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言ノ花庭園  作者: シイナ ユー
ボーイミーツ・フラワーガール
4/5

中編

 オレンジ色の光に照らされている道を樹季いつき花乃ひなのは手を繋いで歩く。どこか不安げに手を握りながら、本を抱きしめる花乃に、樹季は声をかけた。


「そういえば、花乃ちゃんはいくつ?」


 聞かれた花乃は困ったように辺りを見渡す。伝える手段を探しているのだろう。それから、思いついたように立ち止まると、樹季から手を離し、本をめくる。樹季に広げて見せ、ページ数を指さした。そこに書いてあった数字は九。


「九ページ? ああ、九歳って言いたいのね?」


 花乃は何度も頷く。


「うふふ、なんだかこういうの、ジェスチャーゲームを思い出して楽しいわね。お誕生日はいつなの?」


 聞かれると、花乃はまたページをめくっていき、本を広げて樹季に見せる。しゃがんだ樹季は花乃の小さな指が指さす項目を見た。


「誕生花? えっと……四月十五日……。じゃあ、来年で十歳になるのね」


 再び頷いた花乃。樹季はその様子に柔らかな表情を浮かべたあと、気になり、本に再び目を向ける。


「白いワスレナグサの誕生花? えっと、花言葉は“私を忘れないで”……なんだか、切ない花言葉ね?」


 樹季は立ち上がり、花乃が本を閉じて小脇に抱えると、手を繋ぎ直し、泉光の待つ家への帰路を歩き出した。



 陽も落ち、家に着いた二人。花乃は大きな一軒家を見上げ、目を見開く。


「今日からあなたが暮らす家よ。これから三人で仲良くしていけたらいいのだけど……」


 樹季は一抹の不安を拭うことができないものの、さすがに子ども嫌いだからと言って手を上げることはないだろうと考え直す。そもそも、嫌いならばモデルとして関わる以外、自ら関わり合うことはしないはずだ。


「じゃ、入るわよ」


 花乃の手を握りながら鍵を開け、中に入った。玄関の電気が点いており、埃一つなく綺麗に掃除されたそこを、花乃は物珍しそうに見渡した。樹季が扉を閉め、鍵をかけてから靴を脱いで上がろうとしたとき。


「遅いよ、樹季さん。明日、新しいキャンバス買ってきてほしいんだけど」


 奥から出てきた泉光みうが、帰ってきたばかりの樹季に声をかけるが、その横に本を抱えた花乃を見つけ、目を見開いた。明らかに不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。


「ただいま、泉光。先に“おかえりなさい、お疲れ様”の一言くらい言いなさいよ。今日一日、あんたのために働いたんだからね?」


「どこから連れてきたの? そこの」


 敵意剥き出しの視線に、花乃は思わず固まり、震えてしまう。それでも、その桃色の目は泉光から視線を外すことができず、おろおろしてしまう。


「この子、今日からうちで面倒見るから。よろしくね」


「聞いてないよ、そんなの」


「言ってないもの、当たり前じゃない」


「何で、連れてきたの」


「あんたが要求したからよ。髪は茶色系統で長くてふわふわ、身長が小さくてモデル体型、色が白くて大人しい、そして何より可愛いでしょ? この子、すごいのよ」


 得意げに話す樹季の話にも、眉間の皺は余計に険しくなる。


「いるわけないだろう。だって、あの人は」


「あんた何言ってんの? とにかく、モデルとして問題ないでしょ。まあ、あんたが認めなくてもここに置いとくけどね。アタシ、この子のことすごく気に入っちゃったし」


 樹季は花乃の両肩に手を置き、花乃の高さに合わせてしゃがむと、頬を擦り合わせる様子を泉光に見せつける。花乃はどこか恥ずかしそうにしながら、本を強く抱きしめ続けた。その様子に、泉光は冷めた視線を送り、踵を返してまた部屋の奥へと歩き出す。


「何でもいいけど、お腹空いた。悪いけど、適当に何か用意してくれるとありがたいな、樹季さん」


「はいはい、言われなくたって作るわよ! ったく、人使い荒いというか、アタシは家政婦じゃないのよ、この引きこもり!」


 不満をぶつける樹季に対して、泉光は片手を軽く挙げただけで振り返りもせずに部屋に戻ってしまった。それに苛立ちを募らせブツブツと文句を言う樹季だが、心配するように見上げる花乃の視線に気づき、安心させるように頭を撫でてやる。


