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話の32:勇者降臨?(+1)

「ん……んんぅ」


 薄っすらと、開かれていく瞼。

 外から入り込む光が、私の目に闇ではない世界を映し込む。

 それまであった黒が、急激に失われた為だろうか。眼球が微かな痙攣を繰り返す。


「う、ん……」


 目覚め始める意識は、水底から浮き上がるように、少しずつ、はっきりとしてきた。

 それと同時に鼻腔をくすぐる仄かな香り。何処と無く、春風のような匂いだ。

 これへ導かれるように、もやもやとしてうずもれていた記憶が、頭の中で煽り浮く。

 苦い夢を見ていた。内容までは思い出せないけど、良い夢ではなかったような。

 胸の奥に残る、言い知れない感情。痛みにも似た、僅かな疼き。

 これは、何?

 両目に映る高みの一点を見詰めたまま、考えを巡らしてみる。

 答えに行き着くことはないだろうと、漠然とだが判っているけれど。

 求める解は、私の内にあるのだろうか。


「目が覚められたようですね」


 不意に、それは聞こえた。

 傍近くから耳へと届けられた声。滑らかな声調に鼓膜を震わされ、それまでの思考を中断する。

 頭へ注いでいた思案の力を、動く為のものに変えて、首から下へと送り出し。

 最初に指先を揺らせ、自分の意思が通っている事を確認してみる。

 少しの痺れを経て、思うまま動かす事が出来た。

 それ自体は小さな動き。けれど覚醒途中の頭には、充分すぎる衝撃。

 眠っていた神経が本来の機能を始めたと思しき、脈動の循環を全身に感じる。

 そこで漸く、私は上体起こしの作業に掛かった。

 緩んだ筋肉が一斉に引き固められ、1つ1つの動作へ機敏に反応していく。

 水中から水面へ昇り上がるような爽快感が、切り替わる意識に染み入ってきた。

 上体を起こし上げた所で、私は、自分が布団で寝かされていた事に気付く。

 私が下半身を預けるのは、畳の上に敷かれた布団。あまりに柔らかく軽いので、無意識の内に存在を失念していたのか。

 両手に掛け布団の柔軟さを感じながら、周囲を見回す。

 3方を壁に囲まれ個室。左手側にはピッタリと閉じられた襖が見えた。

 広い部屋だ。天井は高く、清潔で、良い香りがする。

 しかし目立った調度品はなく、私の寝かされていた布団だけが、部屋の中央に置かれるだけ。


「御気分は、如何いかがですか?」


 先程聞こえたのと同じ声が、横合いから耳内へと滑り込む。

 反射的に首を巡らし、出所を探った。とは言え、悩むでもなく直ぐに見付かったけれど。

 私の左斜め後方、枕の置かれるポイントから斜め見た場所に、彼女は居た。

 畳の上に正座する、褐色の肌と、長い紫の髪をした女性。

 身に纏うのは、私にとっては見慣れた、馴染み深い衣装。緋袴に白い上衣。典型的な巫女装束だ。

 面上に浮かべられているのは、優しくも美しい微笑み。

 清楚でたおやかな、母性を感じさせる笑みは、思わず引き込まれそうになる。

 それが魅力的に見えるのも、秀麗な面立ちの故だろう。

 極めて整った目鼻立ちは、ある種、超然とした魅力を持つ。それに加えて、知性と高潔さの共生、朗らかな内に覗く強健な信念が、更なる印象付けに一役買っていた。

 まるで御伽話に出てくる女神。

 信じ難い美貌の持ち主を前に、言葉を失い見惚れてしまう。


「大丈夫ですか?」


 形の良い唇から発せられた言葉が耳に染みて、私は咄嗟に我へと帰る。

 初対面の相手の顔を、黙って見詰め続ける事は結構失礼だ。

