話の25:混迷の月面都市(+1)
「いさっち、右斜め45度、俯角3!」
「了解。『我が手に集え、真銀の御魂。長じる刃となりて、冷たき闇夜に降り注げ』」
自らの内に眠る魔導の素、魔力を恣意的に捻り出す。
不可視の力を流れさすイメージ。河川の水動に似た力の運びを意識して、内なる魔力を心臓から肩へ、肩から腕へと伝えいく。
手に集った力へ呪言を注ぎ、持ち手に開く扇を介し望む形へ。
魔力形成を補助する特別製の扇が私の意志を汲み取って、集約した魔力を意図する事象へ練り上げる。
無形の魔力が構成を変え、異なる姿に至ると同時。
研ぎ澄ませた意識に乗せて、狙い定めて解き放つ。
具象化した力が作ったのは氷の塊。氷柱の如きに鋭く尖った、幾本もの氷刃だ。
それが一斉に、私の手から飛び立った。
向かう先はリーラの指定した場所。狙い澄ました氷塊が、其処に屹立する巨影へと吸い込まれていく。
次の瞬間、短い断末魔が耳朶を打つ。
巨体の主へ減り込む刃、外殻貫き身を刺して、その生命をもぎ取った。
低く響く末期の雄叫びを上げながら、そのモノは背中から路面へ倒れる。
脚を伝い来る微かな震動と、視界に過ぎった薄い煙。後に遺された双方が、それの活動停止を教えてきた。
改めて見る、異形の姿。どんな図鑑にも載っていない怪物だ。
体は人間より一回りも大きく、手足は長い。指先には分厚く鋭利な鉤爪が5本伸び、全身を覆う暗色の外殻は強固。
突出した頭部は鰐の口みたく上下に裂け、その最奥に剥き出しの眼球が光る。
嫌悪感を禁じえない不気味な様態。月の遺跡から溢れ出てきた、これがアクトレアの1種。
「やったね、いさっち。グー、だね!」
後ろから肩を叩かれて振り返る。
見れば背後で、同僚のリーラがVサインを作っていた。
「うん」
彼女の屈託無い笑顔に、私も笑顔で頷き返す。
リーラこと、リーライト・プリマイヤーは、若干16歳の月都防衛軍軍人。そして私の同僚だ。
身長は150cmに満たないけれど、何時も元気に走り回る女の子。動く度に揺れる黄金色のポニーテールが、ちょっと馬の尻尾みたい。なんてね。
愛嬌のある大きな目と、小さく覗く八重歯が自他共に認めるチャームポイント。
首から提げている索敵用のサーチゴーグルは、リーラのトレードマークでもある。
着ているのは私と同じ月都防衛軍の女性用軍制服。
黒タイツと脛まである白いブーツに、同じ白地のブラウスとハーフパンツ。その上から袖を通すのは、ジェードグリーンが基本色のハーフコートだ。
彼女の手には起動中のUPCSが握られている。空間上に開かれた幾つものモニターは、周辺情報を解析する為に今の今までリーラが操作していたもの。
電脳潜子である彼女は直接的な戦闘力を持っていない。けれど多彩な電子機器を巧みに扱って、実働部隊が動き易いよう状況を構築しナビゲートしてくれる。
私が目前の敵に集中して戦えるのも、リーラが逸早く敵勢体を発見して報せてくれるから。彼女のバックアップ無しでは、私は魔法力を存分に使えないだろう。
「これで、この辺りのクリーチャーは全部やっつけたよ」
「良かった。それじゃ、急いで他の区画へ行きましょう」
「えぇー!」
私の提案に、リーラは強い不満顔を作った。
「今までずーっと働き通しだよ? ちょっとぐらい休もうよ〜」
彼女の人差し指が、腕に嵌める軍支給のデジタル時計を示す。
確かに随分長い時間、アクトレアと戦ってきた。現街区で掃討活動を始めて5時間ぐらい経っているんじゃないかな。
リーラの言い分も判るし、私だって疲れて無いと言えば嘘になるよ。
でも。
「今こうしてる間にも、沢山の人が危ない目にあってる。私達は軍人だし戦う力があるんだから、皆を護る為に働かないと。ね?」
「うぅ、そうだけどさぁ〜」
リーラは物言いたげに唸って俯いてしまった。
視線を私の足元付近の道路に当てて、足で『の』の字を書いている。