「心配しないでちょうだい、いつものことよ。あの子、泉に光って書いて泉光っていうの。あれでも名の知れている画家でね。あなたを連れてきたのも、泉光の要求してきたモデル像に、あなたが一致したから。とてもわがままで、困った子でね。人間が大嫌いなのよ。今まで絵にも人間を描いてこなかったの。でも、今回初めて人を描いてやろうって気が起きたみたい。それで、要求してきたのがあなたみたいな子。髪が茶色系統で長くて、身長が小さくて、細すぎない可愛い女の子。だから、泉光はとっつきにくいと思うけど、我慢してモデルになってあげてくれないかしら?」


 樹季の丁寧で分かりやすい説明に、花乃は不安を覚える。正直、泉光とやっていける気がしない。あの、敵意しかない目を浴び続けながら、動かないでいることを考えると胃が痛く、吐き気を感じるほどに緊張する。しかし、せっかく拾ってもらった身だ。期待に応えなくてはならない。それに、泉光と全く仲良くできないわけではないはずだ。

 花乃は前向きに考えると気を引き締め、本を強く抱きしめ直し、大きく頷いた。それを見た樹季は花乃の頭を撫でる。


「ありがと、花乃ちゃん。じゃあ、ご飯作るから、待っててくれるかしら?」


 今度は嬉しそうに頷く花乃。子どもらしい感情を表現する少女に安心し、樹季は微笑むと花乃をダイニングに案内した。ダイニングにはテーブル、その周りを囲うようにお置かれた四脚の椅子。そのうちの一つに花乃を座らせ、樹季はダイニングに備え付けられた対面式のキッチンスペースに立ち、その様子を花乃はじっと見守っている。


「もらったお花、今はコップに活けておくわね」


 そう言って、透明なガラスコップを取り出すと軽くゆすぎ、水を入れると挨拶代わりにもらった花を生け、カウンターに飾った。


 手を洗った樹季は食事の用意を始めた。冷蔵庫から挽肉、玉ねぎ、にんじん、ニンニク、牛乳を取り出したと思うと、手際よく下ごしらえしていく。ニンニクと玉ねぎをみじん切りにし、油を引いたフライパンで炒める。香ばしい匂いが立ち込めている間、ステンレスのボウルにひき肉と調味料、牛乳に浸しておいたパン粉を入れる。炒めている玉ねぎがキツネ色に変わったところで火を止め、少し冷ましてから挽肉の入ったボウルの中に入れた。すべてそろったところで混ぜ合わせ、こね回していく。

 あまりに綺麗な手際に、いつの間にか見入っていた花乃は目を輝かせていた。視線に気づき、目を向けた樹季は、花乃の表情に思わずクスッと笑う。


「花乃ちゃん、一緒にこねましょうか?」


 その言葉に花乃は笑顔になり、大きく頷いた。抱きしめたまま離さなかった本をテーブルに置き、椅子から降りると樹季のいる台所に回る。


「それじゃあ、まず、ちゃんと手を洗いましょうね」


 張り切り、真っ直ぐに手を挙げた花乃は流しの蛇口をひねると、その小さな手を石鹸で洗う。ウキウキした様子が見ているだけでも伝わり、樹季は笑った。



 花乃の手伝いもあって夕食の準備が一人でやっているときよりも早かった。というのも、最初は手探り状態だった花乃の物覚えが良いのもあり、一度教えればその通りにやってくれるのだ。

 テーブルの上にトマトとサニーレタスをシーザードレッシングで和え、輪切りにしたゆで卵を添えた簡単ながらもボリュームのあるサラダに、肉汁をたっぷりと内に湛えたハンバーグはデミグラスソースの代わりに焼肉のタレがかけられている。今にも崩れてしまいそうな、しかしきちんと四角形を保っている角切り豆腐が入ったみそ汁には、ひらひらと若布わかめが泳ぎ、硬くも水っぽさもなく炊き上がった白米をよそったお椀を並べれば、立派な夕食の席となった。

