話の29:破熱の粘性(+二)
「素直に答えるとは、律儀に過ぎる馬鹿さ加減ザンスね」
自らが問うておきながら、こちらの返答に冷笑で持って返すとは。
言葉通りに相手を馬鹿にし、貶める口調。科白の内に潜むのは、多分の侮蔑。
初対面の相手にここまで礼節を欠いた態度を取られたのは、生まれて初めての事。
第一印象は本気で最・悪!!
話には聞いていた。インフィニートの暗部を司る影の実行部隊、漆翼黒葬鋼狼軍のリーダーは、人を人とも思わぬ冷酷無情の冷血冷徹な男だと。
人らしい心など微塵も持たず、皮膚の下に流れるのは青い血なんじゃないかと噂されるような。
どんな人物かと思っていたけど、まさかここまで非道で外道な無神経野朗だったなんて。
奴の応対は軽いジャブにすぎないのだろう。
私の後ろに居る女性の痛ましい姿が、あの男の本性を教えている。
意志の強そうな、けれど優しさも備えた目、細く通った鼻梁に形の良い桜色の唇。彼女は同性の私から見ても綺麗に整った、美人と思える容貌の持ち主だ。
しかし今その顔は本来の美しさへ翳りを差す、苦悶の表情に歪められていた。
首筋まで伸びる赤い髪は振り乱され、170cm近い体を『く』の字に曲げて床に蹲る姿は、直視に耐えない。
彼女が着ている白い装束に至っては、傷を刻まれた右肩部分が生々しく裂け、布地の周囲を流れ出た血液で赤く汚されている。
これをやったのがあの男、ヨシア・ベラヒオ。
無抵抗の、それも女性へ陰惨な痛手を負わせ、喜悦を得ているような男だ。断じて野放しにしておく訳にはいかない。
パパだったら間違いなく脳天をブチ抜こうとするだろう。
……本当なら、もう1人が来てから行動に移る筈だったんだけど。
けれど、私は我慢出来なかった。彼女が奴に弄ばれる姿を、これ以上見てはいられないから。
私の行動は作戦を無視した独断専行に他ならない。私1人の勝手な行動で、きっと仲間を危険に晒す。頭では判っていたけれど、心が、魂が、見過ごす事を許さなかった。
だから私は今、此処に居る。
「フン、それにしても女神代行守護者ザンスか。正義の使徒を自称するイタイ連中の集まりが、我々の邪魔をしようとは。ククク、笑わせてくれるザンス」
「イタかろうが何だろうが関係ないし、笑いたければ笑うといい。私達の掲げる正義はあくまで独善的な正義だもの。万人に等しく正しい事と思われなくとも、私達が正しいと思うからやるのよ」
正義だ悪だなんてのは、主観で幾らでも変わるもの。10人居れば10人分の正義があって悪がある。所詮、私達の信じる正義もその1つでしかない。
私達の行動は、見る人によっては正義と映らないだろう。それでも私達は自分の信じた道を突き進む。
それがルナ・パレスの、そこに暮らす人々の安全と平和へ繋がると思うなら。
例え他者から見て悪だったとしても、私達にとっては紛れも無い正義。その正義の為に直走るのが、女神代行守護者なのよ。
「くだらんザンス。貴様等の主義思想に興味などない。だが邪魔をすると言うのなら、容赦してやる義理はないザンスね」
奴の、ヨシアの底知れなく昏い瞳が鋭利な輝きを見せる。
両手に握られた剣は刃先を下げられてはいるけど、あれは攻めにも守りにも転じられる形。
「それにだ、女神代行守護者の構成員を始末していけば、奴が現れるやもしれんザンス。貴様を此処で仕留めるのは、どちらに転んでも吉ザンスね」
ヨシアの目が剣呑さを増す。
吐き出す声にも危険な含みが感じられた。
だからといって怖れはしないよ。コイツを倒す為に下りてきたんだ。こっちだって望む所。
相手の得物は剣。対してこちらは銃。普通に考えれば、私に分があるんだろうけど。
でも正攻法で倒せるような相手じゃ、皆から恐れられはしない筈。状況を自分優位に考えるのは危険か。
どの道、手を抜くつもりはない。
両手に持つ愛銃の感触が、私を鼓舞しているような気がする。
強敵を前に気持ちが落ち着いているのは、その為かも。
両方共、パパと同じ型式の銃。
右手に握るS&W-M500-8インチモデルのカスタムタイプ「ホワイトフラッグ」。
左手に握るコルト・ガバメントM1911A1のカスタムモデル「ゴールドシーク」。
白と金のフレームを持つ2挺のグリップをそれぞれ握り直し、正面へ向けて構えを取る。
2つの銃口がヨシアを捉えるのと同じタイミングで、私と奴の視線が交差した。
「先手必勝!」
間合いを詰められる前に、撃つ!
ホワイトフラッグとゴールドシーク、双方の銃口から解き放たれた弾丸。隣り合う両弾は真っ直ぐ標的へ向かい、視線上に立つ男へと襲い掛かる。
その男、ヨシアに逃げる素振りはない。
これが常人なら『逃げられない』なのだろうけど、相手は悪名高い漆翼黒葬鋼狼軍の統率者。飛来する弾丸を躱すぐらいの芸当は軽くしてみせる筈。
それをしないとはどういう事か?
と、疑問には思うけど考えても仕方ない。相手が避けないのなら、それはそれで好都合。この気に畳み掛けるまで。
トリガーに掛けた指を引く。白と金の銃身を走り、次なる猛弾が強襲の咆哮を上げた。
腕に伝い来る衝撃。それは2度、3度、4度、5度と続き、その都度、攻弾を宙空へ舞い送る。
連続する銃弾の斉射を前に、あの男が取る行動は。
「くだらんザンス」
つまらなそうに一息吐いて、振るわれる片腕。
ヨシアの右手が剣を握ったまま、空気でも裂こうとする様に動かされた。
尋常な速度ではない。私の目は腕運の全てを捉えきれず、漆黒の軌跡を追う事すらままならない。
1秒あるか無いかの間に、奴の腕はいったい何往復したのだろうか。
気付いた時、その動きは既に止まっていた。静から動への急激な転向は、彼人の足元へ複数の銃弾を転がす事で終わる。
自身へ向けられた弾丸を、片手1本で全て叩き落したのだ。しかも良く見れば、床面に転がされた弾の全てが、中央から切断されているではないか。
「漆翼黒葬鋼狼軍のリーダーは伊達じゃない、か」
表面上は冷静を装い(成功していた筈)、私は短く息を吐く。
床に散らばった弾丸片から素早く視線を離し、内心の動揺が悟られないよう、可能な限り無機的な瞳でヨシアを見て。
ハイ・クリシズム製の強硬弾を、1つ残らず斬り捨てた?それも片手で、一瞬で?
