後編
花乃は夢を見ていた。眩い光の中で、自分よりも小さな子どもと遊ぶ夢。小さな子が花乃に絵を描いては見せ、何かを話している。それに花乃は微笑み、子どもの頭を撫でてやれば、はにかんでいた。少女か少年かはわからなかった。どこか懐かしく、切なくなる。一体、どこの誰だっただろう。子どもの頬を包んで、顔を上げさせた。
小鳥のさえずりが聞こえる。花乃は天井を見つめていた。真っ白で広いそれは、カーテンの隙間から入り込むわずかな陽を反射し、全体を明るく照らした。体を起こし、辺りを見渡す。今横になっていたベッド以外には化粧台と椅子があるだけの簡素な部屋。六畳のそこは、小さな少女には十分すぎるほどの広さだった。
花乃はベッドから降りると、窓に歩み寄り、厚手のカーテンを開ける。視界は真っ白になり、咄嗟に目を瞑った。徐々に瞼から透ける光に慣れ、花乃はゆっくりと目を開いた。
広がる景色に眩しさも瞬きも忘れた。他の住宅からは少し離れた場所に建てられているこの場所からは、綺麗に辺りを見渡せた。花乃がいる二階のこの部屋は、広い空の下に瓦屋根や屋上のある家々が建ち並んでいることが分かる。
新しい場所で、初めて迎えた朝は快晴とは言えない、灰色がかった青空だった。日差しは穏やかで過ごしやすい。花乃は窓から離れると、部屋を出て一階へ向かった。
リビングには誰もいなかった。開け放たれたカーテン、大きなはめ殺しの窓から差し込む光で部屋は柔らかく照らされていた。一羽の小鳥の鳴き声が、外でか細く聞こえる。
花乃は壁にかけられた、シンプルなデザインの振り子時計を見る。針は午前七時半を示していた。ここに来る前から目を覚ましていた時間だ。しかし、この家にとってはまだ早い時間なのか、泉光と樹季の姿は見えない。与えてもらった部屋で、家の中が動き出すまで大人しくしていようと考えた時だった。
バニラが焼ける香ばしく、甘い匂いが漂ってきた。嗅いでみると、微かに卵の匂いも混ざり、急にお腹が空いてくる。匂いの先を辿ると、そこはダイニングへと繋がっていた。花乃は恐る恐る、リビングの隣のダイニングへと向かった。
扉から覗くように見てみると、昨夜夕食を作ったダイニングカウンターの向こうで、樹季が鼻歌交じりに何かを作っている様子が見えた。カウンターの上、控えめな、しかし目に入る位置に置かれたガラスコップの中には、昨日あげた花が二輪飾られ、樹季は時たまそれを視界に捉えると微笑んだ。その時、視界の端に映ったものに気づいたように、花乃が覗いている扉に目を向けた。
「あら花乃ちゃん。おはよう、早いのね」
声をかけられた花乃は驚きで一度、扉を閉じそうになった。しかし、少し落ち着くと再び顔を出した。それからゆっくりと扉の後ろから出てくると、姿勢を正して頭を下げた。
「はい、おはよう。お腹空いたでしょう? もう少し待ってて」
言われた途端、花乃のお腹が代わりに返事をするようにぐぅと言った。樹季がきょとんとし、次には笑われ、余計に恥ずかしくなる。
「うっふふふ、すぐに出来るわよ」
俯きながら花乃は頷く。顔を上げると、作業を見つめるために樹季の隣にやってきた。近くにあった折畳みの踏み台を持ってくると、邪魔にならない場所に置き、その上に立った。
ボウルの中にはカスタード色の粘りのある生地が入っていた。それをお玉でひとすくいすると、バターを溶かした丸いフライパンにゆっくりと流し入れる。それは見事な円を描き、甘いバニラの香りが立ち込めた。
まだ少しぼんやりとしていた頭も冴え、その匂いと円にときめきを隠せない様子で見つめた。フライパンの上で生地はふんわりと膨らむ。両面を焼き過ぎず、しかしきちんと焼色のついた仕上がりにすると、用意していた皿の上に載せる。花乃の顔と同じくらいの大きさのパンケーキが一枚。樹季は得意気に皿を渡す。
「はい、どうぞ。おかわり欲しいときは教えてね、何個でも作っちゃうわ」
花乃はひたすら目を輝かせて頷いた。パンケーキの載った皿をテーブルに運び、あらかじめ用意されていたバターと常温の蜂蜜、冷えたブルーベリージャムも代わりにセッティングしていく。その間にも樹季は次々とパンケーキを焼いては皿に載せ、最後の一枚はフライパンを持ったままテーブルに向かうと、花乃のパンケーキの上に重ねた。
「もう一枚重ねておくわね。冷めないうちに食べちゃいなさい」
微笑みながらウィンクをされると、花乃は嬉しそうに笑う。フライパンをコンロの上に戻した樹季は、花乃のものよりも大きめのパンケーキが一枚ずつ載せられた皿を二枚、テーブルのそれぞれの席に置いた。
「これでいいわね。さて、あの夜更かし坊やを起こしてくるわ。花乃ちゃん、席に着いていて」
花乃はどこか不安そうにしながらも頷き、席に着いた。その時。
「誰が坊やですか。これでも成人してますよ、樹季おじさん」
噂をすればなんとやら、泉光がダイニングに入って来た。樹季は「おじさん」呼ばわりされたことよりも泉光がこの早い時間に目を覚まし、ダイニングにやってきたことに目を見開いた。
「泉光……珍しいじゃない、こんな早くに起きてるなんて」
「たまたまですよ」
泉光はチラと花乃を見ても何も言わず、自分の席に着く。それと同時に花乃は立ち上がり、座る泉光の横に行くと両手で服をぎゅっと握った。その様子を横目で見ながら、冷めた視線を送る。
「何か用?」
花乃は泉光を真っ直ぐ見た後、頭を下げた。流石に驚いた泉光は、頭を下げる花乃に顔を向ける。そんな彼女の横に、樹季が歩み寄って立っていた。
