能性としては高いように思う。
でも私、そっちは門外漢だし……
結局、考えるのは止めた。私がどんなに頭を捻っても、答えには到底辿り着けないだろうから。
これだけでもかなりショッキングなのに、2人の話は更に私を驚かせた。
月が、私の知っている姿じゃなくなっていたから。
空は赤いし、呼吸は出来るし、雨も降るし(酸性雨だけど)、重力はルナ・パレスの中、つまり地球と同じぐらいだし、そのうえ月面上には遺跡の異形が跋扈してるし。
しかもルナ・パレスはとっくの昔に無くなってて、代わりに地下深くに埋もれていた月の遺跡が天高く聳え立ってるときたら。
私の記憶とあまりに違いすぎて、もう異世界よ。
それでも人は生きている。月の上で暮らしてる。
かつて月政府を運営していた6大企業が、ルナ・パレスの崩壊に際して造り上げた新たな都。それが5つの領区と1つの要塞。
各領区には創設企業の名前が冠せられている。漸く知った名前と出会えたけれど、企業はもう無くて、名前だけが残ってるだけだって。
唯一、インフィニートを除いて。
ライナと匝雲先生の話を聞いて、今の月が私の時代と比べ物にならないぐらい厳しい状況にある事も知った。
神秘のヴェールに包まれたインフィニートの暗躍も、その1つ。
だけどもっと身近で、そして恐ろしい存在が居る。
それがアクトレアだ。
月の変化と共に遺跡から溢れ出したアクトレアは、謂われなく人類に牙を剥き、終わりない襲撃を繰り返してきたという。
月での1500年間、それは人類にとってアクトレアとの戦いの歴史だったと。
度重なる異形群の攻撃は、苛烈で執拗で容赦がなくて、施設や機器や人員を悉く奪い、人類が育て上げた技術力を少しずつ削いでいったらしい。
その結果、文明レベルは後退して、私の時代に使われていた機器や装置は殆ど作り出せないんだって。当時の機械やら設備は、今じゃ過去の遺物だとか遺産だとか呼ばれてるぐらいよ。
だけど、魔法は比較的主流になってるみたい。
医療方面はその傾向が特に顕著で、医療関係者の凡そ8割は魔導法士という。
時代の流れっていうのを、なんだかしみじみと感じちゃう。
御祖母ちゃんがこの事を知ったら、何て言うのかな?
そんな中で私が1番驚いた、ていうよりショックだったのが、地球の事だ。
ルナ・パレスを破壊して月の遺跡が地上に現れた時、月では大きな変異が起きた。そしてそれは地球にも多大な影響を与えてしまう。
元々月の満ち欠けで潮の流れが変わったり、地球には色々と変化が出ていた。それが月の激変で、互いの重力関係にも狂いが生じ、地球では天変地異と呼べる大災害が巻き起こったと。
大津波、地殻変動、火山の噴火、大地震、ハリケーンや暴風雨、あらゆる自然災害が惑星中で荒れ狂い、何もかもを蹂躙した。
世界の都市は成す術も無く崩壊し、その最中、各国が保有する兵器類が相次いで暴走・暴発・破壊・起動……
核兵器も例外じゃなく、地球にあった核は次々と誘爆して、全てを呑み込み消し飛ばしてしまう。
それで終わり。
地球上の全生命体は余さず死に絶え、自然は完全に消滅し、地の底までも汚染され、美しかった青い星は、黒い死の星と化した。
今も空を見上げれば、高き宙天にかつての母星が成れの果て、暗色の骸を確認出来る。
これによって、月に残っている私達が最後の人類になってしまった。
この話を聞かされた時は、スケールが大きすぎて実感が湧かなかったっけ。
まるで夏の陽射しで揺れる陽炎みたいな、あやふやで不確かな感じだけがしてた。
でも空を見れば黒い星は確かにあって、ルナ・パレスの展望台から見えた青い星は何処にもない。
そしてこれが現実だと、否が応でも理解させられる。
私は本当に、1500年も未来に居るのだと。
御祖母ちゃんも、リーラも、月都防衛軍の同僚達も、上司も、近所の人も、昔からの友達も、もう誰も居ない遥かな未来。
私だけが、違う時代の人間。
寂しいというより、悲しいというより……空しい。
心にポッカリと、穴が開いてしまったような。
埋め難い空虚が、体の奥にあるような。
そんな感じ。
「あ、勇者様」
「あら、エリッ君」
手洗い場へ行こうと廊下を進む途中で、曲がり角から出て来たエリッ君と鉢合わせた。
彼の今の格好は、白い半袖シャツと紺色の半ズボン。涼しげ且つ軽やかな、少年らしいスタイルだ。
でも艶やかな黒髪の間から、額に巻かれた包帯が見えて。右脚も少し引き摺ってる様子だし。
そんな姿を目の当たりにして、心がざわめく。複雑な気分にもなる。
リーラと同い年ぐらいの子が、危地を潜った末に手傷を負った様は、私の心に言い知れぬ不安と悲しみを芽吹かせて、不快感と反意の根を急速に張っていく。
「あの、ど、どうかしたんですか?」
人馴れしていない子犬みたいに怯えつつ、可愛らしい男の子は問うてきた。
少しばかり腰が引けてるし。
……私、そんなに怖い顔してたかな?