化け物め! どういう身体構造してるんだか。
「まさか、これで終わりザンスか?」
投げられる疑問符。それが私の鼓膜を震わせた瞬間、アイツの姿が視界から消えた。
「って、わ!?」
反射的に横へと飛び退る。半瞬後、それまで私の居た場所に黒い剣閃が走った。
丁度、頭のあった辺りだ。もしも後僅かでも逃げ遅れていたら、私は額から頭部を上下に分断されていただろう。
それをやったのは勿論。
「ほぉ、少しは動けるようザンスね」
内容は感心だが、口調は嘲弄。
声の主である男、ヨシアが傍近くで声なく嗤う。
ある程度開けていた私との距離を、恐るべき速度で急接・無効化した様子。
視野の死角を移動したのか、目にも止まらぬスピードなのか。或いはその両方か。
しかして今は、答えを探す余裕がない。
「だが」
耳に届くのはヨシアの声。目に見えているのは奴の動き。
頭を狙って払われたのは右剣。次には左剣が突き込まれてくる。
脅威的な速度と威力を乗せた刺突。
身を捻り、これを紙一重で躱した。逃げ切れなかったコートの脇腹部が裂かれる。けれど体を斬られるよりはマシ。
「遅い」
冷淡な呟きの直後。
今し方抜けきった左剣と、停止していた右剣が同時に動く。
ヨシアは更なる踏み込みを1歩。合わせて袈裟懸けに下ろされる右剣、逆袈裟に斬り上げられる左剣。
両刃の動き、初動は見えてもその後は否。
漆黒の閃光が瞬いた後、位置を入れ換えた双剣だけが見えた。
「え?」
何が起こったのか、理解するより先に痛みが走る。
右肩から胸へ至り、そのまま左脇腹へと。逆に左脇腹から胸を抜け、右肩へも。
認識力が事態を把握した時、私の視界に血華が散った。
「ぐ、がはっ!」
体を斬られたと気付いたのは、到底鳴れぬ痛みに襲われてから。
脚の踏ん張りが失せて、腰が落ちる。
ズレる世界の中、見えたのはアイツの冷たい瞳。
「弱者は何も成せぬまま、死に伏すが常ザンス」
痛烈な感覚に呻く間も与えられず、黒い刃が眼前へ迫る。
寝かされた刀身が横へと滑る薙ぎ払い。直撃すれば確実に死。
しかし力を失くした今の脚では退く事が出来ない。
だから膝を折り、腰を落とした。体を下げる事で黒の軌道から頭を逃がし、必殺の一撃を躱す。
息つく前に、頭上を剣が過ぎった。
回避は成功。けれど安堵する訳にはいかない。当然だ。
私がとったのはたった1アクションだというのに、体に刻まれた傷が痛みの悲鳴を上げ、必要以上に自己主張する。
意識を掻く痛覚の奔流。今、これに飲まれたら敗北は必至。苦しくとも耐えなければ。
この間にも、相手は次撃の予備動作を始めていた。こちらの重苦など知った事かと、昏い双眸は冷酷に嗤う。
我が身の硬直は死への近道。
私はこんな所で、人生に幕を引くつもりはない。だからこそ、是が非でも対処するんだ。
気力を奮い立たせ、強引に痛みを押さえ込む。左手で右手首を掴み、手の震えを止めてホワイトフラッグの狙点を固定。
間を空けてはいけない。照準合わせと同時に引き金を絞り、ヨシアの頭へと1弾を発射する。
何時もは何てこと無い反動が、今はとてつもなく辛く感じられた。
痺れる腕と疼く身の痛みを堪え、意識を集中して脚に渇を。無理矢理にでも両脚へ力を送り、即座に後方へ跳ぶ。
着地と共に再度床を蹴り、更に後ろへ。
敵との間合いを開ける必要があった。先刻のように一瞬で詰め寄られるかもしれないけれど、接近戦を挑むよりマシだ。
コイツを相手にして、向こうの土俵で勝負する?冗談はよし子さんよ。
充分な距離を取った所で、改めて銃を構える。ホワイトフラッグ、ゴールドシーク双方の銃口をヨシアに定め、真っ直ぐ正面から見据えた。
問題の相手は平然としたもの。退き下がる際に撃った弾は、事も無く避けられてしまったらしい。顔には傷1つ、汚れ1つ付いていない。
この男、噂通り、いや、噂以上の実力者だ。ザンスザンス煩い変人ではあるが、能力の高さは認めざるおえない。
先走って1人で挑んだのは無謀だった。今更ながら、自分の考え無さを呪いたくなる。
「雑魚の割には粘るザンスね。何とも目障りこの上ないザンス」
ヨシアは私を睨み付け、忌々しげに吐き捨てる。
瞳に宿る光は零下の域。直視される最中、傷口が凍て付くような錯覚を覚えた。
先の刀傷は、幸いにも致命傷へは及んでいない。痛みは激しいながら、何とか耐える事も出来る。
これも着込むセーラー服のお陰だ。
コートは何の変哲もない普通の品だけど、その下に来ている薄桃色のセーラー服は、女神代行守護者が有する技術を盛り込んで作られた一品。
手触り、肌触りは一般的な衣服と大差ない。しかし門外不出の特殊繊維で織り上げられた女学生服である、その防御力たるや生半可な装甲など紙屑とも思えるレベル。
私も詳しい事は知らないけれど、柔性と剛性を兼ね備えた特注品との事。パパが私の為だけにオーダーメイドで作ってくれた、宇宙に1着のライナ・ダートルーナ専用装備。
これの性能があったから、生死に直結する大ダメージを防ぐ事が出来た。でも受けた傷とて、けして浅くはない。
セーラー服は右肩から左脇腹までがザックリ裂け、切り口と同じ傷が私の体にも刻まれている。
傷の深さは、取り返しのつかなくなるだろう数歩手前。驚くほど綺麗に断たれた筋肉が、余計に怨めしい。