「昨日のこと、謝りたいんですって。ずっと気にしていたのよ」
微笑み、説明する樹季。その横で頭を下げながらもどこか震えているようにも見える小さな少女に、泉光は再び目を向けた。いつまでも頭を下げ続ける花乃を見つめていたが、やがて視線を外す。
「別に、怒っていないよ。僕も突き飛ばしたことは悪いと思ってる。ただ、いきなり触ったりしないでくれるかな。人間は嫌いなんだ。特に子どもは……」
言いながら再び横目で見てみると、既に顔を上げていた花乃は目を輝かせて泉光を見ていた。予想に反した反応に、目が微かに動いた。それからすぐに笑みを浮かべた花乃に、途中までの言葉を飲み込んだ。
「ほんと、素直じゃないわねぇ」
からかうように言う樹季の言葉に眉間に皺を寄せ、泉光はそれ以降、花乃にも樹季にも目を向けず、呟くように「いただきます」を言うとパンケーキにバターと蜂蜜、ジャムをかけ、一口大に切って食べ始めた。
花乃も樹季も顔を見合わせ、微笑み合うとそれぞれの席に着き、手を合わせて「いただきます」をしてからそれぞれの好みの味にして食べ始めた。
朝食が終わると、泉光は席から立ち上がった。
「今日から描くから。準備しておいて」
それだけ伝え、ダイニングを出て部屋に戻ってしまった。
食後のホットミルクを飲んでいた花乃は首を傾げ、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた樹季の服を引っ張る。気づいた樹季は花乃に目を向けた。
「どうしたの、花乃ちゃん」
服を掴む手とは反対の手にはラベンダーが握られ、小首を傾げていた。
「えーっと、ラベンダーは確か……」
花乃は思い出したように席から降り、自分の部屋へ向かおうと扉の取っ手に手をかけた。
「そうだわ、〝疑問〟ね!」
驚いた花乃は樹季を振り返る。座る彼の横に立つと、瞬きを繰り返しながらも頷いた。そんな花乃の様子に樹季は得意げな顔をすると、その小さな鼻を指で軽く押して離した。
「あなたとお話しがしたくて、昨日ちょっと勉強しちゃった」
その言葉に花乃はまた目を丸くする。嬉しそうに笑い、ラベンダーを握っていた手にはカンパニュラの花も一緒に握られていた。
「どうしたしまして。それで、そのラベンダーは〝さっきの泉光の言葉はどういう意味か〟って意味の疑問でいいのかしら?」
何度も頷く花乃の頭を撫でた樹季は微笑む。
「そうね、今日からあなたをモデルに絵を描くってことかしらね。モデル用の衣装があるから、着てみてくれる?」
花乃はそれに笑顔で応えた。
食器洗いや片づけを二人で終え、泉光の指定したモデル用の衣装を花乃に渡した。病衣にも見える白い長袖のワンピース。
「サイズ合うか分からないけど、着てみてちょうだい。小さいことはないと思うけど、大きかったら、縫ってあげるわ」
早速、二階の与えられた部屋に服を持って戻った。
身支度も整え、降りてきた花乃。汚れ一つない清潔な白い長袖のワンピースは、首元から覗く白い肌とあまり区別がつかなかった。もともと花乃が着ていたワンピースに酷似しているが、決定的に違うのは、ガウンのように前を紐リボンで留めているという点だ。
樹季は降りてきた花乃の前に立つと顎に手を当て、真剣な眼差しで見つめる。注がれる視線に言いようのない恥ずかしさを覚えるが、職人のように真面目なその目から逃げることができなかった。
ようやく小さなため息をついて微笑んだ樹季に、花乃も緊張が解けて微笑み返した。
「サイズ、ちょっと大きいけど、これくらいがちょうどいいみたいね。でも、どうしてこんなに質素な衣装を要求したのかしら。せっかく可愛いんだから、もっとオシャレなものにすればいいのにねぇ。あ、花乃ちゃん、胸のところ苦しくない?」
聞かれると花乃は顔を赤くさせ、俯きながら、膨らみを隠そうと自身の胸を潰して抑える。その様子に樹季は不思議に思ったが、すぐに理解すると「しまった」という顔をする。
「ご、ごめんなさいね? デリカシーのないことだったわね。苦しくないならいいのよ? 本当にごめんなさい、今のは忘れて?」
胸から手を退けた花乃は頷く。どこか気まずい空気になり、樹季は泉光の部屋まで花乃の背中を押し始めた。
「さ、早く行きましょ、泉光を待たせるとまた文句しか飛んで来ないんだから!」
困惑しながらも進み続け、泉光の部屋の前に立つと、樹季が扉をノックした。
「泉光、入るわよ」
扉を開けて中に入る。カーテンは閉め切られ、隙間から光が差し込んでいるはずなのに、部屋は不気味なほど薄暗く、静かだった。そんな僅かな光しか頼りのない中、泉光は床に座り、ベッドに寄りかかりながら本を読んでいた。樹季たちが来たことには気づいていながらも、気にしている様子はない。
「あんたねぇ、暗いところで本読むんじゃないわよ」
樹季は泉光の許可も待たずに部屋に入ると、真っ直ぐカーテンに向かった。光だけでなく紫外線まで遮断する厚手の生地を掴む。両腕を思い切り広げると同時に部屋は光を反射させ、一瞬、目も開けられないほど眩しくなる。
思わず目を強く瞑っていた花乃は、光に慣れると徐々に目を開ける。テラス戸の向こうに広がる景色に息を呑んだ。
雑草が伸び放題でいる中にも小さな花が咲き、長く放置されているとわかるガーデンテーブルやガーデンチェアにまで蔦が絡まっていた。落葉と枯葉が散乱し、鳥やリスといった野生動物が食い荒らしたような跡がそこかしこに残る荒れた中庭。シンプルで、灌木や雑木を囲むように植えた箱庭のような造りのそこは、おとぎ話の秘密の庭園そのものだった。
