話の33:女神の剣はかく語りき(1)
「姫、もう宜しいので?」
勇者殿に宛がわれた寝所の外。檜造の廊下に佇んでいたジョヴィニエル卿が、部屋より出て来たユイ様へ問い掛ける。
屈強にして雄々しき老勇士の平板な顔へ、我等が主君は頷きで応じると黙して歩を進めた。
優美な紫髪を微かに揺らし、ユイ様が僕達の前を通り過ぎる。隙なき所作の歩が眼前を過ぎった後、仄かな芳香が感じられた。
嗅覚を優しく刺激する心地良い香り。それは彼女が好んで附ける春花の香水だ。
降り落ちた粉雪のように、少し離れてしまうと名残も無い花香。その消失を以って、僕達は静やかに進む主君の後へ続く。
今から1000年以上前、第1級の腕前を誇る建築者によって造られた屋敷。天然の木材をふんだんに用いて構築された『和』の世界。
内部に走る廊下は艶掛かった木目を延々と伸ばし、踏み行く者の足音に柔らかな温弾の音を乗せた。
軋むのではなく、足と床の接点が僅かに撓む事で生み出される柔音。耳に心地良い一定の旋律を受けながら、僕達3人は屋敷の外を目指し歩き続ける。
前後に長き廊下は片側が吹き放しになっており、無壁の先に美しい庭園を広げた。
等間隔に配された木々と、涼しげな緑の敷かれた庭地。中には橋で繋がった石囲みの池が連なり、色とりどりの錦鯉が泳いでいる。
穏やか時間がゆっくりと流れているような此処は、平時ならゆるりと見歩きたい所。
しかし今は急時。鮮やかな景観を楽しむ余裕はない。
「して、状況は?」
「彼の者共は総数にして凡そ3万。街都の対面原に集結し、こちらへと行軍している模様に御座います」
僕等の前を行くユイ様の言葉が問いに、ジョヴィニエル卿は落ち着いた声で返す。
表情も普段のまま。無頼の様相は苦渋はおろか、冷や汗の一滴すら表していない。
状況としては数的にこちらが不利。それも圧倒的に。脆弱な兵なら恐慌を起こしかねない事実、現状。
だが、それを前にしても、彼の強靭な精神は揺るがないようだ。
流石はクリシナーデ領区最強の名を冠する剣聖、ヘンリー・ジョヴィニエル殿。女神代行守護者の侍大将は伊達でない。
余人の追随を許さぬ強固にして堅固な気概、是非とも学びたいもの。
「やはり、かなりの数が集まっていますね」
「一月あまり、産卵期を見誤っておりました。申し訳も御座いません」
「ヘンリー、貴方が気に病む事はありませんよ。策に窮していたとは言え、ロシェティック残党の進言を重用した、私の失態です。責任は全て私に」
言葉を交わし進む最中、ユイ様は白上衣の衿合わせより懐へ手を差し込み、長い白襷を取り出す。
その一端を銜え、手にした片端を背中から回して右肩に巻いた。それが終わると襷を再度背中へ通し、背面で十文字に交えてから、口放した白端を用いて左肩で結ぶ。
上装束の両袖が襷で留められると、次は僕の出番だ。
歩調を速めて宗主の隣へ並び、預かり用意していた装具一式を差し出す。
「姫は彼奴等の義を信じたのですから、落ち度はありませぬ。真に悪しきは、古の盟約を破り、インフィニートの狗に成り下がったロシェティック共」
「彼等も必死だったのでしょう。領区を潰された以上、放逐された民は異形の餌となるが定め。それを防ぐ為にも、インフィニートの軍門に降らぜる負えなかったのです」
歩きながらも、ジョヴィニエル卿とユイ様の会話は続く。
そうして喋りつつ、宗主は僕の手から朱色の胸当てを取り、自らへ身に付けていった。
僕の役目は主君出陣の折、必要な武装を用意して受け渡す事。侍大将と宗主の会話に口を挟む事ではない。
「しかし、その為に彼奴等が我等を陥れたのは事実。決して許す訳にはいきませぬ」
「私達を敵に回せばどうなるか。内外に知らしめる意味でも、然るべき制裁を加えるべき……と?」
「恐れながら愚考する次第です」
宗主の後を付き行くジョヴィニエル卿は、表情を変える事なく頷いた。
彼は、この年若くも美しい我等が主君に、誰よりも強い忠誠を誓っている。それは即ち、彼女が護ろうとする物に対しても、絶対の守護を宣誓しているという事。
在るべき物を護る為なら強行な手段に出る事も辞さない。そしてそれを進言する事も同様に。
いや。宗主に意見出来るのは彼個人の特権か。
何せジョヴィニエル卿は、先々代の頃よりクリシナーデ一門に仕える忠臣だ。
先代の側近を務め、ユイ様が幼少の頃より傍近くで護ってきた存在。先代が亡くなられた後は、まだ若い宗主を立て、彼女を主と仰ぎ第1の忠誠を示してきた。
幼く未熟な宗主を前に、いらぬ野心を抱いた輩を、人知れず始末してきたのも彼。
家臣団の中で宗主が最も信頼しているのも、恐らくはジョヴィニエル卿だろう。
「……確かに、その必要性はあるかもしれませんね。しかし今は、目前の脅威を払うが先」
ユイ様は僕が両手に乗せて捧げ出す刀を2本、左右の手へそれぞれ掴み取る。
朱塗りの鞘に収まった、先祖伝来の名刀達。
慣れた手付きで腰帯の両脇へ持刀を差し込み、更に2本を僕の手から持っていく。それもまた同様に腰へと差し、総計4本の刀を得て、宗主の準備は完了した。
最後に残った紅の鉢巻をユイ様が手にして事で、僕の役目も終わり。歩速を落として引き下がり、ジョヴィニエル卿の斜め後ろから2人へ続く。
「この一戦、何があっても勝利します。我等が街を、そして民を護る為に」
手にする鉢巻を額に巻いて、ユイ様は力強く宣言した。
クリシナーデ領区の宗主にして、女神代行守護者の頂点。麗しき女神の再来と呼び讃えられる、我等が唯一無二の戦姫。
彼女の声と気迫には、抗い難い魅力、戦意を高揚させる力、恐怖を払拭する安心感、全てが宿っている。
主君の為に命を賭す事を厭わない。そう思わせる名将とは、この主上が如くを言うのだろうか。
「御意」
ユイ様の澄んだ令声に、ジョヴィニエル卿共々、僕も頭を下げる。
顔を映す程に磨き上げられた廊下を進み、1つの角を西側に曲がった時。予期せぬ待ち人の存在によって、僕達の歩は止められた。
無地の白装束に身を包み、片側の有壁へ半身を預けるように立っていた人物。
緑髪の下に勝気な面貌をする少女。それは僕も良く知る顔。女神代行守護者の一員、ライナ・ダートルーナだ。
しかし何故彼女が此処に?確かまだ療養中だった筈。
それが証拠に、見れば着物の袖から覗く腕には両方とも包帯が巻かれ、裾から出る素足にも同様の包帯が確認出来た。