凡百の装具を一笑出来る高性能なセーラー服を越え、私自身に傷を負わせるヨシアの腕。これは単純に脅威だ。
尤も、嫁入り前の乙女の柔肌にこんな無惨な傷を付けやがった怒りが、恐怖やらを上回っているので逃走意欲を湧かせはしないけど。
それはそれとして、受けた傷をこのまま放置しておく訳にはいかないだろう。
今も裂傷部からは血が流れ出し、少しずつだが着実に私の体力を奪っている。今の状態を何時までも維持していれば、遠からず動き回る為の余力を失うは明白。
何とか止血だけではしなければ。
そうは思っても、実際に出来るかと言われれば答えはNO。奴が目を光らせている限り、余計な隙を見せる訳にはいかない。
今までさえ、ギリギリ逃げ切るのがやっとという程。ここで1つでも失敗すれば、相手にとって有意な状況を作ってしまえば、それが直接の死因へ繋がるだろう。
だからといって現状に甘んじてはいられない。
うぅ、なんというジレンマ。
「さっさとクタバッてくれると、有り難いんザンスがね」
「残念だけど、その御願いは聞けないわよ」
「そうザンスか」
ヨシアはそれと判るほど大袈裟に肩を竦める。
こちらを馬鹿にしているとしか思えない、これ見よがしな態度だ。
「では仕方ないザンスね。強制的に、冷たくなって貰うザンス!」
来る!
最初に動いたのは奴の左腕。私との距離は相当分開いているというのに、握る剣を上方から下方へと振り下ろす。
しかしそれは無意味な行動ではない。その証拠に、振るわれた剣は刀身が複数に分解され、幾つもの節を持つ鞭状の形態へ移行。一瞬で何倍もの長さになると、雄々しく撓って襲い掛かってきた。
「あっぶな!」
肩から脇腹にかけての痛みを押して、私は横へと跳び退る。
立ち位置を離れた直後、正に今居た場所を撓んだ刃が打ち据えた。素早かな一撃で床が裂け、構材の破片が巻き上げられる。
恐るべき破壊力。通常の剣として振るわれた時以上の力ではないか。
もしも直撃していたなら、命中箇所は肉と骨が一緒に砕き斬られていただろう。軽く当たっただけで、肉が抉られかねない。
「鼠めいたすばしっこさ、褒めてやるザンス」
全く笑っていない目が、正確に私を捉えている。
奴は私を見たまま大きく横へと跳び、左腕を横に振るった。それは即ち、手にした黒の鞭剣が薙ぎやられた事を意味する。
空中で半弧を描き、急速に迫り来る黒鞭。
先の移動が痛みを煽り、再度の回避行動は取れそうにない。だから大人しく攻撃を受ける?
まさか!
「このっ!」
撓り来る鞭状剣の中腹部を狙い、ホワイトフラッグとゴールドシークの弾丸を撃ち込む。
同じタイミングで放った両弾は正確にロックポイントへ飛び込み、節と節を繋ぐ抜き身のワイヤーへ激突。そのまま一気にワイヤーを押しやり、総じて鞭全体の軌道進路を乱した。
こちらが避けられないなら、襲い来る側に外させればいい。
直剣の状態では出来なかったろうが、多量の運動エネルギーを備えて長距離を進む鞭ならば、攻撃を1点に集中する事で全体の流れを狂わせられる。
私の狙い通り、黒い鞭刃は当初とは異なる方向へ走り、見当違いの壁を打った。
「小賢しい真似をしてくれるザンス」
自らの意思に反した鞭の動きを横目に、ヨシアの口から憎悪の塊が零れる。
あくまで抵抗を続ける私に、黒い感情を高めているだろう事は容易に知れた。
心の乱れが、攻撃の正確さを少しでも鈍らせてくれる事を期待したい。
「面倒ザンス。先にあっちの女を片付けるか」
「な、なんですって!?」
意表を突く相手の発言に、私は思わず叫んでしまう。
この状況で私じゃなく、彼女を狙うというの?目の前の相手を捨て置いて、戦意の無い無抵抗な者を襲うなんて。
何の為に?私が倒し辛いから?だから先に仕留められる方を標的に?
自分の言葉が虚言で無い事を照明するように、奴は右手を、そこに握る剣を振った。
横振られた腕の動きに合わせ、通常型だった刀身が分離。複数の節と中心のワイヤーからなる鞭状に変化する。
それは使い手の意思を受けて、床に倒れている赤髪の女性へ向かい走った。
最早疑う余地は無い、ヨシアは本気だ。
負傷と疲弊が一目で判る今の彼女には、奴の剣を避ける術がないだろう。このままでは彼女が危ない。あの剣を止めなくては。
両手に持つ愛銃のグリップを強く握り、伸び行く剣の腹面を狙う。
刃が彼女へ到達する前に行動を妨げるべく、双銃のトリガーを同時に引いた。
白と金の銃口から吐き出された硬弾は視認し難い速度で直進し、目標物へと吸い込まれていく。
と思われた。けど。
「あっ!」
予想外の事態が起こった。
彼女を狙う鞭刃へ命中するより先に、私の放った弾丸は、突然現れたもう一方の刃にぶつかってしまう。
ヨシアの握る左手の剣だ。こちらもまた鞭状に変形された長刃が、女性へ迫る剣と飛来する弾丸の間に入り込み、2つの銃弾を斬り裂いた。
私が剣の進行を妨害する目的で銃撃する事を見越し、奴はそれを妨害する為に、もう片方の剣を動かしたのか。
迂闊だった。奴の剣も2本、少し考えれば、どう使うか予想出来そうなものなのに。
結果は相手の目論見通り。私の攻撃は、彼女を護る礎とは成り得なかった。
「ククク……」
アイツ、笑ってやがる!