「ちょっと泉光、あんた中庭の風景にいる花乃ちゃんを描くのよね?」
「そうだけど」
泉光は本から顔を上げることなく樹季の言葉に答える。
「何よ、この荒れ具合! こんなところに女の子を長時間も座らせる気?」
「嫌ならやめてもらって構わないよ」
ようやく本を閉じ、ベッドの上に放る。その言葉は樹季に向けてというよりは、扉の前で隠れるように立っている花乃に対しての言葉だった。立ち上がった泉光の冷めた視線は、真っ直ぐ花乃を突き刺し、言いようのない威圧感を与える。
扉の影から泉光を見上げる桃色の瞳がほんの少し、不安定に揺れた。泉光に感じるのは恐怖や不安ではなく、何か別の感情からくるものだったが、それを理解することは、今の彼女にはできなかった。
意を決した花乃はゆっくりと部屋の中に入る。文句を言いながら、竹箒を使って落葉や枯葉を掃いている樹季のいる中庭に素足で降り立ち、見た目に反して柔らかな雑草だらけの芝生の上を歩く。水気を帯びてひんやりとした草は、肌の薄い足裏にくすぐったくも心地よかった。
「ちょ、花乃ちゃん、裸足なんて危ないわよ!」
花乃は気にすることなく、部屋からは遠すぎず近すぎない場所で立ち止まる。くるりと半回転して振り返れば、産毛のように柔らかな長い髪がふわりと宙を舞った。未だに薄暗い部屋にいる泉光を真っ直ぐに見つめ、微笑む。
微かに泉光の眉が動いた気がした。しかし、すぐに他所を向いてしまった泉光はイーゼルとキャンバスを持つとテラスに置き、椅子を持ってくると立てかけたキャンバスの前に座った。
「樹季さん、邪魔だから退いてもらっても?」
「邪魔って何よ! 掃除しないあんたの代わりにアタシが……」
「その子、今から描くから。そこにいられると集中できない」
その目は真剣そのもので、樹季は思わず口をつぐんだ。花乃を見下ろせば、視線に気づいた彼女が樹季と目が合い、笑う。それはまるで「大丈夫」「ちゃんとやるよ」と言うように、安心させるような笑みだった。そんな表情を見ては何も言えなくなり、樹季はため息をつく。
「あまり、無理しちゃだめよ?」
微笑み返し、頭を撫でた樹季は箒を泉光の視界に入らない場所へ置くと、サンダルを脱いで部屋に戻った。
「いい泉光? ちゃんと休憩させるのよ」
泉光は返事をすることなく、花乃を見つめては何か考え込んでいる様子だった。真剣で、絵のことしか考えていない目。こうなると、彼は人の話など微塵も聞いていない。諦めた樹季は大人しく、泉光の部屋を出て行った。
残された泉光と花乃。ただ見つめられるだけで何も指示がない花乃は、そこで立ちすくみ、徐々に気まずさを覚える。
「その場に座り込んで。早くして」
ようやく指示を得ると、花乃は慌てたようにその場で丸くなり、座る。
「脚は地面につけて広げて。両脚の間にお尻を落とす座り方、分かるだろう」
花乃は言われた通り、丸くなる座り方から、地面に両脚を広げて折畳み、座り込む体勢になる。いわゆる女の子座りだ。泉光は満足そうに頷く。それに、花乃は嬉しくなった。
「君、花が出せるんだろう?」
突然の問いへの理解に数秒を要したが、質問の意味が分かると何度か頷く。
「じゃあ、好きな花でいいから、花束を作って両手で持っていて。目を伏せて、花を見つめるようにして」
花乃は躊躇いながらも、好きな花を思い浮かべる。どの花も好きだが、咄嗟に思いついた花が両手から溢れるように出てきた。散房状に偏側性の紫色の花を咲かせている。スターチスだ。
スターチスの花束を作り上げた花乃は、それを両手に持ち膝の上に載せ、目を伏せるように俯く。花を見つめれば、長く細い睫が細かく揺れ、微かに涙で濡れていた。
ほんの一瞬、息を呑んだ泉光だが、すぐに鉛筆を取り出す。
「始めるから、そのまま絶対に動かないように」
言われた花乃は微かに頷いた。泉光は、キャンバスに下書きを始めた。
太陽が遥か頭上に位置し始める。時たま雲が太陽を隠すが、それでも昼となると肌にジリジリとした熱を浴びせていた。幸いにも、中庭に差し込む光は、周りの灌木や雑木によって遮られている。その中心に座り込んで花束を持ったまま動かないでいる花乃には、木漏れ日程度の光しか届かない。
花乃は僅かにも動くことなく、スターチスの花束を見つめる絶妙な俯き加減のまま、既に何時間も経過している。泉光は絵具を絞り出した木製パレットを左手に、右手で筆を動かし続ける。キャンバスに下地の色を塗り、その上から色を重ねていく。
ふいに、扉がノックされ、開かれる音が部屋に響いた。しかし、泉光も花乃もそれに気づくことなく、ただ自身の役目を全うし続ける。
「泉光、花乃ちゃん、入るわよ」
そう言って入ってきたのは、盆に二人分の昼食を載せた樹季。部屋の中心にあるガラス張りのローテーブルの上に、刻み海苔を振りかけた、たらこスパゲッティの皿を置く。茹でたてのパスタはバターの艶を帯び、サーモン色のツブツブしたたらこが絡まり、食欲をそそる匂いを漂わせる。
樹季は二人が見向きもしない様子にため息をつき、泉光の隣に立つ。
「お昼、出来てる……」