 内心の慌てぶりを表面に出さないよう気を付けながら、対面の女性へと頭を下げる。


「いえ、大丈夫です、はい。あの、初めまして」


 妙にドギマギしてしまう。

 大変な美人を前にして、緊張しているだろう事が自分でも判った。

 何とも顔が熱い。


「はい、初めまして。勇者様」


 彼女は畳に三つ指をついて、私以上に恭しく頭を下げる。

 完璧な礼節が隅々まで行き渡った、しなやかで見事な動き。

 これにまた見惚れてしまう。


「って、勇者様?」


 あんまり彼女の仕草が素敵なもんだから、疑問に思うのが1拍遅れてしまった。

 今のが聞き間違えでないのなら、彼女は私の事を勇者様って呼んだのよね。

 それはつまり、ユウシャサマって人と私を間違えてるって事?……根本的に違う気もするけど。


「どうかされましたか、勇者様?」


 深々と下げられていた頭を上げて、彼女がこちらを見てくる。

 大きく折った腰が伸ばされ、上体が真っ直ぐ正された時。左右の共衿ともえり重ね合わせから、金色のロザリオが滑り出てきた。

 金色のチェーンで首に巻かれたクロスは、メッキでは有り得ない光沢を放っている。

 掌に収まる程度の大きさで、構材は恐らく純金。その輝きが彼女の美麗さを、より一層引き立てている。

 装飾品の加護によって一際美しやかな存在となった彼女を前にしては、女の私でさえ思考が停止してしまいそうだ。

 そんな自分へ渇を入れ、相手の目を見詰め返す。静けさを湛えた淑やかさが生む、絶大な魅力へ意識を呑まれぬよう注意しつつ。


「えっと、勇者様って、誰の事、ですか?」


 見た感じでは22、3歳ぐらい。大凡、私と同い年辺りだろう。

 でも、つい敬語になってしまう。無意識に畏まってしまうおごそかな雰囲気が、彼女にはあるからだ。


「勿論、貴女の事ですよ」

「そ、そうなんですか……」

「はい」


 神々しささえ感じかねない微笑を湛え、彼女はスッパリ言い切ってくれる。

 何がどうして勿論なのか、是非聞いてみたいんだけど。


「あの、ですね」

「何でしょうか」

「私はその、勇者って名前じゃなくて、綿津御わたつみ勇魚いさなっていうんですけど」


 確かに名前には『勇』の字が入っているけど、断じて勇者なんて名前じゃない。

 ……とか思う以前に、勇者は人の名前じゃないわよね。冷静に考えてみたら、どう見ても俗称だわ。

 考えるまでも無い当然の事実に、今の今まで思い至れなかった。何かまだ頭が混乱してるらしい。

 気付いたが時既に遅し。馬鹿みたいなこと言っちゃった後だし。

 うぅ、恥ずかしい。


「勇者様の御名前は勇魚様と言うのですか。これは御丁寧に」


 私のオバカな発言に吹き出すでもなく、彼女は折り目正しく頭を垂れる。

 統一された礼儀作法にのっとった、1分の隙すらない完成された動作だ。

 皮肉や卑屈さとは無縁。嫌味ったらしさは皆無の、純粋に綺麗な態度だと思う。

 小さな動き1つまで洗練されていて、見ていると思わず溜息が出そう。

 そこへ元々の美貌が合わさって、最早完全無欠。

 果たして彼女は深窓の令嬢か、或いは生粋のお姫様か。


わたくしの名はユイと申します。ユイ・クリシナーデです」

「あ、これはどうも。ユイ、様」

「うふふ、ユイで構いませんわ。それに敬語でなくとも良いのです。普通に話して下さい」


 私の遣った自己紹介へ応えるように、彼女――ユイも自らの名を名乗ってくれた。

 それに敬称も敬語は不要だって。○○様、なんて呼び方は慣れてないから良かったわ。堅苦しいのもあんまり好きじゃないし。