恐らく全身が、まだ包帯塗れだろう。顔色も悪いし、立っているだけで辛そうだ。
だというのに、彼女は此処で僕達が来るのを待っていたのか。……正確には、ユイ様が来るのを。
「ライナ、どうしたのですか?」
本当なら先生の下で休んでいる筈の少女を見て、ユイ様が若干驚きを顔にする。
一方のジョヴィニエル卿はと言えば、無感の表情を不動にし、例の如く揺るがない。
問われた側のライナは、壁に片手を付いたまま半歩踏み出し、血の気の薄い顔で宗主へと頭を下げた。
「ユイ様、今は1兵でも多くの兵が必要な時。何卒、私も御連れ下さい」
何を言うかと思えば、こんな状態でありながら自らの出陣要請とは。
見上げた戦意だが、どう見ても体が伴っていない。今立っているのだって、残る気力を振り絞っての事だろう。本当に無茶をする。
尤も彼女の性格を考えるなら、1時間後に寿命が尽きると言われていても戦おうとするだろうが。
「ライナ」
「はい」
驚きを引かせ神妙な面持ちとなって、ユイ様がライナを呼ぶ。
見るからに不健全なボロボロの少女は、それでも活力を失わない瞳と声で宗主に応じた。
「貴女は先の作戦で私の命令を無視し、独走の末に今の姿となりました。結果として目的は達成出来ましたが、貴女は負わなくてよい怪我をし、戦力の低下を自ら招いた。そうですね」
「……はい」
「その上、今度は半死半生の体で戦場に立ち、私達の足を引っ張るつもりですか?」
「いえ……そのような……」
宝石の様な双眸に絶対零度の凍気を宿し、ユイ様はライナを見据える。
形の良い唇から投げられるのは、彼女の浅はかさ、愚かさを容赦なく叩く厳声。そこには微塵の慈悲もなく、成人前の女戦士に反論の余地はない。
容赦ない糾弾を前に、ライナは視線を落として唇を噛む。小刻みに肩を震わせて。
「ならば大人しく寝ていなさい。今の貴女は何の役にも立たない。戦えない戦士に用はありません。いいですね」
「……は、い……申し訳、ありません」
ユイ様が冷たく言い放つと、18歳の少女は俯いたまま力無く頷いた。
普段の熱血ぶりはすっかりナリを潜め、飼い主に叱られた子犬のように縮こまっている。
今の姿を見て、ライナを憐れだと思わなくもないが、宗主の言葉は正しい。
こんな状態で戦線に立たれても、邪魔にこそなれ助けにはならない。精神力や闘志だけでは覆せぬ事も多いのが現実。彼女の申し出は何も考えていない、馬鹿な発言でしかないというのが本当の所だ。
血が抜けすぎて思考力が低下しているのか。汚名返上の機会を熱望したが故か。或いは溢れる愛国と忠義の信念に基いた行動か。
何にせよ、ユイ様はそれが愚かな考えだと、はっきりと教えてやったに過ぎない。
その甲斐あってか、ライナはすっかり意気消沈している。頭もこれで冷えたろう。
「無駄な時間を使いました。先を急ぎましょう」
もう興味を失くしたように、ユイ様はライナを無視して歩みを再開した。
その後ろに従うのはジョヴィニエル卿と僕。勿論、ライナは付いてこようなどしない。
しかし僕は聞いた。我等が主君が負傷兵となった少女の横を通り過ぎる時、小さく零した温かな本音を。
「本当に、ゆっくり休んで」
片目を失ってから、僕は前より耳が良くなった。失くした視力の分を補おうと、聴力が成長したのかもしれない。
この世界で生き抜く為に、少しでも生存確率を上げようと肉体が進化したのかも。
本当の所は判らない。だが、その所為で聞こえてしまった。聞く事が出来た。
ユイ様がライナだけに送った本心を。
「……」
これに少女は応えない。
黙して顔を伏せ、宗主と第1の家臣が隣を抜けていくのを静かに送った。
そして次は僕がライナの側方へ差し掛かった時。
「赤巴」
彼女に呼び止められた。
僕は前を向いたまま、ライナの隣に独り立つ。
「ユイ様を、護って」
相変わらず視線は床へ落ち、顔を上げる様子もない。
そんな中、彼女の懇願は小声ながら明瞭に聞こえてきた。
「……言われるまでもない」
僕はそれだけ言い残し、再び歩き始める。
少しだけ歩速を上げて、少し遠のいた宗主達に追い付こうと。
後に残るライナは何も言わないし、こちらを見もしない。それは僕も同様で、それ以上何も言わないし、振り返る事も無い。
僕達は互いに背を向けて、着実に距離を開けて行った。
長い廊下を踏み進んだ先で、僕達は屋敷の入り口たる大玄関に辿り着いた。
豪奢ではないが、老舗の旅館めいた設えの広間。大きく開けた其処は、大樹の幹を思わせる造形柱に支えられ、内外の境目として機能的な造りにある。
廊下から続く檜床が1段低くなった三和土には、僕が事前に用意しておいた3足の履物が並ぶ。
豊かな艶を持つ黒革のブーツと、脛まで覆う鋼製のナイトブーツ、そして何の変哲もない一般的なスニーカー。
最初にユイ様が白足袋の穿かれた足を黒革ブーツへ入れ、次にジョヴィニエル卿がナイトブーツを装着していく。
2人が足の準備を整え終えた後、僕は自分のスニーカーへ足を通した。
この中では間違いなく1番の安物だけど、僕に不満はない。動き易く、そこそこ丈夫ならそれでいい。
全員が履き終えたのと同じタイミングで、先頭に立つユイ様が扉を開ける。
屋敷と外界を隔てるのは、スライド式の木戸。板と板の合わせ目に嵌められた厚く頑丈な硝子が、外からの光を捻じ曲げて、鈍い色彩を玄関内に届けていた。
宗主の手によって扉が動き、開かれた道から僕達は外へと向かう。扉を閉めるのは、最後尾に付く僕の役目だ。
今来た道を振り返り、開け放たれた扉を引き戻す。滑らかな横動を経て、木製の玄関扉が元の位置へ。
開閉が済んだ扉より視線を逸らし、先行く2人の側へ向き直れば、雄大な空が視界に入る。
永久に失われた右目に代わり、左の瞳へ映る空。
それは炎の様に激しく燃え立つ灼熱の色。何処までも広がる赤化の天空。
1500年前の大異変によって、激変した月の環境が最たるもの。
今から数える事15世紀も前、月の空は今と違う色だった。かつての月空に色はなく、暗い宇宙がそのまま覗いていたという。
違っていたのは空だけじゃない。酸素も、水も、生命もなく、荒涼とした大地が延々と広がる死の星だったとか。
それが伝説の大異変によって一変、現在の姿に変わったと伝えられる。
赤い空。
満ち満ちる大気。
時折降り注ぐ酸の雨。
抉れたクレーターに出来た猛毒の湖。
我が物顔で地を這う異形群。