言いかけた彼の目に飛び込んだのは、初めて見る、泉光の描く人の絵であると同時に、人形のように時間の止まったまま中庭に座り込む花乃だった。木漏れ日に照らされた花乃は、存在を逸しているように見えた。人間ではない、次元を超えた何か別の存在。崇高で純粋な、見ているだけで生気を吸われそうな、それでいて命すら与えそうな存在。この世に天使や女神が存在しているのだとしたら、間違いなく、今の花乃のような姿をしているのだろうと思わせる、圧倒的な存在感。
あまりの神々しさに見惚れるが、すぐに振り払うと花乃の首元に汗が伝っていることに気づいた。泉光の額にも同じように玉の汗が流れ、しかし、二人はそれを拭うことなくモデルと画家という役割を続けている。
「ちょ、泉光! いったんストップよ、ストップ!」
樹季は、泉光が再び筆で絵具を掬うタイミングで彼の右手を掴んだ。それでようやく気付いたように、泉光は樹季を見上げる。微かに息を荒げ、汗が止まらずにいる。
「……樹季……さん……」
「あんたまさか、あれからずっと休んでないの!?」
「……」
泉光は答えず、真っ直ぐにキャンバスの絵と見つめ合う。人間を相手に、これほど集中できるとは、彼も思いもよらなかったのだろう。ざらつくキャンバスをそっと指で撫でた。
「んじゃまさか、花乃ちゃんも!」
花乃に目を向ければ、彼女もようやく糸が切れたように芝生の上に丸くなって横になっていた。相当我慢していたのだろう、脚を伸ばすのも一苦労しているようだ。
「花乃ちゃん!」
すぐに花乃に近寄ると、小さな少女を抱き起す。深く呼吸をして、意識が朦朧としている様子だった。
「花乃ちゃん、大丈夫? 今すぐに水飲みましょう、立てる?」
視線が定まらない中、花乃は微笑むと頷く。ゆっくりと起き上がり、ふらつく足で立ち上がる。しかし、歩く度にふらつき、やっとの思いでテラスに辿り着いた。その後ろを始終、樹季は不安そうに手を伸ばそうとしては引っ込めることを繰り返す。
泉光はようやくキャンバスから目を離し、ようやくテラスに辿り着いた様子の花乃を椅子に座りながら見ていた。ぼんやりと、少女がテラスに上がろうとしているのを見ている。
「花乃ちゃん、無理、しなくていいのよ? ほら、手を貸して」
しかし、花乃は首を横に振った。自分の力で部屋まで辿り着こうとしていた。そのために、樹季の手は再び伸ばすことと引っ込むことを繰り返し始めた。
花乃がようやく腕の力でテラスに上がろうとした瞬間、ふいに体が軽くなった。顔を上げると目の前には泉光がいたが、彼は何もしていない。後ろを振り向けば、見かねた樹季が花乃を抱き上げていた。
「見てられないわ。無理しないの、分かった?」
花乃は目を見開くが、すぐに微笑み、頷いた。樹季の手によってローテーブルの前に座らせられる。両手でようやく掴める大きさのガラスコップに冷えた水を入れて渡された。
「はい、ゆっくり飲みなさい」
言われた通り、渡された水をゆっくりと飲み干す。いくらか気分も良くなり、朦朧としていた意識もはっきりしてきた。改めて泉光を見ると、自身の手を見つめて俯いていた。そんな泉光の元に樹季が歩み寄り、泉光の肩を掴んで顔を上げさせた。それからの行動は、花乃にも理解が追いつかなかった。大きな音を立てたと思った次の瞬間、泉光の右頬は赤く腫れあがり、樹季の手も赤くなっていた。
「いい加減にしろよ、クソガキ」
低く荒っぽい声に、花乃は思わず肩を震わせた。昨日までの樹季からは想像し難いほどに険しい表情と、怒気を帯びた声には、十分な迫力があった。
「いいか、泉光。何がそんなに気に食わないのか知らないが、お前の勝手に花乃ちゃんを巻き込むな。小さい子どもが長時間、同じ体勢で太陽の下に居れば命の危険があることを忘れるなよ。いいな」
それでも返事をせず、目を逸らす泉光。それが再び癇に障り、樹季が手を振り上げたとき。脚に重みを感じて下を向いた。見ると、花乃が小さな体で樹季の長い脚にしがみつき、これ以上、泉光への折檻をさせまいと止めていた。今にも涙の溢れ出しそうな目で見上げている。
樹季も泉光も、そんな花乃の様子に微かに驚きを見せていた。樹季は落ち着きを取り戻した様子で、視線を合わせてしゃがむと頭を撫でた。
「ごめんなさいね、怖かったわよね。……アタシが大人げなかったわ」
再び立ち上がると、泉光と向き合う。
「殴ったことはごめんなさい。でも忘れないでちょうだい。この子の命が、危なかったこと」
微かに頷いたように見えた。気まずい空気が流れる中、花乃は泉光に濡れたタオルを差し出した。樹季が一緒に持ってきていたおしぼりだ。それを自分の頬に当てるフリをしてから、再び泉光に差し出す。どうやら「これで冷やして」と言っているようだ。
しばらく差し出されたおしぼりを見つめた泉光は首を横に振り、部屋を出て行ってしまった。花乃は俯いておしぼりを見つめる。肩にそっと手が置かれ、隣にいる樹季を振り返った。
「お腹、空いたでしょう? お昼食べましょう。泉光なら大丈夫よ、戻ってきたら食べるだろうから」
そう言われると、花乃のお腹は小さな音を立てた。恥ずかしそうに顔を赤くさせ、お腹を押さえる。樹季はようやく力が抜けたように笑った。
「うっふふ、早く食べちゃいましょうね」
頷いた花乃は、たらこスパゲッティの皿が置かれたローテーブルの前に座り直し、手を合わせてお辞儀をすると食べ始めた。
洗面台で水を出し、鏡を見る。頬は赤く腫れているが樹季も加減はしたのだろう。痛みは徐々に引いて、それほど酷いというわけではない。それなのに、熱を持ったそこは目立って仕方がなかった。水で冷やしながら顔を洗う。水を止め、再び鏡を見た。暗く淀んだ目には何も映していない。