やっぱり、酷な事を言ってるかな?彼女だってUPCSの操作で神経を使ってるし。私より疲れてるかもしれない。
そう思うと休ませてあげたいけど、今は極力時間を無駄に出来ないの。
アクトレア侵攻の要因となる大穴を開けたヤツは、機動兵器部隊が総出で追い返した。開けられた穴も電磁障壁発生基で一応塞げたらしい。
けれど、その間にルナ・パレスへ流入してきた敵の数は依然として多く、各地で被害を出している。
軍の仲間や、軍令部に雇われたアウェーカーは今も懸命に戦っているのよ。
私は自分に出来る事を、出来るだけやりたい。皆を護る為に軍人になったんだから。
「でもでもぉ、無理しすぎて倒れちゃったら元も子もないしぃ〜」
両手を後ろ腰へ回して、リーラは上目遣いに見てくる。
疲労の薄膜が覗く顔を見ていると、彼女の言い分が確固とした正当性を持っているように思えてきて。
ううん、実際にリーラの言う通りなんだろう。
今まで私達はろくに休んでもいない。5時間余りを殆ど戦いっ放しのようなもの。
いくら軍人が入隊と同時に遺伝子への施術を受け、常人を凌ぐ長時間の活動と可能にしていても、精神と肉体を疲弊させる戦闘行動を取り続ければ保たなくなる。
適度に休息を取らないと、体に溜まった疲れは癒せない。少し考えれば判る事。
疲れたから休憩しようというリーラの提案は間違っていない。
無理を押して行動し、戦闘中に限界を迎えて倒れたりしたら、それこそ人助けどころじゃないし。場合によっては他の仲間にも迷惑をかけてしまうでしょう。
冷静になって考えれば、私のしようとしている事の方が愚行だ。私の主張が単なる精神論でしかない。
都市が危機に陥っているという状況が、必要以上に私を焦らせているのか。
それとも実戦の空気が、肌に纏わりつく戦いの息吹が、私の意識を駆り立てているのだろうか。
「……そう、ね。少しだけ、休もうか?」
「うん、うん! そーしようー」
落ち着いて気持ちを切り替え、リーラに同意を示す。
すると彼女は満面の笑みを浮かべ、にこやかに二度ほど頷いた。結わった髪の束が大きく揺れて、それがまた可愛らしい。
「ね、ね、こっちこっち。休憩ポイントがあるんだよ」
余程嬉しいのか、私の手を引いて歩き始める。
さっきまで疲れを前面に出していたのに、今はもう元気な様子だ。
気持ちが軽くなると、ちょっとした活力が湧いてくる感じは私にも判る。今のリーラは、正にそんな感じかな。
「はいはい、そういうのはお任せするから」
彼女に連れられて、私は街中を進む。
今私達が居るのは南街区南方の第6区画。この辺りは商業区と生活区が入り混じった雑多な空間で、幾つもの中層ビルが聳え立っている。
建造物の合間に出来た道は複雑に入り組んでおり、土地勘の無い者では簡単に迷ってしまいそうだ。
リーラはUPCSを使って周辺地形を完全に把握しているのだろう。まるで自宅に設けられた庭を行くような気軽さと確信の歩で、無数に折れ曲がった路地を目的地目指して早足に抜けた。
軍の誘導で、当該区住民は中央街区への避難を終えている。だから今は私達以外に人の姿はない。
少し前まで他の仲間達もこの近辺で戦っていたのだけど、別区画からの援軍要請でそちらに行ってしまった。当区に残存するアクトレアの数も随分と減っていたから、残敵の掃討は私達だけに任されたという訳。
第6区画は構造上、身を隠す場所が非常に多い。しかも通路が複雑な所為で敵を発見し難く、有意なポジションを確保し辛い。
だからこそリーラ達電脳班の補助が、大きな意味を持っているんだけど。
それにしたって、私とリーラだけを残していくなんてね。本当なら私の魔法は、敵の真正面に立って使うべき物じゃないのに。
自身の魔力を事象の形に変成して発動させるまで、若干の準備時間が要る。精神の集中と呪言での形成、それを経て初めて使える力だもの。
魔力の形容変化を促す魔導補助具「天嬌鳳扇」と、リーラのお陰で何とかなってるけどさ。でも普通は護衛に2、3人残していくんじゃない?