 名乗り合いを終えて、本人の承諾を得た今、さっきよりも緊張は幾分解れている。

 何も知らない同士でいるより、心に余裕を持って接せられるから気も楽だ。互いに気心が知れれば、変に構える事もなくなるしね。


「それなら私の事も、勇魚でいいから」

「畏まりました」

「ついでに、敬語で無くてもいいわよ?」

「幼い頃からこの言葉遣いで育ちましたので、私にとってはこれが最も喋り易いのです」

「そうなんだ。それならいいけど」


 たまに居るわよね。敬語が標準語って人が。

 やっぱり良い所の育ちだと、そうなるのかな。

 それにしても、さっきから気になってる事が1つ。ユイの名前にあるクリシナーデって、何処かで聞いた事があるような……ん〜何だったか……


「ところで勇魚様、御身体の具合は如何でしょうか」

「え、体? ……あぁ、そう言えば私、随分と酷い目にあったんだっけ」


 ユイに言われた事が切っ掛けで、記憶のページが急速に捲られていく。

 その過程で思い出した。意識を失う前に、自分が何をされたか。

 あの男、ヨシア・ベラヒオに、肩のみならずお腹まで抉られたんだ。鋭い刃を体の内側へ押し込まれ、壁に叩き付けられ、散々に痛めつけられた記憶が、脳内でリアルに再生される。

 過去の痛覚があまりに鮮明である為、眉間に皺が寄るのを抑えられない。

 今まで何とも無かったのに、右肩と腹部へ焼けるような疼きを覚えたのは、この所為だろうか。

 現実には何の弊害もない、あるのは精神的な痛み。その発生箇所である両部位は、しかし健全なもの。

 気を失っている間に着替えさせられたのか、私が身に付けている薄白い和装の寝着。その布地をずらして自らの体を見てみても、小さな傷痕すら残っていない。

 肩も腹部も奴と出会う以前の、まっさらな状態にある。

 これを見てしまうと、今も頭の中で繰り広げられる精神衛生上よろしくない記憶映像が、私の妄想だったんじゃないかと、そう思えてくるから困ったものだ。


「なんていうか、予想以上に綺麗だから面食らうわね」


 本衿ほんえりの合わせ目から素肌を覗き見て、思わず苦笑してしまう。

 いよいよ以って、自分の記憶に自信が持てなくなってきた。


「どうやら完全に癒えているようですね。良かった」


 少しブルーの入った私とは対照的に、ユイは安堵と喜びの合わさった笑みを浮かべている。

 どうやらコレは、彼女のはからいらしい。私が気絶している間に治療してくれた様子。

 かなりの深手だったと思うけど、その痕跡を全く残していない。


「ここまで綺麗に治るなんて。ねぇ、いったいどうやったの?」

わたくし達には優秀な魔導法士ソーサレスが味方してくれていますの。彼女は魔力の扱いに長け、治癒魔法の専門家として女神代行守護者ミネルヴァガードの活動をバックアップしてくれています」

「へぇ、そんな人が居るんだ」


 その魔導法士ソーサレス、かなりの実力者みたいね。御祖母ちゃん級か、はたまたそれ以上?

 今度は意識があるうちに会ってみたいわ。

 それに、やっぱり此処は女神代行守護者ミネルヴァガードと関係のある場所だったか。

 私を助けに来てくれた人はヨシアに手酷くやられてたけど、結局勝つ事が出来たんだ。或いは逃げ切れたのか。

 何にせよ私はインフィニートへ連行されずに済んだし、解剖の危機からも脱せられたと。まずは一安心かしら。

 ユイが私をどうするつもりかは判らないけど、わざわざ治療までしてくれたんだから、実験台か何かにはしないわよね?

