話の28:破熱の粘性(+1)
う〜ん、気持ち悪いぃ。
頭がクラクラするぅ。
私、どうしたんだっけ?
えーと、んーと……
病院みたいな所で目が覚めて、でも其処は病院じゃなくて……
彷徨ってたら怪我をした男の人を見付けて、彼曰く、私は死んでいるらしくて……
寝てる間に手術されて何かを埋め込まれて、それから彼が……
「はっ!!」
思い出した。
「痛っ!?」
と同時に、後頭部へ痛みが走る。
けれどそれが、私の意識をより明瞭にしてくれた。
「此処は……」
即座に周囲を見回す。
辺りは薄暗い。
仄かな闇に目を凝らすと、自分が身を置く場所の様子が、ぼんやりと知れた。
奥行きはあるけれど、左右の壁幅はそれ程でもない。天井は低く、飛び上がれば簡単に手が届きそうだ。
「ん? これは」
微かにある、体の揺れる感覚。
どうやら此処は動いているらしい。全体の様子から、貨物列車の中か、輸送用トラックの荷台だと思う。
勿論、見覚えは無い。どうやって来たのかも同様に記憶は皆無。
頭に残るのは鈍い痛み。考えるに、後頭部を強打されて気を失い、その間に運び込まれたというところかしら。
またしても私の意思を無視した運搬行。なんだか、こんな事ばっかりな気が。
どこぞのお姫様みたく、誘拐される常習犯にはなりたくないのに。
「しかも何よ、これ」
両手にはガッチリと、手枷が嵌められている。
律儀に足枷まで付いてるし。
これじゃまるで奴隷だわ。身売りされる娘の気分よ。
微妙に重い鉄の枷、その冷たさが私の気分を滅入らせる。
誰がこんな事をしたのか?
考えるまでもない。彼を殺した奴の仲間だ。連中、よね。
彼の話では遺跡の鍵を狙ってるとか何とか。それで私を捕まえたんだろうか。
それで今は移送中? つまり、このままされるに任せていると、今度は解剖されるかもしれないって事じゃ……
「冗談じゃないわ!」
死んだり生き返ったり、手術されたり捕まったり、ただでさえろくな目に遭ってないのに。次は解剖の危険? ホントに止めて欲しいったらない。
そんなの、誰が甘んじて受けるもんですか。
こうなったら魔法で手枷足枷を破壊して、壁に穴開けてでも脱出よ。
誰にも私を止める権利なんて無いわ。邪魔する権利もね。
それじゃ早速、意識を集中。
「気が付いたようザンスね」
声!
「誰なの!」
さっきまで気配を感じなかったのに。
相手の姿も見えない。在るのは、視界を覆う闇だけ。
「貴様、自分が質問出来る立場に居ると思うザンスか?」
ざ、ざんす?
じゃなくて、声の出所は前方空間だ。闇の中で何かが動いているような。
「フン、身の程を知らん虜囚ザンス」
声と一緒に足音がする。
私の正面、奥まった闇の先から。少しずつこちらへ近付いて来る。
「躾がなってないザンスねぇ」
居た。来た。出た。
私が見ていた暗がりから、染み出すように男が現れる。
初めて見る男だ。髪は色が抜け落ちたような白一色。鋭く吊り上った目の奥で、猫の如き縦長の瞳孔が昏く光っている。
身長は170cm弱程度、痩身だが弱そうではない。研ぎ澄まされた刃物に近しい雰囲気が、そう思わせる要因なのかも。
歴戦の猛者然とした力強さと共に、絶対的な自信を感じる。だけど近寄り難い。
首から下には体のラインが浮き出る黒いメタリックスーツを着ており、肩越しに2本の柄が覗き見えた。
あれは実剣だろうか?だとしたら、刃物をこれ見よがしに背負って歩いてるの?