次世代品種程ではないにしろ、私みたいな魔導法士も良い感情は抱かれてないんだろうな、やっぱり。
私達の使う魔法は、魔力を基本として構築される確かな学問・技術だけど、魔力云々を感知できる素養が一般的じゃないから常人には理解し難い。要するに良く判らない物だって思われちゃうんだよね。
特異能力とは根本的に違うけど、知らない人からすれば同じ様な物かも。
そういう意味では、皆からすると魔導法士も次世代品種も同じなんだろうな。
同僚で普通に接してくれるのは、リーラだけだし。
『我等の扱う力、魔の力。森羅万象に通ず理の力。それ、常人には知られず、また受け入れられるものでなし。人前で晒すならば、相応の辛苦を覚悟せよ』
御祖母ちゃんも言ってたっけ。
昔から連綿と伝わる技術。けれど広く知られないのは、誰もが等しく扱える物じゃないから。一部の人間だけが使えた力。余人には不理解の力。そして知れない者の方が圧倒的に多い。
特異な少数派は大勢に追い遣られ、無為に消えていくのが常。だから静かに密かに、知る者だけへ伝えていく。
それが私達の使う力。魔法の力。
それは判ってる。
でもだよ、その力は伝えるだけじゃ意味はないよね。有る物は使わないと意味がない。私はそう思う。
だから、この力を有効に使う為、誰かの役に立てる為、私は軍人になったんだ。
そのお陰で今、私は戦えてる。人から色眼鏡で見られても、嫌悪されても、自分の決断は間違って無かったと思う。後悔はしてない。
そうよ。私もお母さんみたいに、沢山の人達の幸せを護る為に戦ってやるんだから。
「ほらほら、此処だよ〜」
リーラの案内で遣って来たのは、こじんまりとした公園だった。
四方をビルに囲まれた小さな空間。其処を埋める様に作られた小規模の公園だ。
僅かばかりの緑が覗く植え込みに、中と外とが隔てられているだけ。それ以外に目立った物は何も。
子供が駆け回れる程の広さはなく、様々な遊具が置かれている訳でもない。
入り口と思しき植え込みの切れ目から見た正面に、唯一の設置具だろう1組のブランコが存在する以外には。
「ちょっと寂しい所だね」
第一印象がそのまま口から出てしまう。
でも、それは仕方ないよね。本当に寂しい、心細くなりそうな場所だもの。
周りがビルばかりだからかな。世界から見捨てられて、時間からも置き去りにされてるような、物悲しさが胸に広がる。
「えへへ、穴場ーって感じでしょ?」
私の思いとは裏腹に、リーラは得意気な顔をしてみせる。
彼女の目に映るこの空間は、私と違って否定的な色ではないのかもしれない。
「リーラはねぇ、こーいう感じの場所がケッコー好きなんだぁー。何て言うのかなぁ、うーん、落ち着く? みたいな」
顎に人差し指を当てて、描き作るのは思案顔。
それも一瞬の事で、次には彼女らしい笑顔が向けられた。
この顔を前にしたら、胸中の不安感を口には出せないよ。
「あそこのブランコで休憩しよー」
前方に在る2つのブランコを指差して、リーラは足取り軽く近付いていく。
立っていてもしょうがないし、私もそれへ続く事にした。
近付いてみると、並立するブランコは随分と古めかしいのだと判る。
長い間、満足に手入れをされていないのだろう。両脇の支柱はペンキが剥げ落ちて赤錆びているし、座り板を吊るすチェーンもボロボロだ。
体重が掛かったら壊れてしまうんじゃないか、そんな風に思える程。
「こういうブランコに座るとさ、小さい頃を思い出すよねー。あはは、懐かしいー」
リーラは躊躇無く座り板に腰を下ろす。
両脚は地に着けているけど、それなりの重みがチェーンには及んでいる筈。しかし幸いにして、銀色の光沢を放つ吊り鎖は壊れる様子がない。
彼女の体重までなら大丈夫という事だろうか。
私は少し気後れしながら、その隣にあるもう1つのブランコに座った。
その途端、加重によってチェーンが軋み、小さな異音が鳴る。だがそれだけだ。私の危惧に反してチェーンは切れず、臀部を置いた座り板も恙無く職務を全うしてくれる。
ひとまずの安心に胸を撫で下ろし、私は浅く息を吐いた。
「いさっちは小さい頃、こーいう所で遊んでた?」
「実はあんまり」
「あー、やっぱりぃ。だろーなーって思ってたんだ」
吊り鎖を握って両脚を浮かせ、リーラは朗らかな笑い声を零す。
馬鹿にしているとか、そういうのとは違う。親しみと温かさが混在する声だ。
だから笑われても嫌な気はしない。
「御祖母ちゃんが厳しい人でね。小さい頃から家の事を習わされてたの」
「ふーん。なんか御嬢さまーって感じだもんね」
「そうかな?」
「うん。リーラ達とはちょっと違う雰囲気?みたいな」
それって、浮世離れしてるってこと?