 ……そう願いたい。

 ここは是が非でも聞いておくべきだろうけど、まだちょっと心の準備が。もう少しだけ時間が欲しい感じ。


「えぇっと、それじゃ、私を助けに来てくれた彼女も元気になったんだ?」

「ライナですね」

「そうそう、確かそう名乗ってたわ」

「彼女の傷はかなり深く、未だ完治には至っていません。ですが快方には向かっておりますので、御安心下さい」


 仲間の事を話すユイの顔に、微かなかげりが差す。

 ライナっていう人の身を案じているんだろう。心配そうだ。

 思い返してみると、彼女は滅多打ちにされてたものね。相手は殺すつもりでやってたんだろうから、生半可なダメージじゃないか。


「私を助けようとして酷い怪我したんでしょ? 何だか申し訳ないわ」


 彼女が重傷を負ったのも、言わば私の所為みたいなものだし。

 そりゃ1番悪いのは直接手を下したヨシアだろうけど。でもやっぱり責任を感じちゃう。

 早く良くなってくれるといいんだけどな。


「優しいのですね」

「え、えぇ!? そ、そんなこと無いって。普通よ、普通」


 真面目な顔で、面と向かってそんな事言われたら、赤くなっちゃうじゃない。

 なんか無性に恥ずかしい!


「ふふふ」

「わ、笑わないでよぉ〜」

「ごめんなさい。慌てている姿が、少し可愛らしかったもので」


 顔が熱くなってる私を余所に、ユイは口許に手を添えて微笑んでる。

 笑い方まで上品とは流石だと思うけど、私は恥ずかしいって。


「もぉ、からかわないでよ」

「いいえ、そんなつもりは。でも、ふふ、本当に可愛かったですわ」


 まだ笑うか!

 こいつぅ、実は天然系か。意外と侮れないわね。


「……でも、仕方ないのですよ」

「え?」


 ユイはそれまでの温和な表情を硬くして、深刻な様相で呟いた。

 1段低くされた声質の変化を受け、私は反射的に聞き返す。

 そんな私へ視線を送るユイの面上には、不安や心配とは別の色合いを持つ影が刷かれた。


「今回ライナが挑んだのは元々大きな危険が予想された任務でした。ですから浅からぬ手傷を負う可能性は高かったのです」

「ん、そっか。確かに平然と人殺しするような連中を相手するのは、生半可な危なさじゃないわよね」

「ええ。ですが、それだけではありません」

「と、言うと?」

「危険が判っていたからこそ、可能な限り安全に進められるよう計画を立て、作戦実行者には厳守を命じていたました」

「ふむふむ」

「けれど彼女は独自の判断で命令を無視し、本来の作戦から逸脱した勝手な行動を取りました。あの傷はその結果です。与えられていた指示を無視して動いた以上、それで負傷したなら自業自得。とても同情は出来ません」


 さっきまでの、彼女の身を気遣っていた時とは一変。今のユイには、暗色の冷気に似た雰囲気が纏われている。

 まるで別人になってしまったような。なんだか冷酷な印象まで受けるし。

 元来、度を越した美人である彼女は、笑っているならとても魅力的だ。けれど一度冷めた空気を従わせたなら、凄まじい迫力がある。

 その姿に既視観デジャヴを覚え、私は息を飲んだ。何者でもない、あのヨシアに近しい感覚があったから。

 我知らず、うなじに鳥肌が立つ。正直、このユイはちょっと怖い。


「け、結構、厳しいのね」


 心中の感想を口にする私の顔も、少しばかり引き攣ってしまうのを抑えられなかった。

 対してユイが見せた表情は、零下の気配を霧消しての寂しげな苦笑。


「人の上に立つ以上は、他を律する厳しさも必要ですから。優しさや甘さだけでは集団を纏められませんし、人々を護り導く事もまた不可能なのです」


 今の今まで在った闇色の冷気は既に無く、初見の頃と同じ空気を負うユイが其処に居る。

 喜色とは真逆の物悲しさが、秀麗な彼女の顔へ覗き見えた。


「必要だとは思い、わたくし自身も納得しているつもりなのですけど……少し、自己嫌悪です」


 目を伏せて、儚くも重い溜息を零す。

 そんなユイを前に思う。

 恐らく彼女は、望んで非情の気を自らに課しているのではない。彼女本来の心根とは正反対のモノを、立場とか責任とか色々なしがらみに囚われる中、使わざる負えないんじゃないのか。

 その場所に立つのが彼女自身の意思ならば、或いはそれを纏うのも覚悟の上かもしれない。けどどちらにせよ、ユイは闇の周気を得て他人に接すのへ、乗り気でないのは確かだろう。

 でなければ、あんな顔はしない。心苦しさの滲む、心痛の表情かおは。

 今の話から察するに、ユイは集団を引っ張るリーダー的ポジションに居る人。だとしたら、自らの本心をおいそれと他人に明かせる筈がない。鬱積した感情の吐露を、何も言わず受け止めてくれる存在は傍に居ないかも。

 今の顔、普段は絶対に見せないんじゃないの?