無意識に頬に手を当てる。頬が脈打っているように感じた。ゆっくりと、頬に当てていた手を見つめた。微かに震えている気がする。
「……」
あの時。花乃がテラスに上がろうとしたとき、手を伸ばすことを躊躇った。あの状態では流石に危ないことは泉光にも分かった。どうにかしなくてはと思い、花乃の前に立った。しかし、助けを出すことはできなかった。助けなくてはならない存在を前にして、泉光は手を差し伸べることができなかったのだ。触れることを躊躇った。
次第に泉光の中の感情に抑えがきかなくなっていた。花乃を見る度に感じる苛立ち。それとは違うもっと別な感情も。ただ誰かに似ているというそれだけで抉られる過去の想いも。すべてが混ざり合い、蝕んだ。それでもおしぼりを差し出そうとした小さな手と、柔らかな表情に目の奥が熱くなる。呼吸が息苦しくも心地よく感じた。どう処理をすれば良いのか分からない、向き合いたくない心を、今はただ頬の痛みのせいにする。
しばらく頭を冷やした泉光は微かに空腹も感じ、樹季の用意した昼食をとるために部屋へ戻ることにした。
それから数日。泉光の態度に微妙な変化が見られた。朝早くから花乃をモデルに絵を描き、花乃は体勢から位置まで初日と変わらないように努めてモデルをこなす。しかし、一時間ほど経つと泉光は筆を置き、席を立つ。
「飽きた。続きはお昼の後」
それだけ言うと自身はベッドに寄りかかって座り、本を読み始める。その間、花乃が何をしていようと我関せずといった様子で読書を続ける。
不愛想だが、それが泉光の気遣いなのだと気付くのにそう時間はかからなかった。初日には用意されていなかった水やコップがいつの間にかテラスの上に用意されていたり、そのまた翌日にはタオルも置かれていたりと、泉光なりの心遣いであると察した。
花乃はそれらに感謝しながら水を飲み、タオルで汗を拭く。初日以来、対して問題は起きていない。不器用だが根は穏やかなのだと、一番初めにこの家に来たとき樹季に言われた言葉を思い出す。泉光は本当に優しい人物なのだ。そう考えただけで、花乃は少しずつ泉光と打ち解けられる気がした。
何か出来ることはないか。考えた花乃は自分に出来ることを考える。今すぐに泉光に対してできること。花乃にできることといえば、一つしかない。早速、辺りを見渡す。目に入ったのは先ほどまで水を飲むのに使っていたコップ。思いついて笑うと、コップに水を注いだ。
本を読む泉光の元へ近づく。気づいていながらも目を向けることなく、読書を続ける泉光の横にコップが置かれた。コップに何かを入れた花乃は、すぐに泉光から離れてどこかに行ってしまった。
花乃が去り、泉光は気になり、彼女が置いて行ったコップを見た。水が注がれているそこにカンパニュラの花が活けてあった。不審に思いながらコップを持ち上げ、花を見る。視線を感じてテラス戸へ目を向ければ、カーテンの影から見ていた花乃が慌てた様子で顔を引っ込めた。呆れてため息をつきながら、再び花に目を向ける。紫色の、風鈴のような小さな花がそっと揺れた。花は嫌いではない。不思議と心安らぎ、泉光の頬が微かに緩んだ。
影からまた覗いていた花乃は、初めて見る泉光の穏やかな表情にくすぐったい気持ちになった。笑われたような気配にまた花乃に目を向ける。いつまでも笑顔でいる様子に次第に不機嫌になり、泉光は目を背けた。
「ご飯よー」
その声とともに三人分の昼食を持った樹季が部屋を開けて入って来た。ガラス張りのローテーブルを囲んで、三人で昼食にする。これも、ここ数日の習慣だ。
泉光と花乃の、ぎこちなくも均衡の取れた画家とモデルの関係も二週間が過ぎた。ある日、泉光は「気分が乗らない」という理由でその日は絵を描くことを休むことになった。当然花乃も休みになり、急にやることがなくなってしまった。
ここに来てからやっていたことと言えば、泉光のモデルや樹季の手伝い、数日に一度カンパニュラの花を活けているコップに花を一輪ずつ増やしては泉光に届けることくらいだ。花を一輪ずつ増やすと泉光は必ず気づいて一度だけ、花を見て表情を柔らかくした。それが見たくて、花乃は花を贈ることを続けていた。モミジアオイやユリオプステージー、フヨウ、スズラン、ブバルディア……多種多様な花は、どうやら泉光を少しでも楽しませているようだと気付いた。
だからと言って、泉光が花乃に心を開いているわけではないことも分かっていた。花を届ける度に見せる穏やかな表情は花乃を見る度に曇り、すぐに目をそらしていた。絵を描いている間に向ける視線にも痛々しさを覚えた。それでも、花乃を恨んでいるわけでも憎んでいるわけではないことはすぐに分かった。度々、泉光が花乃に触れようとするように手を伸ばす仕草をするのだ。しかし、すぐにその手は別の物へと伸ばされ、最初からそれを取ろうとしていたんだと言い訳するようだった。
そんなこともあり、花乃は決意していた。「泉光と必ず打ち解ける」。泉光とは上手くやっていける気がした。これを機に、彼の人間嫌いや子ども嫌いが良くなっていくかもしれない。そう思うと、急に彼と接することが楽しくなっていた。不愛想に返されても、険しい顔をされても、冷めた視線を送られても、「きっと仲良くなれる」という根拠のない確信を胸に、めげることなく接し続けていた。