やはり只者ではない。というか、かなりの確立で危険人物だ。
「さっきから何見てるザンス。ジロジロ見られるのは、好かんザンスがね」
う、睨まれた。この人、目付きが悪い。しかも目が怖い。
態度も高圧的だし、嫌な感じ。仲良くなれそうなタイプじゃないわね。
おまけに語尾が変だし。『ざんす』って、ワザと言ってるの?それとも口癖?何にしても、どうやったらそんな言葉が身に付くんだか。
危なそうな外見と語尾のギャップが、余計に怖いわよ。
「あ、貴方が、あの人を殺したの?」
相手に負けないよう、私も睨み返す。
でも、早速負けそう。黒い人の視線は重いし、辛いし。迫力が違うもの。
駄目だ駄目だ、気をしっかり持たなくちゃ。相手に呑まれちゃ駄目よ。
「あの人? 誰の事ザンス」
怪訝そうな顔をする黒い人。
まさか忘れたとは言わないでしょうね。
「私と一緒に居た男の人。お腹に怪我をしてた。銃で頭を撃たれて殺されたわ。貴方がやったのかって、聞いてるのよ」
「ああ、あの死に損ないザンスか。私じゃないザンス」
黒い人は口の端を吊り、「くっ」と冷笑を浮かべて見せた。
私を馬鹿にするような、陰惨な笑みだ。腹立たしいより先に、気味が悪い。なんだか怖い。
「尤も、部下に命令はしたザンスがね。逃げ隠れする野鼠共の一斉駆除を。フッ、あの施設に居た連中は、1人残らず皆殺したザンス」
この瞬間、私はゾッとした。
背中に氷の塊を突っ込まれたみたいに、冷たい震えが全身に走る。
この男、顔は笑ってるのに目が笑ってない。冷淡で、底冷えのする瞳。見ていると、体中の血が凍り付きそう。
人を殺す事に何の躊躇いもない目だ。人の命を小石同然に見て、一切の感慨なく蹴り飛ばすような。
軍人仲間にも傭兵上がりで危ない奴は居たけど、アレに近い。ううん、もっと危険な部類だわ。
コイツ、語尾は変だけど本格的にヤバイ。
「なんで、そんな……」
「奴等はもう用済みだったザンス。利用価値が無くなったから処分した、それだけザンスよ。 生かしておいても、百害あって一利なしザンスからね」
だから殺したって言うの?
そんな、人を物みたいに……
確かにあの人達は、死人を生き返らせたり、その体を使って得体の知れない実験をしてたかもしれない。でもだからって、死ななければいけない訳じゃない。
死は贖罪にならないし、償いにもならないわ。全ては生きていてこそよ。
人の犯した過ち、罪は、生き方・進み方でのみ贖えると私は思う。お母さんも、御祖母ちゃんも、そう言ってた。
それなのに、使えるだとか使えないだとかを勝手に決めて、生殺与奪の権限を振り翳すなんて。
同じ人間同士で、いったい何様のつもり?
「何か言いたそうな目ザンスねぇ。フン、気に入らんな」
面白くなさそうに、黒い人は一層強く睨んできた。
でも私だって、許せないんだから。目を逸らしたりしない。
胸の激憤を視線に乗せて、真っ直ぐ睨み返してやる。
「つくづく身の程を知らん虜囚ザンス。貴様を生かしてやるのは、我等が研究所に届けるまでザンスよ。その後は、イカレた科学者共が貴様を生きたまま切り刻むザンスからね」
吐き付けられるのは、隠すでもない毒の塗り込められた声。
慈悲や気遣いなんて無い。純然たる悪意に染まった無遠慮の言葉。
一語一語が痛烈な刃と化して、私に襲い掛かってくる。
「くっ……」
この黒い人、心底質が悪い。
普通、女の子に面と向かって、こんな脅し文句言わないでしょ。
それにしても、やっぱり私は何処かの研究所に連れて行かれるのね。
嬉しくない事に、辿るだろう末路も予想通りみたいだし。
もうあまりゆっくりはしていられない。どんな目に遭わされるのかがはっきりした以上、出来るだけ早く此処から逃げ出さないと。
でも今は駄目ね。呪言を紡いでも、この男が妨害しくるだろうから。
天嬌鳳扇が無いと、魔力の練り上げには今までの倍近い時間が掛かるもの。付け入られる隙はずっと多いから、得策じゃない。
私にもっと力があれば、魔力の変成をもっとずっと早く出来るのに。私程度の実力じゃ、御祖母ちゃんみたく出来ないもんな。
兎に角、今は大人しくしているしかない。彼が何処かに行ってくれるといいんだけど。
「フン、目的地に着いたら、科学者共に言ってやるザンス。いの1番に貴様の目玉を抉るようにな」
声音に潜む悪虐は、冷たく濃度を増すばかり。
私達は会って間もないのに、どうしてここまで憎まれるのか。
理由は何?私の態度が気に入らないの?