1500年前とは、大きく様相を違えているだろう世界。
此処から望む遥かな彼方には、大異変による月の変化が象徴、そして異変の発端となったモノが見晴らさす。
赤天を突かんと屹立する異形の黒塔。
高すぎる登頂は目視が出来ず、その巨大さは他に比肩する物がない。なにせ、此処からあの塔までは何百kmと離れているのに、それでも尚巨大に、全容が克明に見える程なのだから。
外壁は肉感的な謎の材質で出来ており、微妙に動いているのが判る。塔全体には木の根のような、或いは血管のような管が無数に走り、不規則に脈打っている。
過去の時代、アレは地の底に沈んでいたらしい。しかし件の大異変によって月面上へと迫り上がり、天高く聳え立った。
月の地下に眠っていた、正体不明の巨大遺跡。それがあの塔。規格外の超構造物。
古い言い伝えでは、かつて月へ入植した人類、最初にして最大の建造都市『本物の』ルナ・パレスが、あの根元に存在していたとか。
地下遺跡が隆起・突出した際に破壊されてしまったが、其処こそが今現在人類の住まうルナ・パレス6属区、その基盤たる始まりの地なのだと。
クリシナーデ領区。
オーベール領区。
比島領区。
ガレナック領区。
ロシェティック領区。
そして月面要塞インフィニート。
これらは全て、遠き昔ルナ・パレスに存在した6つの大企業が、崩壊する都市から逃れた末に造り上げたという。
各領区の始まりは、変動する月の環境から民を護り、また自社の技術と財産を護る為に造った城砦。
その時、企業同士が手を取り合ったかどうかは定かでない。ただ、インフィニートだけは独自の力で居城を築いたらしい。
1500年前の大異変には、インフィニートが大きく関わっていたという話だ。それ故に月住人類から目の敵にされていたとか。
それが嘘やデマカセでないのは、今の姿を見ても明らか。
あそこだけは他領区と交流を持たず、密やかに暗躍してきた。
遂にはガレナック、ロシェティック両領区を攻め滅ぼし、両陣営が持っていた全てを力尽くで強奪している。
その行動は留まる所を知らず、危険さを増すばかり。
「おお、姫!」
耳朶を打つ男の大声に、僕の意識は現実へ引き戻された。
頭の中で巡らしていた思考の検網が解け、広大な世界から体前の空間へと焦点が移動する。
前方にはユイ様とジョヴィニエル卿が立ち、その周囲へ複数の人間が集まっていた。
皆が思い思いの格好をしているが、全員に共通して着衣の何処かに、女神代行守護者のエンブレムが刻んである。
即ち、此処に居る全員が同志という事だ。
そんな一団の中に、陽気なアロハシャツを着て、桃色の髪を滅茶苦茶に逆立てる男が1人。
年は20代半ば、180cm近くあり、鋼線を捩り合わせたが如き筋肉の、見事に引き締まった体を持つ。
熱帯の野獣を想起させる逞しくも荒々しい顔へ、野性味溢れる快活な笑顔を浮かべた人物。
彼が先程の声の主。ジークムント・ダートルーナ。通称ジーク。
先刻、屋敷内で言葉を交わしたライナの兄だ。
「今回の戦も、姫自ら御出陣で?」
「勿論です。クリシナーデ領区の宗主として、兵の先頭に立って戦うは当然の義務ですもの」
「くぅ〜、毎度ながら天晴れな心構え! 俺ァ感動したぜぇ!」
両腕を組んで唸った後、ジークは天に向かって豪快に吼える。
強面、見事なガタイ、大きい声、そのうえ事ある毎に吼え叫ぶ為、熱苦しい男というのが、ジークに対する皆の評価だ。
熱血なのはいいけれど、彼の場合、少々行き過ぎのような。
「お前等ァ! 姫が命張るってんだ! 俺達も全力全開死力を尽くして、力の限り暴れてやろうじゃねぇかァ!」
体毎で一同を見回すと、ジークは相変わらずの威勢で激号を飛ばす。
彼の大声は、近くで聞いていると鼓膜が破れるんじゃないかと思う程だ。聴力が余人より些か発達している僕の場合は特に。だからあんまり、ジークには近寄りたくない。
しかし彼を忌避する僕とは対照的に、ジークの熱い語りを受けた現在集結中の女神代行守護者所属兵達は、明らかに士気を高揚させている。
裏表がなく、只管真っ直ぐなジークの雄叫びは、戦士の心を奮い立たせる効果があるらしい。
この辺り、ジークとライナは良く似ているな。嘘が吐けず、堪え性がなく、血の気が多い所もそっくりだ。流石は兄妹。
「姫、安心してくれ! この俺が居る限り、化け物共の百匹や千匹や一万匹、物の数じゃねぇぜ!」
「ええ。ジークムント、貴方の活躍に期待していますよ」
「おっしゃァ! 任せとけ。ライナの分までやってやるぜぇ!」
黄金の腕輪を嵌めた右腕、拳としたそれを高く突き上げ、ジークは勇猛の咆哮を轟かす。
それに応えるかのように、周囲の兵達も自前の得物を高らかと掲げ、負けず劣らずの咆声を響かせた。
中々凄い光景だ。溢れ出る熱気まで、強く感じられる。
皆の姿を見遣るユイ様は、聖女か慈母かという顔で、優しげな微笑を向けていた。それが余計に一同の奮起を促して、総合的な戦意向上に貢献した様子。
馬鹿正直に熱いジークのような存在は、武装戦闘集団に欠く事の出来ない要因の1つか。
己の道に迷いを抱かず、盲目的に直走れる突進力は、力を行使する集団の時として揺るぎかねない方向性を、簡潔に修正してくれる。
中途半端に迷いが生じた部隊程、脆く儚いものもない。その意味では、彼は失い難い貴重な人材と言えよう。
あれで腕も立つのだから重要性は高い。後はもう少し頭を使ってくれると、文句はないんだけど。
「よぉーし、気合い入れ直すぜぇ! えい、えい、おぉー!」
「えい、えい、おぉー!」
「えい、えい、おぉー!」
「えい、えい、おぉー!」
『えい、えい、おぉー!』
ジークの斉唱に、兵士各人が武器を振るって声を合わす。
見ればユイ様も拳を上げて、皆と共に戦闘前の気合入れに参加していた。
僕はと言えば、特に参加しないで、その様子を眺めているのみ。
ジョヴィニエル卿も黙したまま佇んでいる。
僕も彼も、こういう熱血系のイベントへは積極的に参加するタイプじゃない。どちらかと言えば、静かに闘志を燃やすタイプだからな。
「まーったくよぉ、ウルセェ野郎だぜ」
戦意を示す掛け声に湧く戦士団へ、冷ややかな視線を投げる者が1人。
一同から少し離れた位置で、その人物は面白くなそうに鼻を鳴らす。
白銀の髪をショートカットにする、猛禽類に似た鋭い目付きの女性だ。