今日は一日休みだ。時間なら有り余っている。この時間を使って、何か出来ることはないかと花乃はダイニングで本を読みながら考えていた。
「あら、花乃ちゃん。こんなところで本読んでたの? 退屈じゃない?」
樹季に声をかけられ、花乃は本から顔を上げると微笑み、首を横に振った。
「そう。本を読むのはいいことね。じゃあ、アタシはそんな花乃ちゃんのためにおやつでも作ってあげちゃおうかしら」
すぐにキッチンへ入った樹季はエプロンを首にかけ、紐を腰で縛る。花乃はその様子を見た後、思いついて本を置き、樹季の元へ小走りで近寄った。
「どうしたの? 本読んでていいのよ?」
辺りを見渡し、目当てのものを見つけると、近くにあった段ボールの上にのぼり、隅に寄せられていた一冊の本を引っ張り出した。
「あら。花乃ちゃん、レシピ本読みたかったの?」
首を横に振り、その場でパラパラとページをめくり始める。目的のページを開くと樹季に思い切り差し出した。思わず仰け反りながらもページに書かれている料理を見る。
「花乃ちゃん、これが食べたいの?」
再び首を横に振り、小さな指で載っている写真を指さした後、自身のことを指さす。数秒、その意味について考え、ようやく理解すると微笑んだ。
「これの作り方、知りたいのね?」
理解されたことに安堵し、満足げに笑った花乃は大きく頷いた。樹季は身につけたばかりのエプロンを脱ぎ、二人は早速、本に書かれていた材料を買いに買い物に出かけた。その日の空は曇っていて、涼しい風が吹いていた。
翌日。外は風が吹き荒れ、雲が低く、遠くで雷が鳴っていた。暗い灰色は街を覆い、湿った空気が肌に張り付く。テレビの天気予報が午後からは雷を伴う豪雨になると報じる。
午前の晴れない気分の中、花乃は部屋でいつもの体勢をとりながら、泉光は部屋の中で絵を描く。中庭は風が騒がしく、とても外で絵を描けるような天気ではない。
スターチスの花束を伏し目になりながら見つめる花乃を描いたキャンバスに、不機嫌な顔をしながら色を塗っていく。平筆で絵具を掬っては何度も塗っていく。それまでキャンバスをなぞるように、慈しむように塗っていたはずなのに。徐々に乱暴に、塗り潰すように筆を動かしていた。
以前よりは打ち解けてきたはずの泉光から、電気で弾かれるような空気が漂う。遠くの空でまた唸り声が響いた。異変を感じ取り、普段は動かずにいる花乃も顔を上げ、不安の色を浮かべた目を向ける。
それに気づかず、泉光はひたすらキャンバスの中の少女と向き合い、眉間に皺を寄せ、筆と布が擦れ合う音が荒く響き、歯ぎしりをする。
「違う……。違う、違う、全然違う、違う!!」
苛立たしげに低く、怒気を含んだ声で叫ぶ。筆と絵具のパレットを床に落とし、顔を覆い、頭を抱えた。反射的に立ち上がった花乃は泉光に駆け寄り、彼を見上げて見つめていた。
「違う……。こんなのあの人じゃない……。こんなの……こんなのっ……」
「うー……」
泣き出しそうな声で呟き続ける泉光に、花乃も言いようのない眼差しを向け、声をかける。ようやく気が付き、花乃を見下ろせば眉間の皺が深くなった。
「何で、勝手に動いてるの……?」
「うぅ……」
威嚇する低い声に花乃の体が強張った。小刻みに震え出すが、それでも泉光を真っ直ぐ見つめ続けた。泉光はその目にも顔を苦痛に歪め、立ち上がり、描きかけのキャンバスをイーゼルごと突き飛ばした。キャンバスはイーゼルから離れ、叩きつけられる音とともに遠くに投げ出された。
怯える花乃を見下ろしながらついに泉光は声を上げた。
「僕が良いって言ってないのに勝手に動くな! だいたい、お前は一体なんなんだ、何から何まで、あの人にそっくりで、何で、何であの人の姿で、あの人の仕草で、そんな顔して、やめろ! 何で、何で、何で、なんで! あの人はもういないのに! お前は、お前はあの人じゃないのに、仕草も姿もあの人で、でも中身は……あの人じゃなくて……。一体なんなんだよ……お前はっ!!」
言われている言葉の意味など理解できるはずもなく、花乃は震える手を伸ばし、ヒヤシンスの花を差し出す。いつの間にしていたのか分からない、絆創膏だらけの小さな手に握られたそれに、余計に癇癪を起した泉光は花乃の小さな手を弾いた。
「もうこれ以上、僕の心を掻き乱さないでくれっ! お前を見てるとっ……痛くて仕方ないんだっ!!」
弾かれ赤くなった手を抑えながら泉光を見上げる花乃と、彼の目が重なった。どうしようもなく痛くなるほど、悲しい色をしていた。それなのに、その奥には優しさを含み、複雑に絡み合い、どうしていいのか分からなくなった。
「出ていけ! これ以上傷つける前に! もう、二度と、僕の前にっ……!」
最後までその言葉は聞かず、花乃は逃げるように部屋を出ていく。廊下で樹季の声が響いていたが、すぐに玄関の重い扉が閉まる音がした。
自分の言動に息を荒げ、頭の中は混乱で白くなり、泉光は目を覆いその場に膝をついて座り込んだ。
「あぁっ!!」
叫んでもその目から涙が流れることはなく、ただ胸を掴み、床を思い切り叩いた。
「ちょっと泉光どうしたの? 何があったのよ?」
異変を知った樹季が盆にお茶菓子を載せたまま、泉光の部屋に入ると言葉を失った。倒れたイーゼル、歪んでしまった描きかけのキャンバス、床で散ったヒヤシンスの匂い、床にひれ伏し、頭を打ち付ける抑えの利かなくなった泉光。近くで雷が落ち、部屋は一瞬、逆光で暗くなる。