私の目的が不発に終わったのを、さも可笑しそうに嘲って。
ムカツク!
だけど今はそれどころじゃない。早く何とかしないと、彼女を助けに来たのに助けられない。
こうなったら。
「ええい!」
私は走った。
奥歯を噛み締め、引かぬ痛みを何とか堪え。
何も、自分を彼女の盾にしようと思った訳じゃない。それ以前に私が今から全力疾走したって、舞い飛ぶ剣には追い付けないし、追い越せる筈もないから。
私が狙ったのはもっと別。左剣が私の邪魔をして右剣を護るなら、その死角から右剣を攻めるしかない。
長い剣刃を遣り過ごし、もう片方のワイヤー部へ1発でも撃ち込めればいい。それが叶えば、彼女を襲わんとする刃は制御を失い、狙った場所へは行かなくなる。
走りながら、右剣との合間へ滑り込んでくる黒鞭を見た。流れる刃がカバーしきれない部分を、見落とさないよう注意深く探る。
焦ってはいけない。落ち着いて。
「馬鹿め」
この時、ヨシアの毒を含んだ呟きが、私の耳朶を打った。
何事かと思うより早く、私は見る。それまで女性へ向けられていた鞭剣の刃先が、突然空中で折れ曲がり、こちらへと迫ってくる光景を。
「な!?」
私は左剣の死角を探しながら右剣を追っていた。その右剣が急遽反転し、私へ向かってくるのだ。逃げる暇はない。
Uターンするように進路を変えた長刃は一気に最接近を果たし、暴力的な勢いを以って私の右腿を貫く。
「うああぁぁ!!」
痛いッ!!
単純明快な、それだけに強烈な思いが、脳裏と胸中で同時に爆ぜる。
鋭刃の躊躇ない突貫に皮膚と筋肉を抉られ、抑えきれない悲鳴が零れた。
激痛に歩は止まり、バランスを崩して倒れる。受身も取れずに床へ横倒れ、半身を強く打ち付けてしまった。
現在進行形で荒れ狂う脚の痛みと、転倒の衝撃が直に伝わった胸の傷から発せられた痛みが、相互に合わさって重複作用を起こし、私に嗚咽を量産させる。
「う、ぅぅ、あぁぁあぁ……」
「戦闘中に余所見とは、随分余裕ザンスねぇ」
闇の底を覗くような昏い瞳。その視線を真っ直ぐに注ぎ、ヨシアは淡々と告げる。
脚をやられた為に行動を大きく制限された私へ、そのまま1歩ずつ近付いてきた。
「自分の身すら護れん未熟者が、他の誰かを護ろうとはな。ククク、片腹痛いザンス」
私の悲鳴に対し、ヨシアは冷笑を以ってこれに応じる。
野良犬や野良猫に向けるような蔑みの目。惨めに這い蹲る私を見下す、無情の眼差し。
それが私の自尊心を、無惨に踏み躙っていた。
「あ、アンタ、最初から、このつもりだったのね」
身動き出来ない彼女を狙えば、私が彼女の為に動くと踏んで。
コイツの使う剣は思うが侭、自在に操作出来たんだ。私が彼女を助けようと剣に意識を向けて動いたら、そこを狙って襲撃対象を変える。移動中の刃を巧みに操って、私を襲うのが本当の目的。
私はまんまとコイツの罠にハマッてしまった。
「く、この……卑怯者!」
「卑怯? 現在ある、あらゆる物を利用して勝ちを得んとするのが、卑怯? ククク……面白い事を言うザンス」
空気が震える。
奴が、ヨシアが低く嗤っているから。
「貴様は御遊戯でもやっているつもりか」
奴の底深い目が私を射抜いた瞬間、背筋に寒気が走った。
恐ろしく暗く冷たい気配が、あの男の全身から放たれ始める。それは直ぐに空気へ染み入り、周囲の気温を数度も下げたような錯覚さえ感じさせた。
いや、もしかしたら実際に下がっているかもしれない。
「これは戦い、殺し合いザンスよ。喰うか喰われるか、生きるか死ぬかの真剣勝負。敗者は全てを失う、命懸けの戦ザンス。勝つ為の手段を選ぶなど、馬鹿な二流の気取り屋でしかない」
かつて見た事のないような闇が、ヨシアへ纏わり付いているように見える。
或いは、ヨシアから溢れ出ているのか。
私に注がれる感情の無い双眸が、危険な輝きを宿したのはこの時。
「どうやら貴様は状況が判っていないようザンスね。まさか命までは取られんなどと、阿呆な幻想を抱いているんじゃないザンスか」
「うあぁっ!!」
床に伏して悶える私を、更に新たな痛みが襲った。
先まで銃撃の妨害をしていたもう1剣が、無防備となった私の脇腹を叩き裂く。
着衣を割き、肉を断ち、血を迸らせる黒い刃。私から立ち上がる余力を奪うのは、それで充分。
後から後から湧き上がる痛みに意識を侵され、私は満足に動けなくなってしまった。
「だとしたら、貴様は救い難い愚か者ザンス」
「あぐぅっ!」
続け様、2度、3度と新たな痛みが全身を駆ける。
ヨシアの左手が動き、黒の鞭刃が無造作に私の体を打った。その都度、肉が裂け、流れ出る血が皮膚と着衣を汚す。
「その御目出度さは、貴様自身の持ち味ザンスか? それとも女神代行守護者の教えザンスか?」
攻撃は止まらない。
鞭剣の嬲るような打斬は執拗に繰り返され、それからも何度となく私を刻んだ。
途中からはもう、自分自身の悲鳴さえ判らないほど。
「どちらにしても、ロクなもんじゃないザンスね。そうは思わんザンスか?」
「うぅぅ……」
それまで腿に突き刺さっていた刃が、申告もなく引き抜かれる。
赤い雫を付着させたまま、うねるように動く剣。しなやかな刀身の舞いは然る後に、荒ぶる凶器の猛襲を誘い発つ。
最早私には、逃れる術も、抗う気概も残っていなかった。2本に増えた死の担い手に体を抉られる度、私は反射的に全身を痙攣させて呻くばかり。
嘆きも恐怖も、今は現実的な痛みに押し潰され、頭の中にも心の中にも居場所はない。
視界は霞み、力は抜け、呼吸は辛く、混濁した感情は収拾もしないで薄れていく。
何もかもが遠ざかっていく感覚。これが、死?