身長は170あまりで、年齢は20代前半。赤いチューブトップとデニム地のホットパンツというラフな格好に反し、背中には身の丈程もある巨大戦斧を2本も背負っている。
化粧っ気が一切ない男のような顔の真ん中へ、斜めに大きく走る深い傷痕が印象的。
「吼えて勝てりゃ、苦労しねぇんだよ」
独り言にしては大きめの、苛立ちを含んだ声が空気を震わす。
発声者は獲物を威嚇する獣のように、獰猛な顔付きで戦士達を眺め遣った。
友好の成分が限りなく薄い、挑戦的な眼差しを共として。
「メ、メルル、皆に聞こえるよぉ〜」
そんな彼女の傍らでは、色白で小柄な少年が、か細い声を紡いでいる。
背中まで伸ばされた長い黒髪をした、線の細い軟弱そうな姿。
160未満の背丈で、上等な錦製の羽織りを着けた彼は、まだ16歳程だったか。その左手には、ジークと同じ腕輪が嵌めてある。
中性的な容貌を困惑と怯えで半々に染め、少年は隣立つ女性を上目遣いに見ていた。
「聞こえるよぉに言ってんだろ、莫迦が」
「ご、ごめん……じゃなくて、なんでそういう事を言うのぉ〜」
不安気な少年の訴えに、女性は恫喝まがいの強声で返す。
頭から叩き付けられる厳しい音に、小さな彼は一瞬身を縮込めて謝罪を口へ。が、直ぐに気を取り直して、迫力皆無の反論を述べた。
まぁ、相手する方は意にも介していない様子だけど。
「ったく、どいつもこいつもよぉ、あの化け物共を甘く見てんじゃねぇか?テメェの無能を忘れて、相手を過小評価かぁ?へっ、笑わせるぜ」
横から上がる少年の声を完全に無視して、彼女は咆哮中の一団を睨め付ける。
その態度は不遜の気に満ち、言葉には侮蔑の色が感じられた。
見事なまでの喧嘩腰。傍近くの少年は、これを前に顔を青ざめさせるばかり。
「はわわわ〜、メルルはまたぁ。何でいっつもそうやってぇ〜」
「くだらねぇ妄想に浸ったまま化け物に食い殺されりゃ、テメェ等も幸せだわなぁ。えぇオイ?」
1人震える少年を余所に、女性は反意も露に辛辣な科白を吐き続ける。
礼儀の『れ』の字もない、チンピラそのままな物言い。
聞く者を憤慨させるだけの猛烈な毒を染み込ませた声に、相対者達は決意の表明を中断して厳しい視線を射込む。
個人差こそあれ、各員の顔には明瞭な怒気と嫌悪が混在中。それは一目で判る程に濃厚だった。
「み、皆さん、あのですね、これは、そのぉ……か、彼女なりの激励なんですよ、ハイ。だからその、あんまり気にしないで……」
「ピーチクうるせぇなぁ。少し黙ってろ」
睨み合う両者の間に立って、必死に場を諌め様とする少年だったが。
無情にも、骨を折ってやっている相手から文句を言われる始末。
酷くも無碍に扱われ、少年の顔に哀しみが広まった。それはすぐさま全身へ及び、彼の雰囲気を陰気なそれに変質させる。
何と言うか、こんな時まで何時も通りな2人だ。
女の方はメルル・オーコストー。少年の方はエリック・グロリア。
両方共、女神代行守護者の一員。つまりは同志。
メルルは気性が荒く、口が悪い。言動から物の考え方までヤクザ者。戦士としての実力は高いものの、協調性が著しく欠落している所為で、評判はよろしくない。
対してエリックは真っ当な常識人。ただ如何せん、小心者で内向的な為に、仲間内でも友人と呼べる存在は殆ど居ない様子。メルルを除いて。
2人の性格は接点が見受けられない程に違っているし、決して仲が良いようには見えないけれど。
だが何故か一緒によく行動している。別段、付き合っているという風でもないんだが……
色々と正反対だから、逆に馬が合うのか。その辺りは良く判らない。それでもこの2人は、コンビで1セットという感じだ。
「随分と言いたい放題言ってくるじゃないか」
柔らかさを決定的に欠いたメルルの言い様に、当然の如くジークが反応する。
彼の性分からして、ここまで言われて我慢など到底出来まい。
この展開は、食堂の日替わりメニュー以上に予想し易かった。
「あん? オレは本当の事を言ってるだけだぜ。イチャモンつけられる謂れはねぇよ」
1歩前へ踏み出してきたジークへと、メルルが投げ寄越したのは挑戦的な蔑笑。
無論、ジークにこれを笑って受け流せるキャパシティはない。
こんな場合ばかり相手の意図する事を正確に汲み取って、悋気を宿した双眸で意趣返す。
「そうは聞こえないんだよ。お前さんの言葉はなァ!」
互いが互いに噛み付こうとするような、強視線の交差。
正対する両者の間には、激しく瞬く火花が幻視出来る程だ。
傍から見てる側としては、大人気ないと呆れる他にないんだけど。
「はわわわわ〜」
竜虎の闘志を背景に気迫で牽制し合う2人を見て、エリックは単身慌てふためいている。
張り詰めた場の空気に耐えられないのか、冷や汗を過剰に垂らしてオロオロと。
心配と混乱が綯い交ぜになり右往左往する姿は小動物のようで、妙な愛らしさと情けなさを醸し出す。
現在この場に居る一同の比率は、いがみ合うメルルとジークを注視する連中と、その傍で半泣き状態のエリックを眺める者達とに分けられた。
ガンクレ中の両名を見守る輩は、これが発展して武力を用いた喧嘩になる事を期待している様子。
一方のエリックを観察する者達は、小柄な少年へと侮蔑だったり熱視線だったりを注いでいる。
どちらにしろ、一種異様たるカオスな空気が漂っている事に変わりない。
「…………」
この状況を前にして、指導者たるユイ様は沈黙を守っている。
刻々と迫る領区全体の脅威を感じていながら、場を諌めようとはしない。それは第1の臣下であるジョヴィニエル卿も同じ。
宗主の考えは大体判る。
今、彼女が一喝すれば、それだけで全てが終わるだろう。それだけの影響力を、我が主君は保持している。
しかしその場合、高まっている皆の闘志ないし士気が犠牲となるは明白。要するにシラけてしまう訳だ。
大戦をまじかに控えた今、戦闘要員の意識低下は好ましくない。やる気の失せた集団では、勝てる戦も勝てないもの。
彼女はその辺りを良く判っている故に、最悪の状況を避けるべく動かないと。
だが、このままではメルルとジークが殴り合いを始めかねない。それはそれで問題だ。戦いを前に怪我でもされては事だしね。
かくいう訳で、ニッチもサッチもいかない構図の出来上がり。
尤も、各員の性情を知悉している宗主なら、メルルがジーク等へ因縁を付けるのも予測出来た筈。