 樹季は満足そうに並んだ品の数々を見て頷く。その隣で、ずっと目を輝かせている花乃に目を向ければ、視線に気づいた彼女は樹季を見上げた。


「花乃ちゃんもお疲れ様、すごく助かったわ。それに、すごくおいしそうじゃない?」


 花乃は満面の笑みを浮かべると、大きく頷いた。それにじんわりと心が温まり、樹季は花乃の頭を撫でた。


「もう、可愛いんだから!」


 恥ずかしそうに俯く花乃。それにまた「可愛い!」と言って、頭を撫でまわす。手を離すと、樹季は乱してしまった花乃の髪を正してやる。


「さあ、花乃ちゃん。テーブルの上の本は別のところに置いて、先に席に座ってて。アタシはあのクソ……ゴホン。泉光を呼んでくるから」


 うっかり花乃の前でお世辞にも綺麗とは言えない言葉を使いそうになったが、改めて言い直す。花乃は不思議そうに首を傾げたが、すぐに言われた通り、テーブルに置きっぱなしにしてしまっていた本を持ち、自分が座る椅子の背に立てかけた。改めて椅子に座り、大人しく前を向いて待つ。


「ほんとにいい子ね。じゃあ、少し待っててちょうだい。すぐに連れてくるわ」


 ただ前を向き続けて頷く花乃を見たあと、樹季は泉光の部屋へと向かった。



「泉光、ご飯よ。出てらっしゃい」


 ノックをしながら、部屋にいるだろう泉光に呼びかける。どうせまた、絵に没頭しているのだろうと分かっていながらも、いつかは返事をして自ら出てきてくれることを今でも諦め半分に期待している。だが、今日もまた、ノックをして呼んだくらいでは、泉光は出てきてくれることはなかった。

 予想通りの反応にハァと深いため息をついた樹季は、ドアノブを回して部屋の扉を開ける。


「泉光、聞いてるの? ご飯できて……」


 言いかけた途端、言葉を失った。

 植物油脂臭と、絵具を落とすために使われるシンナーのにおいが混ざり合い、じわじわと、蝕むように肺に溜まる。その渦中で、ひたすら筆を動かし続けている姿は荒々しく、白いシャツは黒や赤、青色の汚れが目立ち、頬や首にもその絵具が飛び散っていた。

 そこでいつも通り、彼が絵を描いていることには変わりないはずだった。しかし、今の彼は何かを怯えるように、何かを遠ざけようとするように、同時に、追い求めるようにキャンバスに色を重ねていく。昼間に見た、煌めく青い宝石の空と、光を放つ一面の花畑は、灰色の空と生を失った枯葉の山へと姿を変えていた。塗り潰し、塗り潰し、また、塗り潰す。

 心をかき乱されている様子に、樹季は数分にも思える数秒の間、声をかけることができなかった。

だが、このままにしておくわけにもいかない。


「……泉光」


 樹季の呼ぶ声に、泉光はようやく手を止めた。ゆっくりと顔を向け、樹季の姿をその目に映す。いや、目は樹季に向けられてはいるが、彼を映すことも、他の何かを映すこともなかった。どこまでも虚ろで、暗く淀んでいる。そこにどんな感情が渦巻いているのかは、到底理解はできなかった。しかし、決して〝美しい〟と形容できるものではないことは、嫌でも伝わってきた。


「……どうしたんですか、樹季さん」


 感情が籠っているわけでも、何も感じられないわけでもない。息苦しくなりそうな、気まずさという生易しい言葉では足りない、重さ。いっそ清々しいほどの負の感情は、眩暈すらも覚える。

 樹季はそれらに耐えながら、出来る限りの平然を装い、にこやかな笑みを浮かべた。


「お腹空いてるんでしょ? ご飯できてるから早くいらっしゃい」


「……うん。ありがとう、すぐ行くよ」


 心ここにあらずの様子で、泉光は樹季の言葉に答えた。樹季はそれ以上、言葉を発することなく、部屋から出ると扉を開けたままにして花乃の待つダイニングへ戻った。



 花乃の隣に樹季が座り、二人の向かいに泉光が座る。泉光は着替えることも、顔の絵具を拭うこともなく、手だけを念入りに洗って席に着いた。汚れたままの泉光と向き合っている花乃は、不思議な物を見る目で見つめていた。

 そんな花乃の視線に気づきながらも、気に留める様子はなく、目を向けるわけでもなく、泉光はひたすら無言で、先ほどのような態度は出さずにすまし顔でいる。だからといって花乃に心開いている様子がないことも明白だ。それでも、花乃は泉光を見つめ続けた。