見えない闇に蝕まれ、刻々と黒く塗り潰されていく意識の中で、私は朦朧と考える。
私とヨシアの間には圧倒的な差があった。
単純な実力、心構え、状況を把握・認識力する力、逐一の甘さ。どれに於いても私は奴に及ばず、奴は私を上回っていた。
その結果がコレ。当然と言えば当然なのだろうか。
アイツのように非情へ徹する事が出来れば、もう少し違っていたかもしれない。狙われた彼女を助けようとしなければ、そもそも、彼女を護ろうと単身で乗り込んでこなければ、こんな事にはならなかった筈。
だけど、それは無理だ。痛めつけられている人を見て、苦しみもがいている人を知って、何もしないで見て見ぬフリ。そんな事、私には出来ない。それが出来たら、もうそれは私じゃない。
無計画に飛び出していった愚かさは賞賛なんて出来ないけれど、それでも私は自分が自分で在る為に動いたと、胸を張って言える。
結果として負けてしまったけど。
でも、少なくとも、自分の心に嘘は吐かなかったから、そこだけは満足して逝ける。
勿論、死ぬのは嫌だし、もっと生きたい。だけどそれが出来ないなら、せめて誇って終わりたい。自分らしさを。
「その痛みは貴様の弱さが証ザンス。己の無力を噛み締めて、死出の旅へと出るがいい」
散々に私を打ち据えた両剣が、一際大きく反り返る。
奴は次で決めるつもりだ。逃れるだけの力が残っていない私には、結局どうする事も出来ない。
せめて一矢報いてやりたいけど、それすらも現状では……
「止めなさい!」
予期せぬ事とは重なって起こるものなのだろうか。
ヨシアが腕を動かそうとした瞬間、大気を揺すって制止を告げる声が響いた。
私の物でも、奴の物でもない。しかしこの場に居る人物のもの。
声の出所に思い至って、そちらへ視線を向けようとした時。私とヨシアの間を紅蓮の炎が駆け抜けた。
それによって気を逸したのか、振るわれると思った奴の双剣は動きを止める。
代わりに首を横向け、炎の発生源へと両目を定めた。
「そういえば、貴様は魔法が使えたんザンスね。捨て置いたのは失敗だったザンス」
一拍遅れて私も見る。
声の主にして炎の生み出し主は、先まで倒れていた赤髪の女性。
彼女は血に濡れた着衣はそのままに、両の脚でしっかりと立ってヨシアを睨みつけていた。
右肩には痛ましい傷痕が残っているけど、それだけだ。既に血は流れていないし、傷口は殆ど塞がっている。
彼女は肩を魔法で癒し、次いでヨシアの邪魔をすべく炎を紡いだのだろう。ヨシアが私を責めている間に。
魔導法士と会った事はあるし、実際に魔法を使う所も見た事がある。だから特に驚きはしないけど、それでも魔法の利便性には毎度舌を巻く思いだ。
詠唱やらと制約があるから1対1で戦う時には不利だけど、仲間と組んで使えれば安全に準備が出来、非常に強力な力となる。今みたいに、危機を脱する事だって難しくない。
彼女と連携が取れれば、コイツにも勝てるんじゃ?
「退きなさい。でないと次は、直接当てるわよ」
白い患者衣を血に染めて、しかし彼女は臆する様子もなく言い放つ。
細められた険しい眼差しが、無感動な男の顔皮を刺した。女性の双眸には強い意志が光り、発言が本気である事を教える。
「つまり先ほどの攻撃は、私への警告ザンスか。敢えて外してくれるとは、お優しいザンスねぇ!」
凶暴な一声と共に、ヨシアの腕が薙がれた。
奴の握る右剣が撓り、瞬き程度の間で刃は彼女へ飛び掛る。
「っ!」
直撃するかと思った。
でも彼女は咄嗟に後ろへと跳び、ギリギリで払い抜かれる黒刃を躱す。
危ない。本当に危機一髪だ。でも回避は出来た。これで。
「甘い」
かと思えば、ヨシアが右手首を捻る。
持ち手の動きは長く伸びる刃へ正確に伝わり、中心に通ったワイヤーで繋がる剣片達が、一斉にのたうつ。歓喜の舞を踊る蛇の如き異容が、突如として真っ直ぐに突き進んだ。
「そんな」
彼女の目が驚愕に見開かれる。
その瞳が映すのは黒の鞭剣。迫る刃先。
何かアクションを起こすより早く、鋭利な切っ先が彼女の腹部へと一気に減り込む。
「かはっ……」
私は見てしまった。女性の口から垂れた血を、その色艶まで克明に。
伸びた刃に腹部を貫かれた彼女は、震える手で自らに突き立った刃を握る。
重力に引かれて口から落ちる血と、触れた刃で切れた手からの出血。更に白着の下方に広がる赤で、女性の足元に深紅が溜まった。
「最初の一撃で私を狙わなかったのは、失敗だったザンスね。……いや、狙えなかったのか。先にあれだけ痛めつけられれば、思うとおりに集中出来なかろう。1発撃てただけで大したもんザンス」
賞賛なのか皮肉なのか、判然としない口調で述べつつ、ヨシアは右腕を振り上げる。
片手の躍動は剣を導き、刃に貫かれたままの女性を、空中へ引き上げた。
信じられない程の腕力。見た目には筋骨隆々でもないのに。いくら相手が細身の女性だからって、得物を介して人1人を片腕で持ち上げるなんて、アイツの馬鹿力を異常だ。
此処の天井はけして高くない。其処へ彼女は、顔面から叩きつけられる。
「げほっ!」
「フン」
肉と硬材のぶつかる嫌な音が聞こえた。
彼女の呻き声と、ヨシアの失笑が後に続く。
赤く腫れた顔面、潰れたような鼻、そこから流れ出る赤黒い血。見るに耐えない女性の姿。私は思わず視線を逸らした。
それでも目端に映り込む、アイツの動き。
右腕を今度は横に振り、鞭刃に刺された彼女を空中で放る。
勢いに負けたのか、奴がそうしたのか、この時になって彼女の腹部から刃が抜け、女性の体が背中から壁へと激突した。
痛烈にして盛大な衝撃音が響き、彼女は床に落ちる。
「これで暫くは大人しくなるザンス」
生々しい血液を滴らせる黒刃をくねらせ、ヨシアは感慨も無く言い捨てた。
その眼はもう彼女を見てはいない。奴の両瞳が捉えているのは、私。
「仕切り直しザンス。いざ、地獄へ」
黒い感情の毒を口から吐き、奴は剣を握り直す。
剛力、技巧、冷血。ヨシアの恐ろしさをまざまざと見せ付けられた私は、我知らず震えていた。
恐怖から?