にも関わらず、事前の防止策を取らないのは、そこにも考えがあるからか。
大方、戦団の意識を最も高めた状態で、事に当たろうという所だろう。最高潮に達した戦意で一気に敵勢へ激突し、勢いのまま押し切る腹だ。
だとしたなら、今のコレは予定通りという事に。メルルとジークのお陰で、総員の気はいい具合に高まっている。
問題なのは今の状態を維持したまま、どうやって戦闘を迎えるか。膨らんだ闘志を爆発もさせず、かといって萎ませず、ピークを保って戦に踏み切る事。
今1番必要なのは時間稼ぎだな。
「あうあう、うぅぅ〜〜、せ、赤巴さぁ〜ん」
折り良くも、エリックが僕へ助けを求めてくる。
涙目で情けない声を上げる様は、そちらが趣味の手合いなら庇護欲を掻き立てられよう。
生憎と、僕に何がしかの感慨を抱かせるには及ばないが。
でも彼は運がいい。今の僕は、あちらの要請通りに助け舟を出してやろうという気分だ。
この場を拗れさせたまま、来るべき時まで時間を稼ぐ為にね。
「2人共、その辺にしておけ。エリックが困ってるぞ」
気弱な少年の頼みを聞くついでに、ユイ様の狙いも成就させて貰おう。
まずは仲裁を装い、両者への接近を。
「あぁ? テメェには関係ねぇだろうが」
メルルがこちらへ向けるのは、敵意を剥き出しにした目。
声の中にも拒絶の気が満載だ。
予想通りの反応だな。
「男には、どうしても退けない時があるんだ! お前も男なら判るだろ!」
拳を握り、熱く語るのはジーク。
彼の感情論、賛同は出来ないが理解程度なら出来なくもない。だが何にせよ、時と場合を考えて行動するのが大人だろ。
「傍でデケェ声出すんじゃねぇよ!」
「聞かれて困る内緒話してるんじゃないんだ! 大声で話して何が悪い!」
「だからウルセェってんだよ!」
怒鳴り合い、睨み合い、険悪な雰囲気を更に強める2人。
こちらを見る外野の期待と、エリックのうろたえぶりも2割り増し。
チームワーク。尊い言葉だが、この2人の前では虚しい響きだ。
「いい加減にしろ。ユイ様の御前だぞ」
「うっ……」
別段、怒気を含むでもない普段の声調で一言。
しかしこれに対して、ジークの方は見て判るほど明確に怯む。
宗主の名を出した事で幾許か冷静になったのか、彼女の存在を思い出した様子。
それにしても、ユイ様の名前を出しただけでこれだ。彼女の存在は、彼の中でかなり大きなウェイトを占めているらしい。
それが畏れか敬いか、或いは両方か。僕に知る術はないが。
「んなモン、知った事か」
反してメルルは、僕の言葉を突っ撥ねる。
その瞬間、周囲からどよめきが上がった。
元より僕の説得に応じはしまいと思っていたけど、この言い様とは。
ユイ様当人を前にして根性を見せるじゃないか。戦闘をまじかにして、相当気が立っているようだ。
それはそれで好都合だけどね。
「今の発言は、宗主への叛逆とも取れるな」
目を細めてメルルを見遣る。
投げ掛けるのは心中にない挑発の言。
折角彼女の方からオイシイネタを提供してくれたんだ。ここは目一杯弄っていかないと。
「赤巴テメェ、新入りの分際でナメた口きくじゃねぇか」
ジークから視線を外したメルルの目が、剣呑な輝きを帯びて僕を刺す。
同時に、周囲の緊張感が1段階増したのを感じた。
何処からか、誰かが生唾を飲む音が聞こえたのは、果たして錯覚だろうか。
「お嬢に少し気に入られたからってよぉ、幹部気取りか?えェ、オイ」
鋭くも獰猛な眼差しが、正面から叩き付けられる。
メルルの意識は今や完全に僕へと移り、先まで相手していたジークも眼中にない。
しかし危険な気配を纏う彼女に、無視されたジークは何も言わず。
放電でもしかねない場の雰囲気に呑まれてしまったか。流石に怖気付いたなんて事はないだろう。
今のメルルが全身から放射するのは、敵意と言うより殺意に近い。
例え喧嘩中の相手と言えど、彼女がこれ程の害意を仲間へ向ける事は皆無。つまりコレは、普段と一線を画す特異な状況だ。
皆がまともに反応を返せなくなるのも、無理からざる事。
そう。メルルにとって僕は仲間ではない。
だから彼女は負の感情を余さず、隠さず、容赦なく、真正面から叩き付けてくる。
理由は単純。
僕が女神代行守護者として活動した時間の少なさ。仲間として受け入れられる為に必要な、下積みの絶対的不足だ。
彼女から見た僕は、外から来た流れ者。信用の置けない部外者という位置でしかない。
そんな僕がユイ様の傍近くに仕えているのが納得出来ず、気に入らず、殊更メルルの気分を害していると。そういう事だ。
だから彼女が僕へ向ける目は限りなく冷たい。
けれど、それは何も特別な事じゃない。
メルルが僕の事を嫌っているのは周知の事実。その僕が意見すれば、こうなるだろう事は判っていた。
少なくとも僕には。
エリックは助けを求める相手を間違えたのさ。それが例え消去法で最後に残った選択だったとしても。
可哀相に、今の彼は自分の所為で状況が悪化したと思っているらしく、顔面蒼白だ。体などは1匹だけで放置された兎のように震えている。心労の重き事、山の如しだろう。
だが、これでいい。エリックには悪いけど。
「僕は此処へ立つのに、いらぬ苦心をした覚えはない。全てはユイ様の御意思だ」
「ぬかせ! 何処の馬の骨とも知らねぇ風来坊風情が」
強烈な憎悪が覗く瞳を突き込まれると、判っていた事とはいえ、あまり良い気はしない。
彼女の様子からして、普段から鬱積していた不満は、かなりの大きさと見える。
既に話し合いで解決する段階ではなくなっているが、そもそもそんな物は目的でないので、特に気にする必要はない。
後の事も今は取り合えず置いておき、目前の問題と近しい未来の事だけ考えよう。
「何と言われ様が、僕を重用したのはユイ様だ。その事実は変わらない。君は宗主の決定に意を唱えるのか?」
「この片目野郎ぉぉ……」
僕を睨み刺すメルルは、仇敵を前にした猛犬の態。
もし僕がユイ様の御声掛りでなかったら、彼女は直ぐにでも飛び掛かり、僕の喉笛を食い千切るだろう。
何もしていないのに、ここまで毛嫌いされるのも心外と言えば心外だが。
……いや、この場合は何もしていないからか。
「チッ」
「……」
周囲を取り囲む無数の視線は、今や完全に僕達の動向に注目している。
対峙する僕とメルルの間にある空気は、抜き身の刃に等しいもの。些細な変化で相手を切り裂く、予断を許さぬ状態だ。