 外から来た部外者な私だから見せたんじゃ?

 平時の彼女が纏う超然とした高潔さや気高さも、人々にとって理想のリーダーであろうとする故に築いたものではないだろうか。あの暗色の気配も同様に。

 全体の為に自分を偽り、身と心を削って人知れず苦悩する。しかし人前では弱音を吐かず、弱味を見せず、完成された象徴で在り続ける。それがユイの進む道。

 ……もしそうなら、果たしてそれはどんなに大変だろう。私なら絶対に無理だ。

 私と同い年の女性は、私なんかじゃ想像出来ない心労を溜め込み、それに耐えてきた。今も耐えているのかな。


「さっきの話だけどさ、私はユイの方が優しいと思うよ。と言うか、凄い、かな?」

「いえ……そんな」


 私の評価が余程意外だったのか、ユイは一瞬目を瞠る。

 それから1、2度瞬いて、やんわりと首を左右へ振った。


「私は優しくも凄くもありませんわ。何事にも力の及ばぬ未熟者です」

「そうかしら? だってユイはさ、本当は嫌だけど皆を纏める為に、冷たく厳しくする時もあるんでしょ?」

「ええ、それは……はい」

「自分の本心を曲げて、誰かの為に己を偽る。その姿勢をずっと続けるのって、凄い事よ。それに皆の事を真剣に思う優しさがなきゃ、とても出来る事じゃないわ」


 私が送る一言一言に、ユイの顔が見る見る赤くなっていく。

 さっきとは立場が逆ね。ちょっと面白いかも。


「ほら。ユイは優しいし凄い。私は素直に尊敬するな」

「い、いえ、そんな……私なんて、あの……」


 両頬に左右の手を当てて、赤面したままユイは俯いてしまう。

 初々しいと言うか、何と言うか。可愛い反応!

 美人が恥らう姿って、絵になるし見てて飽きないものね〜。


「どうしたの〜ユイ? 私は本心を言っただけよ〜」

「あぅぅ……恥ずかしいです」

「あはは、貴女もカーワイイ所あるじゃない」


 ふっふっふ、さっきの仕返しよ。

 私を悶えさせた恥辱、存分に味わうがいい!

 ……ん?


「あ、思い出した」


 ユイを弄ってる最中、唐突に脳裏へと電撃が走った。

 それは1つの記憶を呼び起こし、胸中でうずくまっていた疑問に答えを与える。

 ユイの名前でもあるクリシナーデ。何処かで聞いた事があると思ったら、確かに知ってたわ。

 クリシナーデ・エンタープライズ。

 月政府の一角を担う6大企業の1つ、クリシナーデ・エンタープライズだ。

 軍事と医療双方に特化した事業を展開し、多大な功績を上げている世界有数の大企業。

 私達、月都防衛軍ムーン・ガーズは月政府の直下部隊だから、クリシナーデ・エンタープライズも命令権を持っている。

 でも普段は上の事なんて気にしないから、すっかり忘れてた。

 そうか、ユイはクリシナーデ・エンタープライズの関係者だったのか。

 それじゃ、女神代行守護者ミネルヴァガードってエンタープライズの私設部隊かしら?彼女は其処のリーダー?