それはお互い様よ。
「まぁいいザンス。精々残り少ない人生を、今のうちに堪能しておくザンスね」
黒い人が背中を向けた。
此処から離れるつもりなの?もしそうなら、チャンスだわ。
「何処に行くのよ」
「私は貴様と違って忙しいザンス。貴様なんぞに何時までも構っていては、人生の浪費ザンスよ」
「な、何ですって!」
「フン、後で念入りに耳掃除をしておかねばならないザンス。豚の鳴き声で耳が汚れた」
この男、振り返りもしないで歩いていく。
思った通り、此処から出て行くんだ。運が向いてきた。
でもアイツ、ほんっっとーーーに、最低よね!
そこまで言う必要なんて何処にも無いじゃない。どうせ悪意を吐き付けて、私の気分を害するのが目的なんでしょうけど。
どこまで性根が腐ってるのよ。最悪もいいとこだわ。絶対に友達居ないわよ、アイツ。
……ん、あれは?
黒いのが背負ってる剣の鞘、そこへ描かれてるマークに見覚えがあるような。
縦に細長くデフォルメされた月と、全身でそれに絡みつく赤い目の双頭蛇。あれは確か……そうだ、思い出した。
月面企業インフィニートのエンブレム!
アイツ、インフィニートの私兵なんだわ。あんな格好の軍人居ないものね。
それじゃ、これは全てインフィニートの仕業?
あの会社、色々と黒い噂があるけど、本当に危険な事をやってたのね。
これはますますもって逃げなくちゃ。
私が見てる間に、黒いのはさっき出て来た闇の中へ消えてしまった。
恐らくあの先に扉があって、他の部屋へ繋がっているんでしょう。
何時の間にか足音もしない。気配も感じないわ。完全に行ってしまった?
「ねぇ、ちょっと!」
闇の中へ呼びかけてみる。
「聞いてるの? 何とか言いなさいよ、このザンス野朗!」
今の所、反応はない。
「何よ、変な言葉使ってさ! ついでに人間性は最低最悪だしね! アンタみたいな男はね、一生女の子にはモテないわよ! 異論があるなら言ってみなさい!」
シーン、としてる。
この空間には、私の声が響くばかり。
ふぅ、多少鬱憤が晴らせたし、どうやら居ないみたいだし、良かったわ。
もしもまだ居たら、どんな目に遭わされた判ったもんじゃないけど。
でもわざわざ私を運んでいくぐらいだもの、きっと殺せないわよね。
何はともあれ、これで準備よし。グズグズしてたら目的地に着いちゃうから、早いところ始めましょうか。
補助具がない今、魔力を練るのには、より多くの呪言が必要だわ。
詠唱中は精神を集中させ続けなければいけないし。相当疲れるのは覚悟しておかないとね。
「『率いて呟け、金糸の群集、付いて巻き行き火限を放れ』」
「『落ち果て削るる明光よ、然して通る炉方にいねき、継ぐえの理を此処へ』」
「『見えざる暁を、今また……』ッ!?」
突然、空気を裂く音が聞こえた。
そうかと思えば、右肩に激痛が走る。
「あぐっ!!」
痛みに耐えかねて、集中が途切れてしまった。
その所為で、今まで作っていた魔力が形を成す前に霧散してしまう。
「な、に?」
痛覚の発生箇所である肩。其処には黒い鋭利な刃が刺さっている。
魔力の変成に意識を傾け、無防備になっていた所を狙われたのか。
しかもただの剣じゃない。肩の肉を断ち、内部へ減り込む刃先以下、刀身が異様に長く伸びた物。
鞭のように長いそれは幾つもの節を持ち、途中で撓み尚続いていた。
聞いた事がある。柔性ワイヤーを芯に使った可変型ブレードの話。使用者の操作で刀身が分解し、伸縮自在になる武器があると。
これは正しく、かつて聞いていた特殊剣と同じ形状だ。蛇腹剣とか何とかいったいた。
刃の出先は闇の中。黒いのが去った方向。