ジークは言葉もなく僕等へ見入り、エリックは失神寸前の緊張ぶり。ユイ様とジョヴィニエル卿は終始無言で成り行きを見守っている。
「オレはテメェなんぞ認めねぇ」
「認めてくれと、僕が1度でも頼んだか?」
相手からの刺々しい送声に、見合うだけの挑戦的発言で応ず。
そのお陰で、僕等を覆う空気は更に重くなった。
互いが交わす視線は友好から程遠く、腹を探り合うより率直で簡潔。
だからこそ判る。言葉の交換をせずとも相手の心情が。
嫌悪に根差す不審、疑念からくる敵意、憎悪の果てに見えるは殺意。
複数の、しかし決定的な1つの感情へ集約する思い。メルルが僕へ注ぐ全てが、そこにある。
僕としては彼女の能力も、忠義の厚さも評価している。僕へ向ける諸々の感情とて、大元は主君に対する忠誠心が成す事だろう。
自分の主に得体の知れない存在が近付くのは、決して快くあるまい。
だからメルルを疎むつもりはない。寧ろ、危険と思しき者を前に率直な本心をぶつけ、早期に排除しようとする決断力と行動力には感嘆する。
今は無理でも、遠くない未来に相互理解が図れればいいんだけど。
さて、そろそろ頃合だ。
彼女の方も我慢の限界が近いと見えるし、これ以上突いたら破裂する可能性が大。
この辺で、事態の進展を待ちたい所。
『報告。敵勢力が最終防衛ラインを突破。領内への侵入を開始』
何の前触れもなく、各員のUPCSが監視班からの情報を吐き出す。
全員の下へ一括送信されてきたメッセージによって、形作られていた空気が一瞬で変化した。
それは全員に共通する守護の色。何かを護るその為に、降り掛かる火の粉を払わんとする防衛の彩り。
女神代行守護者本来の役割を担った、戦士達が在り方。
状況の変転が各自の意識を切り替え、向かうべき場所を無意識に定めさせる。
「来たか」
誰にともなく呟いて、僕はメルルから視線を逸らした。
見るは彼女の肩を越え、空より先に広がる世界への路。
対する銀髪の女戦士も、僕からは興味を失ったように背を向けて、一同と等しい方角を眺めやる。
それまで僕に傾けられていた闘志、戦意、殺意は苛烈な放昇を保ったまま、自領を侵した輩へと方向性を変えた。
気に食わない僕の相手より、襲い来る敵勢の方が優先順位は上。思考ではなく本能のレベルで、だからこそ逡巡なく標的を入れ換えられる。
事態の推移に合わせ、感情に流されること無く正確に斃すべき相手を見定められるのが、メルル・オーコストーの美点という訳だ。
お陰で時間稼ぎはギリギリで成功。最高の状態で戦いへ赴ける。
「彼の者共は、我等が領域へ不当な侵入を果たしました。我々は女神代行守護者の名において、直ちにこれを討ちます」
それまで沈黙を通していたユイ様が、1歩踏んで口を開く。
宗主の毅然とした宣誓が響き、一同の意は完全に固まった。
その様が肌に触れる外気からも如実に伝わってくる。
「全軍、抜刀!」
両脇に差した4本の日本刀。ユイ様はその内2本を左右それぞれの手で引き抜き、冷たく輝く白刃を天高く掲げた。
虚空の天宙に浮かぶ、暗色の巨星目掛けて突き出された2つ刃が、危険な照り返しを僕等へ注ぐ。
その最中、宗主の静かなる豪声に導かれた総員が、手にする得物を己が体前で中世の騎士よろしく構え取った。次には両腕で武器を押し上げ、頭上高くへ繰り出す。
ジョヴィニエル卿は背負う巨剣を、メルルは背にする双斧を、両の手にしかと握り。
ジークとエリックは嵌める腕輪が光を放ち、見る間に異なる形へ変じていく。
至った姿は、ジークが柄の前後に長く厚い矛を備えた、黄金の両刃槍。エリックが龍の身体を模す押付と手下から成る、金色の長弓。
桃髪男と黒髪少年も、腕輪が変態した武器を皆と同様高く示し上げた。
独り異なる動きをして、全体の足並みを乱す訳にもいかない。先輩衆へ倣い、僕も右手を空へと翳す。
『折れざる誇りと力を以って』
『去なる女神に勝利を捧げん』
『天主が彼の地へ戻るまで』
『我等一刀、女神の剣は大地を護る』
戦団全員が一斉に、女神代行守護者の訓戒を唱和する。
1000余名の精兵が声を合わせて生まれるのは、雪崩の如き猛る弩轟。
1人1人が明確な目的意識を持ち、その完遂に全力を傾ける事を厭わない。そうした精神の堅固さが彼等の力であり、1500年もの間、ルナ・パレス属クリシナーデ領区を護ってきた本質。
長き時間に晒されながらも廃れる事無く、脈々と受け継がれてきた忠誠という名の信仰。女神代行守護者の原動力は其処にある。
「メルルは中央軍を率いて先陣を切りなさい。ジークは東軍、エリックは西軍を指揮して左右両面より挟撃を。3方から攻め入り、敵勢を蹴散らします」
指導者の貌で、支配者の瞳で、総司令の声で、総大将の気迫で、ユイ様は件の3名へ命令を下す。
「へっ、そうこなくっちゃな。先鋒は武人の名誉だぜ。連中の頭を砕いて、心臓まで道を作ってやらぁ!」
「よっしゃぁぁァ! いっくぜぇェ!」
「は、はいぃ!が、ががが、頑張りますぅ〜」
名指しで役割を振られた3者は、嬉々、熱狂、気負いをそれぞれ纏い、返礼の代わりに武器を構えた。
向かい来る敵を討つ、背後にある民を護る。2つの絶対目的にのみ従う猟犬の色を眼に宿し、各々が進路へ視線を移す。
「では、勝ちに行きます。女神代行守護者、出陣!」
『おおぉぉッ!!』
ユイ様が号令と共、刃を前方へ指し向ける。
進軍の合図を受け、奔騰する戦意に押された全軍が駆け出した。
無数の足音と咆哮が豪雨の嵐風を巻き起こし、戦いの口火を今、落とす。
「おらおらおおらぁ! 真ん中行く奴ぁ、オレに続けぇ!」
「東組はこっちだァ! 遅れるを取るなァ!」
「に、西側の皆さ〜ん、ぼ、ボクに付いて来て、く、くださいぃ!」
走り出した戦士達は、先頭を行く3人に呼ばれるまま3方向へ分かれていく。
主君たるユイ様の決定に意義を申し立てる者は絶無。全員が彼女の言葉に従い、指名された戦士等へ付き従った。
メルルやジークはまだしも、エリックに指揮権は不適切な様にも思える。初めて彼を見た者なら、行き着く感想はそこだろう。
しかしエリックはあれで、中々優秀な戦士だ。その実力たるや、女神代行守護者でも5本の指に入る程。
性格的な難を織り込んで尚、妥当な人選と言える。各兵員もその事を知っているので、不平不満が出る事は無い。
さて、戦闘集団の進撃は順調。