樹季は何も言わずに持っていた盆を置き、花の散らばったヒヤシンスの元に歩み寄った。蕾だけになってしまったそれを拾い上げ、笑顔もなく床に埋まる泉光を見た。
「……どうしたのよ、泉光」
泉光は声を押し殺していた。呼吸が不規則で痙攣している。過呼吸を起こし、自身の胸元を強く掴む。深くため息をついた樹季は辺りを見渡し、ローテーブルに添えられた、色とりどりの花を見つけた。新鮮な水の入ったコップに活けられたそれを持ち上げ、そっと花弁に触れる。
「花乃ちゃん、迎えに行ってあげたら?」
何も答えられない泉光だが、その言葉には反応して肩がびくりと動いた。
「今ならまだ間に合うわよ?」
徐々に泉光の荒い呼吸が落ち着いてきたのか、規則性を取り戻しつつあった。僅かに視線を上げる。
「……何で……僕が……」
「あんたが、花乃ちゃんのこと好きだから」
「そんなわけっ!」
「違うっていうの?」
声を荒げながら初めて顔を上げた泉光に、樹季は真っ直ぐ視線を向けた。
「最初ね、あんたが細かくモデルを指定したところから疑問に思ってたの。あんなに人間嫌いだったあんたが、細かく指定してきた。それって、過去にあんたが知り合った人物ってことでしょ? だから、あんなに細かい指定ができた。いざ連れてきたら、あんたはわけの分からないことを呟き始めた。”あの人”ってずっと。あんたは花乃ちゃんに、その”あの人”を見ていた。でも、それも花乃ちゃんと接してるうちにあの子自身を見るようになってたんじゃない? 接し方が分からなくなって、それでも真っ直ぐ自分と接そうとするあの子に」
「違うッ! 僕は子どもなんて、人間なんて嫌いだ。僕が人を好きになるなんて」
「それでもあんた、描き続けたじゃない。ずっと。飽きもせず、あの子を見つめて」
首を横に振り、否定する。言い訳を必死に考える。
「それにもう一つ。あんた、この花捨てなかったわね。それどころか、水も何度も替えて」
聴きたくない。認めたくない。それでも耳から樹季の言葉が入り込み、脳はきちんと意味を理解する。そうすればそうするほど、心臓が痛むほど脈を打ち、必死に抑えつけた。
「アタシ、これを最初に見たのは二週間とちょっと前くらいだったかしら。それなのにずっと水は綺麗なまま。花も元気いっぱいね。あの子からもらった、この花たち」
「……」
「本当に嫌いなら、とっくに捨ててるし、絵を描くのもやめてる。無関心でも一緒。水を替えたりしないし、どっちにしろ描くのをやめてる。だって、あんたはそういう奴だから。自分のしたくないことはしない、興味ないことには興味ない、そんな奴」
返す言葉もないまま、俯いた。絵を描いている途中から気づいていた。絵が、泉光の心の中にある”あの人”ではなく、花乃自身になっていくことに。それが酷く恐ろしかった。描くうちに、”あの人”の面影を持ちながらも全く異なる存在である花乃に変わっていくことが。”あの人”のことを忘れてしまうことが。恐ろしくて仕方がなかった。裏切りになる気がして気が狂いそうだった。自分が”あの人”を忘れてしまえば、もうこの世には彼女を覚えている人がいなくなってしまいそうで。怖くて仕方がなかった。花乃を傷つけることで保とうとした。それが無意味だと知りながら。
「どうせ、あんたのことだから、花乃ちゃんを好きだと思ってしまえば、あんたの言う”あの人”を忘れちゃうんじゃないかとか考えてるんでしょ」
図星を突かれ、泉光の動きが止まる。
「馬鹿ねぇ、ほんと。そんな長い間、想い続けてた人を忘れるなんてできるわけないじゃない。どんなに幸せになったって、どんなに人を愛したって、昔想っていた本気の相手は忘れないものよ。何年経ってもね」
項垂れ続ける泉光の横にしゃがんだ樹季は、花弁のないヒヤシンスとコップの花たちを泉光の目の前に置いた。
「このフヨウの花言葉、知ってる?」
そう言って指差したのは、アオイに形の似た全体が桃色の花。真ん中がワイン色の、愛らしい花だ。
「花言葉はね、繊細な美しさ」
項垂れていた頭が、微かに上がった。
「で、このブバルディアは親交、こっちの黄色いユリオプステージーは円満な関係、スズランは幸福の訪れ、モミジアオイは温和。そしてカンパニュラは、感謝、よ」
顔を上げた泉光は花を見つめ、小刻みに震える手でそっと、怯えるように触れた。花弁は静かに揺れ、決して彼を拒むことなく、指と触れ合った。
「全部、あんたに向けての言葉なのよ。あの子が唯一使える、言葉なの」
「こと、ば」
「そして、こっちの散ってしまったヒヤシンス。これ、ごめんなさいって意味よ」
あぁ、どうして。そんな言葉が泉光の中で反芻する。どうしてそこまでするのだろう。助けもしなかった、冷たくあしらうしかしてこなかった自分に。
「あの子、ずっとあんたと仲良くしたがってたわ。これ」
一度立ち上がり、泉光の傍から離れた樹季が持ってきたのは、盆に載せていた一皿のお茶菓子。シナモンの香りが心地よいアップルパイだ。しかし、買ってきたものにしては歪で、樹季が作ったにしては不慣れなものであることが一目で分かった。
「花乃ちゃんがね。昨日、急にこれを作りたいって。きっと、あんたに何かしたかったんでしょうね。アタシには一切手伝わないでって言うみたいに必死にジェスチャーされて。それで、口頭だけで作り方を一つずつその場で教えて、あの子、全部一人で作ったの。歪よね。味も甘すぎちゃって。手もいっぱい切ってね。だけど、頑張って作ってた。あんたのために。不思議よね。アタシ、一言も言ってないのに、あんたの好物当てちゃうんだから」