「ううん、なんでもないわ」
「そ、そうですか。なら、よかった」
否定の形に首を振ると、彼は肩から力を抜いて安堵の息を吐く。
本当に緊張していたみたい。わざわざ自分の胸に手を当てて、1、2度と深呼吸までしてるもの。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です、はい」
小さな質問にも、全力で頭を下げるエリッ君。
本人は大真面目なんだろうけど、的外れな頑張りようが微笑を誘う。
やっぱり、相当緊張してるみたいね。
「そんなに気を張らなくてもいいわよ。それに私の事は、勇魚でいいから」
洗面器を抱えたまま、私は出来るだけ優しく笑いかける。
この子が矢鱈と肩に力を入れちゃうのは性分もあるんだろうけど、私の事を勇者だなんだって意識してるのも原因だと思う訳で。
彼に限らず、何でかクリシナーデ領区の人は、皆して私を勇者って呼ぶのよね。理由を聞いても『ユイ様が、そう言ったから』って、返してくるだけ。
勇者呼びの第一人者に話を聞こうにも、今は意識がないし。
結局、会った人に直接、呼称の改正を申請するしかないんだな。
「は、はい……じゃなくて、わ、判ったよ。い、勇魚、さん」
エリッ君は私の申し出を受領して、ちゃんと言い換えてくれる。
言葉も砕けた感じになったし、その甲斐あってか、緊張も随分と和らいだようだ。
ぎこちなかった表情も、年相応の柔らかさを見せてくれた。
「うん、よろしい」
彼の素直な態度に、私も自然な笑みで頷き返す。
まずは、お互いの間にあった薄壁の破壊、成功かな。
ちなみにエリッ君っていう呼び方は、私なりの親愛の表れよ。エリック君だから略してエリッ君!
……リーラの癖がうつったかも。
「それで、あの、勇魚さん」
「ん? なに?」
浮かべたばかりの笑顔を心配そうなものに変えて、エリッ君がおずおずと聞いてくる。
う〜ん、飼い主のご機嫌を窺う子犬みたいだわぁ。心細そうな表情が、余計に愛くるしさを掻き立ててる感じ。
有無を言わさず、ギュ〜って、抱き締めたくなっちゃう。
「ユイ様の御様子は、どう? げ、元気になりました?」
「残念だけど、意識はまだ戻らないわ。でも安心して。ライナが付きっきりで看病してるから」
とは言うもの、私としてはライナの方もかなり心配なんだけど。
でもここは、エリッ君を不安がらせちゃ駄目よね。下手に期待させすぎてもいけないけど、多少の情報改竄は方便の筈。
「そ、そうなんだ……早く元気になられる事を願って、千羽鶴を折ろうかな」
エリッ君が俯きながら作るのは、真剣な思案顔。
考えてる事が口から漏れてるけど、本人は気付いてないみたい。
それにしても千羽鶴かぁ。懐かしいな。1000年以上経っても、残ってるんだね。
私も昔、お母さんが倒れた時に一生懸命折ったっけ。
……完成する前に、お母さんは死んじゃったけど。
「ユイの為に千羽鶴ね。エリッ君は、本当にユイの事が好きなんだ」
「え? え、えぇ!? はわ、はわわわわ……そ、そんな! す、すす、好きだなんてぇ〜!」
うっわー、耳まで真っ赤にしちゃって。しかも凄いうろたえよう。
純情というか、なんというか……ちょっと面白いけどね。
ま、からかうのも可哀相だから止めてあげましょ。
「別にそんな慌てなくていいんじゃない? 私もユイは好きよ。真っ直ぐで、努力家で、案外可愛いとこあるし」
「はわわわわわ〜、そ、そういう意味だったの……えと、ボ、ボクも、ユイ様は、その、す、好き……うん」
エリッ君てば、顔は赤いまま俯いて、左右の人差し指を突き合わせてる。
綺麗な長い髪といい、女の子っぽくも見える顔といい、ナヨナヨしい雰囲気といい、仕草の1つ1つといい、全部ひっくるめたら、もう立派な乙女よね。
う〜ん、それにしたってエリッ君とかタレスちゃんとか赤巴君とか、女神代行守護者って、女みたいな男ばっかり目に付くんだけど。
まさかユイの趣味? な訳じゃないだろうけどさ。類は友を呼ぶってヤツかしら。ちょっと違う気もするけど。
「その、ボク、ユイ様にはとっても大きな御恩があって。だから、絶対に良くなって欲しくて、それで……」
「千羽鶴なんだ?」
「うん」
俯きかげんのエリッ君は、それでも力強く頷いた。
本気の本心だという事が、目に宿る光からも判る。
彼にとってユイは、それだけ大事なんでしょうね。