自分じゃあんまり意識してないんだけどな。やっぱり他人から見たら違うのかも。
「でもでも、変な意味じゃないよ?お行儀がいいっていうかぁ、なんとなーくお人形さんみたいな感じかなぁ」
「う〜ん、そうかしら?」
「リーラは、そんなふーに思ったんだよ」
愛らしい笑顔を見せて、彼女は緩やかにブランコを揺らす。
前後に動く度、痛んだチェーンが悲鳴めいた不協音を吐き出すが、リーラに気にしている素振りはない。
それは私にも言える事で、先刻よりも自らが身を預ける遊具の状態は気に掛からなかった。多分、彼女との話に意識の大部分が向いているからだろう。
リーラとの会話は、それが他愛ない些細なものでも楽しく感じるから。
「ねぇねぇ、さっき言ってたよね。いさっちの家ってどんなのぉ?」
「神社よ。東街区の外れに建ってるわ」
「えぇ!? 東って言ったら大大ピンチの場所じゃない! いさっち、心配じゃないの?」
大きな目を更に大きくして、身を乗り出すように聞いてくる。
そんなリーラの様子に小さく苦笑して、私は片手を顔の前で振ってみせた。
「大丈夫よ。私って魔法が使えるじゃない? それは御祖母ちゃんから教えて貰ったものでね。御祖母ちゃんはもっと強い魔法使いなの」
「あ〜、だから襲ってくる怖いのは全部やっつけちゃうんだ」
「と言うより、結界っていうシールドみたいなのを張って、近付けないようにするのよ。さっきもメールが来たけど、依然として無事だって」
御祖母ちゃんは私なんかより、もっとずっと強い力を持っている。特に護りの術が得意で、御祖母ちゃんの魔力が込められた護符や祭具が、実家に強力な結界を張ってるんだ。
生半可なアクトレアじゃ突破する事は勿論、近づく事さえ出来ないよ。
「そっか〜、それなら安心だね」
まるで我が事の様に安堵して、リーラははにかんでくれる。
私、リーラのこういうところ結構好きだな。
「ちなみにぃ、リーラの家はねー」
彼女が自らのお家事情を話してくれようとした、正にその瞬間。
それまで何とも無かったのに、突然、全身に鳥肌が立った。
何が起こったのか判らない。けれど私は、考えるより先に動いていた。
「危ない!」
叫ぶのと同時、リーラの手を取って正面に転がり落ちる。
私達の体が宙に投げ出され、無手入れの地に体を着けた時だ。
2人揃って座っていたブランコに、巨大な影が降って来たのは。
「きゃいぃ〜〜!?」
リーラの悲鳴に、錆付いたパイプの拉げる音が重なる。
予期せぬ衝撃が波となって駆け抜け、無遠慮に私達を襲った。
間一髪だ。
私とリーラは唐突なる襲撃から逃れられた。降って湧いた敵意の塊から。
大きな力によって破壊されたブランコの正面地。其処へ片膝をついたまま、私は振り返る。襲撃者の正体を見定める為に。
「あれは……アクトレア?」
折れ砕けたブランコの残骸を足に敷き、臆する事無く仁王立つ影。
人間ではありえない異形のシルエット。そこから推察される答えは、1つしかない。