「いけないザンスねぇ。私が目を離した途端にオイタへ走るとは。これは少しお仕置きが必要ザンスか」
正面の暗がりからアイツの声がする。
居なくなったと見せかけて、ちゃっかり潜んでたのね。
「隠れてないで、出てきなさいよ」
「ククク、どうしたザンス?声が震えているようザンスが」
さも可笑しそうに笑いながら、黒いのが闇の奥より歩き出て来た。
吊り上げられた口唇、刻むのは残虐な笑み。
片手には、やはり剣を握っている。その柄から長く伸びた黒い刀身は、私の右肩を貫いたまま。
「馬鹿めが。貴様の素性ぐらい、とっくの昔に調べがついているザンス。魔法を使う事もお見通しザンスよ」
「だったら、く……どうして」
私が魔導法士と知っていたから、ずっと此処に居たのね。私を監視する為に。
でもそれなら、なんでわざわざ居なくなるフリをしたの。
「逃げられると思ったザンしょ? 脱出の機会を得て、喜び勇んでいたようザンスからね。しかし、それが不可能だと判ったらどうザンス? 希望を目の前で潰された気分は、どんな感じザンス?」
コイツ、余程面白いのね。蔑みの目で私を見ながら、愉しそうに笑ってる。
まるで子供だわ。抵抗出来ない虫を弄んで悦ぶような。
私を落胆させる為に、絶望させる為に、敢えて一芝居打ったって訳?
なんて奴なの!
捻くれてるなんてもんじゃない。信じられないぐらい、心が歪んでる。
「ククク、いい表情をするザンス。その表情が、見たかった」
奴が剣を握った腕を振る。
それに合わせて鞭状の刀身がうねり、私の肩に食い込んだ刃へと動きを伝えた。
深く刺さった剣が、傷口の中で激しく揺れる。鋭刃が肉を更に裂く感覚が猛烈な痛みを生み、瞬時に全身を駆け抜けた。
「うあああああ!!」
絶叫を堪えられない。
伸ばされた剣は奴の操作で素早くも激しく動き、抗いようの無い力で私を押し遣る。
裂傷部から流れ落ちる鮮血が腕を伝う最中、皮膚下へ潜る刃の動行に流され、私は後方の床へ横倒れに叩き付けられた。
衝撃で傷の痛みは増し、悲鳴が口から零れ出る。
「きゃああぁ!痛い、イタイぃ!!」
「泣くがいい、喚くがいい。もっと苦しめ。もっと、もっとザンス」
ああ、また振られる。アイツの腕が動かされる。
腕運が剣身を撓らせる度、耐え難い痛みが連続で私を襲う。
刃が割り込んだ筋肉を抉るだけでなく、剣の動きに合わせて体が床を這い、壁にぶつけられ、積み上げられた荷物へと叩き込まれた。
今や体は私の意思ではなく、貫き刺す剣によって支配され、それが生み出す暴力的な運動力に振り回されている。
駄目、どうしても調子が出ない。
体に痛みが走る度、前にやったアクトレアとの戦闘が思い出されて。
あの時の痛みと死の恐怖が鮮明に甦り、今の痛覚と同調して私の心を蝕んでいく。
抑えようの無い恐怖が、反意を、闘志を、根こそぎ蹴り倒してしまう。過去の記憶が勝手に痛みを再現し、私から抵抗する意思を奪い、身を竦ませる。
前の様には戦えない。状況に逆らえない。頭は痺れたみたいに働かないし、体は震えて思うとおりに力が入らない。
それでも、傍に誰かが居てくれたなら、まだ耐えられた。護りたい人が居れば、心を奮い立たせて戦えた。
だけど今は1人。誰も居ない。私だけ。
だから駄目。恐怖に心が負けて、立ち上がれない。動けない。抗えない。
成す術なく、相手のされるがまま。悔しい。悲しい。苦しい。辛い。腹立たしい。
なのに、立ち向かえない。心が、折れてしまっているから。
「いい様ザンス。最初から貴様は気に食わなかったザンスよ。私の嫌いな奴に、貴様は雰囲気が似ている。だから腹に据えかねるザンス!」
そんな理由で?