 でもクリシナーデって名前から考えるに、会社経営へ参加している上位役員かも。

 エンタープライズの社長は女性じゃなかった筈だから、ユイが頂点って事はないと思う。育ちの良さそうな感じからして、社長令嬢って所が妥当かな。

 なんで御嬢様が巫女装束着てるのかは知らないけど。まぁそこは個人の趣味だとか、会社の風潮だとか(どんな?)あると思うから気にしない方向で。


「どうかなされまして?」


 ユイの呼び掛けでハッとする。

 1人思索の中に没入していた所為で、彼女を放ったらかしてたわ。

 いけないいけない。


「思い出したのよ。貴女の名前にあるクリシナーデって聞き覚えがあったから考えてたんだけど、クリシナーデ・エンタープライズの事だったのね」

「はい?」


 疑問の答えに辿り着いた旨を告げると、ユイは何故かきょとん、とした。


「……ああ。ええ、そうですわ」


 それから少し間を空けて、得心の態で2、3度頷く。

 そんな彼女の目には淡い憧憬の色が刷かれ、穏やかな微笑を乗せた顔には、古きを懐かしむような表情が添えられた。

 何だか、気になる反応だわ。


「流石は勇者様。博識でありますわね」

「えーっと、割と普通の知識じゃない?」


 控え目ながら尊敬の念が垣間見えるユイの視線に、私は困惑してしまう。

 クリシナーデ・エンタープライズの名はルナ・パレスの住人なら全員が知る所だし、地球でも同様に有名だ。直ぐに思い出せなかった私が抜けているという評価ならまだしも、博識と言われるのはどうかと。

 しかしながらユイの様子から私を馬鹿にして言っているようではないし、そもそも彼女はそんなタイプじゃないし。本当の本心からの言葉っぽい。

 う〜ん、御嬢様だから世間知らず故の回答なのかしら?でもユイは世間知らずって感じでもないしなぁ。


「そんな事はありませんわ。我が祖先が興した企業クリシナーデ・エンタープライズの名は、此処クリシナーデ領区の住民ですら殆ど憶えている者はいませんもの」

「へ? 祖先?」


 先代って事? それなら、そんな遠そうな呼び方しなくても。

 それにクリシナーデ領区って何?聞き覚えのない単語第2弾なんですけど。


「はい。クリシナーデ・エンタープライズの創設者は1500年も前の、わたくしの祖先にあたります」


 せんごひゃくねん?

 千と五百年?

 1年365日だから、547,500日?

 1日24時間だから、13,140,000時間?

 『も前』?

 ………………

 …………

 ……

 え? なに? 何の話?芋羊羹の話だっけ?

 ああ、甘いわよね、アレ。好物なのよ。


「クリシナーデ領区を開いたのも、エンタープライズの関係者なのです。しかし長い時間の間に、その偉業と威光は忘れられつつあり……。現代の人々は、過去を尊ぶより今を生き抜く事に必死ですから、無理のない話なのですけど」


 侘しそうに微笑むユイを見れば判る。どう頑張っても芋羊羹の話には、掠りもしてないって事が。

 取り合えず、現実逃避はここまでよ。

 OK、大丈夫、冷静に考えましょう。疑問を順序よく噛み砕いて、吟味していけば、辿り着けない真実なんてないのよ。

 真実は何時も1つだって、昔読んだ漫画の主人公も言ってたじゃない。


「失礼致します」


 これから再度思考の海へダイブしようとした時、野太い声が室内に流れ込んできた。

 それと共に左方の襖が開かれ、1人の男性が入ってくる。

 大きい。身長は2mぐらいある。こんな大きな人、初めて見た。見上げなければ顔が判らない程の大男だ。

 白髪混じりの髪はオールバック、彫りの深い相貌は精悍で、無骨さと生真面目さが人となりを表しているよう。

 年齢は60代後半だろうか。鋼鉄の如き光沢の具足、篭手、鎧を身に付けており、節々からは隆々とした筋肉が覗く。どう見ても善良な一般市民には見えない。

 きわめ付けは、背負っている長大な剣。

 彼の身長と同等の長さ、叩きつければ人の頭を西瓜すいかでも砕くようにカチ割れそうな分厚さ、切れ味鋭そうな研磨済みの両刃、これらを備えた巨大剣が、男性の背に負われている。