「ふにゅ〜〜」
顔面から地に落ちてしまったリーラは、私の隣で気の抜けた声を上げている。
それを耳にしながら、私は全身から冷たい汗が噴き出すのを感じた。
目の前の存在に対し、私の全神経はかつてない警鐘を鳴らす。汗穴の開放による冷汗の発生は、それによって導かれたのだろう。
敵は、襲撃者は、今まで相手してきた鰐頭のアクトレアを、更に一回り大きくさせた巨体。しかも様態が違う。
前者同様に二本脚で立ち、両腕を備えた人間型。但し腕も脚も倍以上に太く、体も等しく頑健さを感じさせた。
筋肉質と言えばいいのか。盛り上がった筋肉を、ターコイズブルーの外殻が装甲か何かの様に覆っている。
手足の先端から伸びる爪は厚みを増し、異様に広い肩幅が私の目へ、怪物を魔神めいた存在として映した。
4本の角が前後に突き出した頭部、大きく裂けた口には太い牙が並ぶ。両眼は炎よりも赤く輝き、理性の色というものを感じさせない。
昔に御祖母ちゃんから聞いた御伽噺の怪物。おぞましくも恐ろしい悪鬼が現実に現れたと、錯覚させるに充分な姿。
そんな異形が、文字通りの怪物が、私達の目の前に居た。
「もういない筈なのにぃ。反応は全部消えたのにぃ」
身を捩って上体を起こすリーラは、涙目になって怪物とUPCSを交互に見る。
彼女が索敵に手を抜いたとは思わない。だとしたらアイツは、私達が話している間に近付いてきたのか。
「それよりリーラ、下がってて」
正面の怪物を睨みつつ、私は腰を浮かせる。
口ではリーラに退却を指示し、心は魔力を練る為に集中を始めた。
相対するアクトレアも、真っ直ぐに私達を見ている。赤い瞳が獰猛に輝き、裂けた口から凶暴な唸りが聞こえた。
正直言って、怖い。
今までのアクトレアとは違う。もっとずっと、コイツは恐ろしい存在だ。
頭が答えを出す前に、本能的な部分が察知する。
出来る事なら脱兎の如く逃げ出したいけれど、果たして相手がそれを許してくれるかどうか。
それにリーラの事もある。けして運動神経がいいとは言えない彼女に、自力での逃走を任せるのは不安だ。
相手がこの怪物でなければ、こんな風に思う事もなかったんだろうけど。
それ程の底知れなさを、あのアクトレアは持っている。
かと言って悩んでばかりもいられない。逃げるにしろ何にしろ、まずは相手の注意を逸らさないと。
私の魔法で一撃を入れて、その隙に。
横目でリーラを見る。私の視線に、意図に気付いて、彼女は小さく頷いた。
後は魔力を紡ぐ為、天嬌鳳扇を片手に開く。
可能ならば初撃で仕留めたい所だけど、きっと無理だ。
だから最初は繋ぎ。後の行動へ続かせる足掛かりとして。
眼前に立つ敵の巨体。人間を有に越す腕と脚は、一歩一振りでどれだけの距離を攻めるのか。
目測で見る敵との間合いは、残念ながら広くない。
もし今、相手が動いたら。敵が襲い来るより先に、私は魔法を完成させられる?魔法が組み上げられなかった場合、奴の攻撃を躱しきれる?