宗主とジョヴィニエル卿、そして僕は最初の位置から動かずに、離れていく皆の背を見送っている。
危地に飛び込むのは部下だけで充分。三下を戦わせて、上官は高みの見物。と、言う訳でもない。
ユイ様にはまだやるべき仕事が残っており、彼女の護衛を務める僕達は、それ故此処に居る訳だ。
「いいですか、タレス。これより砲撃準備に入ります。準備が整い次第、攻撃を開始して下さい。皆が接触するまでに、大勢を削り取るのです」
『あはぁ〜ん、任せてぇ。皆まとめて、イ・カ・せ・て・あ・げ・る』
抜き放った刃を足元に突き立て、ユイ様は桜色の自前UPCSで、姿無き相手と会話を進めている。
相手はタレス・ルーネンメビュラ。女神代行守護者最年少にして最変者の構成員。
見た目はゴスロリ衣装に身を包む可憐な少女だが、性別は男。年齢に不釣合いな豪胆さと不敵さ、そして底知れなさを持つ戦士。
そのうえ使うのが妖しいオネェ言葉ときては、周囲の扱いも微妙に……。
タレスは女神代行守護者の中でも後方支援を担当とする。
実質的な戦闘力はかなり高いらしい。しかし本人が鉄火場を嫌っているとか。
だから彼……彼女は、余程の事が無い限り、基本的に前線へは立たない。今回もそうだ。
普段から彼女が任されているのは、クリシナーデ領区防衛システムの1つ、女神の涙の操作。
領区開設の折、外敵から街を護る目的で造り上げられた対地攻撃用軍事衛星。それが女神の涙。
衛星軌道上に置かれたこの兵器は、クリシナーデ領区を中心に半径10km圏内への定点攻撃が可能であり、領区へ近付く危険な存在を一瞬で焼き払う。
ただ連射が利かないのと、発動までに難解な操作を要するので、そう頻繁に使える物ではない。
現段階でこれを完璧に扱えるのは、高度UPCSを始めとする電子機器に精通した、優秀な電脳潜子であるタレスだけ。彼女が後方組に加えられているのは、その為でもある。
それにもう1つ。女神の涙の起動には、欠かす事の出来ないものが。
今回、領区へ迫っている敵勢力の総数は大凡3万。対してこちらの兵数は1000余り。単純計算で30倍の敵を相手にしなければならない。
だからこそ女神の涙の出番になる。
防御不能の超攻撃で敵勢を一蹴し、女神代行守護者の前線兵軍で残党を狩り尽くす。そういう作戦だ。
ここで半端に敵を逃せば、再起の機会を与える事になる。後顧の憂いを断つ為にも、一気に決着をつけねばらない。敵勢に逃げる暇を与えず、衛星砲の攻撃後、速やかに攻め立てねば。
「それでは頼みます」
『OKよ』
通話を終え、浮かび上がっていた立体映像式画面を消すと、ユイ様は手中のUPCSを白衣の合わせ目より懐へしまう。
その後、刃を再度手に取る事はせず、自らの立ち位置で膝を折り、地にへと正座した。
僕とジョヴィニエル卿が見守る中、宗主は腰を曲げて前傾姿勢になる。そこから対面の地面へ両手を伸ばし、静かに触れ置いた。
屋敷の外に広がる不自然なほど真っ平な原野。人工的に塗り固められた硬質の大地。
いや、鈍い光沢を返すそれは、床と呼ぶべきだろう。それもだだっ広い、大面積を誇る床。
僕達が出て来た屋敷を中心として、円形に巨大な硬床は造られている。
街なんて物は何処にもない。僕達の周りにも、屋敷の後ろにも。
あの屋敷は荒れ果てた月面の只中に、一軒ポツンと建っているのだ。人工物の床を敷いて、その上に。
「ユイ・クリシナーデの名に於いて命ず。我が血に連なりし領区よ、堅き眠りに落ちたる瞼を開き、今一度、滅びの涙を降り注がせん」
床へ座し、手を突いて、ユイ様が詠う。
固さの拭えない声だったが、それでも耳に入るの調べは心地良い。
彼女の一言一言は大気に融け、空へ消え、大地へと染みていった。
変化は直ぐに起こった。
ユイ様が手を置く場所から光が現れ、金に輝く線となって、全周囲へ向け走り抜ける。
床そのものを伝い、縦、横、斜め、あらゆる方角へと一瞬で滑り、次の瞬間には消えてしまう光。
全ては瞬きの間の出来事だった。
その直後、緩やかな震動が始まり、僕達の体を揺らす。
発生源は脚を置いている床。連続する動きに合わせ、巨大な質量が異なる形へ移行していくのが判った。
結果の出所は後方。屋敷の裏側。
古式ゆかしい邸宅の真後ろで、床の一部が盛り上がり、高く伸び上がっていく。
この床はユイ様の祖、古きクリシナーデの者が造り出したナノマシンの群体だ。創造主の血脈に連なる者がキーワードを外部入力する事で、無数のナノマシンが再結合・再構成を遂げ、新たな形態を取るというシステム。
宗主が先程用いたのは女神の涙を起動する為のキーワード。
それにより形を変え始めたナノマシンが、屋敷の後方に巨大な塔を築き上げる。
高さは10m余り。登頂が鋭く尖った、牙のような形状の歪な塔。
形成を終えたナノマシンは変動を停止するが、生まれた塔の機能はここから動く。
出現から数秒も置かず、塔の先端、牙の最尖に青白い炎が灯った。
それは球状に纏まり、稲光を走らせながら、徐々に大きくなっていく。
屋敷の直下、遥か地下深部に座す大型ジェネレーターから湧き上がる高出力のエネルギー。それが塔の頂点、その一点へ集約されつつある。
エネルギー球の完成は10秒に満たぬ短瞬で終わり、留まった力は閃光と化して、天空へ昇った。
目にも止まらぬ速さで、遠き空の果てへ消えた光。
そして訪れる静寂。
手も届かぬ高みを、僕は凝っと見上げる。
「涙の一滴、それは破滅の呼び水。女神の嘆きは、幾万の死を連れて」
床に手を触れさせたまま、ユイ様が言葉を紡ぐ。
小さな呟きだったけれど、僕の耳は確かに聞いた。
彼女の声が何を導くのか。考える必要はない。何故なら答えは、直ぐ其処まで。
見遣る宙天の彼方が先で、何かが一度だけ光った。
無意識に目を細めた時、遥かな虚空から、青み掛かった白亜の光柱が一閃。
此処から離れた遠方の大地へ降り立つや、一呼吸の間を開けず、素早く横方へ走り行く。
一条の行軍を終えた柱は薄まり消えて、後には微かな残滓を残すのみ。
半瞬して、眩い光徨が照る。
直後、とてつもなく巨大な炎の壁が、僕達の視界に立ち上った。
荒れた大地が崩れ、捲れ、噴き上がり、凄まじい熱量と衝撃で、その場を噛み砕いては踏み躙る。
何百mにも及び高らかに燃え立つ大壁は、熱波の衝膜。爆発と壊裂が呼び出した、必滅の天幕。