「なに?」


 注がれる視線に、泉光は「鬱陶しい」と言わんばかりの棘を含んだ低い声で訊く。思わずびくついた花乃は反射的に俯いてしまう。その行動に、泉光はまた苛立ちを覚える。


「悪い事をしたと思ったら謝るって、誰かに習わなかった?」


 その言葉に、花乃はさらに縮こまってしまう。


「泉光、いい加減になさい。怖がってんじゃない」


「ジロジロ見ておきながら用がないのも、どうかと思いますけど」


「この子、声は出せるけど言葉が話せないの。でも、その代わりにすごいことができるのよ?」


 最初は泉光の態度に険しい表情を浮かべていた樹季だが、花乃の話になるとどこか楽しそうに声を弾ませる。泉光との温度差が激しいが、気にしていない。


「それで、その〝すごいこと〟って? 言葉も使えないのに」


 心臓が尖ったもので刺されるような感覚を覚えるが、花乃はただぎゅっと両手を握ってじっとしていた。樹季は隣に座る花乃の頭をそっと撫でてあげる。


「花乃ちゃん。アタシに見せてくれたみたいに、やってくれるかしら?」


 言われた花乃は樹季を見上げ、再び俯く。間を空けてからゆっくりと手を出すと、握りしめていた掌を広げた。するとそこに小さな青紫色の花が現れた。

 突然現れた花に、さすがに泉光も驚いたらしく、花乃の小さな掌の花を見ながら、微かに目を見開いている。その様子に樹季は満足げな笑みを浮かべた。


「どう? すごいでしょ?」


「……何したの、それ」


「この子はね、どんな花でも自由に出せるの。それで、言葉を話せない代わりに花言葉と身振り手振り、あと、表情とかで会話をするのよ。あら、そういえば、まだ自己紹介してないじゃない!」


 説明をしながら、ふと、まだ花乃のことを泉光に紹介していないことに気づいた樹季は笑顔のまま紹介する。


「改めて、この子は花乃ちゃん。花に乃ちって書いて、ひなのって読むんですって。可愛いわよねぇ、ほんと」


「まあ、別に何でもいいよ。話すことはないし、うるさくないに越したことはない」


 いただきます、と泉光は手を合わせると食事に手を伸ばし始めた。冷たい態度に、花乃はまた肩を落とす。樹季は深いため息をついたあと、花乃の頭をまた優しく撫でた。


「アタシたちも食べましょ」


 花乃はその言葉に頷き、樹季と共に手を合わせる。いただきます、の合図で言葉に出来ない代わりに頭を下げ、箸を動かした。



 食事を終えると、花乃は自分が使った食器を洗い場へと持っていく。それと共に泉光や樹季の分の食器を下げ、自ら手伝おうという意思を見せる。


「あら~助かるわ~。ほんとにもう、可愛いしいい子って、天使ね?」


「年寄りのおっさんにはありがたいでしょうね」


 樹季は泉光の嫌味な言葉や笑みに、一瞬眉間に皺が寄るがすぐに笑顔を保ち直す。花乃の手前、今日はそう簡単に挑発には乗らないと決めている。

 そうとは知らず、一通り汚れた空の食器を流し台に持って行った花乃は再びテーブルへと戻って来る。その際に泉光の顔を盗み見ると、再び俯く。


「じゃあ、僕は戻るよ。ご馳走様でした」


 泉光は席から立ち上がろうとしていた。気づいた花乃は慌ててティッシュを箱から一枚引き抜くと、立ち上がる寸前だった泉光に背伸びをして、頬についている絵具をそっと拭う。

 突然のことに、泉光は身動きできず目を見開いた。脳裏に、小さな少年が少女によって頬をハンカチで拭われるイメージが駆け抜ける。顔をはっきりと思い出せないその少女は、少年に向かって口を動かしていたが声も言葉も聞き取れない。

 泉光は思わず花乃を突き飛ばした。


「ちょ、泉光?!」


 樹季も思わず立ち上がり、花乃に駆け寄れば、体を起こしてやる。突き飛ばされた花乃も「何があったのか分からない」という顔で泉光を見上げていた。しかし、それは泉光も同じだ。何があったのかは分からない。ただ、花乃の触れ方や行動に衝撃を覚えたことは確かだった。泉光は花乃を突き飛ばした手を見たのち、何も言わずにダイニングを出た。