判らない。
判らないけど、やるしかない。
「『舞い出れよ久遠の凪、その道程に……』」
それは丁度、魔力の流れに呪言を乗せ始めた時だ。
正面に位置付くアクトレアの口腔へ、輝く光の結集を認めたのは。
「っ!?」
咄嗟に詠唱を中断し、私はリーラを押し倒すようにして横へ飛び退く。
それから1秒もしないうち、私達のすぐ後ろを閃光が走り抜けた。
怪物の口から吐き出された光線。それは地面を割く様に駆け、通過箇所に白煙の残滓を刻む。
全ては一瞬の事だったけれど、微かに残る熱の余韻が、閃線の持つ温度の高さを物語っていた。
「はわわわ……か、怪光線〜〜!?」
私の肩越しに熱線の進行を見たのだろう。金魚のように口を動かすリーラの声は震えていた。
腰を抜かしてしまったのか、硬直して動けなくなっている彼女から体を離し、私は可能な限り素早く振り返る。
今ので敵の攻撃が止まった訳じゃない。最初の一撃を躱したとはいえ、安心する訳にはいかないから。
少しでも早く次の攻撃に備える為に。
けれど、そんな私の動きよりも相手の方が早かった。
私が後ろを向いた時、巨体のアクトレアは既に歩を踏み出し、当初の位置から消えている。
たった1歩。しかしその1歩の、なんと大きな事か。
1度きりの踏み込みで、ソイツは私達との間合いを簡単に潰してしまった。
気付けば、目の前に異形の姿。
耳に届くのは低く重い唸り声。真っ赤に染まった怪物の両瞳に、目を瞠る私の顔が映る。
自分の息を呑む音が、いやにはっきりと聞こえた。
そこからは、冗談みたいなスローモーションの世界。
異形の右腕が頭上高くへ振り上げられる。その光景がしっかりと見えているのに、私はまるで動けない。
立ち上がって退がりたいのに、言う事を聞いてくれない体。意思が全く反映されない五体は、まるで自分の物じゃないかのよう。
どんなに強く思っても、目に見える流れに体が追いつかない。焦る気持ちとは裏腹に、全ての動作が酷く緩慢だった。
もがけばもがく程に沈んでいく泥沼のようで、何もかもが思い通りには進んでくれない。
けど、それでも、私にはやらなければいけない事がある。それだけは絶対に、例え私がどうなっても遣り遂げなければ。
怪物の巨腕が最大の高みへ達し、僅かばかり止まった後に動き始めた。
勢いをつけて振り下ろされる腕。その狙いが何処にあるのか、私にはすぐ判った。
だからこそ必死に足掻いて、全ての意識を集中して、何とか右腕1本だけを伸ばす。力の限りに。
「きゃう!」
聞き慣れた声と一緒に、開いた掌へ伝わる温かな感触。私の右手はリーラの胸に触れている。
そこから持てる力を全て出して、私は彼女を押した。此処から遠ざける為、アクトレアの猛腕から逃がす為に突き飛ばす。
女の細腕でも、火事場の馬鹿力で何とかなるものだ。リーラの小柄な体が私から離れていく。
「いさっち?」
遠退く彼女の呆けた顔と目が合って、私の顔は自然に緩んだ。
舞い降りる凶撃からリーラを救えた、安堵の笑みなんだと思う。
勿論、これであの子が逃げ切れると確定した訳じゃない。あくまでも、今1番近くにある脅威から逃れたにすぎない。
それでも、今を凌ぐ事は出来た。次の可能性を与えられた。
この状況でそれがどんな意味を持つか。もしかしたら無意味な、そして無力な抵抗だったかもしれないけど。
私に出来る事なんて殆ど何も無い中で、それだけは遂げられたから。
多分、私は満足してる。
自分の事なのに多分なんて変だけど、ね。
「あああああぁッ!!」
痛い。
痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
悲鳴を抑える事なんて出来ない。
喉が裂けるかと思うほど叫んでしまう。叫ばずにはいられない。
信じられない激痛。神経が焼け付くような痛み。
今まで感じた事のない壮絶な痛みが、容赦なく全身を駆け巡る。
見たくない。けれど見えてしまう。
アイツの、あの怪物の腕が、私の左脚に食い込んでいる光景。
皮膚も血管も突き破って、骨も粉砕して、私の腿を完全に潰している。
怪物の腕幅は、私の脚を上回る太さ。それが脚を貫いて、地面に突き刺さっていた。
左脚には痛み以外の感覚が、ない。
痛覚が全てに勝っている?