知らないわよ、そんなの。私には何の関係もないじゃない。
なんて自分勝手。いい加減にしてよ。
「貴様を見ていると奴を思い出すザンス。考えただけで腸が煮え繰り返る」
倒れて動けない私に、アイツが近付いて来る。
両瞳に直視出来ない程の憎悪を湛えて。
何を、する気なの?
「目障りなんザンスよ!」
「がはっ!」
いきなり、お腹を蹴られた。
内臓が急激に圧迫されて、胸が苦しくなる。
一瞬呼吸が止まり、次いで強い吐き気が襲ってきた。
「何とか言ってみるザンス!」
「えぐっ!」
同じ所を、また蹴られる。
意識が遠退き、しかし継続的な痛覚に引き戻された。
それと共に数度咳き込み、口の中に鉄の味と酸味が広がる。
「フン、屑が」
頭上から、アイツの吐き捨てるような声が降ってきた。
体に力が入らない。逃げる事はおろか、身を捩る事も満足に出来ない。
また蹴られるの?
未だ残る痛みが、私の恐怖心を何倍にも引き上げてしまう。腕の震えが止まらない。
「どうせ、すぐに処分されるんザンス。腕の1、2本、無くなっても構わんザンスね」
「あ、うぅ……」
蹴られはしない。けれど、頭を踏まれた。
アイツの脚、ブーツの硬い靴底が、私の側頭部を髪と一緒に踏んでいる。
もう嫌、こんなの……誰か……
「悪いのは貴様ザンス。私の前に現れた貴様が悪い。私の気分を害した罪、その片腕で贖ってもらうザンス」
アイツがもう一方の手で、背中に負う剣の2本目を引き抜く様が見えた。
薄闇の中で、真っ直ぐに伸びた黒い刀身が、私の右腕を狙っている。
体が動かない。逃げられない。アイツにも逃がす気はない。
いや……助けて……
お願い……誰か……助けて……
……お母さん……
……御祖母ちゃん……
……リーラ……
……誰か……
「―――っ!!」
悲鳴にさえならない。
右肩に生まれた新たな痛みは、それだけで私の全感覚を奪い、喉を凍りつかせてしまった。
私に出来たのは目を見開いて、空気を震わさない叫びを上げる事のみ。
黒い男の握った剣は、切っ先の数cmを垂直に私の肩へ刺し込んでいる。
男の装束と同じ漆黒の刀身が、既に別剣で貫かれる筋肉へ、上から妨げもなく無遠慮に沈んできた。
「簡単に落としてはやらんザンス。少しずつその肉を削いで、骨を奪い、嫌と言うほど痛みを与え、じっくり斬り裂いてやるザンス」
頭上から降り掛かる声。
狂おしい痛みの中で見た男の顔は、身を凍らせる程の残忍な笑み。
しかしそれとは対照的に、両の黒瞳は恐ろしく無感動。悦びも、憎悪もなく、只管に空虚で、鏡の如く私の姿を映し込んでいた。
そこに見た私の顔は歪に引き攣り、自分でも悲しくなるほど不様。
けれどそれを嘆く余裕さえ私には無い。
痛みが、純然たる痛みが、過去の記憶と複合スパークして、私の意識を灼く。
「フン、さっきまでの情けない声はもう打ち止めザンスか? もう少し啼いてくれねば、イビリ甲斐が無いザンスよ!」
「―――っっ!!」
更に深く、強く、重く、刀身は進んだ。
肩の中で、肉の奥で、前から刺される刃と、上から下ろされる刃が触れる。その感触が確かにあった。
減り込む異物が体の内部でぶつかった瞬間、生じた違和感と不快感はかつて得た事の無いもの。
激しい吐き気と、頭を滅茶苦茶に掻き毟りたくなる衝動が背筋を駆け巡り、その瞬間だけは痛みを忘れられた。
まったく嬉しくもない変化。時間にして一瞬。
直ぐ後には鮮烈な痛みが波となって押し寄せ、より一層私を苦しめる。逃げ場は何処にもない。耐え抜くだけの気力も、とっくの昔に枯渇していた。
私はただ、無慈悲なまでに透徹した痛覚に、全身を蹂躙されるだけ。
「やれやれ、つまらん事この上ないザンスね。こうまで張り合いがないと殺る気も失せるというものザンス」
そう言いながらも、男の剣は私を貫いて離さない。