ライナといいエリッ君といい、ユイは沢山の人に物凄く慕われてるわ。人々から絶大な信奉を得るだけの理由も色々だろうけど、その全てが彼女自身のたゆまぬ努力の結果なんだ。
そう考えたら、ユイはやっぱり凄い女性だと思うよ。
「ボク、本当は、比島領区の出身なんだ」
「え、そうだったの?私はてっきり、クリシナーデの人だとばっかり思ってた」
これは初耳。とわいえ私の場合、見聞きする事物の大部分が初めてなんだけどね。
そもそも比島領区がどんな所かも知らないし。
「えと、色々あって、父上と2人で出てきたの。それで、別の街を目指してて。でも途中で、アクトレアに襲われて。父上はボクを逃がしてくれたけど、その所為で……」
エリッ君は面上に悲しみを湛え、瞳を潤ませながら切々と語る。
10代半ば程度の若さながら、随分と辛い経験をしてきたみたい。
昔の事を思い出しているんだろう、肉付きの薄い小柄な体が、小動物みたく小刻みに震えてる。
「その後、何とかクリシナーデ領区まで辿り着けたんだけど、ボクは知り合いも居ないし、お金もないし。お腹も空いてて、ボロボロで、疲れてて。……そんな時、ユイ様と出会ったんだ」
ユイの名前が出てきた所で、彼の震えも治まり始めた。
精神的な余裕を回復したのは明白。彼女との思い出は、エリッ君に並々ならぬ活力を与えているようだ。
「ユイ様は、身寄りも、住む所もないボクを、御自分の御屋敷に招き入れてくれて。温かい御飯を御馳走してくれて、柔らかい布団で寝かせてくれて。それからも、ボクを御屋敷に住まわせてくれたんだ」
私よりも若い少年の、澄んだ双眸は、大切な宝物を眺める時みたいにキラキラと輝いている。
顔にも幸福感が覗き、当時の記憶がどれほど大切なのかが窺い知れた。
「ユイ様はボクを、弟みたいに可愛がってくれて。ボクも、ユイ様の事を姉上みたいに思ってたから、だから、少しでも御役に立ちたくて」
「女神代行守護者に加わった、と」
「うん」
煌く幸せの欠片を表情に残して、エリッ君は首を縦に振る。
ユイの優しさが彼の心へ齎したものは、余人に想像がつかない程の価値と意味を持ってるみたいね。
それがエリッ君の原動力か。
「でも、それなのに、ボクは、ユイ様の御力になれなかった」
明るさ一転、エリッ君は死人の如き暗〜い顔になってしまう。
今回の事件が、相当堪えてるみたいね。
無理ないかな。
ユイに恩返しがしたくて女神代行守護者へ加わったのに、肝心な所で役に立てなかったんだから。
しかも助けるどころか逆に助けられたとあっては、プライドも自信も揃って、申し訳なさに潰されちゃうよ。
エリッ君、さぞや悔しい事でしょう。固く握られた拳が、秘めた心境を代弁してるわ。
でも、このままじゃ駄目よね。
「済んじゃった事を何時までも引き摺って、クヨクヨしないの。男の子でしょ? 下ばっかり見てないで前を向きなさい」
しょぼくれて縮こまってるエリッ君を、放ってはおけないじゃない。
皆揃ってドンヨリしてても始まらないし、早く元気を出してもらわなかきゃ。
「ほら、顔を上げる上げる。下向いてたら、考え方まで下向きになっちゃうよ。君が笑ってなきゃ、ユイだって喜ばないんだから」
「勇魚さん……」
ユイの名前が効いたのか、伏せ目がちだったエリッ君が、私の方へ顔を向けてきた。
瞳の奥に見える光は、決意のそれ。
「うん、そうだね。ボクが沈んでちゃ、いけないよね? ……ボク、前向きになるよ」
まだ満開とはいかないけど、それでもさっきよりは随分とマシな表情になってる。
元気になってくれたみたいで良かった。
やっぱりこの子は、笑ってる方が可愛いわよね。……男の子に可愛いは褒め言葉じゃないかな?
「それでよろしい」
私も笑顔で頷くと、彼の顔はまた柔らかく緩む。
これなら大丈夫そうだ。もう人前では、簡単に落ち込む姿は見せないんじゃないかしら。
彼の目が、そう言ってるもの。
「それじゃ、水を換えてきたら、私も千羽鶴作るの手伝ってあげる」
「ほんと?」
私の申し出に、エリッ君は意外そうな顔をする。
「勿論よ。お姉さんに二言はないわ」
「わぁ、ありがとう、勇魚さん」
軽く胸を叩く私を見て、彼の面に嬉しそうな笑みが浮かんだ。
出来る事なら曇らせたくない。そう思わせる朗らかな笑顔。
ユイがこの子を可愛がってたのも、判る気がする。
「そうと決まれば、早いところ行きましょう」
「うん」
エリッ君を伴って、移動再開よ。
何だかんだでユイとライナも心配だから、匝雲先生に様子を看てくれるよう、後で頼んでおこう。