 あぁ、見てるだけで脱臼しそう。


「ヘンリー、どうかしたのですか」


 男性の偉容へ言葉を失くす私とは対照的に、ユイは極自然な動作で彼の方へと顔を向ける。

 視線の固定と同時に投げられた彼女の静かな問い掛けに、ヘンリーと呼ばれた男性は襖の傍で片膝をつくや、慇懃に頭を下げた。

 祖父と孫程も齢の離れている2人が、年功序列を逆行する力関係で応ずる姿。その光景を目の当たりにして、私は更に何も言えなくなってしまう。

 出来た事といえば、両者を交互に見て唖然とするだけ。


「申し上げます。斥候より、彼の者共が動き出したと報告が上がりました故」

「そうですか。判りました」


 ヘンリーさんの言葉を聞くユイの雰囲気が、またしても零下の域へ変じていく。

 私の目に映るユイの顔も、温和なそれから厳しさと強さを併せ持った冷徹の面に。


「では、ワシはこれで」

わたくしも、直ぐに参ります。御苦労でした」


 ユイの労いに深く頭を下げてから、ヘンリーさんは立ち上がる。

 重厚な装備に全身を固めているというのに、重量を感じさせない身軽さで。

 全く以って何とも若々しい。

 彼は来た時と同様に、音も無く襖を開けて退室していった。

 その直後、ユイはこちらへと顔を向け直し、私の目を真っ直ぐに見てくる。


勇魚いさな様、私は所用が出来ましたので、行かねばなりません。もっと御話をしていたいのですが、ここで失礼します」

「うん、判った。……なんか大変そう、だね」


 ヘンリーさんの物言いから、食事か何かに行くんじゃないだろう事は判った。

 寧ろ安全とは程遠い、危険に属する行動をしようとしている事もだ。

 今のユイを見れば、一目瞭然だけど。


「こう見えても私、魔法が使えるのよ。良かったら手伝おうか?」

「その御心遣いだけで充分ですわ。勇魚様は目覚めたばかり、無理は為さらないで下さい」


 私の申し出を、ユイは微笑と共にやんわり拒絶する。

 事実、彼女の言う通りだ。今の私は自分の調子が満足に掴めていない。こんな状態で動いても、足手まといにしかならないだろう。

 尤も、私の予想通りの行動をユイ達がするのなら。


「御加減が宜しいようでしたら、屋敷の中を散策されるのも良いでしょう。ですが外は少々騒がしくなりますので、屋敷からは御出にならないよう御願い申し上げます」


 小さな笑みを真剣なものに変え、畳へ指をつくユイ。

 彼女はそのまま緩やかに頭を下げ、礼儀正しいけれど断固とした声を投げる。

 有無を言わさぬ迫力を実に秘めた、懇願と言う名の命令。

 対する者を無条件で平伏させん雰囲気に包まれたユイの言葉に、私は抗う術も持ち得ていない。

 だから返答は至極簡潔且つ、上々真っ当なものに終わった。


「い、イエッサー」


 思わず敬礼する私の前で、顔を上げたユイがもう一度だけ微笑む。

 同姓の私でさえトキメキかねない美麗の極み。それを最後にユイは立ち上がり、無駄の無い動きで背を向ける。


「それでは、行って参ります」

「気を付けてね」


 静々と遠ざかる彼女の背へ声を掛けるも、ユイはもう振り返らない。

 襖の前まで来ると、脚を折って身を沈め、両手の指を片側取っ手に添えて横へ滑らす。立ち上がって、出来た隙間から外へ抜け出た後、反転して再度身を低め、同じ要領で襖を閉めた。

 そこで完全に彼女の姿が見えなくなり、室内に残された私は1人。


「はぁ〜〜〜」


 盛大に息を吐いてから、私は布団の上へ仰向けに倒れ込んだ。

 真っ直ぐ前には天井が見える。


「何が何だか……」


 私に埋められた鍵って何?

 インフィニートは何をするつもり?

 皆の行方は?

 勇者様ってどういう事?

 此処は何処で、今は何時?

 そもそも私はこれからどうなるの?


「あぁ、もぉホント、判んない!」

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