「泉光、ちょっと待ちなさい! どうしたっていうのよ! ちょっと! 戻ってきなさい!!」


 だが、泉光は足早に部屋へと戻り、扉を閉めた音が家に響き渡った。


「全くもう、何だって……。花乃ちゃん、大丈夫? 怪我はない?」


 言われて、花乃は初めて我に返った。慌てて樹季に顔を向け、「大丈夫」というように頷く。安心した樹季は微笑み、花乃をそっと立たせた。


「無事で何よりだわ。ごめんなさいね、普段は手を出したりする子じゃないの。様子もおかしかったみたいだし」


 花乃はすぐさま頭を横に振ると、落胆と後悔が入り混じった様子で俯いた。すると、花乃の手には、太い茎に紫色の小さな花がいくつも咲いている植物が握られていた。


「この匂い、ヒヤシンスかしら?」


 俯きながらも小さく頷いた花乃。紫色のヒヤシンスを持ったまま、先ほど座っていた椅子の上に置いてある本を広げ、樹季に見せる。本は多種のヒヤシンスと共に花言葉が、日本のものと西洋のものと併せて掲載されていた。西洋で紫色のヒヤシンスの花言葉は「ごめんなさい」と言うのだと書いてある。


「花乃ちゃん、自分が泉光を怒らせちゃったと思ってる?」


 花乃はぎゅっと強くヒヤシンスの茎を握り、また、頷く。


「まあ、そうね。もしかしたら、いきなり顔を拭かれて、びっくりしたのかもしれないわね。でもね、大丈夫よ。あなたにはちゃんと、謝れる。そういう気持ちがあるもの。だから、そんなに悲しい顔をしないでちょうだい? 明日、ちゃんと謝りましょう? アタシが一緒に居てあげるわ」


 ようやく顔を上げた花乃は、樹季の言葉に少しだけ笑みを浮かべた。頷くと、ヒヤシンスの花は見る見るうちに花の形を変え、細長い風鈴のような小さな花になる。色は紫色のままだ。すぐさま花乃はページをめくり、樹季に示す。


「カンパニュラ。花言葉は……感謝、誠実、節操。あなたが伝えたいのは、感謝かしら?」


 今度は明るく笑う花乃。その手に握っていたカンパニュラを差し出した。小さな手からそれを受け取った樹季は笑う。


「どういたしまして」


 ひと段落し、ため息をついた樹季は再び花乃を見下ろす。


「さて、花乃ちゃん。あなたの部屋に案内するわ。それから、お風呂の使い方ね」


 軽く片目をウィンクさせて言う樹季に、花乃は目を輝かせたと思うと大きく頷いた。それから、樹季に連れられて、今日から住むことになる部屋へと向かった。



 部屋に戻ってきた泉光は扉を閉め、鍵をかける。息を荒げたまま、ゆっくりとその場に座り込んだ。少女ひなのに触れられたときのイメージが強く脳裏に焼き付き、頭から離れない。


「はぁ、はぁ」


 ただダイニングから部屋に戻ってきただけで体力がなくなるほど、泉光も軟弱ではない。しかし、今は呼吸が整わないほど、心が掻き乱されている。心臓が痛い。肺が引きつりそうだ。筋肉が張ったような痛みと、忙しなく響く動悸で、余計に呼吸が出来なくなる。喉が渇ききり、奥から錆び付いた味が滲む。冷や汗が止まらない。震えが、言いようのない感情が、湧きあがる何かが、ただ、涙が止められない。焼き付いて離れない”彼女”の姿が、少女と重る。似すぎていた。何もかも、似すぎていたのだ。だが、少女は別人だ。少女は”彼女”が大切にしていたものを、持っていないのだ。もういない。もう二度と会うことのない”彼女”は、どこにもいない。いるはずがない。いなくなってしまったのだから。


「なのに……。なんでっ」


 似すぎていたのだ。ただ、それだけだ。一目見たときから、似ていた。それだけだ。


 泉光は泣いた。暗い部屋で扉に寄りかかったまま、蹲って座ると嗚咽を抑え、ただ、泣き続けた。

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