違う。
これは怒りだ。
この男は、どこまで行っても私と交わる場所の無い完全な敵。それが今改めて、より強く確実に理解出来た。
女性に対して、実力差の明白な相手に対して、微塵の憐憫もない仕打ち。
これは戦いだから? 殺し合いだから? やって当然? 当たり前?仕方ないの?
そんなの、私の知った事じゃない!
理屈だとか、道理だとか、全部どうでもいい。頭で考えるのはもう止め。
心が訴えてくる。吠え立ててくる。アイツの遣り方は絶対に許せない!
私はアイツを、絶対に許さない!
心臓が焼けてるみたいに胸が熱い。血液が全部沸騰しているような、抑え切れない衝動が漲る。
体の奥から湧き上がる激情に押されたのか、全身を舐める痛みは驚くほど薄れていた。
だから動かせる。両腕を。
あれだけ攻撃されてたのに、私の手は両方共銃を握ったままだ。
右手のホワイトフラッグ、左手のゴールドシーク。
先祖代々伝わる家宝で、パパの愛銃でもある2つを真似て、私が自分の手だけで作った私の分身。
放さなかった。どんなに痛めつけられても、これだけは。
私の体は、負ける事を認めていなかったんだ。今なら判る。魂も、抗う事を求めてる!
「さっきまで死魚の目をしていたのだが……何ザンス、その眼は? 実に気に入らんザンスね」
倒れた私を見下ろすヨシア、言葉に乗って届く怒気。
だからって怯まない。こっちだって持てる激憤を全部込めて睨み返す。
「無能な弱者の分際で、私に楯突こうという目ザンス。胸糞悪い、反吐が出る」
奴の昏い瞳に、黒い殺意が浮き上がった。
纏う負の気は一層の暗さを増し、私を押し潰すように圧し掛かってくる。
でも負けない。負けてなんてやらない。
煮え滾る感情は頭まで達しているようだ。神経も全て麻痺してしまったんだろうか。今や痛みは遥か遠く。体のダルさも、血を失った欠乏感も何も無い。
ゆっくりと、私は上体を起こした。その動きに、アイツの目が僅かだけど開く。驚いたみたい。
まだよ。
今度は手を動かす。両手を肩の高さまで上げて、それぞれ横に、壁目掛けて伸ばす。
勿論、両手はしっかりと銃を握って。
「まだ動けるザンスか。本当に粘っこい奴ザンス。もういい、死ね」
ヨシアの両手が肩より上へ上がる。握った鞭剣を、一気に私へと叩き付けるつもりだ。
やらせはしない。
先に動くのは私の指。左右の人差し指がトリガーを引き、白と金、2つの銃口から弾丸が飛ぶ。
開かれた両手から壁へ向かい、宙を駆け行く双弾。
更に指を引く。両銃が弾を吐き出す。更に引く。もう1度、もう1度、もう1度、もう1度。
微妙に俯角を付けて放った弾は壁に当たり、跳ね上がり、或いは跳ね下がる。
連続する弾丸が次々壁を蹴り、上に行けば天井を蹴り、下へ行くなら床を蹴り、壁に戻れば更に蹴って空間を走った。
「これは……小癪な真似をするザンス」
私の意図を察したのか、ヨシアは忌々しそうに視線を彷徨わせる。
奴が動きを止めて忙しなく追っているのは、縦横無尽に四方を走り回る弾丸。
その軌道はヨシアを完全に捕えている。跳弾による弾丸の牢獄だ。ヨシアが立つのは、その渦中。
ヒートアップした頭が、余計な雑念を締め出してくれた賜物だろうか。膨大な量になる弾道の計算は、今までで最も早く出来た。
常の癖から知らず知らずの内に此処の構造を記憶して、頭の片隅で分析していたお陰もあるだろう。これらを無意識に行えている自分に、私自身驚いている。
死の淵まで追い詰められた事と、規格外の激情が、私の中で何かを覚醒させたのかも。
それならそれでいい。今は目前の事に集中!
「おおおおおぁぁぁッ!!」
灼熱する感情が口から咆哮を汲み出し、手に伝わる銃撃の振動を強制的に遮断する。
まだ足りない。もっと、もっと多く!