荒ぶる咆哮と共に聳え、容赦なく地上を舐め破る地獄の業火は、天を今以上に赤く染め焦がし、地盤を融解させて渓谷を穿つ。
想像を絶する超破壊。視認される前方の光景を、僕は半ば呆然と見詰めていた。
その最中に我が身を叩くは分厚い風。衛生砲が生み出した大爆発の余波が、数km先から襲い掛かってくる。
続け様、1拍置いて届きくる轟音が、僕の聴覚へ剛打を食らわす。
「これは、これ程とは……インフィニートが、攻めてこれない筈だ」
獄熱の奔流を片目に映し、僕は我知らず声を零していた。
話には聞いていた、データとしても知っている。しかし女神の涙の発動は、その威力は、今始めて見た。
信じられない程の攻撃力。度し難い程の破壊力。全てが予想を上回る。
これでは敵勢の大群も、殆ど生き残る事は出来まい。
もし、女神の涙が定点防衛用装置でなく、全地攻撃用兵器だったなら、クリシナーデ領区は月面の覇権を握れるだろう。
それ程までに、コレは凄い。そして、恐ろしい。
「さぁ、参りましょう」
熱波の帯に燻る正面世界を見たまま、ユイ様は決意と覚悟を秘めた声で、静かに告げる。
床から手を離し、腰を上げて立ち上がり、突き立てた刃を引き抜いて。
宗主が動くと、屋敷の裏手に佇む牙状の塔は、現れた時と逆の流れで高さを落としていく。
常時の床体へと戻るべく、塔型を構成するナノマシンが分解され始めたからだ。
膨大な量の超微細機械群は、塔の根元から周辺へ散り拡がり、盛り立つ造形物を低く小さく変えやる。最後には元の平な大地へ戻り、先の痕跡を何処にも残さない。
ごく短い時間でナノマシンの変成が終わった時、ユイ様は最初の1歩を踏んで歩き出していた。
だが途中で首を横向け、襷で縛った肩越しに、僕へと視線を送る。
「先程は面倒を掛けました。貴方のお陰で兵達の意欲を失わずに済んだ事、感謝致します」
年若い宗主は鷹揚に首を傾け、簡素な礼を施した。
僕は首を左右へ振って、それに対する。
「いえ、御気に為さらず。これも仕事ですから」
主君から与えられた感謝の言葉を、受領前に別語で返す。
別段、格好付けのつもりでもない。本当に、気にしてもらう必要などないからだ。
メルルとジークが睨み合っていたあの状況で、僕が彼女の気を引き行動を制するのは、僕が取るべき行動だった。
メルルに嫌われている僕でなければ、彼女の意識を滾らせたまま、ジークから引き剥がす事は出来なかったろう。
人にはそれぞれ役割がある。
兵を率い、民の為に戦う者。主君を護るべく、常に付き従う者。目前の敵を討つべく、全力で直走る者。自分の立ち位置を知り、他者にどのような影響を与えるかを考え、それを踏まえて動く事が必要な者。
そのどれもが代替の利かない各々の役割。
集団で活動する際には、自分にしか出来ない事を各自がやらねばならない。そうしなければ、団は何時までも個々人の集合でしかない。団を一個の『個』として機能させるには、各人が1つの部品として働く必要がある。
それが出来た時、組織は頑健にして強固な存在となり、個人では限界のある事も、容易く行う事が可能となるのだから。
共通した意識の下に集った全体の中で、自分がすべき事をする。僕はその重要性を知っている。
自分が行うべき役割をがあれば、例えそれが他者から反感を買う事であったとしても、やらねばならない。やるだけの価値が、その集団にあるのならば。
「そうですか」
ユイ様は僕の返答に小さく頷くと、顔を前へと向け直した。
謝辞を受け入れない僕に気分を害した様子もない。尤も、主君殿はそのような狭量の輩ではないので、いらぬ心配は無用だが。
再度正面を見る宗主は、気品と優雅さ、威厳とを自然に具え、止めていた歩を動かし出す。
2つの刀を両手に持って、悠然と進む彼女の後ろへ、僕とジョヴィニエル卿も続いた。
「此度の戦」
静やかに進む主上へ従う最中。珍しい事にジョヴィニエル卿が語り掛けてきた。
普段から寡黙で知られる彼が、ユイ様以外に自分から口を開くとは。少し驚いてしまう。
「姫の護衛はワシに任せ、お前は敵を斃してこい」
「……言ってる意味が、少し判らないな」
「姫の傍に居らず、敵陣に食い込んで戦え、という事だ」
彼人へ目を遣る僕とは対照的に、前を見たまま視線も動かさず、大柄な老兵は声を押し出す。
低く、落ち着いた、年長者の言葉。
しかしその意図が、僕にはイマイチ掴みきれないんだが。
「真意は?」
「皆がお前に持つ不信感、それを払拭する良い機会だ。この戦はな」
「つまり、戦って僕自身の力を示せと?」
「そういう事だ。大きな戦が無かった為に、お前の実力を知る者は少ない。ここで力を見せ、お前が姫の護衛に相応しい事を皆に教えるがいい」
相変わらず無表情、無感動にジョヴィニエル卿は語る。
表情筋がピクリとも動かないので、何を思っているかは全く読めない。
けれど一応は、僕の事を心配してくれているのかな?
「意外だな。貴方が僕に気を遣ってくれるとは」
「お前の為ではない。姫の為だ」
……いきなり否定されてしまった。
まぁ、彼がユイ様以外の事で気を揉む事なんてないだろうから。ショックでも無いけど。
「女神代行守護者に参入し、日の浅い者を傍に置く。其処に、確かな実力者だという理由を置かねばならん」
「新参者に目を掛けるのが姫の甘さと取られ、姫への不審となってはいけない、か」
「姫は公正であり、その御心は強く、気高く変わらぬ事を教えねば」
「その為にも、僕が弱い奴だと思われるのはマズイって訳だ」
「うむ」
「成る程。了解したよ。それじゃ今日は、守護より撃滅を優先するとしよう」
僕は淡い笑みを添えて、隣人の申し出を受け入れる。
こちらの答えに、提案主である巨躯の剣豪は1度だけ頷いた。
やはり面上に変化はない。ついでに気遣いの言葉が後へ続く事もない。
清々しいぐらいに、お姫様至上主義だな。別に文句はないけど。
「僕としては、軽んじられたままでも別に構わないんだけどね。人の評価なんか気にはならないし」
「……」
何の気なく本音を漏らしたら、ジョヴィニエル卿が目だけを向けてきた。
それだけで威圧感が凄い。失言だったか。
「勿論、ユイ様が悪く思われるのは避けたいから、ちゃんと働くさ」
物言わぬ鳶色の瞳に愛想笑いを返し、何とかこの場を遣り過ごす。
背中に氷柱を突っ込まれたような寒気は、彼が視線を正面に戻すまで付いていた。
う〜ん、やっぱり只者じゃないな、この人は。