中の甘く煮詰めたリンゴとあんずのジャムが生地からはみ出し、形は崩れバラバラで、見た目はとてもじゃないがおいしそうには見えなかった。それでも、弾いたあの小さな絆創膏だらけの手や、真っ直ぐに見つめる桃色の瞳、花を差し出す度に笑う花乃が、どうしようもなく愛おしくて思えて。目の前の不出来なアップルパイも、今まで見てきたどんな食べ物よりも美しく、おいしそうに見えた。
立ち上った泉光は真っ直ぐに玄関へと走った。靴も履かずに扉を開ければ、目の前が見えないほどの雨が降っていた。泉光はその中に傘も持たずに飛び込んだ。
残った樹季は深いため息をつき、呆れたように笑った。
「ほんと、お馬鹿なガキねぇ」
呟き、イーゼルを立て直した。
泉光はあてもなく、豪雨の中を走り続けた。視界がぼやけるほどの雨。時たま通る車のライトのみが明るい。衣服は水を吸って重く、張り付いて動きにくい。冷たい雨は体温を奪い、強く降り注いでは体力も奪っていく。それでも泉光は走り続けた。我武者羅に、一心に、小さな少女の、花のようなあの子の姿を探して。
どれくらい走っただろう。分からなくなるほど、ただ夢中で走り続けていた体は限界を訴え始める。もともと外にはほとんど出ない。体力など限られていた。しかし泉光は体の限界など知らないフリをして走っては止まり、ふらついては歩くことを繰り返す。この雨の中、帰る場所もなく彷徨っているのではないだろうか。小さな身一つで、誰もいない中、佇んでいるのではないだろうか。たったひとりで震えているのではないか。そのきっかけを作ってしまったのは自分であることを理解しながら、泉光は必死に目を凝らした。あの小さな体で行ける場所など知れている。そう遠くには行っていないはずだ。
早く探してあげなくては。謝らなくては。伝えないといけないこともある。今度こそ、伸ばさないといけない手がある。今度こそ、守らないといけない約束がある。見つけてあげなくてはいけない。それが少女を傷つけてしまった自分の役目。もう二度と失いたくない自分の気持ちへの答えだ。
再び走り出した泉光は、森林公園に向かった。当たり前だが人の姿どころか動物の影すらない。それでも泉光は中を探し回った。案の定、誰もいるはずもなかった。
別の場所を探しに行こうとしたその時、泉光の視界が小さな靴を捉えた気がした。近づいて見ると、公園と森林を隔てる低い柵の目の前に、片方だけの小さなサンダルが泥だらけになって転がっていた。
泉光は、花乃が家に来た時に履いていたものだと直感すると、柵を越えて森林の中へと走った。
奥へ奥へと暗い木々の間を走る。どうやら一般人が中に入ることは想定されていないらしく、道らしい道はなかった。泉光の片手に収まるほど小さなサンダルを握ったまま、小さな人影を探し続けた。心臓が痛い。呼吸が苦しい。体は疲労を訴え、重い服を引きずって走る。
長い時間にも思えるほど走り続け、泉光はようやく拓けた場所に出た。その頃には、雨も家を出てきたときよりも弱くなっていた。泥だらけになった靴下だけの足のまま、泉光は辺りを見渡した。すると、大きな切り株に丸くなって座り込む、一人の小さな影を見つけた。長い亜麻色の髪が発光しているようで神秘的だった。
ようやく見つけた、小さな少女に、泉光は足音を立てながら近づいた。音に気が付いた花乃は、ゆっくりと顔を上げ、目の前の人物の顔を見上げた。その目は驚愕で見開き、理解できないと言いたげに口を開けた。
深く息を吐いて安堵した泉光は花乃の目の前に膝をつく。それに合わせて、花乃も泉光と顔を合わせて向き合った。泉光は握りしめていたサンダルを、切り株からぶら下がっている裸足に履かせた。居場所を見つけたサンダルはぴったりとはまった。
切り株から恐る恐る降り立った花乃は、小さな手を泉光の頬に当てようとして止まり、躊躇ってゆっくりと引っ込めた。その次の瞬間。
凍えた体は温い熱に包まれ、細い体は折れそうなほど強く抱きしめらた。小さな頭は薄くも逞しい胸に押さえつけられ、泉光の心臓の鼓動がよく聞こえた。驚くことしかできない花乃が顔を上げれば、頬に雨とは違う、生暖かな雫が滴った。彼の顔を見れば、子どものように涙を溢れさせながら、花乃を見つめていた。
「ごめん、ね……。ごめんね、ごめん……ごめんっ……」
花乃を強く抱きしめながら、泉光はただ謝り続けた。傷つけてごめんね、身勝手でごめんね、酷いことを言ってごめんね、たくさんたくさん、ごめんね。君を離して、ごめんね。多くの謝罪が、花乃の心に、泉光の涙と共に滲んでいく。
「ありがとう……!」
向き合おうとしてくれて。たくさんの花をくれて。アップルパイを焼いてくれて。何度でも笑ってくれて。たくさんの言葉をくれて。”あの人”を思い出させてくれて。僕とまた、出会ってくれて。
「ありがとう!」
花乃の大きな瞳からは、次から次へと想いが溢れた。泉光を抱きしめ返し、背中をさする。花乃は離れると、彼をそっと胸に抱きしめた。泉光は、花乃に縋るように抱き付き続け、胸に顔を埋める。涙が止まらずにいながらも、花乃は微笑み、そっと泉光の頭を撫でた。
“だいじょうぶ、だいじょうぶ”
声は聞こえない。それでも、そう言ってくれているのだと確信できた。泉光は、泣き続けた。花乃はただ、その小さな手で包み込んだ。一つの切り株と、静かな雨が、二人の傍に寄り添っていた。