彼が手を緩める気配は皆無。猛烈な悪意は依然として其処に在り、私をいたぶる事に暗い愉悦を震わせている。
「此の世には神も仏もないザンス。他を圧倒する力を持つ者のみが、惰弱な相手を虐げて踏み躙るは世界の摂理。弱者が救済なく苦しむのは至極当然ザンス」
言葉の間も剣の進行は止まらない。緩む気配もない。
このままでは本当に壊れてしまう。体よりも先に、私の心が、精神が。
けれど助けを呼ぶ事さえ叶わない。例え呼べたとしても、応えてくれる者は居ないだろう。
此処は、連中の領域だから。
「つまり、今、貴様がこうしているのも、為るべくして為る定められた結果ザンス。そして貴様は何も出来ぬまま……」
不意に、私の肩から剣が抜かれた。
上から突き立てられていた刃と、正面から刺し込まれた刃。双方が同時に、それまでの進路を逆進して離れていく。
長々と展開されていた鞭状の剣は、柄の側へと急速に引き戻されていった。その後、節同士が連なって本来の剣型たる直刃に戻る。
何が起こったのかは判らない。焼け付くような痛みを肩に穿たれた傷口へ残し、双剣は私から距離を取った。
剣を引き抜いた張本人である黒い男は、両剣を手にバックステップを踏む。
直後、連続する破撃音が上空から聞こえてきた。同じタイミングで私の目の前、10cm程度の床面に複数の穴が開く。
上方から聞こえる音に合わせて増える穴。それが射撃によって生み出された銃創だと気付いたのは、穴がきっかり20個を数えた時だ。
一見出鱈目に見えて、その実、綺麗な円を描いた弾痕。丁度、人1人が立てそうな領分を作っている。
「ちょっと待ったぁぁぁ!」
頭上から、正確には更に上の天井から、強烈な気迫を伴う声が降って来た。
最初に落ちてきたのは、円形に切り取られた鋼材。状況から見て天井の一部だろうか。
目の前に落下した天材は床に接触するや乾いた音を立て、非バウンドで停止する。
次いでその上へ、舞い落ちる羽根の軽やかさと、重硬な鋼鉄の勢いで人影が降り立った。
私に見えたのは短な緑色の髪と、落着時にひらめいたスカートの裾、両手に持たれた白と金の大型拳銃。そして今、眼前に晒される薄茶けたロングコートの背中だけ。
その背中には、満月を背にして剣を掲げる戦乙女が描かれている。
企業等のシンボルマークに似ているけれど、私はその絵柄に見覚えは無い。
「邪悪な野望に燃える企業インフィニート。その直属実行部隊、漆翼黒葬鋼狼軍が首魁、ヨシア・ベラヒオ! お前達の悪事もココまでよ!」
突然降って来た女性は、私に背を向けた状態で、正面に立つ黒い男(どうやらヨシアと言うらしい)へ啖呵をきる。
淀みない口調には彼女の隠さぬ闘志が感じられ、全身からも見えざる戦意を迸らせていた。
どう贔屓目に見ても話し合いをしようという雰囲気ではない。完全な戦闘態勢だ。
「貴様、何者ザンス」
それを前に、ヨシアは冷静にして平静に問う。
いきなりの来客、それも招かれざる客の登場に関わらず、彼人の声調に驚いた様子は絶無だ。
警戒こそしているようだが、それ以外には然したる感情が窺えない。
「良く聞きなさい。私はルナ・パレスの平和を護る武装組織、女神代行守護者の一員。このライナ・ダートルーナが、月の女神に代わって正義を行使する!」
女性は問われるままに自らの所属を告げ、己が名前と合わせて高らかに宣言する。
全身に漲る確固とした決意が、彼女の言葉を単なる格好付けでないと教えてきた。
それにしても、ミネルヴァガードという組織は聞いた事がない。少なくとも私が所属していた月都防衛軍とは無関係だろう。
継続的な痛みは尚も感じられるけれど、刃を突き込まれていた時に比べれば幾倍もマシになった肩を左手で押さえつつ。
私はライナと名乗った女性(どちらかと言えば少女だろうか)の、背中を見詰めた。
彼女は私が望んだ救世主なのだろうか?