今装填されている弾丸を撃ち尽くした直後、私はトリガー横のボタン式マガジンキャッチを押した。
ロックの外れた空弾倉がグリップ下から落ちる最中、腕を上下に揺すってコートの袖口から新しいマガジンを滑り出させる。
それは両銃のグリップ内にすかさず入り込み、同時に再ロックが起動。
微かな感覚からそれを知るや、私は銃撃を再開した。
最初に撃った弾丸と、装填後の弾丸が複雑に絡み合い、決して接触する事無く交差を続ける。
逃げ場ない弾雨の中にヨシアを閉じ込めて。
「荒弾不透必殺跳弾雨あられ!」
長年を掛けて磨き上げた私の最高最強必殺技。
その名を叫び上げ、最後の1発を撃つ。
繰り出した硬弾は無数に行き交う弾丸の輪に突っ込んで、進行途中の1つに命中。
それが合図であり引き金となって、予測軌道を外れた弾が最寄の銃弾に接触。後はドミノ倒しが如く、弾丸がぶつかり合って新たな動きを始めた。
即ち、中心への密集飛来。
撃ち出した全弾が標的、ヨシアへと一挙に襲い掛かる。
「貴様ッ!! ゆるさ」
奴が何かを終わる前に、四方八方から銃弾が殺到し、言葉を掻き消した。
無数の弾丸が織り成す一斉攻撃は、極度の摩擦で削れ落ちた硬材ハイ・クリシズムの灰煙を掻き広げ内外を閉ざす。
これら全てが直撃したなら人間は見るも無惨な肉塊と化すだろうから、有り難い副産物だ。
多量の銃弾に全身を刳り貫かれ、グズグズの襤褸雑巾の如く変質していく様を、リアルタイムで視認しなくて済むのだから。
「ライナ流正義、完了」
やってやった。
燻る灰煙を眺め見て、私は両腕を下ろす。
言葉と一緒に熱い吐息を零すと、急に全身から力が抜けていった。
緊張が途切れた所為か、体の限界か。
でも、後悔はしていない。暴力での報復は美しくないけど、それでも満足だ。
言って判らない奴には力づく。それが私の遣り方だから。
その捻じ曲がった魂に、鉄槌で矯正を下す。
人の痛み、これで理解出来たでしょ。
激怒の感情が生み出す猛烈な熱気が治まり始め、一緒になって闘志と力が消えていく。
急激な眩暈が起こり、凄まじい痛みと、耐え難い吐き気、氷で出来た風呂へ叩き込まれたような寒気が何処からともなく這い登ってきた。
今回ばかりは、流石に無理をしすぎたと自覚。
私の意思とは無関係に震え出した全身は、どうやっても止められそうにない。
上体起こしも、腕の水平構えも、これ以上続けられそうに無く、私は崩れるように床へ倒れる。
最後の力と気力を振り絞って、床との激突を最小限の衝撃に抑えようとするも、あまり上手くいかなかった。
重力に引き摺られてガックリと床に伏し、体全体で冷たい底と接吻する。
新たに走った痛みは、既に体中を隅々まで蹂躙している痛覚に呑まれ、殆ど感じる事が無かった。それがせめてもの救いと言えるかどうか。
当然ながら私にはもう、指先1本とて動かす力は残っていない。情けない事に、声を出すのも億劫だ。
本当なら、さっさと此処から逃げ出すべきだけど。動きたくても動けない。
随所に刻まれた傷口から、血液と一緒に活力と体力も流れ出ているようだ。
漆翼黒葬鋼狼軍のリーダーは斃した。これで私達の活動は、随分と遣り易くなる筈。
私は女神代行守護者として、充分な活躍をしたと思う。その代償が今の惨状なら……やっぱり、マイナスの方が大きい、かな?
「窮鼠猫を咬む、というやつザンスか」
な……この声は!?
耳を疑う。疲労困憊、血液不足、大ダメージの影響で、幻聴を聞いているのか?
鼓膜を震わす声が信じられない。確認しないと。
首を擡げる力も残っていない今、目だけを何とか動かして、連弾着弾点を視界に入れる。
見ている前で灰煙は徐々に薄まり、閉ざされていた内の様子を、次第に露とした。
そこに在ったのは。
「雑魚にしては面白い技を持っているザンス。ふむ、及第点はやろう」
晴れいく煙集の只中で、そいつは前と変わらぬ位置に立っている。
ヨシア・ベラヒオ。
あれだけの攻撃を受けて、生きていた?
「しかしまだまだザンスね。この程度の芸当で、私を倒せると本気で思ったザンスか」
そんな、どうして……無傷なんて。
アイツの体は、そんなに硬いっていうの? ハイ・クリシズム製弾丸、数十発分の直撃に耐えられる程。
そんな馬鹿な事……
「こんな物で負けていては、漆翼黒葬鋼狼軍の首領は務まらんザンス」
勝ち誇るでもなく、事も無げに言ってのける。
海は青い、森は緑、炎は赤い、そんな当然の事を意識せず語るような、簡単な調子で。
私の最高最強必殺技など、最初から無かったかのように。
「ど……し……て」
あまりの事に、痛みも何も忘れて喉が震えた。
内から迫り上がる鉄の味と赤い液体が声と共に零れ、聞き取り難い音になったけど。
「確かに軌道は読めんザンス。迂闊に動く事も出来ず、私を閉じ込める事は出来たいたザンスよ。しかし特筆すべきはそれだけザンス」
アイツは、つまらなそうに私を見ている。感情の無い昏い瞳で、見下ろしている。
最早、這う事さえ出来ない私を。路端に転がる動物の屍骸を見るような目で。
「どんなに不規則に動こうと狙いは判っていたザンス。最終的には私へ来る。到達点が判っていれば、防ぐなど造作もない。面白くはあるが、実に対処のし甲斐がない1発芸だったザンス」
ヨシアは表情を変えず、鼻で笑う。
そこで気付いた。目端に映るアイツの剣が、鞭みたいな長刃が、攻撃前と違う形にトグロを巻いている事に。
ああ、そうか。
奴は全弾が襲い掛かる直前で、あの剣を振るい、自分の周りを固めたんだ。花弁を閉じた蕾みたいにして。
2本の剣で同時に覆い、降り掛かる銃弾の直撃を防ぎ、威力を全て殺してしまったのだろう。
その結果として、奴は無傷。
私が長年掛けて磨いた技を、1発芸呼ばわりして、終わりにしてしまった。
でも、あの状況で、そんな事が出来るなんて。信じられない。
長い鞭剣が少しでも弾丸に触れれば、それだけで全体のバランスが崩れて、弾雨に見舞われる。それに反動と衝撃で剣は弾かれ、防御に使う暇さえない筈だ。
それなのに、見事やってのけたという事は、一切弾丸には触れさず、鞭剣を操って護りに宛がったという事。
針に糸を通すような作業を、1歩間違えば確実な死に包まれる難事を、小さなミス1つ許されぬ切迫した状況で、達成したのか。
なんという集中力、精神力、タフネス、技能。
コイツ、どんな化け物よ。
「お喋りも飽いたザンス。終いにしよう」
持ち上げられる両腕。撓む双剣。
私の命は風前の灯。
反意ももう、失せてしまった。
これから来るのは、私の命を絶つ死の一撃だと思っていた。
生まれてこの方、18年の短い人生。それを終わらせる殺戮の煉鞭が、無為に降り注ぐものだと。
けれど、私の予想は外れる事になる。
傷だらけの我が身を打ったのは、黒い刃の鞭剣ではなかった。
直接的な物体が生み出す衝撃ではなく、もっと別の、外に掛かる大きな力に根差す震動。
私の全身を、いや、そればかりでなく、この空間全体を震わせる鳴動だった。
地震?