違う。
腿から下の感覚が一切消えていて、何も感じないんだ。動かす事も出来ない。
だって、私の左脚は、もう体に繋がっていないから。
アクトレアの右腕に叩き潰されて、引き千切られて、私の視界で地面に転がっている。
「くううぅ、あぁああッ!」
止まらない痛み。頭は割れそうだ。気が狂いそう。何も考えなれない。
傷口から流れ出る血が、見る間に溜まって広がりを見せる。
千切れた左脚が、自分の血に沈んでいた。
「あ、ああ、い、いさっち……いさっち……」
後ろから声が聞こえる。
リーラの声。震える声。
それが、私の意識を繋ぎ止めた。壊れてしまいそうな頭を、考えを、目の前の1つに集中させる。
そうだ。今は、コイツをどうにかしないと。このままじゃリーラが危ない。
もう私は逃げられないけど、リーラはまだ逃げられる。少しでも時間を稼ごう。あの子が生き残る為の時間を。
「『舞い出れよ久遠の凪、その道程に荒ぶる旋風を以って、逆巻き刻め』ぇぇ!」
痛い。今も変わらず痛い。
でも、強引に無視。この痛みを忘れるなんて無理だけど、無理矢理に、気にしない。
集中。唯集中。魔力の流れをイメージし、叫びを呪言に変え、握ったままの天嬌鳳扇へ送り込む。凝縮する。
目前の怪物を睨み、両手に生まれた魔法を、解き放つ。
旋風。一陣の風が不可視の刃となって駆けた。狙ったのは敵の両肩。
奪われた脚の分、コイツの肩から先を、両腕を奪い取る。
私には見えた。魔力の動きが。撃ち放った魔法が直進して、異形の体へ命中する様が。
けど、断てない。
私の魔法は確実に当たったのに、アクトレアの外殻を幾らか削っただけ。奴の筋肉までは届かなかった。
術が不完全? 魔力の練りが足りない? 雑念を含んだ? 単純に力不足?
判らない。答えは出ない。
考えが纏まるより先に、異形の腕が地面より抜ける。同時に、真っ直ぐ突き出された。
「がっ! ……げ、ごぉ」
衝撃が胸に走る。喉を何かが迫り上がり、口から溢れたのは赤い液体。
血を、吐いた。
私の口から、私の血が、零れ出る。
目が捉えるアイツの腕は、その先端が見えない。
突き刺してるんだ。私の体を、異形の腕が、正面から、胸から、突き抜けて、背中から、アイツの手が出てるんだ。
「あ、ぐぅ、が……ぎぃ」
言葉が上手く出せない。
痛い。痛い? 判らない。
痛すぎて、もうどうなのか、判らない。何処が痛いのか、どれぐらい痛いのか、本当に痛いのか。
頭が朦朧とする。目も霞んでいる。耳鳴りが酷くて、口の中には鉄の味。
私は、どうなった、の?
「いやぁぁぁぁ!」
悲鳴が聞こえた。
悲鳴。リーラの、悲鳴だ。
私の同僚、仲間、友達。リーラの、声。
「に……ぼ、べ……」
逃げて、と言いたいけれど、言葉は出ない。
変わりに出たのは、自分の、血。
口から溢れる血が、私を穿つ、怪物の腕に、落ちる。
染める。赤く。
見たい。あの子の顔が見たい。リーラの顔が。
でも、首は動かない。動かせない。
だから見えたのは、アイツの顔。化け物の、不気味で、恐ろしい、顔面。
私はコイツに、殺されるのか。このまま。
せめて、せめてリーラだけは。私の、友達だけは、助けたい。
でも、きっと、あの子は動けない。震えて、怯えて、泣いて、叫んで、呆然として、逃げられない。
だったら、襲えなく、するしかない。コイツが、あの子を。
私の、全てを懸けて、最後に、1度だけ、全てで。
集中、する。何も、考えないで、集中。
殆ど何も感じないから、さっきよりも、楽。
イメージ、流れ、集中。
「げ、はっ……あ、『紅く燻れ、至黄の焔、渦岸が先に、歪の結実を』」
手が燃える。私の手が。
右手が、指も、爪も、掌も、燃える。熱く、紅く、燃え滾る。
握る。拳を、作る。
最後の力を、振り絞り、アイツの、顔に、拳を。
「ぐぅ、ぅぅぅううう、ばぁけぇものぉぉぉぉッ!!」
叩き込む!
これにて第1部終了です。
次回から第2部となります。