一瞬、そんな予想が脳裏を過ぎる。だけど直ぐ、その考えを否定した。
こんなタミングで都合良く地震は起きない。だったらこれは、その原因は、私の思う通りである筈。
「今日は邪魔ばかり入るザンスね。まったく、厄日ザンス」
「あ〜ら、それは大変ねぇ〜。同情するわぁ〜」
ヨシアの独語に応える声。
此処には私と、コイツと、赤髪の女性しかいない。だけど、その中の誰とも違う。
甘ったるい、絡みつくような声が、連続する震動と共に闇へ広がる。
私はもう満足に動けないから、その主を見る事は出来ない。でも、姿を目に映す必要はないぐらい、その人物は良く知っている。
目には見えなくとも、頭の中に描き出される彼人の姿は。
「私の部下共は何をしているザンスかね。侵入者の闊歩を許すとは。これは再教育が必要ザンス」
「うふふふ、貴方の手下を怒らないであげて。アタシ達はね、人のお家の中へコッソリ入り込んで動き回るのが得意なの。イ・ケ・ナ・イ・事するのが、だぁ〜い好きだから」
身長は160と少し。ウェーブの掛かる金の髪を背中まで流し、黒いハイソックスと、黒紫のゴシック調ドレスを身に纏う。
シミ1つない綺麗な顔には天使の笑顔を刷き、どこか妖しい色香を伴う15歳。
「この揺れ、貴様が何かしたザンスね」
「あは〜ん。この列車ってぇ、無骨で簡素で色気があーんまり無いんですもの。だから気を利かせて、綺麗な花火でデコレーションしてあげたの。だから今これは、とっても輝いてるわぁ〜」
今回のミッションを、一緒にこなす予定だった私の相棒。
女神代行守護者の一員、タレス・ルーネンメビュラ。
「また面倒な真似をしてくれたザンスね」
「うふふふ、お礼は結構よ。そこのお嬢さんと、あっちのお姉さんを引き渡してくれるだけで充分」
「フッ、それでは悪いザンス。私からの心付けだ、受け取るザンス!」
ヨシアの動く気配が判った。
あの鞭剣を振るい、タレスを攻撃するつもりなんだ!
でも。
「――ッ!」
轟音が響く。
それへ続く硬い金属音。ヨシアの握った剣が、床に落ちた音。
まだ僅かに動く目だけを前へ向けると、そこにアイツの姿が在った。
右腕の、肘から先を失くして。
「あは〜ん、危ない物を振り回しちゃいけないって、ママに教わらなかったの、お兄さん?」
「貴様……」
「あーん、そんな目で見詰めちゃイヤよ〜。乙女を見る時は、もっと優し〜く、し・な・きゃ・ネ!」
2度目の轟音。
今度聞こえてきたのは、さっきよりも大きな物が床へ落ちる音だった。
私が見たそれは、左脚を吹き飛ばされたヨシア。片足を失い、立っていられなくなったのか。
「あらあら、お兄さん、根性あるじゃないの。普通だったら悲鳴の1つや2つ上げるか、下手したらショックで死んじゃうぐらいなのに。呻き声さえ上げないなんて、凄いわね〜」
血と硝煙の臭いが満ちる此処には場違いな甘ったるい声で、タレスは感嘆の音を上げる。
何時ものように可愛らしく振舞っているんだろうけど、今、あの子の手には大口径のショットガンが握られている筈だ。
それがあの子の得物だから。
自分の半身程もある長大な銃体、人の拳大もの銃口、半端な力では到底引けない遊底、威圧的な黒金の銃身、それらが合わさり、あらゆる物を粉砕する圧倒的破壊力を持った攻撃兵器。
そのくせ名前は「天使の口付け」。
狙った相手を一撃で天国へ叩き込む、そういう意味なのかは知らないけれど。
「お兄さん、その冷たそうな所とか、けっこう好みなんだけど。敵対するのは残念ねぇ。また今度、OFFの時にでもお茶しましょ」
「……貴様、このままで済むと思わん事ザンス」
床へうつ伏せに倒れたまま、ヨシアは首を上げてタレスを睨む。
一方のタレスは溜息を吐いているようだ。首を左右へ振ってる感じもする。
「んーも〜、色気のない事言わないでよ〜。アタシの気が変わって、脳天に1発ブチ込んじゃうわよ?」
「フン、私を生かしておくとは、とんだ甘ちゃんザンスね」
「やーね。貴方がアタシの好みじゃなかったら、とっくにぶっ殺してるわよ。アタシ好みの顔だった事、神様に感謝しなさい」
あのヨシアに余裕の態度で接しながら、タレスは近付いてきた。
ヒールが床を打つ音が、周囲へと甲高く響く。
私としては此処で奴に止めを刺して欲しいんだけど。声は出ないし、手も動かせない、意思を伝える術の無い事が悔やまれる。
「あ〜らあら、ライナちゃんったら、随分イイ格好になちゃったわねぇ。ジークちゃんが知ったら、卒倒しかねないわよ」
直ぐ傍まで来たのだろう、タレスの声が近くから降って来た。
呆れたような声に、私は何も言えない。
「これに懲りたら、猪みたく突っ込むのは止めて頂戴ね。ま、今回はライナちゃんが、そこのお兄さんを引き付けてくれてたから、アタシは楽に仕事が出来たんだけど。+−でトントンってトコロかしら」
私からは『彼』の顔は見えないけど、何時ものように微笑んでいるのだろう。
タレスが纏う、この場にそぐわぬ雰囲気から、そう思った。
きっと正解だ。